SciCom in Action: DXとは何か② - 複雑系への適応としてのDX -
前回は,社会全体を複雑系として見る世界観の重要性が増しており,複雑系をなす環境に適応して生き抜くためには,変化と安定を両立させてシステムの適応力を高めることが重要というお話をしました.それでは,変化と安定という相反する2つの性質をいかにして両立させればよいのでしょうか.
複雑系をなす環境の中で変化と安定を両立させている複雑なシステムには,普遍的な特徴が見られます.
1つ目の普遍的な特徴は,階層性です[1].階層性は,ありとあらゆるシステムに見られます.社会システムの中では,企業,学校,国家,自治体などの組織の中に階層構造が見られるとともに,それらも他の組織の下位組織になるという重層的な階層構造が見られます.生物システムにも,分子,細胞,組織,器官,個体,生態系というような階層構造が見られます.物理システムにも,ミクロなスケールでは素粒子,原子,分子,マクロなスケールでは衛星系,惑星系,銀河系というような階層構造が見られます.近年,人工知能技術に革新的な進歩をもたらした深層学習も,その名の通り深い階層性に大きな特徴があります.
階層構造において,上位の階層と下位の階層とを隔てる普遍的な特徴は何でしょうか.哲学者のBergsonは,著書「物質と記憶」[2]の中で,精神と物質を時間スケールの違いで説明することを試みています.この時間スケールこそが上位の階層と下位の階層とを隔てる普遍的な特徴であると考えられます.すなわち,各階層が固有の時間スケールを有しているということです.時間が絶対的なものではなく相対的なものであるという世界観は,システムデザインのみならず,哲学や物理学においても重要だと考えています[3].
精神と物質を例にした場合,精神の世界に固有の時間スケールは物質の世界に固有の時間スケールよりも長く,小刻みに変化する物質の世界に対して精神の世界は大股で変化していると考えられます[2].精神の世界の現在は,物質の世界の現在を束ねて引き延ばしたものになっているということです.もちろん,精神の世界にも階層があり,精神が身体に含まれるとすれば,物質の世界に対峙する身体に近い階層ほど時間スケールは短くなると考えられます.
時間スケールの異なる上位の階層と下位の階層は,階層間の相互作用を通じて整合性を保つように相互に拘束しながら状態を変化させていくと考えられます.力学系において状態の時間発展を考えたときに状態空間において引き込まれていく領域をアトラクター(準安定状態)と呼びます.時間スケールの異なる階層間に整合性の拘束があることによって,システムのとりうる状態が状態空間内の一部に制限され,状態空間内に複数のアトラクターが生み出されると考えられます[4][5].
アトラクターが存在することによって,外部環境が多少変動してもシステムはアトラクターに留まり続けます.外部環境の変動が大きくなると,アトラクターに留まることが難しくなりますが,状態空間内に移ろうことのできる別のアトラクターが存在すれば,その別のアトラクターに移ろうことができます.すなわち,外部環境が変動したときに移ろい合うことのできるアトラクターを状態空間内に有することによって,変化と安定という相反する2つの性質を両立させることができるということです.変化と安定のバランスは,生み出されるアトラクターの数や性質によって調整されると考えられます.
理論生物学者であり複雑系の研究者でもあるKauffmanは,外部環境に対するシステムの適応度は,秩序と無秩序の境界であるカオスの淵にあるときに高くなり,生物はカオスの淵で進化してきたと主張しています[6].システムがカオスの淵にあるとき,状態空間内に移ろい合うことのできるアトラクターが多く生み出され,外部環境の変動に応じてアトラクターからアトラクターに移ろい合うことで,変化と安定を両立させることができると考えられます.一方で,システムが秩序側にあるときには安定性が高い一方で変化しにくく,無秩序側にあるときには変化し易い一方で安定性が低いと言えます.
今回お話した内容をまとめると以下の通りです.次回は,複雑系をなす環境の中で変化と安定を両立させている複雑なシステムに見られるもう一つの普遍的な特徴についてお話したいと思います.
複雑系をなす環境の中で変化と安定を両立させている複雑なシステムの普遍的な特徴として時間スケールの異なる階層性があり,時間スケールの異なる階層間に整合性の拘束があることによって,状態空間内に複数のアトラクターが生み出される
外部環境が変動したときに移ろい合うことのできるアトラクターを状態空間内に有することによって,変化と安定という相反する2つの性質を両立させることができる
変化と安定のバランスは,システムが秩序側にあるのか無秩序側にあるのかによって調整され,秩序と無秩序の境界であるカオスの淵にあるときにシステムの適応力が高くなる
発展的な内容
自由エネルギー原理と整合的拘束
神経科学者のFristonは,脳の情報処理の原理を説明する一般的理論として「自由エネルギー原理」を提案しています[7].脳は,感覚器官(例えば網膜など)から得られた感覚信号から,感覚器官からは直接観察できない外環境の隠れ状態を無意識に推論していると考えられます.例えば,部屋の中に物が散乱している光景を見たときに,泥棒に入られたのか,地震があったのか,子供がいたずらしたのかといったことを無意識に推論しているということです.
非常に大雑把な説明ですが,自由エネルギー原理では推論が次のようにして行われると考えます.すなわち,脳は,①隠れ状態に対して何らかの想定をし,②その想定が正しければ得られるであろう感覚信号の予測信号を生成します.そして,③実際に感覚器官から得られた感覚信号と予測信号とを比較して,両者のずれである予測誤差信号を生成します.④予測誤差信号がゼロではない場合には,予測誤差が小さくなるように隠れ状態の想定を更新します.以下,②から④までを予測誤差信号がゼロになるまで繰り返します[7].
Fristonは,予測誤差がゼロになったときに隠れ状態の推論結果として知覚が得られ,この知覚の過程が(ヘルムホルツの)自由エネルギーを最小化する過程だと主張しています(ここでは取り上げませんが,自由エネルギー原理の立場では,運動も自由エネルギーを最小化する過程として扱われます)[7].
ここで着目したいのは,②予測信号の生成,③予測誤差信号の生成,④想定の更新というプロセスのネットワーク[8][9]がループをなしており,自由エネルギーが最小になるようにループを通じて調整されるということです.こうしたプロセスのネットワークにおけるループは,同じ時間スケールの階層内に形成されるほか,時間スケールの異なる階層間にも形成されると考えられます.本文では,階層間の相互作用を通じて整合性を保つように相互に拘束しながら状態を変化させていくという話をしましたが,時間スケールの異なる階層間に形成されるループが,階層間の整合性を保つための拘束と見ることができます.そして,システムを構成するプロセスのネットワークには,階層内および階層間のループが無数に形成され,全体の自由エネルギーが最小になるようにループを通じてシステムの状態が調整されると考えられます.
こうした同じ時間スケールの階層内および異なる時間スケールの階層間に形成されるループを通じたシステムの状態の調整は,あらゆるシステムに普遍的に存在する原理であると考えられます.例えば,生物の進化をシステムとして見た場合にも,そうした原理が作用していると考えられます[7].
意外性の高いところでは,プロジェクトマネジメントでも,そうした原理は有効に作用すると考えられます[10].アジャイルでは時間スケールの短いループに着目します.
ここでは扱いませんでしたが,自由エネルギー原理と深層学習の関係や,アトラクターと記憶の関係なども調べてみると面白いと思います[11][12][13].また,自己組織化で重要な役割を果たしていると考えられる束縛閉回路[14]と上述したループとの関係を探ってみても面白いと思います.
時空間スケール
本文の中では時間スケールに着目しましたが,時間スケールに空間スケールも合わせて時空間スケールに着目してシステムを分析することもできます.例えば,学問体系をシステムと捉えた場合,哲学,科学,工学の順に時空間スケールが短くなっていくと考えられます.これは,現実世界に対峙する必要がある工学は時空間スケールが短いのに対して,科学は,可能な限り大きな時空間スケールにおける普遍的な特徴を見出すことを目指します.哲学は,科学よりもさらに時空間スケールが大きく,数学,物理学,化学,生命科学,社会科学といった学問を包含するようなスケールで世界を見ていると言えます.
哲学,科学,工学の順に時空間の解像度が高いと見ることもできます.工学は地上を移動しながら地球を観察するのに対して,科学は上空から地球を観察していて,哲学は太陽系や銀河系の外から地球を観察しているようなイメージです.同じ地球であっても,工学,科学,哲学では,見え方が異なるということです.本文の中で述べた内容を踏まえると,学問体系というシステムも,哲学,科学,工学といった時空間スケールの異なる階層が相互作用することが重要と言えます.基礎研究と応用研究のどちらが重要なのかという議論や,哲学のようなすぐには役に立たない学問を教える価値があるのかといった議論をよく見かけますが,社会システムの適応力という観点では,どれが重要かではなく,相互作用させることが重要だと考えています[15].
時空間スケールの異なる階層性に着目して身の回りにあるシステムを分析してみると面白いと思います.
Herbert Alexander Simon, "The Sciences of the Artificial", MIT Press (1996).
Henri Bergson, "物質と記憶", 講談社, (2019).
Carlo Rovelli, "時間は存在しない", NHK出版, (2019).
金子 邦彦, "細胞の理論生物学: ダイナミクスの視点から", 東京大学出版会 (2020).
金子 邦彦, "普遍生物学: 物理に宿る生命、生命の紡ぐ物理", 東京大学出版会 (2019).
Stuart Alan Kauffman, "自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則", 筑摩書房 (2008).
乾 敏郎,阪口 豊,"脳の大統一理論: 自由エネルギー原理とはなにか",岩波書店 (2020).
Carlo Rovelli, "世界は「関係」でできている 美しくも過激な量論", NHK出版 (2021).
春名 太一 (2020), "普遍性とそのゆらぎ", 現代思想, vol. 48-9, 150-163.
橋本 善久, "SQUARE ENIX OPEN CONFERENCE ゲーム開発
プロジェクトマネジメント講座", 株式会社スクウェア・エニックス, 2011.田中章詞, 富谷昭夫, 橋本幸士, "ディープラーニングと物理学 原理がわかる、応用ができる", 講談社 (2019).
Stuart Alan Kauffman, "WORLD BEYOND PHYSICS:生命はいかにして複雑系となったか", 森北出版 (2020).
Bruno Latour, "社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門", 法政大学出版局 (2019).
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