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8.12 38回目の鎮魂の夏

悔しい気持ちを抑え、練馬インターチェンジを目指していた。102という惨憺たるスコアだったからだ。
その時、カーラジオから緊迫したアナウンサーの固い声が流れてきた。乗客乗員合わせて524人を乗せた日航ジャンボ機が消息を絶ったという。
えっ!? 驚くと同時に何が起こったのか、異様な胸騒ぎに襲われた。
環八から第三京浜を走行中に、消息不明から墜落へと変わった。全身の震えが収まると、覚悟を決めていた。
横浜の自宅へ帰ると、「局へ電話するように」と母親から告げられた。

ヤッケとスニーカー、タオル、水筒を詰め込んだショルダーバッグを抱え、局へ向かう。夏休み返上だ。
22時30分過ぎにスタッフルームに到着すると、カメラマン、ビデオエンジニア、若手のKアナウンサーがスタンバイしていた。
チーフDから簡単な指示を受けた。墜落現場は長野県と群馬県の山境らしいという。

仮眠を取り、午前2時に局を出発し、秩父へ向かった。夜明けとともに自衛隊のうしろについて道なき道を登って行く。急ごしらえの足場やロープを頼りにいくつかの尾根を超えて行く。
太陽が真上に達した頃、急峻な山道を這い蹲って登り切ると、突然、ジャンボ機の機首が目の前に現れた。ふと視線を落とすと、蝋人形のような手首が目に飛び込んできた。
オブジェのような機首からは油くさい煙が立ち込め、周辺には焼け焦げた遺体や生々しい肉片、木の枝に引っ掛かった下半身が散乱していた。
今まで見たことのない惨状に足の震えが止まらない。

その後の記憶は、断片的で明確に覚えてはいない。この凄惨な事故を伝えなければという使命感だけが上滑りし、焦燥感に苛まれていたような気がする。
陽が落ち、疲労で座り込むKアナやカメラマン、VEを叱咤し、自衛隊とともに上野村へ向かって下山した。
翌日から4日連続で現場を取材し、遺体の収容作業をリポートした。仮設のヘリポートに並べられた遺体袋が、ヘリの巻き上げる風にひらひらとめくれ上がる。

週末、一旦局へ戻り、週明けからは現地の対策本部と遺体が収容されている藤岡体育館での取材だ。
悲しみ、怒り、落胆、、生身の人間の感情が渦巻く。取材するこちらの心も削られてゆく。

翌年、慰霊登山に同行した。当時の日航山地社長を直撃、「どんな想いで登っているのか?」と。
軽く頭を下げただけで、何も語らず。
その後の日航の迷走ぶりからは、520人もの尊い命を奪った事故の教訓を生かしているとは思えないのだが、、
そして今日、38回目の夏を迎えた。


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