「何者かになること」への圧力

「何者か」にずっとなりたかった。今もなりたい。ずっと何かにならないと、と生き急いで、でもこの焦りは私の生命にどうしても必要なものだとも思う。歩みを止めたら、ここで歩みを止めたら、私は死ぬ。誰かの記憶に残って、ハードディスクの私に死という終わりが来ても、誰かの中で生き続ける。そうじゃないといけない、そうじゃないと、私は私という容器に入って生を享受する意味がないと思う。誰かの琴線に触れて、誰かのことを救わなくとも、誰かが「あんな子いたな」と思いだしてくれればいい。そうやって1000年生きたい。1000年じゃ足りない、もっともっともっともっともっと生きないと、いけないのに、もう私は私のハードディスクを20年も使ってしまって、今更になってこの20年間が惜しくて仕方のないものに感じる。何かにならないといけない。何かになれれば死んでもいい。いや、厳密にいえば 何かになったら私のハードディスクは手放してもいい、だって誰かの記憶で生き続けるから。それだけで良い。そのためだけに、私の身体を、私のハードディスクを捧げたい。


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