バカでもわかる良い文章の話。

良い文章と悪い文章の決定的な違いは、リズムだと思う。意味だけを伝えたいなら、どんなに回りくどくなっても読み手が優秀なら伝わるわけで、繰り返してもいいし、蛇足なんていくら足してもいいのです。ただ意味だけを伝えるのを目的とするなら。

例えば悲しい表現。

勤続15年の会社を本日解雇された。子供二人はまだ小学生でこれからお金もかかる。ただ40歳目前の私には今更、新たな働き口などそうそう見つかるわけではない。住宅ローンはまだ28年残っている。もともと無理をして組んだローンであるから、このままではもちろん払ってはいけない。ただ、このままこの住宅を手放したとしても借金だけが1000万近く残るらしい。もちろん払い込めるあてなどない。妻は世間体を気にしつつもほんのり離婚を匂わせてくる。希望などもう何もない。子供達はもちろんそんな私の気持ちなど知らずに、塾に行きたい、ゲームが欲しいなどと騒いでいる。もう夢も希望もない。私とは一体なんなんだろうか。思えば…

と言った形で状況だけを書くことでも十分に伝わるけど、なんとも面白みに欠ける。そこで、リズムを大切にしつつ、少しだけ面白く書いてみる。

馘首(かくしゅ)の令を告げられた時、私は目の前が真っ暗になった。文字通り粉骨砕身で勤め上げた15年は、その辞令ひとつで無残にも一瞬で消し飛んでしまった。育ち盛りの子供を二人抱えている身の私にとって、この通達はまさに四面楚歌の上の鉄槌である。女房はこの顛末を憐れむことも、もちろん共に悲しむ訳もなく、何か非難めいた眼差しを向けてくるようであった。いや、これは私の思い過ごしかも知れない。ただ現実問題として、住宅購入時の月賦払いは300回以上残っているし、苦渋の決断で住居を処分したとしても借金だけが1000万も残る算段であるらしかった。これは選択の余地もない死の宣告である。1000万など無職の私に払える訳もないのだから。たとえ古女房を女郎屋にぶち込み、バカな愚息を丁稚(でっち)に出し、不器量な娘を横浜な波止場で異人さんに売り飛ばしても工面できるはずもない。もちろん私が蟹工船に乗船したところでそれは雀の涙であるから無駄である。結論から言うと死ぬしかないのだ。一家が一致団結して今夜にでも、毒薬を頓服して、仲良く手を繋いで川の字に寝転んだまま彼岸に渡るしかないのだ。それほどの状況なのだ。だから私は今すぐに、この離婚をほのめかす恥知らずの女房の頬を張り倒し、塾だ、ゲームだ、と白痴の様に唱えているバカ餓鬼どもを一喝して黙らせ(それでも騒ぐ様なら打擲(ちょうちゃく…殴るって意味)を与えて黙らせれば良い!)、この愚鈍な家人達にうつし世の無情を説き、彼岸の安寧をプレゼンし、最後には来世では再び家族として暮らそうなぞと、お涙頂戴の訓辞を述べるのだ。その一家の主人としての立派な態度と決意を見せれば、浅ましく愚かな女房は落涙(らくるい)して心を改め、バカな子供達もマヌケな発言を恥じ、父様、父様、などと私を崇め讃え、共に玉砕してくれるに違いない。


って感じで書いてみる。こうするとテンポが良くなるし、少しずつ狂った内容にしていくことで本人があまりの悲しみで頭がおかしくなっていく感じが出る。説明すると、

最初は現実逃避から自分を俯瞰して見るために説明口調で書く、途中から女房の視線が批判めいて感じるようになり、いわゆる被害妄想が生まれて、だんだんと精神に異常をきたしていく。そして被害妄想が暴力的に変換されていき、それが積み重なると唐突に自殺願望が芽生えて、それが更に発展すると心中願望になり、なぜかその心中が家族の唯一の幸せの様な気になってしまう。

明らかに精神異常者だ。この精神に異常をきたすほどの悲しみって言うのは当人からすると大変なことだけど、これを【私】という一人称を使いながらも客観的な視点を交えて書くと、ユーモアになったりもする。あえて月賦払いの300回だの、途方も無い借金1000万だの書いて、それを女房の風俗勤務、男児の強制労働、女児の人身売買(これは童謡の赤い靴のパロディ)しても工面できないと思い、そうなってくると自分が例え蟹工船(これは小林多喜二のパロディ)に乗って働いても間に合わないので、もはや働くのは無意味と悟る。

そして、それならば生きてても意味ないと思い。一家で川の字に横になって、三途の川を渡る決心をする。ここでは敢えてありきたりな「三途の川」ってワードを避けて、川の字で彼岸に渡るって言葉で隠喩すると、ちょいとオシャレになる。

この心中を決心をした途端に主人はなぜか自信を取り戻し(最初はクビになり落ち込んでたのに)なぜか、戦前戦中の様な古き良き強い父親になる。そして、その主人(あるじ)としての自覚を持つことで、想像上の家族達も彼を尊敬して付いてくるように錯覚する。その結果として、彼の悲願である彼岸(これも隠喩)に向けて、一家総出で出立できる様な気になるという、完全なキチガイの話になる。このキチガイさが、逆に取り返しのつかない悲しみの表現に繋がったりする。

これが僕的な文学の面白みだと思う。

製作する側が、鑑賞する側に子細な情報や、内容を伝えるならば図を用いたり、絵を用いたり、音響や、場合によっては注釈をつけて、もはやアニメにでもすれば良いわけで、でも文学ってのは、文字通り文のみで伝えなばならない。

そうなってくると、わざと遠回しな表現や、文章のリズムなんかで、相手の想像力や知識にノックしなければならない訳で(当然、想像力のないバカや、知識のない阿呆には伝わらない)、その内在するドアに、どういう角度でノックするかってことがポイントになる。

だから、悲しみということを伝えたければ自分(書き手)が想像した悲惨な世界を描写して書き出すよりも、誰もが持っているそれぞれの悲しみのドアを、そっとノックして呼び起こす方が、案外に伝わったりすると思うのです。

精神が病むほどの悲しみってのは、意外とみんな経験があることなので、作り手の悲しい想像を押し付けるたり、凡庸な個人の悲愴した世界観を書き出すよりも、マテリア(素材)をたくさん散りばめた笑っちゃう様な小話をかいて、そのマテリアが読み手の悲しみをそっとノックしてくれたら嬉しいですね。

そう。僕の書きたい文章ってのは、そういうやつなんですよ。

それがわかってても、なぜか上手に書けないから困ってる。才能がないってのはお辛いことですな。

おわり

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