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【小説】赤い果実は風に揺れる

 柔らかく白い雲の流れる下、風に揺れる赤毛を手で抑えながら訪れた家の窓を覗き込むと、一人の少年の背中を見つけた。

 普段なら向かいの椅子にもう一人、ヨヴェが一緒にいることがほとんどだが、今日はその姿はない。
 本を読むでも絵を描くでもなく、机の上に乗せた指を絡ませて遊ぶシェーナ。まだ床に届かない足は、ふらふらと揺れている。時折窓の外を見つめては足を大きく動かすと、机や椅子の足にぶつけてこつりと音を立てた。

 部屋には、綺麗に片づけられたキッチンと、小さな棚が一つ。棚の上には一輪の花が揺れており、乗せた水滴が太陽の光を反射させる。中央に置かれた机と椅子がある他は閑散としているが、濃い木目の壁や床板からは落ち着いた雰囲気が感じ取れた。窓から見える鮮やかな風景がより一層映え、今日のような天気の良い日は窓から眺めているだけでも時間を潰せそうだ。

 シェーナの白く骨の浮き出た背中を見つめた後、メルヴァは一度頭を引っ込める。無造作に揺れる赤髪を手ぐしで整え、気持ちを落ち着かせるように息を吐く。そうして立ち上がったメルヴァは、彼の名前を呼んだ。

「シェーナ」

 彼の肩が軽く跳ねる。勢い良く振り返ったシェーナは僅かに表情を曇らせていたが、メルヴァだと気付いた瞬間、
「メルヴァ」
と、彼女の名前を呼んで椅子から飛び降りた。

「メルヴァ、おはよう」
 とんとんとんと軽い音を立てながら駆け寄る。ぱっと小さな蕾が花開いたような笑みに、メルヴァもつられて口角を上げる。
 窓から顔を覗かせるだけで精いっぱいのシェーナは、つま先に力を込めて彼女と視線を合わせる。
「今日は一人? ヨヴェ兄さんはいないの?」
「ヨヴェは、おでかけしてる」
「じゃあお留守番しているのね」
 そう言うとシェーナは頷く。来る道でヨヴェとすれ違わなかったため、まだついさっきのことではないのだろう。それながらもっと早くに来れば良かったと心でため息を吐く。迷っていた玄関先でのことを思うと、迷わずに行けばよいと過去の自分に言って見せたい。

「今日良い天気だから、良かったら一緒に外へ行かない? そろそろ果実が熟れる頃なの。それを取りに行きたくて」
「……でもぼく、おるすばんしてるから」
「大丈夫、誰も家を襲ったりしないわ」
 メルヴァの言葉に、シェーナは目を丸くする。心を読まれた気がして驚いているのか、意図しない言葉に呆然としているのか、何も言わずにただ見つめてくるシェーナに、メルヴァは少しだけ焦りを覚える。

 やがてシェーナはゆっくりと口を開く。
「そんなことは、おもってないよ。ぼくがお家に帰ってきたとき、ヨヴェがいたらうれしいから、そうしているんだよ」
 その瞬間だけ風が止んだ。彼の言葉を確かにメルヴァの耳に届けようと静まり返ったように、草木の揺れる葉音も呼吸も、全てが消えてしまった。だから、シェーナの言葉ははっきりとメルヴァの耳に届いた。
 メルヴァの元に、光が差し込む。雲に隠れていた太陽が姿を現し、彼女に温もりを与える。
「優しいのね、シェーナ。じゃあ、少しだけならどう? 果実の森は薄暗いから、シェーナが少しでも一緒に居てくれると、私とても嬉しいの」
 シェーナは首を傾けて少しだけ考えると、ゆっくりと頷いた。
「わかった、いいよ。ちょっとだけ」
「ありがとう、シェーナ」

 シェーナは顔を引っ込めると、玄関へと回る。その時に自分用のかごを背負い、「これに入れると、たくさん持てるよ」と、顔を輝かせた。かごを背負った際に引っかかってしまったのか、スカートの裾が籠と背中に挟まってしまっている。細く白い足が、野の緑に浮いてよく映える。
「シェーナ、スカートが捲れ上がっているわ」
 そう言って屈み、スカートの裾を直す。ありがとう、声が降ってきたところで、シェーナの足についた僅かな傷が目に付いた。完全に治っているが、傷跡は消えてくれなかったようだ。肌を切り裂くようにつけられた跡は、シェーナの白い足に浮いて見えてしまう。視線を離せないまま、メルヴァは気づかないふりをして裾を直した。
「気を付けるのよ」
「うん」
 二人の白い妖精は、村の奥にある果樹園へと向かった。



 かごの肩掛けを握り、葉音の上を歩く。まだ青さの残る葉を蹴り飛ばせば、しっとりとした葉同士が擦れる小さな音が飛び交う。秋の終わりに見つけられる茶色づいた葉であれば、聞こえる音はまた違ってくるだろう。心地よい音を立てない青い葉は、シェーナとメルヴァの意識を連れ去らない。だからこそシェーナは、慣れない暗い道に体を強張らせるしかないのだ。

 小道に入ると、両脇で繁る木々が濃くなる影響で日差しが少なくなる。少し冷たい風が二人の体を撫で、体温を奪ってしまう。
 思わず体を震わせたシェーナは足を止めてしまう。前を歩いているメルヴァが小さくなっていくのを見つめ、遅れを取らないよう必死に付いて歩いた。

 風で木の葉が揺れる度に聞こえる自然の音に、何度も振り返り確認する。それが本当に風が揺らしているのか、落ち着きのない子供のように辺りをきょろきょろと見回すシェーナは、次第に肩をすくめてしまう。

 メルヴァがそれに気づいたのは、道を進んでしばらくの頃だった。
「シェーナ、もうそろそろよ──……」
 そう彼に話しかけ振り返る。
 いつもは大きく丸い瞳が、瞼に押されて萎んで見えた。しわ一つない白い肌の眉間に浮き上がる小さなしわは、何かを耐えようとしているのは明白だった。

「シェーナ、怖い?」
 足を止めて問いかける。遅れて少し後ろを歩いていたシェーナは距離を詰めると、小さく頷いた。
 細く暗い道は、かつてシェーナが暮らしていた路地裏を想起させた。突き抜けて夜空の見えていた路地裏も、夜は暗く天井が見えないことがままある。繁る木々はシェーナを包み込まんと広がり、その道の先は果てしないようだ。
 シェーナの脳を埋め尽くす暗い記憶は、一つ思い出されるとふつふつと増えていく。俯いていれば、それが沸き上がらずに消えるような気がするのだ。

 俯いて地面を見つめるシェーナは、怯えるうさぎに似ている。
「大丈夫、もうすぐよ。ここを抜ければ開けるわ」
 それでも顔を俯かせたままのシェーナ。ここまで来てしまえば、森を抜けてしまった方が早い。
「一緒に行きましょう、シェーナ」
 果たして彼はその手を握ってくれるだろうか。彼の目に届くように手を差し出す。控えめに差し出した手は小さく、風になびく木の葉のようだ。話し方とは似ても似つかない、子供らしい丸みを帯びた手。それはシェーナの手と変わらない。

 風に撫でられていた手のひらが、温もりを感じ取る。指先だけを包み込むように重ねられたシェーナの指を離さまいと深く握り直す。
「よし、がんばろうね」
 笑みを向けると、俯いていたシェーナは僅かに顔を上げた。それに応えるように頷くと、メルヴァを握る手に力がこもる。

 もし一緒に居るのがヨヴェであれば、シェーナは不安を抱かなかったのだろうか。連れ出してしまったことを悔やみながら、メルヴァは道を進むしかなかった。

 少し歩けば道の先が明るくなり、やがて開けた場所に出る。とは言っても完全に開けたわけではなく、両脇には熟れた実を下げる木が並んでいるのだが、先ほどまで歩いていた場所と比べると、太陽の日も入り込み春を感じさせる陽気があった。
 不規則に生えた果実樹はこの村が村として成り立つ前から存在している。果実を人々が求めた結果、その近くに住まいを持つようになったのが始まりのようだ。

「見て、シェーナ」
 一番近くの木を指したメルヴァにつられて顔を上げると、赤い実がぶら下がっていた。熟れた実は光を浴びて、朝露もなしにきらきらと輝きを放っている。
「わあ、大きい」
「ちょうど収穫時期ね。村の人たちにも教えてあげなくちゃ」
 近くに置いてある足場を動かし乗る。手を伸ばしたメルヴァは両手で実を包み込み、引っ張った。実を下げていた枝がしなり木の葉が揺れる。何度も引っ張るが取れず奮闘するメルヴァの隣に立ったシェーナは、メルヴァの上から自分の手を重ね、同じように実を引っ張った。後ろに倒れないように何度か引っ張ったところで、ぷつりと取れた。しなっていた枝が弾かれ、しばらく暴れている。
 二人の両手の包まれた果実は、大きく重みがある。傷一つない赤い果実はそのままでも食べられるし、焼くと甘みが増すためおやつとして作られることもある。

 見上げれば、緑の葉の中に浮かぶ赤い実はまだまだたくさん生っている。
 背中のかごを指し示し、一つ目をかごの中に入れる。揺れて果実が傷つかないように重ねた布を内側に詰めている。やはり入れられるのは数個が限界だ。
「私、ジャムにして食べるのが好きなの。とっても甘くて、毎朝幸せな気持ちになれるから」
「じゃむ?」
「果実と甘いスパイスを一緒に火にかけるの。パンやヨーグルトと一緒に食べると美味しいわ。今度作ったらシェーナにもあげる。大丈夫、火を使うのは慣れているから」
「でも、ぼくは何も作れないよ」
「構わないわ。シェーナと一緒に食べたいの」

 会話を続けながら、次に収穫できそうな赤い果実を探していく。どれも高い位置に生っており、足場に乗っても届かない。低い位置にある果実を探しながら歩く二人の後ろ姿は、季節の訪れを感じさせる風物詩にも近かった。
 頭上で揺れる果実に目を向けて手に取っていくと、いつの間にか果実がかごから溢れ出すようになった。赤く熟れた果実を鍋で煮たり焼き目を付けたりすることを考えると、口の中が果実味に染まっていく。早速家に帰ってから鍋を握ることになりそうだ。

 そろそろ半時間が経った頃、ヨヴェの帰りのことを考えると、そろそろ帰宅した方が良いだろう。
「かごいっぱいにとれて良かったわ。シェーナ、重たくない?」
 ごとごとと音を立てるかごに目を向けたメルヴァは、それを背負うシェーナの体が不規則に揺れていることに気が付いた。
「大丈夫だよ、メルヴァ」
 果実の重さに負けまいと堪えているのだろう。右に傾いた重心を左へ、左へ傾いた重心を右へ揺らした結果、終わることのない沼にはまっているのだ。
 メルヴァは後ろからかごを両手で支えると、「さ、帰りましょう」と笑みを向けた。まるで列車ごっこのように縦に並び、足並みを揃える。暗くて怯えていた道も、シェーナは浮足で歩いて行く。あんなに長かった暗い道も、あっという間に越えられそうだ。

 道の先の明かりが大きくなってきたころ、「もうすぐ着くわ」というメルヴァの声が背後から聞こえた。声に反応して顔を動かした時、視線の先にある赤いものがシェーナの目に留まった。
「ねえ、メルヴァ、あれ」
 シェーナが指差す方へ視線を向ける。生い茂る木々の葉が絡み合う中に、大きな赤い果実のようなものが見えた。距離は離れているが、それでもそれが大きいことは見て分かった。
「メルヴァ、きっとすごく大きいよ」
「そうね、でも、……あんなところに?」
 果樹園から離れたところに生るなんてことは、聞いたことが無かった。収穫しやすいように実のなる木は一つの場所に固められているはずだ。あの場所へ辿り着くための道も無ければ、見えているのは赤い果実が一つだけだ。

 メルヴァが首を傾げているうちに、シェーナはかごをゆっくりと下ろした。果実が傷つかないように地面に置くと、「ちょっと待っててね」とだけ声を掛け、草木の生い茂る中へ消えてしまった。
「あ、待って、」
 そう言うメルヴァの声も虚しく、シェーナはどんどんと進んでいく。
 整備されていない森の中は、草が足に絡んで進み辛い。それでも腕を大きく振って先を目指すシェーナの視線は、赤い果実に刺さったままだ。背後から絶えず聞こえてくるメルヴァの声にも振り返らず、ただ進んでいく。

 真っ先に浮かんだのは、ヨヴェの声だった。
 ──すごいねシェーナ、こんなに大きな赤い果実を見つけたんだ。
 毎年美味しいパイを作ってくれるヨヴェに持って帰れば、そう言って頭を撫でてくれる気がした。ヨヴェの喜ぶ顔があると思うだけで、シェーナの足は止まることなく進んでいく。例え猛毒を持つ蛇が身を潜めていたとして、今なら怯えることなくあの赤い果実に手が届く気がするのだ──。

 ふ、とシェーナの視界がぶれる。

 進み続けていたシェーナの頭が、突然がくりと下がったのをメルヴァは見た。見えていたはずのシェーナの頭が見えなくなる。
「シェーナ?」
 声を上げることなく突然消えたシェーナの名前を呼ぶが、返事はない。

 それは、大きな穴にも似た崖だった。暗い足元からは微かに水の流れる音が聞こえる。
 ──あれ、これ、どうなってるの。

 体がふらふらと揺れている。地面に足は付かず、無意識に空を踊る。
 咄嗟に幹を掴み、崖に足を掛けて体を持ち上げようとしたが、落ちないように幹にしがみ付くだけで精いっぱいだ。崖から零れ落ちる小石は重力に逆らえず宙を舞う。一呼吸する間があってから、小石が川の水面に落ちた音が聞こえた。
 足が揺れる。必死によじ登ろうと体を動かすが、幹を掴む手のひらに痛みが走り、力が緩む。

 どれだけ足を動かしても、地面が見つからない。爪先まで強く伸ばすが、それが地面を捉えることは無かった。あれ、あれ、どこにあるんだろう。手のひらの痛みに耐えながら、懸命に地面を求める。

 腕が張る。スカートが揺れる。下から吹きあがる風がシェーナの体を包み込む。それは、春の訪れの日に感じた竜の風とは程遠く、冷たい。体が強張る音がする。痛い。体が、重たい。
 風にあおられた体は、腕の力を奪い取っていく。幹から滑る手に力を込めようにも、現状から良くなることは無かった。

 あ、あ、あ、

 言葉にならない意思が漏れる。完全に止まってしまった思考は、シェーナの口を呼吸のための器官としか認識していない。正常に機能していない証拠として、シェーナの視界は外側から侵食するように暗くなっていく。
 唯一体を支える幹が見えなくなると、伸ばしていた腕の感覚がなくなる。自分を支えているものが視認できなくなった途端、シェーナの体は宙に預けられた。体が軽くなる。

 木々の隙間にある、青い空が見えた。
 それが遠のこうとした瞬間、軽くなった体は重みを増す。腕の関節に痛みを覚えたと同時に、シェーナは覚えのある温かさに包まれていた。だから彼は安心して、瞼を閉じたのだ。



「ごめんなさい、ヨヴェ兄さん」
 シェーナを抱えるヨヴェの背中を見つめ、メルヴァは静かに頭を下げた。

 ヨヴェが来てくれなければ、シェーナは崖の底へ消えていた。落ちてしまえば、あの高さから助け出すことは難しいだろう。赤い果実だと思わせて人を崖へと落とす赤い花が今の時期見られることを、シェーナもメルヴァも知らなかったのだ。人の命を簡単に脅かす何かは、今も近くに存在している。

 返事はなかった。眠るシェーナを起こさないように足音一つ立てないヨヴェの後ろを歩いていると、自然と距離を詰めたくなる。まるで一人きりで歩いているようで、心寂しいからだ。
「……道を外れると危険が多いから、メルヴァも気を付けるんだよ」
 わずかにこちらを向いたヨヴェ。林の出口から差し込む明かりが輪郭を濃く浮き出させる。彼の横顔に落ちた黒い影に目を取られたふりをする。そうすれば、彼の背中に目が行くことは無くなると思ったから。

「君の中に本当にメルリアがいれば、きっとこんなことにはならなかっただろうね」
「その方が良かったかもしれないわ。言葉遣いをどれだけ真似しても、私がメルヴァであることには変わりないから」
「メルリアがいなくなって、悲しい?」
「ええ、もちろん。ずっとひとりぼっちだもの。ヨヴェ兄さんと違ってね」
「……僕も、シェーナがいなくなると辛いよ」

 シェーナを助けた際に失ったカーディガンは、崖の底へと消えた。それはヨヴェの背中に刻まれた青黒い歪を隠してきた。火にあぶられて歪んだ肌に、いくつもの痣が体に残り、それはさながら、空に浮かぶ木星のようだった。


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