見出し画像

解釈―『中動態の世界』④僕が解釈する『中動態』

”美しい景色を見て思わず立ち止まる”
この行為は能動か?受動か?

足を止めたのは他ならぬ自分自身なので能動とも言えるだろうし、美しい景色があったからこそ立ち止まったわけなので、美しい景色に「足を止められた」とも解釈することも可能で、その見方からすると受動とも言える。

スピノザの中動態的存在論で言うと「景色を美しいと感じる」本性が「足を止める」という行為に表現されていることになる。このとき本性は大いに表現されているから能動と言えるが、”景色の美しさ”の影響も大きいので完全な能動とも言えないだろう。

では「アルコール依存症者が再飲酒した」ではどうか?

アルコールを摂取することが自分と家族等に大きな迷惑をかけることを知りながら、また酒を飲むという行為。

これは能動か?受動か?

多くの人がこの行為については「本人に責任がある」と考えるのではないだろうか。「意思の問題」として。
行為に意思の有無を問うのは物事を能動/受動で解釈する視座に立っているからであり、「意思がある」=「能動」で「責任がある」と見做す。

しかし、この再飲酒と言う行為は中動態の視座に立つと「アルコール依存症という病気」「そもそも病気に至るまでの過程(例えば虐待されていた過去など)」「当時のストレス」など、外部要因がその人の本性を圧倒している状態であろうことが推測される。
この意味でこの行為は受動と言える。

ここに本書の冒頭に出てきた「しゃべっている言葉が違う」現象が顕れているのではないかと僕は思う。

もちろん、再飲酒を受動と述べたが、完全な受動ではない。外部要因に圧倒されているとはいえ、必ず本性もいくらかの割合では存在している。
つまり、世界には完全に能動(自由)とも完全に受動(強制)とも言えない事象が溢れている。にも関わらず僕達は能動か受動か、意思はあったのか、責任はあるのかを問わずにいられない。だから例えばこのようにアルコール依存症者の再飲酒という行為をうまく理解できないという事象が起こるのだ。

『中動態』の視座とは、いったん意思や責任を枠の外に置いて、世界をあるがままの姿で見てみようとすることに他ならない。
意思や責任で見えなくなっていたものが見えてきたとき、世界に対する理解は進み、人生は少しだけ豊かになる。

さて、この四部で『中動態』についての僕なりの解釈を述べ、まとめとしようとしたが、もう少し言いたいことが出てきたので次の第五部で終わりにしたいと思う。

<つづき>

<前回まで>

<著書『フォロバ100%』Amazonにて販売中✨>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?