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映画鑑賞「君がいる、いた、そんな時」(ネタばれあり)

 日曜の午後、妻と一緒に久しぶりに映画を観た。共通の友人やFBでの知人の紹介もあった、「君がいる、いた、そんな時」。フィリピンルーツの少年がテーマになっているのも、日本語教育に関わる私たちの興味を引いた。

 最初に、簡単にあらすじを述べる。フィリピン人と日本人のハーフ、岸本まさやが主人公で、彼に理解を示す図書室の司書の若い女性、山崎先生と、周囲から浮いているお調子者の香山くん、この三人を中心に物語が展開する。フィリピン人と日本人のハーフのせいで一部のいじめっ子から嫌がらせを受けているまさやは、図書室で山崎先生の仕事を手伝いながら語らう時間が心を許して安らげる居場所となっている。以下、あらすじは、こちら

 図書室しか居場所のないまさやだが、お昼の校内放送で一人DJ気取りで盛り上がり浮いている香山を気遣うやさしさもある。その二人に優しく接する山崎先生は、居場所のないまさやや香山くんを包容する、一見理想的な大人に見えるのだが、実は深い闇を抱えている。まさやに普通のサラリーマンの夫と1歳になる赤ちゃんがいると言っていたのは嘘で、実は不倫の結果生まれた子が出産直後に亡くなり、本人(山崎先生)はそれを認めることができず、紙おむつや赤ちゃんのためのミルクや食事を買うのをやめなかった。今も心療内科に通っている。

 昼休みの校内放送で、校長先生をナイフで襲うどっきり実況中継を流すシーンや、深夜に学校から外部に向けてフィリピンの歌を放送するなど、日常の延長にある非日常が展開する場面が続き、最後まで面白く見ることができた。

 この映画を観ながら、途中からタイトルを心のなかで反芻した。山崎先生の秘密が明らかになる過程で、亡くなった赤ちゃんのことを自分が「いないもの」として扱うと、その赤ちゃんが生まれてきた意味までもなくなってしまうと思えるんだ、とまさきに吐露するシーンがあり、「いる、いた」に込められた意味が少しわかった気がした。居場所は場所ではなく、人と人のつながり、お互い大切に想う心なのかもしれない。中世の「座」にも通じる話に思えた。最後のシーンでまさきや香山が「おかえり」と言い、山崎先生が「ただいま」と返し、居場所が回復したところもよかった。フィリピンルーツを恥じていたまさきが、深夜の学校放送でフィリピンの歌をうたうシーンもよかった。大切に想う人ができたことで自分が強くなれる、というメッセージが伝わってきた。

 私はとてもいい映画だと思うが、あえて疑問点もいくつか挙げる。一つは、中心人物の3人以外の人物が、あまり掘り下げられていない点である。まさきの父や校長先生にはもうちょっと個性を持たせたらもっと面白くなるのかな、と勝手ながら思った。また、山崎先生の不倫相手が校長先生だったら、どっきり騒ぎがまた新たな意味を持ち複雑化するのだが、ちょっと展開が難しくなるかもしれない。もう一つ、いじめっ子が給食の時間に、みんなが食べたフィリピンバナナの皮をまさきのランドセルに大量に入れる場面。香山がかばった末に殴られ倒れ込むのだが、教室にいる他のクラスメートの動きが不自然。遠巻きに心配げに眺める女子二人の他は、ほとんど無関心。殴られた香山の具合が深刻そうなので、いじめっ子3人が教室を去る場面でも、香山に近寄って助けようとするのはまさきのみ。香山の目の前にいる給食係は演技しておらず、不自然だった。最初の論点(中心人物以外があまりきちんと描かれていない)にも通じるが、他にも香山くんのお父さん(子供に虐待しているが保護者が登場する場面では普通の父だった)など、もう少し何かあったら、と思う。

 映画終了後、妻と話していたら、いろいろおもしろいことに気づいた。まず、いじめっ子がステレオタイプに描かれていること。いじめっ子はドラえもんのジャイアンのように、ちょっと太めで髪が短い男の子。妻が言うには、痩せた女子のいじめっ子がいてもいいじゃないか、とのこと。確かに。また、山崎先生が未婚の母である、という設定。出産直後に亡くなるなど不幸を一身に背負って同情を買いつつ、世間に認められない日陰の人間として描かれる。未婚の母がよくないことであり、不幸になってもしかたない、というステレオタイプを助長しているかもしれない。

 2ヶ月ほど前、学生時代にみた「field of dreams」というアメリカ映画を久々にビデオで見た。そのとき、当時は気が付かなかった細かい設定が少し理解できてうれしかった。たとえば、主人公の妻のアニーが夫レイとともにPTA集会に出席した場面で、テレンス・マン(原作ではサリンジャーだそうだ)の本を禁書にすべきだ、という意見に対し、アニーが反論するシーンがある。詳しいやりとりは省略するが、60年代のアメリカ、ベトナム戦争、ヒッピー文化などいろいろなできごとがあったアメリカをどう評価するかという視点がエピソード的に物語の文脈に紛れ込んでいる。チャン・イーモウの初期の映画、「初恋が来た道」や「生きる」なども、単純な物語の中に時代背景がさりげなく描かれている。この文化の文脈の豊かさが、私の感じる映画の魅力の一つだ。

 この映画は、テーマの描き方が丁寧で、3人の関係の展開のおもしろさがあった。クリティカルなコメントもあったが今後もこの監督に期待したい。

 映画はおもしろいなあ。東京のときみたいにいろいろな映画が選べるわけではないが、石川、金沢での映画の楽しみ方を見つけたい。妻と一緒に観て語り合うことができるのは楽しい。映画館も、ブルーノートみたいに、食べながらあるいは話しながらカフェのような場所で観られたらいいのに。高岡にそんな映画館があったような。同じ小説を読んで、のような読書会より映画のほうがディスカッションしやすいと思う。


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