今日のタイトルは、長年愛用している手帳会社のコンセプトを拝借。 大学生のときから日記を付けるようになりました。 社会人になってからも、意識的に書くようにしています。 その日起こった「出来事」はもちろん、その出来事に対して純粋に、その時その場で湧いてきた感情や、少し時間をおいてからもう一度振り返って考えたこと。さらに数年経ってパラパラと見返してみて「こんな風に思ってたっけ」と自分の思考回路を再確認することもあります。 「なんだか書くことないなあ」と思う数日間もあれば、余白を使
今回の記事の題名にもあるような「なんで〇〇を勉強するの?」は、学校の先生をやっていると耳に入ってくるフレーズです。 というか、学生のころ私もこの言葉を使っていました。 かなり切実に(笑) 主にテスト前に(笑) 「大人になってから数学使わないし」とか。 「物理に出てくる法則とか考えた人って暇人なの?」とか。 「古文漢文読めなくても生きていけるよね」とか。 先日、高校の歴史総合の時間に「小テストやるよ~」と言った時も同じような感じで、「先生、本当に歴史が苦手で、勉強しても頭に
「自分らしく居られる場」「新しい学びの場」を創る。 上記のようなことを目標に、日々勉強や情報収集を進めています。 ※前回の記事:「今日の最善が明日の最善ではない」 今回は、事業計画(とも言えない下書き状態の計画段階ですが)の進捗状況の記録。 小学1年生の夏休み、勤務先の高校の夏期講習、長らく我慢していた小説を読む時間、云々。 ・・・時間がいくらあっても足りなく感じます。あっという間に7月~8月が過ぎ去ろうとしています。そうです、あまり物事が進んでいないのです。 7月某日
前回記事の続きです。 高校の専任教員を退職して3か月が経ちました。 平日の午前中は、非常勤講師として勤務していて、15時以降は帰宅した小1娘との時間なので、娘が帰ってくるまでの1時間ほどのスキマ時間に情報収集したり記事を書き溜めたりしています。 大学院生のころは、それこそ一日中大学図書館に籠って本とにらめっこしていましたが、いまはまとまった時間が手に入りません。 「役割」が増えると、それぞれに時間が割かれてしまいます。 もともと物事を器用に考えられるタイプではないので、草
前回の記事「学校(での)教育を考える」では、学校が担う役割の多さとその限界について触れました。 「言うは易し・・・」で終わってはならないテーマだと思っています。 学校が「教育活動」を抱えすぎている事に関しては、さまざまな見方や捉え方、アプローチが考えられますし、現に学校の内外からさまざまなアクターが試行錯誤しているはずです。 また、私は現在の公教育を否定したいわけではなく、その他の選択肢が今後、自由に開かれていってほしい、という立場でnoteを書いていこうと思っています。
今回は以前投稿した記事(「高校専任教員を辞めて非常勤講師になりました 2」)に関連する内容です。 ※2024年3月、「専任教員」として務めていた高校を退職し、同校で「非常勤講師」として再スタートを切りました。大きな理由の一つとして、以前から、子ども達が自分らしく学べる場を創りたい、という気持ちがあったからです。 「教育」という言葉は実はとても抽象的ですが、「学校に通う」ということをまずイメージしますよね。 小学1年生の娘も、学校は「当然通うもの」と捉えて、眠くても嫌なこと
今回は前々回の記事の続きを書き残します。 学生時代の私は、野心的な方だったと思います(笑) 当時の私にとって、「自己実現」とは、成長欲求が満たされる職場、給与が安定した職を得て、社会的・経済的自立を達成することでした。 将来のためにたくさん勉強して、教員免許を取って、目標だった学校の先生になって、いくつになってもバリバリ働く姿を想定していました。 日本社会のジェンダーギャップに対する反骨精神も旺盛で、「女性だから」を理由にしない・されない働き方を自分自身が体現しようと思
2024年3月、「専任教員」として務めていた高校を退職し、同校で「非常勤講師」として再スタートを切りました。 →よろしければ前回記事もご覧ください。 今回は、もうひとつの大きな理由について書き留めていきます。 それは、以前から、子ども達が自分らしく学べる場を創りたい、という気持ちがあったからです。 学校現場で日々生徒たちと関わっているといろいろな表情がみられます。 学校という社会のなかに、本当にいろいろな個性が存在しています。 心身の著しい成長期というのも相まって、各々
2024年3月、「専任教員」として務めていた高校を退職し、同校で「非常勤講師」として再スタートを切りました。 理由はさまざまあります。 もっとも大きな理由から記録していきます。 それは、4月から長女が小学校1年生になったこと。 1歳の誕生日から6歳になるまで、保育園に通っていました。 毎日18時まで預かってくれ、延長保育の利用も可能でした。 高校教師という仕事を続けられたのは保育園の存在があったからです。 しかし同時に、常に葛藤がありました。 長女が生まれるまでは、部