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シン・エヴァンゲリオン劇場版ネタバレ全開レヴュー(全面肯定)

※ネタバレを含みます。

何故ラストでレイでもアスカでもなくマリを選ぶのかといえば、それはマリ=安野モヨコだからだ。作劇的には、シンジ君がレイ・アスカのようなレジェンドヒロインを差し置いて、さっき名前を知ったような謎メガネを選ぶのは?だが、リアル嫁だから仕方ない。 

庵野は25年かけてあのカルトムービーを反復したわけだが、旧劇でアニメオタク/観客/あるいは庵野自身を「気持ち悪い」と突き放して現実に帰したのに対して、シン・エヴァでは全く違ったメッセージを発している。虚構は虚構として、現実は現実として、両立可能だし愛することはできるということだ。虚構を通してしか見えない現実もあるし、現実の中からしか美しい虚構は生まれない。そして庵野がそれを信じることができるようになったきっかけは、モヨコさんとの出会いなのだろう(安野モヨコ『監督不行届』のあとがきを参照。また、モヨコさんの支えがなければエヴァを作ることが出来なかったであろうことは株式会社カラーの動画「よい子のれきしアニメ おおきなカブ(株)」を参照)。

もちろんシンジは庵野自身だ。そして、ゲンドウは最初は宮崎駿とかだったのかもしれないが、今や庵野自身がゲンドウの立場にならざるを得ない。アニメ・映画の作成においても会社の運営においても、おそらく父として振る舞わなければならない場面があるだろう。今回のシン・エヴァで、戦後日本みたいな村での人々の暮らしを描くパートに驚いた人は多いと思う。働くのが大事、農作業が大事(レイも田植えをする)、食べるのが大事、生きるのが大事…。大人になりきれない視聴者からすれば、おいおい、ジブリじゃないんだから(実際ジブリ、トトロがクレジットされているのだが)やめてくれと思うかもしれない。しかしそこには切実な問いかけがある。大人になるとはどういうことなんだろう。おはようって、なに?ありがとうって、なに?さようならって、なに?まるで幼児の問いかけのように一つ一つ感情を知り人間性を得ていくレイ(仮)もまた、庵野自身の精神の回復と重ねられているのかもしれない。

もう父殺しの話をするしかないのではないか、ということは公開前から巷で言われていた。今回ミサトも、父親にしてあげられることは肩を叩くことか、殺すことだと言っている。そういう意味でも衝撃的だったのは、ゲンドウの回想シーンだ。私が今回最もグッときたシーンはここなのだが、恐らく庵野自身の生い立ちとかぶっているであろうこのシーンは、非常にリアリティがある。貞本(漫画)版もそうだが、ゲンドウのユイへの執着に共感できず、人類補完計画なる目的もよくわからないので感情移入できないという問題があった。他方で今回は説得力のある筆致でこの部分が描けていたと思う(パンフによると前田真宏のアイディアが大きいらしい。確かにそれっぽい画だ)。ユイ=レイへの執着、すなわち自分を全て受け入れて全肯定してくれる存在への強い憧れ。世界が滅んでもそんな一人を手にすることができれば…という、いわゆるセカイ系(新海が絶好調なことで何故か息を吹き返しつつある)の原型がまさにエヴァだったわけだが、そんなものは無論幻想だ。そんな幻想とは別に現実の世界は続いていく(一応「破」のラストで圧倒的に美しく完璧なセカイ系を描いている。「世界がどうなったっていい!でもせめて綾波は助ける!」しかしこれは単なる父親の幻想の反復なのだ)。

そうするとやはり、完全な他者としてのアスカか?実際、私は「破」のラストで全員旧劇の世界にワープしてきていて、旧劇の世界線にQ以降があるといういわゆる旧→Q仮説を支持していた。そしてもはや、かつて首を締めてしまったアスカを助けに行くしか作劇として残された道はないのではないか、今度はあの海岸で二人手を繋ぎやり直す以外ないのではないか…と考えていた。だがそれも登場人物が次々に「式波、式波」と口にすることであっさり崩れ去り、あ、惣流はいないのか…旧劇とは別物なのか…となっていった。庵野と宮村(アスカ)の間にどのような事情があったのか詳しくは知らないが、どうやら今更そちらをやり直すわけにはいかないようだ。物語構造的にコレしかない(少なくとも私はそう思うのだが)としても、アスカを選ぶわけにはいかない。今回のあの海岸での二人の会話。「昔好きだったかもしれない」、「昔好きだった」。

宇多田ヒカルの歌詞「年をとっても/忘れられない人」。

以上のような、幻想(ユイ=レイ)も美しい(?)想い出(完全な他者=アスカ宮村)も、虚構として生き続けている。25年前の庵野はそれらを捨てて現実へ向かったのだが「嫁さんのマンガ」に出会ったことでそれも変わる。

「嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ」(安野モヨコ『監督不行届』あとがき)

庵野の私小説として出発したエヴァだが、今や様々な人の希望を乗せている。確かに芸術表現としては、庵野の鬱からくる圧倒的なパワー、意味がわからないけど、とにかく何か凄いというようなものを期待したくなる。しかし、もうそれもやめよう。「大きなカブ(株)」を見れば分かるが、それは彼に大きな負担を強いることになる。庵野は十分凄いものを残したし、彼の描いた虚構から力をもらった次の世代へと現実的に拡散されるだろう。エンタメとして着地させる。旧劇において巨大綾波を突き刺したエゴの槍は、シン・エヴァではキャラクターたちの願いが込められた槍へと変化する。現実から虚構へ、虚構から現実へ。

カラーという社名をつけたのはモヨコさんだという。「喜び(カラー : ギリシャ語)」に満ち溢れてほしいという願いが込められている。25年の時を経て「具体的な他者」(マリ)を大切にするようになった、大人になった庵野(ゲンドウのシンジに対する「大人になったな」という一言は、過去の庵野から今の庵野へのメッセージなのかもしれない)に対して、「ぬるい」と思う尖った若者もいるかもしれない。しかし、少なくとも私は、この作品に対して悪く言うことはできないのだ。

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