ホムンクルスの誤謬(1)

新しく書き始めた小説の冒頭部分。タイトルは仮。一応のプロットはあるけれど、最後まで書ききれるかどうか。猫のマイケルに良い感じに動いて欲しいんだけど。どうなるかなー。 

 金沢の街なかを流れる犀川の左岸。犀川大橋から歩いて五分ほどのところに明倫堂がある。
 築八十年以上は経つ町家を改装したもので、明倫堂書かれた錆が出た小さな鉄の看板がなければ外見からは店には見えない。まあ明倫堂という名前だけでは何屋かもわからないのだが。
 金沢の桜のツボミが膨らみ初めた三月の終わりの日曜日。時計は昼の十一時を過ぎていた。
 理生は両手両足を縛られ、声が漏れないように猿ぐつわをされて真っ暗な押入れに閉じ込められている。蹴飛ばされた背中がズキズキと痛む。カビたような湿った匂い。腕の火傷の痕もヒリヒリと痛む。
「お母さん、お母さん、出して、お願いだから。ごめんなさい。ごめんなさい」。理生は猿ぐつわで声が出ないが必死でモガモガと叫び続けた。
 明倫堂の二階の部屋の戸の隙間から三毛猫が一匹、のそ~っと忍び込み「ニャ~」と一鳴きする。洋室に改装された六畳の部屋には窓際にベッドが置かれ、壁は書棚で囲まれていた。タバコ臭く埃っぽい部屋の床には散らかった本や雑誌、脱ぎ捨てた衣類で足の踏み場も無い。
 ベッドの脇に置かれたテーブルにはほとんど空になったジムビームのボトルと茶色い液体が五ミリほど残っているグラス、吸い殻が溢れそうになっているガラスの灰皿、そして睡眠導入剤。
 猫がベッドに近寄り「ニャ~」ともう一度鳴く。ようやくベッドの上の主人がもぞもぞしだした。
 夢か。またあの夢だった。手足を縛られた紐の感触が残っている。鼻の奥の方の脳に近い場所で湿った匂いがしている。もう何十年も経つのに月に一、二度同じ夢を繰り返し見る。 
「マイケル、うるさいな。もう起きるから静かにしろ」
 三毛猫の名はマイケル。理生がアル・パチーノとゴッドファーザーが好きで、ゴッドファーザーでアル・パチーノが演じたマイケル・コルレオーネから名前をとった。
 理生はベッドからのそっと体を起こす。昨日着ていた白のボタンダウンシャツとジーンズはそのままで寝て起きた。靴下だけは脱いであったが床に放り出されている。
 昨日も飲み過ぎた。片町にあるバーを二軒はしごしてしこたま飲んで、8番ラーメンで野菜ラーメンを半分だけ食べてから帰って来たのは深夜二時過。それからベッドに腰掛けてタバコを延々と吸いながらジムビームのボトルを空にしていつの間にか寝ていた。
 頭がガンガンと痛い。喉が乾く。
「ニャ~」とマイケルが主人の顔を見て鳴く。
「なんだ?腹が減ったか?雪はいないのか?」
 理生は寝ぼけ声でマイケルに尋ねると、マイケルは「ニャ~」と返事をした。
 寝癖がついた髪の毛を片手でもしゃもしゃしながら「まったく」と呟いてベッドから降り、床に散乱したものを避けながら部屋を出て急な階段を慎重に降りる。古い町家の階段はたいていが急なもので何度か落っこちかけたことがある。特にしこたま飲んで酔っ払った日は。
 主人より先にマイケルが降りて、階段の脇でまた「ニャ~」と鳴いた。
「なあ雪、マイケルが腹減ったって言ってるぞ」
「雪、いないの?」
「しょうがないなあ」とブツブツ呟きながら階段の脇の棚の上の扉を開けてキャットフードの袋を取り出し、古びた皿にザザっと入れた。
 マイケルは「ニャ~」と鳴いてガサガサと餌を食べだす。
「お前、もっとゆっくり食べろよ。行儀悪い」
 理生はジーンズのポケットからくちゃくちゃになったハイライトメンソールのパッケージを取り出し、折れ曲がって千切れそうなタバコに火を着けた。しばらくタバコの香りを楽しんだ後、 店の奥に行って小さな冷蔵庫からカゴメのトマトトジュースの缶、冷凍庫からビフィターのボトルを取り出した。冷蔵庫には他にはほとんど何も入っていなかった。
 トマトジュースのプルトップを開けて一口、二口と飲む。二日酔いの乾いた身体にトマトが染み込んでいく。缶に残ったジュースをグラスに入れて冷凍庫でトロントロンになったビフィターを注ぎ込む。そこにタバスコとウスターソースを垂らして人差し指でかき回す。理生は一息でそれを飲み干した。
 トマトジュースとドライジンのカクテルはブラディ・サムと呼ばれ、見た目はトマトジュースにしか見えないのでアメリカの禁酒法時代に人気だったらしい。
 かれこれ十年以上、理生の朝食はこのブラディ・サムだけだ。
「おはよう~」
 ブラディ・サムを飲み干して、二本目のタバコに火をつけようとした時に、少し立て付けの悪いガラス戸を開けて中沢雪が入ってきた。
「もー、リオ、お店ではタバコを吸わないでってお願いしてるのにー!外で吸ってください」
 雪が開け放ったガラス戸から煙を追い払うように手をバタつかせる。
 店の前は道を挟んで犀川が流れていた。春の穏やかな光を浴びて川面がキラキラ輝いている。
 マイケルが開けられた引き戸からのそっと外に出てグーッと背伸びしてからちょっと理生を振り返って、どこかに出かけて行った。
「リオ、もういい加減に禁煙したらどう?それから朝ごはんはちゃんと食べて。どうせ今日も二日酔いでしょ。リオ、そのうち肝臓を痛めて死んじゃうからね」
「なあ雪、リオって呼ぶなって言ってるやろ、まったく」
 マイケルの主人でここ明倫堂の主人の名は柏原理生と言う。理生と書いて「マサキ」と読むのだが、昔からリオと呼ばれ続けているのが理生は気に食わない。
「雪は今日は遅かったな」
「今日はお昼からって昨日言ったと思いますけど。も~、何にも覚えていないんだから」
 雪はたすき掛けにしていたカメラをテーブルに置きながら店に置いてあったカメラ雑誌でタバコの煙をパタパタと店の外に向かって扇いでいる。
「ああそうだっけ。じゃ、雪に店番してもらってちょっと散歩に行ってくるわ」
「いいけど、二日酔いでフラフラじゃないんですか?」
「頭は痛いが良く寝たからな。さっきいつものを飲んだからちょっとスッキリしてきた」
「あのねえ、迎え酒ってあれは絶対に間違いだと思うんですけど。二日酔いのところにさらにアルコールだなんておかしいですもん」
「でも昔から二日酔いに迎え酒。人類の知恵だぞ」
「もー、ばかばかしい。わかったから1時間以内に帰ってきて。リオ、携帯を持ってないんだから、急ぎの用事の時に連絡がとれなくて困るんだからね」
「わかったよ。川沿いを少し歩いてくるだけだから」
 理生はサンダル履きに昨日から履きっぱなしのジーンズにくたくたになった白のボタンダウンという出で立ちで店を出た。
 春の光は柔らかいが二日酔いの目には眩しすぎた。
 雪に言われたとおり、迎え酒が間違っているのはわかっていた。でもアルコールが身体から抜けると不安に襲われる。そして何もする気が無くなる。外に出ることも、誰かに会うことも、食事をするのも、シャワーを浴びることも、歯を磨くことも、生きることさえも。

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