ゲゲゲと遭遇⑨

水木先生からサインを頂いた年の年末に僕は彼女と正式に別れることになる。

上京して、ほころびだらけの関係のままウダウダと過ごした半年間。僕達はお互いに辟易して、お互いに失望した。ただ相手に向けた何倍もの失望を自分自身にもしていた。自信を失うと人は脆い、あまりに脆い。僕達の最期の1ヶ月は、まるで消えてしまったロウソクを眺めてるようだった。もう灯らない、そのロウソクを眺めているうちに、僕達は言葉を失い、温もりを失った。そして、二人は悔いるよりも諦めることを選んだ。諦めてしまう方が、ずっと楽だった。

彼女を失い、その年の冬に僕は人生で初めての貧乏を味わった。給料日まで一週間。僕は財布に60円しかない。冷蔵庫は空っぽ。かろうじて戸棚にあった彼女の置き土産の乾燥パスタは0.7人前。僕はそれを茹でた。

味付けをしようにも何もない。苦肉の策でフライパンに入れて炒めて麺つゆを入れてみた。油を引き忘れたフライパンにこびり付くパスタ。麺つゆの焦げた匂い。火を消して口に入れたら涙が出てきた。まずい…。にがい…。人間の食べるものじゃない…。

でも、腹が減ってるから僕は無心でそれを口に詰め込んで水道水で流し込んだ。焦げた具なしの麺つゆパスタを食う。明日バイトに行ったら上司からお金を借りよう、、このままじゃ死ぬ…。憧れの東京生活は、いつのまにか地獄に変わっていた。

そして、フライパンを洗うと僕はパソコンを開いて小説を書いた。相変わらずのひどい文章だった。そして、行き詰まるたびに(それはなかなかの頻度でやってくる)僕は、本棚に飾った妖怪辞典を眺めた。いつか、、いつか、、、いつかきっと作家になったらお礼に行こう。そんなことを想像しては、本を閉じてまたパソコンに向かって駄文を綴る。終わりのない旅路において、妖怪辞典だけがコンパスのように思えてきた。

本当は、すぐにお礼に行くはずだった。水木先生のサインをもらって、気にかけてもらえたことを布枝さんから聞いた時、僕は嬉しかった。

お礼の菓子折りも買った。「ありがとうございます。僕、頑張ります」って伝えようとも思っていた。ただ、その日の朝に僕はなぜか、菓子折りを家に置いていった。わざと置いていったのだ。気恥ずかしさでもない。めんどくさいからでもない。小さな自分を認めたくなかったんだと思う。

水木先生に会って、何もできない自分と向き合うのが怖かった。

また明日、、今日は決心がつかないから、、、また明日行けばいいや。お礼のどら焼きの賞味期限はまだまだある。明日また踏ん切りをつけたら行こう。

そう思っているうちに、だんだん時間が経ってしまった。そして、そうするうちに僕の足はますます遠のいてしまった。

時間が経つとさらに思いは巡る。そもそも水木先生だってもう俺のこと忘れてるよな…。今更、お礼に行くなんて逆に非常識だよな…。あっ、どら焼きの賞味期限もうちょっとじゃん。こんなの持っていけないよ…。

そして、僕はいつのまにか過ぎた時間に後悔しつつも、完全にお礼に行くタイミングを見失ってしまった。

でも心の中では、いつか必ずお礼に行くつもりだった。そう、、作家になってから。近い将来、僕が作家デビューすれば良いのだ。そうすれば大手を振ってお礼に行ける。あの時の○○ですって。そうしたら、水木先生が僕のことを忘れてても問題ない。だって、僕はプロ作家だから。証拠の妖怪辞典を持って行って、先生にサインを貰ったから頑張りましたって言えば、素晴らしい美談じゃないか。それがいい。

いや、まてよ。デビューとかじゃなくて、いっそのこと芥川賞でも取っちゃったらもっと良くないか?行列のできる法律相談所とか、おしゃれイズムなんかで、特集されちゃったりしてさ。上田晋也に「芥川賞作家の○○さんの恩人である水木先生がスタジオ登場!!」なんて、煽られちゃってさ。それを聞いた森泉がダッチワイフみたいに大口開けて、目をひんむいててさ。そりゃ、すごいじゃない。美談じゃない。そしたら水木先生も認めてくれそうじゃない。。

なんていき過ぎた妄想をしてみたりしながらも、僕はそこを目指していた。最初の一年くらいは目指していた。…最初の一年くらいは…

冒頭でも書いたけど、僕の東京ライフは経済大国の彼女を失ってから、一気に貧困に陥るのだ。そして、苦肉の策で僕はバイト先に就職する。結果として僕は仕事で頭角をあらわす。いつのまにか給料が増え、休みがなくなり、女回りが良くなり、ストレスが増え、酒の機会が増え、遊びを覚え、、激動の変化の中で、気づく暇もないうちに、僕の作家の夢は棚上げされてしまっていた。

ただ一度だって、諦めたわけじゃない。流されて、失って、色々と遠回りはしたけど、心の奥では作家の夢を諦めてはいなかった。遠回りの結果に得たこともたくさんあった。何もなく、ただパソコンに向かうよりも、社会で揉まれた方が作家に近づいてる気もした。でもやはり現実は厳しくて、仕事と創作の両立なんて僕には出来なかった。

仕事も面白かった。なんだか毎日、成長していく自分が誇らしかったからだ。何かを任されたり、ベストを尽くして取り組むことがあるってことは、人生に張り合いを生む。よく働き、よく遊び、よく笑い、、僕の人生はそれなりに充実していた。心の真ん中にポッカリと穴は空いていても、それが気にならないほど、僕は外側だけで充実してしまったのだ。ドーナツのように。

しかし「好事魔多し」とはよく言ったもので、僕はこの順風満帆な生活で足元を見失ってしまう。仕事というカテゴリーで結果を出した僕は、人間として過大評価されてしまった。そして、25歳の時に派手に転んでしまう。

詳しくは書かないけど、25歳で僕は全てを失った。仕事、金、家、地位、友達、恋人、、本当に全てを失くしてしまった。そして、全てを失った時に、やっぱり自分は作家になりたいと強く思った。僕は、、失くしたものの大きさより、書きたい気持ちの強さに驚いた。

そこから僕は海外を放浪したり、京都の禅寺で暮らしてみたり、沖縄で暮らしてみたり、今まで仕事が忙しくて出来なかったことを沢山した。そして、色々なところを巡りながらも僕は文章を書き続けた。そして、そんな時間を一年ほど過ごした後に、僕は書くことをやめた。

小説が大好きだからこそ、自分がそれになれないと改めて思ったからだ。好きなことで食えたら一番幸せだとは思う。でも食えなかったら生きていけないのだから、僕はその覚悟ができなかった。僕は26歳できっぱり小説家の夢を諦めた。本棚の一番手前に飾ってあった妖怪辞典も折りたたんで、本棚の奥に収納した。

それから僕は一念発起して起業した。働いて生きていくために。最初の一年間は毎日会社で寝泊まりして働いた。2年目の軌道にのるまで僕は一滴の酒も飲まずに、1日も休まずに毎日働いた。必死だった。でもそれはとても楽しかった。

もちろんテレビを見る暇もなかった。そんな時に僕はラジオに出会った。有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMERという番組に。

僕は毎日サンドリをBGMに仕事をするようになった。楽しかった。大好きな有吉さんのラジオはハイパー面白かった。

そして、ある日僕は初めて投稿をしてみた。絶対に読まれないと思いながらも、聞きよう聞き真似(?)で送ってみた。今でも忘れない。「有吉タレント名鑑の ら」で僕の初投稿は読まれたのだ。何だか今までにないくらいに嬉しかった。

そこから僕は投稿をコンスタントに続けた。そして、僕のネタで大好きな有吉さんが笑ってくれるたびに僕は拳を握りしめて喜んだ。ツイッターでも僕の投稿を笑ってくれてる人がいることを知った。嬉しかった。

会社を初めて3年目くらいの頃だろうか、、僕は一度諦めた作家の夢を捨てきれていない自分に気づいた。サンドリで読まれたことで書くことの喜びに気付いてしまったからだ。でも仕事もある。僕は煮え切らない態度のまま、ラジオをすがるように聞いていた。

そんな日々を過ごす中で、ある日僕は悲しいニュースを目の当たりする。それは水木先生の訃報だった。

僕は作家を目指していた時に、まるで偶像崇拝のようにサイン入りの妖怪辞典を部屋に飾っていた。それを見るたびにモチベーションを上げて小説を書いていた。作家を諦めてからはそれは本棚の後ろにしまい込んでいた。そして、訃報を聞いた日に僕は久し振りに妖怪辞典を手にとった、、

はっきり言って、たまたまお会いできた水木先生が、きっと気まぐれで書いてくれたサイン本にこんなに執着するなんて、よく考えたら頭がおかしいことだと思う。無駄に自分の中だけで意味付けをして、すがって生きているだけな気もする。

でも、当時の上京したての僕は毎日何かに負けそうだった。そういった時にあのサイン本を見ることで耐えてきたのだ。勝手に、誠に勝手であるが、僕にとってはそれが羅針盤みたいなものになっていたのだ。

久しぶりに開いた妖怪辞典は僕に色々なことを思い出させてくれた。そして、もう二度とこのサインをくれた先生にはお会いできないのだと思うと、僕は悲しくて思わず涙を流した。お礼ぐらいちゃんと言えよ馬鹿野郎と自分を呪った。

そこから、例のネタを一回も手が止まることなくそのままメールフォームに書き込んでJFNに送信していた。

なぜかそのメールは、翌週に読まれた。大好きな先生へのお礼を、自分なりに面白おかしく書いて、それを大好きな芸人さんが笑ってくれた。これ以上ない喜びだった。

そして、そこから僕はまた捨てれない夢が自分の中で燻り出すのであった。

訃報を受けて日本中の書店で水木先生の本が特集され出した。僕はその機会に水木先生の書籍をたくさん買って読んだ。そして、何かを一生懸命やることの大切さを学んだ。

諦めてしまった夢を再び追いかけるのは、酷く不謹慎にも思えた。自分のように一度夢をかなぐり捨てた人間に目指す資格なんてない気もした。

でもそんな邪念を吹き飛ばすくらい、水木先生が生前に残された言葉は強烈なものばかりだった。

僕は一からまた頑張ろうと思った。文学を基礎から学んで、自分の中にある全てを書けるような小説家を目指そうと思った。近道なんてない。楽な道なんてない。もう一度だけ真摯に文学と向き合おうと決心した。

馬鹿だけど、そこそこ勉強をして僕は大学に進学した。30歳の春だった。僕はおっさん大学生となった。

仕事もあるし、親が癌になったりして、学校に通うのはなかなか難儀ではあったけど、勉強は楽しかった。休学しながらでもいい、40までに卒業するくらいの気持ちで行こう。通ってない間はとにかく書いて、通う時は学んで、仕事も手も抜かずに、やれることは全部やろうと決めた。

手を広げすぎた気もするけど、何かを頑張れる環境でいることは素晴らしいことなのだ。何もかも失った時の経験から、僕は多忙を幸せにすら感じていた。

そして、もう二度と後悔のない生き方をしようと自分に誓ったのだ。

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