どうせ死ぬんだから。

どうせ死ぬんだから何しても同じじゃないか。どうせ死ぬんだから。

最初に人が死ぬということを理解したのは5歳だった。おばあちゃんが死んだからだ。

離婚家系なのでジイさんが3人、バアさんが5人いた。みんなバタバタと死んでいった。それを見送るたび人はどうせ死ぬから何しても意味ない。という考えは強固になっていった。

人は生まれた瞬間から毎日、いや毎時間、いやいや毎秒、とにかく墓場に向かって歩いていくことになる。そんなことを保育園の時に感じて、それを父に話したら、父はなぜか激怒した。子供らしく振る舞う大切さを学んだ。

小中高と出会った友達の殆どに、お前は怖いもの知らずだと言われる。でもその根幹はどうせ人は遅かれ早かれ死ぬのだから怖いものなんてないってことだった。

数学で証明という概念を習った時に人生の全てを悟った気がしたのを今でも覚えている。生きることは無の証明なのだと。

「0=」ゼロイコールから人間は始まる。そこに例えば1を書く、そこに5を足す、思いがけずに3を引く、なんだか成長した僕は4をかけてみたりもする。

0=1+5-3×4

こんな感じで人生は進んでいく。スタートが0=だから最後には人生という数式は0になるのだけれど、それでも人は最初の0=を見ないようにして数式を作っていく。

自殺はきっと×0と書くことだなと思った中学生の僕は思わず笑ってしまったのを覚えている。

美しい数式を作ることに人は夢中になる。良い大学とか一流企業ってのは、もはや×100とか×200みたいなことなのだろうと思った。他人の数式にない珍しい数字や記号もステータスなのかも知れない。

近所に優秀な開業医の人が住んでた。あの人の数式はきっと序盤は緻密に足されていって、大学で×100で、医者でπとかをかけられてて、最後にはxを二乗されたりしてる、芸術的な数式なのだろうなと思った。

でも荘厳な医者の数式も、乞食の足し算と引き算しかない寂しい数式も、結局は0=から始まっている。

0をヒトと読み、=をトハと読む。0=(人とは)つまり人は0なのだ。

生きるということは死を証明することなんだ。と僕は中学の数学で悟った。そして、例外なく死ぬってことがわかっているのに、生きる中で皆んながそれぞれの死を証明することに恐怖を覚えた。

ずうっと人間がなぜ生まれたのか、生きることはなんなのか、なぜここにいるのか、僕はどこから来てどこへ行くのか、僕はいつから僕なのか、と考えていたのに、それは一瞬で分かってしまった。

もともと僕は無(ム)だったのだ。それを証明するために生(セイ)を使っているのだ。もっと言ってしまうと、僕は君であり、海であり、世界でもあり、宇宙でもある、つまりすべての存在は無(ム)である。

僕はいずれ死んで無になる。君も。地球もいずれ滅びるし、太陽も燃え尽きる。そして宇宙すらもいつかなくなる。無とは時間の概念もすべてがない。だから言い換えれば僕は死んでいるし、君も。そして地球も太陽も宇宙も滅びている。

無であることはずっと無である。でもそんな無のなかでは、無すらも無を疑ってしまう。無を証明するのは、やはり生しかないのだ。だから僕も世界も宇宙も無を証明するためにこの世界に生きているんだ。

元々何もなかったし、何も得られないし、何も失わない、だって僕らは0=から始まっているのだから。こんなことを中学の数学のノートに書いていた。

人間は死ぬんじゃない。死んでいたんだ。それを証明するために生きているんだ。だから死ぬのは怖いことじゃない。

中学生の僕はその答えに一人で行きつき、一人で人生を終えようとした。そして、気づいた。やっぱり死ぬのはめちゃくちゃ怖い。だから今死ぬのはやめよう。死んだら仕方ないけど今ではない。放っておいてもいずれ死ぬ。

いや、違う。最初から死んでるから大丈夫。

僕は保育園から芽生えていた自殺願望をこれであっさり捨てることができた。

そして、そこから人生を舐め切って生きていくようになった。

おわり

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