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頼まれごとが嫌いなワケ

昔から、頼まれごとが嫌いだ。まるで、やる気が起きない。他者のためにエネルギーを費やしたくない薄情なやつだと、これまで自分のことを思ってきた。

しかし、どうやらそれは違うようだ。

エネルギーが出るか

私は、どのように意思決定しているのか。そもそも、利己か利他かみたいな区切りで物事をとらえていないところがある。「これは私のためか?」とか「これは相手のためか?」などとは考えない。

エネルギーが出るか出ないかが重要なのである。それを利己と呼ぶのかもしれないが、もしも相手中心の内容だったとしたらそれを利他と呼ぶのかもしれない。そして、それを呼ぶのは誰だ。正直そんなことはどちらでもよい。

エネルギーが出る頼まれごと

なぜ私は頼まれごとが嫌いなのか。エネルギーが出ないからだ。なぜエネルギーが出ないのか。多くの場合、頼まれごとがミクロだからである。

頼まれごとが「しょぼい」と言いたいわけではない。頼まれごとの「抽象度が低い」ということだ。

私は、構造的に物事をとらえることを得意とする。まず、そもそもの存在理由を問う。その上で、現状どのような構造にあるのか。そして、その構造はうまく機能しているのか、何か不具合があるのか。どのような構造であればよりよく機能しそうか。

構造を考えることが単純に楽しい。好きだ。愛している。自然とエネルギーが出る。

構造的なレイヤーのことを頼まれたなら、がんばって応えようとする。たとえば、友人の会社組織をどのようにするか、実際そうした頼まれごとには喜んで応えている。(しかし、それはどこか仕事のように見える。頼まれごとに応えている印象は薄いかもしれない)

エネルギーが出ない頼まれごと

よくある頼まれごとと言えば、ミクロなものが多い。たとえば…もはや、たとえるのも面倒だ。みなさんが誰かに頼みごとをするときに、「構造を一緒に考えてほしい」とか「構造についてアドバイスがほしい」と頼むだろうか。きっと、もっとミクロな具体的な何かについてお願いするだろう。

私はといえば、その構造だからこそ起こってしまっている個別の事象の対処について、わざわざ自分がエネルギーを使いたいとは思えない。それどころか構造から見直したくなってしまう。なぜこんな作業をしているのかと腹立たしい気持ちになってくる。

ミクロなレイヤーの頼まれごとにぜひ応えたいというエネルギーの出方がする人に声をかけるべきである。それを得意とし、エネルギーが出るプレイヤーは世の中にたくさんいるはずだ。

エネルギーが出るからといって頼まれたいわけではない

一般的に、物事を構造的にとらえる人は少数である。個別の課題が、そもそもの構造に起因しているであろうことが見えていない。であるから、「構造を一緒に考えてほしい」とか「構造についてアドバイスがほしい」といった頼みごとをする可能性は低い。

さらに、構造的な課題に取り組むとなるとどうしてもスケールが大きくなる。気軽に頼めないという問題がある。構造的なことに課題意識を持てる人数、構造的な課題に対処できる人数が少ない上に、手間までかかるのだ。頼むハードルが高すぎる。

以上の理由から、嫌でも構造と向き合わなければならない立場の人(経営者など)からの構造的な頼まれごとが中心になる。よほど信用を得ないかぎり、構造的な頼まれごとはされないだろう。

そこで、どうしたら信用してもらえるかと躍起になるのがビジネスパーソンなのだろうが、私に関していえば、別に積極的に頼まれたいとも思っていない。

つまり、頼まれごとの中ではエネルギーが出るほうだが、自ら提案したくなるほどの内なるエネルギーが湧いてくるのではない。頼まれごとは好きではないんだろう。

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