雑煮から考える複言語複文化

 熟年結婚して初めて実家で迎えるお正月。自分から夫である私の今治の実家に2泊すると言い出した妻が、出発2日前になり急にあせり出した。実家で食事は自分が作ってもいいのか、2日間何をすればいいのか、食材は買って行ったほうがいいのか、などなど。仕事でみせるブルドーザーのように物事を進める力強さは影をひそめ、珍しく意思決定が揺らぐ。

 元日の朝、妻が雑煮を作った。これが悪戦苦闘。私の母は数年前に亡くなり、はっきり味を継ぐのは弟の嫁ぐらいだ。しかしこの朝、弟家族はいない。長男の嫁・真希子が雑煮を任された。だしは醤油と実家の隅に眠っていたヒガシマルうどんスープ。具は、昨日北条のスーパーで買ったじゃこ天、実家で採れた白菜、そして丸餅。私は妻から「どんなだしだったの」「具は何が入っていたの」など聞かれたが、自分で料理していないと悲しいほど答えられない。朝になって「餅はどうやってなべに入れるの? 焼き餅?それともレンジであたためておくの?」「直接鍋に入れて煮たと思うけど」「それじゃ鍋で餅が溶けてスープが濁るよ」「うーん、よくわからないなあ」。結局レンジで温めてから鍋に入れた。父と妻と息子と私はだまって食べた。亡母の雑煮の味と同じではないが思った以上に似ていた。そしておいしかった。

 私が父に、妻が白石家の味に近づけるためにがんばったのだ、というと、「お母さんが作っていた雑煮は菊間の作り方じゃないんよ。菊間の雑煮にはじゃこ天はないからね」と言われ、ちょっと拍子抜けした。そうか、文化ってこうやって混ざっていくのかな。結婚で妻が夫の家に入りその家の文化と混ざっていくのは、移民が新たな国の住民となるのと似ている。最初は新しい文化に触れ、その文化に馴染もうとして真似る。初めはなかなか慣れないが、しだいに相手の文化を理解し真似がうまくなる。しかし、理解した上で自分らしさとは何かを考え自分らしい振る舞いをするようになる。それが新しいその家・その国の文化になるのかな。

 新しい家・新しい国に入っていくことは少なからず摩擦がある。入っていく当人はアイデンティティが揺らぐような体験を何度もするにちがいない。でもその摩擦があってこそ、文化は更新しながら受け継がれていくのだろう。同じようでいて文化は時々刻々と変化するものなのだ。早稲田大学の細川英雄先生が、「個の文化」とおっしゃっていたのが、少し納得できた気がした。

 我が家の雑煮初めて担う妻 新しき味ここに始まる 

 

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