書き言葉とは、対話とはー『愛読の方法』から考えたこと

 先日、twitterのある記事にCEFR批判があって、さらにその批判をよしとする人、批判がCEFRに対する理解の浅さを示していて的外れだとする人など、さらに波紋を広げている。そして、それらのtwitterやSNSの言葉を消費している大勢の人がいる。かくいう私もその一人で、iphoneのレポートによると、私は毎日4時間以上スマホを見ていてその半分以上がSNSとネットニュースの閲覧時間だそうである。言葉は「消費」するものなのか。言葉は「twitter=さえずる」ものなのか。そんなときに思いがけず出会ったのが『愛読の方法』(ちくま新書2018)である。

 この本では、文字に書かれたものを軽々しく信じる(=軽信)ことへの警鐘を鳴らし、軽信から逃がれるにはすぐれた本を愛読するしかない、と説いている。まずプラトンの対話篇『パイドロス』の文字批判の紹介から始まり、ソクラテスの思想を繙いていく。言葉にはふたつの方向があり、ひとつは生きた魂の中に植えつけられて育ち魂を太らせるもの、もうひとつは真偽不明の情報を洪水のように垂れ流すばかりで魂の中にとどまらないもの、である。そして前者の方向を保持しているのが話し言葉のほうで、文字は後者の方向の場合が多い。
 この後、ソシュールの話に繋がるのだが、ソクラテスとソシュールに共通するのは、自分の主要な思想が自身の著作ではなく弟子の著作によって伝わっているという点である。ソシュールの言語学を巡る思考も、言語を文字化することで死んだ要素の集まりに言葉を分解する言語学への批判であり、文字が与える巨大な錯覚との闘いこそ言語学であるべきだという主張へ向かう。著者の前田氏の、「二人が語ろうとしていたのは、実は同じ事実だったのではないか」(p.30)という指摘は、妙に説得力があり、驚きがあった。
 デカルトの話も面白かった。前田氏によると、デカルトは「本など少しも必要としない剛毅の人」であり、成人すると書物による学問から離れ、旅などで経験を積みながら事物に直接問いかけて答えを得る方法を身につけたそうである。彼の哲学の背景にこうしたドラマがあったことを恥ずかしながら初めて知り、非常に興味を持った。彼の人生観とその編み出した哲学が詰まった『方法序説』を読んでみたくなった。さらに、二十世紀前半に出たアランという哲学者がデカルトを愛読し、そこから思考を巡らせることで価値あるものを生み出していく話も面白い。古典、教養、訓詁学などへ話がどんどん広がっていく。

 新書の冒頭部分を読むと、著者の前田英樹氏が大学教授であったことがわかる。しかし本書をわくわくしながら途中まで読み、「ああ、この人は学者ではないな」と感じた。裏表紙に「批評家」とありウィキペディアにも「フランス文学者・評論家」とある。学問というのは書き言葉=エクリチュールで成り立っていて、厳密な手続きのもと、情報としての言葉を恣意的に再解釈し新たな知識を生み出す形となっている。そういう意味で、彼の主張はまさに学問や形而上学の否定である。また、ソクラテスとソシュールに共通点を見出し論じるというのは、学問の為せる業ではなく、直観的・主観的にならざるを得ない。客観的事実ではなくその人全体から生き方や思想を論じる手法は小林秀雄に通じるものがあるように思った。古きよき日本の評論の伝統を受け継いでいる。

 書き言葉とは何だろうか。学問の営みに関わるものとして、論文の本数や引用数が評価される大学のシステムとどう向き合えばいいのか。インターネット社会でSNSの陥穽にはまり他者の言葉に踊る自己をどう処理すればいいのか。自分でも解答が見つからない。
 ただ、この本を読み終えてふと思い出したのは、連句のことだ。近代的な文学概念の輸入により、正岡子規によって俳句(=発句)のみが芸術とされ切り捨てられた連句。前田英樹氏は書かれた言葉を魂にとどまらない言葉として全て否定したわけではなく、古典という価値ある書き言葉を愛読するという方法を提示した。連句は、愛読するわけではないが、仲間と句を作り合い読み合う行為が言葉のやり取りの中に魂を見出す行為なのだということもできそうだ。「文台おろせば即ち反故なり」(『三冊子』)という潔さもある。松尾芭蕉は一方で、パフォーマンスとしての連句を作品(=エクリチュール)として昇華させることで月並で世俗的な俳諧を芸術へと引き上げた。つまり、文台から懐紙(連句が記録された紙)を下ろした後も添削を重ねた、ということだ。価値ある対話が書き言葉となってもその価値を残し続ける可能性がある。古典を作り上げた人の隠れた努力を見逃してはならない。

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