メモ #012 井の中の蛙もわるくない

1 井の中の蛙

『井の中の蛙大海を知らず』

こんなの聞いたことある?でもこれには、誰かに後付けされた続きがある。

(井の中の蛙大海を知らず、)
『されど空の青さを知る』

こんな雰囲気の意味らしい、

『狭い世界にとどまっていると、そとに広がる大きな世界のことをしらない。しかし、そこに留まり続けたからこそ見えてくるものがある。』

今回のメモでは狭いが深い世界にあえてスポットライトを当ててみたい。

まずは『狭い世界で十分だ』という例を2つ。

2 地球は丸かった

いまの時代に生きる僕らは、地球が丸いのを知っている。でも教科書以外でそれを感じたことってある?

たしかに、すごく高いところに登って遠くをみたら、ある部分から先の大地が見えない。これは海の遠くを見ても同じ。だから、地球はたしかに平面ではない。

でも平凡なひとが平凡な生活の中で、それを感じるか?家の前の小道で子どもが地面に落書きしてる。実はこの子は球面上に絵を描いているのである!?

地球が平面だと思われていた時代があった。今からすれば彼らは無知だった。だけど地球が平面かとあらためて問われたら、僕はウソだとは思わない。

僕は科学者なのでもちろん球体であることは知ってはいるけど、巨大な地球で本当にちっぽけなところで暮らしているので、まごうことなく平面なのだ。

3 リンゴが木から落ちる

ニュートンのリンゴの逸話がある。胡散臭いなあと思うけど。

物が上から下に向かって落ちる。重力がある。これは正しい。

しかし翻って、『万有引力』を知ってしまった人からすると、これは無知になる。全てのモノとモノが引き合う。僕と君の2者間でも、引っ張り合っている!

だけど地球が僕を引っ張る。地球が君を引っ張る。地球があまりにも巨大で重たいので、地球が引っ張るのに比べたら、60キロ程度の僕と君が引っ張り合うチカラなんて蚊のなく声にもならない。

たしかに宇宙に行けば太陽と地球が引っ張り合ってるとかそういうのが『見える』けど。

平凡なひとの平凡の生活では、まちがいなく『重力でモノが落ちる。』

4 井の外の真実

地球が平面だとか、モノが上から下に落ちるとか言ってみた。これはまったくもって、皮肉っているのでもなんでもない。

平凡なひとは平面の世界で生きている。それで困ったことは一度もない。

科学者は球面だと知っている。じゃあ彼らがなにかで得しているかというとたぶんない。航空宇宙工学とかの専門なら別ね。

科学者なら平凡なひとよりも、もっとクリエイティブでもっと豊かで、もっと幸せな日常生活を送れているか?僕はまったくそうは思わない。

ここまでで、『狭い世界で十分』というような例を2つ言ってみた。

こんどはむしろ、『狭い世界のほうが良い』みたいなことが言えたらいいな。試してみる。

5 引き込まれる物語

小説家は表現の使い手だ。そして言葉で表現するものはといえば、そもそも頭の中にある壮大なイメージの世界だ。

フィクションとノンフィクションならどっちが好き?ドキュメンタリーでもいい。フィクションとノンフィクションのどっちがワクワクした?涙を流したのはどれ?

僕の場合は、フィクションが一番没入するし、一番リアリティーを感じる。そのストーリーから何かの気づきを感じて、ああ今日から自分もこうやって生きていこう。そんなふうに思える。

描写がリアルな小説家はきっと事前調査も行き届いている。

身も蓋もないけど、言ってしまえば僕には僕自身の体験だけがリアル。他人のAさんのノンフィクションであれ、他人のBさんのノンフィクションであれ、僕にはリアルではない。

それは僕だけじゃないはずだ。Aさんにとって、Bさんのノンフィクションはリアルではない。Bさんにとっても、Aさんのノンフィクションはリアルではない!

小説家が書いた小説は、Aさん、Bさん、Cさん、…そういった全てのノンフィクションの共通部分を描いている。ドラマチックな部分を取り出して脚色して描いている。ある程度のはなしね。

さあ、最終的に言いたかったことだけど。綿密に調査してフィクションを書いた小説家は『ノンフィクションの部外者』であるけれども、はるかに優れたストーリーを描いていると思う。

6 視覚世界の制限

日常で周りを見渡すと色とりどりの世界が広がっている。世界の広がりを感じると同時に、実は在るのに見えていないものがある。しかし平凡な生活の中でそれにあらためて気づくことはなかなかない。

赤から黄色、緑から青、そして紫へと色のついた光がある。これを可視光という。眼の中のセンサーが捉えるから色を感じ取るわけだけど、ありとあらゆる光を感受するセンサーなんてそもそも意味がない。生活に便利な範囲でだけセンサーで捉えられるように、人間の身体はできている。

センサーで光を捉えてそれに色を感じるのは、色弱や色盲のひとのことを考えたらイメージしやすいかもしれない。パーセンテージ的にはそれほど珍しい特性じゃない。あと『赤紫色』っていうのを考えると、人間がどのように色を知覚しているのかが興味深い。『赤紫色』に関しては上級者向けの話なのでカットする。

話を戻すけど、眼で見えていないものなんていっぱいある。リモコンの赤外線も、太陽の紫外線もみえない。でもテレビは点くし肌は焼ける。

可視光しか見えないし色を感じないのはいわば『井の中』。じゃあ翻って、赤外線も紫外線もみえるようになって『大海』を知ったとしたらどうか?

つぎの音の話題も併せて、後でまとめて考える。

7 限られた聴覚の範囲

色と似てる話だけど、音も全部聞こえているわけではない。聴覚検査はわりと受けることが多いから、身近かもしれない。

これには個人的に鉄板な小ばなしがある。

音の高低は聞こえる範囲が限られていて、高い音は年齢とともに聞こえなくなっていく。例えば、若いひとがコンビニでたむろして困ったもんだ。そこで全ての客を不愉快にすることはなく、たむろするティーンズだけが不快な音を出す。モスキート音みたいなのを考えてもらえば、イメージとしてはすごく遠いわけじゃない。」

こんな話を家庭教師で生徒にしたことがある。そうしたら通常運転でスマホをいじっていたので、「あー全然聞いてないや。勉強に飽きて集中力切れたか」と僕は内心ため息をついた。

生徒が飽きてしまったのを承知で、僕は淡々と教え続けた。すると急に生徒が腹を抱えて笑い出したので、「え、どうしたん!?急に機嫌いいやん?」と僕がきいたら。

「だって先生ずっとそのまま喋り続けるから。さっきからずっと鳴らしてるのに、ほんまに聞こえてないんや!」

…ということで、生徒はずっとYouTubeで高音を鳴らしてたんだけど。

なんか生徒がめちゃくちゃ機嫌よくなって、おかげでその後の指導がスムーズになった。イタズラしてくれてありがとう。

8 区切られた音程

音楽はドレミファだ。本当はドとド#の間、さらにその間、さらにその間…といくらでもあるはずだけど。

音階はとびとびで一種のお約束のもの。

9 制限内で産み出せる価値

さあ、色と音の話をなんとなくしてきた。見える色と見えない色がある。聞こえる音と聞こえない音がある。音をルールでとびとびの音階として定めることで、無限にあった音から、限られた数だけにしぼる。

これってアートだなあって思った。

絵を描くなら色が決まっている。人間が見える可視光の範囲だ。目で捉えられない範囲の光を使って描いたりしない。光のアートとは言え、赤外線や紫外線は使う意味がない。赤外線や紫外線が出ているとしたら、それは意図していない技術面でのエネルギーロスだ。

『狭い世界の中』で作っているのに、無限の芸術性がある。いやむしろ、人間にとって見えない色で描かれても、そこに芸術性のなんのプラス得点もない。

音楽も同じ。聞こえる範囲の高低で作曲しないと意味がない。音の高低も完全な連続ではなく、とびとびの音階で奏でるから芸術になる。

10 井戸の壁を越したとき

僕はこれまで、『井の中』から飛び出して『大海』に出たところで、無意味だと提言してきた。

でも、現代アートなら、そんなのもアリかな。

ゴーグルをしなきゃ見えない絵とか。ヘッドホンをしなきゃ聞こえない曲とか。普通に見える絵だったけど、赤外線や紫外線の範囲まで見れてはじめて完成する光のアートとか。

裏切りや斬新な発想がアートなら、無い線ではないかも。

11 空の青さを知る

『井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る』

例を6つほど喋った。

・平らな地球
・落下
・フィクション
・可視光
・可聴域
・音階

こんな例をあげたけど、僕自身としては、「ひいき目なしで、『井の中』と『大海』の優劣がない」と思ってる。

だけど、井の中であれ大海であれ「空の青さ」は知っておきたいな。

そう願った。

おわり//

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