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ありがとう、松坂大輔

2021年10月19日火曜日。埼玉西武ライオンズvs北海道日本ハムファイターズ第23回戦。この日は、「平成の怪物」とあだ名された松坂大輔投手の引退試合になった。

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今でこそ、シーズンになれば野球場に足を運んだり、テレビ中継やラジオ中継を聞いたり、速報アプリで贔屓チームの結果に一喜一憂する日々を過ごしている私だけれど、昔は野球が嫌いだった。

昔、必ずと言っていいほど土日の夜には野球中継が地上波で放送されていた。それによって、見たい番組が潰れる、延長で楽しみにしているドラマの開始が遅れるーー……。「私は21時ピッタリから『家なき子』が観たいんだ!」と、何度思ったことか。

何が楽しいんだろうと、野球中継を見る父親からルールを教えてもらったり、1994年5月18日の完全試合も観ていたはずなのだけれど、「何かすごいことが起こったらしい」くらいの感想を抱いただけだった。

そんな私が、「野球って面白い」と思うきっかけになったのは、忘れもしない1998年夏、第80回全国高等学校野球選手権大会準々決勝第1試合。あの、「PL高校vs横浜高校」の試合だった。

当時中学生で、部活に入っているでもなく、だらりと甲子園の中継を観ていた私は、画面の向こうの熱戦に釘付けになった。真夏の甲子園球場で行われているその試合を、ただただ「すごいことをやっている」という思いで見つめていた。その時初めて、松坂大輔という選手の名前を知った。

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松坂大輔という選手は、私に野球の面白さを教えてくれた大事な存在だ。あの甲子園の試合を観ていなければ、野球に興味を持つタイミングはもっと遅かったかもしれない。もしかしたら、「ルールはわかるけどなんかよくわからんスポーツ」のままだったかもしれない。

彼をずっと追い続けていたわけではないけれど、いいニュースがあれば「すごいな」と感心したし、メジャーでの活躍を知れば嬉しくもなった。

松坂大輔は、間違いなくヒーローだった。

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日本に帰ってきて、いいニュースが聞かれなくなって、何となく裏切られた気分になることもあった。

「平成の怪物なんだから、きっと復活してくれるはずだ」と、勝手に期待して、「キレイな思い出のままでいてほしい」と、身勝手極まりない想いを抱いてもいた。

2021年7月に引退の報道を聞いて、「あぁ、とうとうその日が来てしまうんだな」と寂しい思いが押し寄せてきた。

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コロナ禍で、球場に行く機会がめっきりと減り、ファンクラブの内野席引換券も使えないままでいた。9月に緊急事態宣言が解除となって、10月の試合の追加発売が行われることを知って、手元の引換券をギリギリで利用した。

空いている日にちを聞いて、選んだ日は10月19日。その時はまだ、この日が松坂大輔の引退試合になるなんて思ってもいなかった。

10月19日、先発:松坂大輔

彼が投げるのは、最初の打者一人だけ。仕事を定時に終えても試合開始には間に合わないことはわかっていたから、球場に向かう電車の中で、ラジオをつけた。

「松坂大輔引退試合が始まります!」

西武球場前行きの所沢のホームで聞こえてきた実況の声に、涙腺が緩んだ。

「待ち焦がれた118キロ。一生懸命に心を込めた118キロ」
「野球と運命をともにした渾身(こんしん)の球は外れました。乾坤一擲(けんこんいってき)の5球。ボールは外れました」
「松坂大輔、やりきりました。彗星(すいせい)のごとく現れ、横浜高校から西武、レッドソックス、ソフトバンク、中日、そして最後は西武で23年間のプロ野球生活にピリオドを打ちました。世界一の剛腕、18歳から投げ続けた松坂。最後のMAX(最速)は118キロでした。確かに確かに23年間の月日は流れていきました」

かつては150キロをの球投げていた剛腕から放たれたのは、118キロのストレート。最終的には4球になったけれど、2球目がストライクになったと聞いた瞬間、所沢のホームで泣いていた。

復活を願っていた。「平成の怪物」から「令和の怪物」に生まれ変わってほしいと願っていた。

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松坂大輔引退_211019

試合後に球場を一周して、マウンドで胴上げされる姿を見て、「あぁ、本当に、現役引退するんだな」と実感した。

ありがとう松坂大輔。貴方がいなければ、野球を楽しむ私はいなかった。楽しい世界の一端を、教えてくれて本当にありがとう。

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