珍しくちょっといい話。
今日はアホほど勉強して頭が疲れたので、最後の仕上げに短めの、少しだけいい話を書きます。
僕は30歳になった時に、大学生になりました。その経緯とか想いを書き出すと、書ききるのに6日ほどかかってしまうので、今日はそれを置いといて、大学に入った後の話です。
考えてみてください。桜咲き乱れる四月の眩しいキャンパスに加齢臭絶好調の、目覚めると口が乾ききってて、声を出すまでに20分かかる唾液も枯れたおっさんが紛れ込む悲劇を。まさにカリントウに紛れ込んだウンコです。よく見なくてもわかる。そして、考えただけで怖ろしい、不浄で、不潔で、汚らわしいカタストロフィです。
ただいつだって異物とはマジョリティからの視点であって、その異物である本人は意外と無自覚なんです。電車の中で大声で歌う白痴のおじさんも、自転車で叫びながら河原を爆走するキチガイも、彼らにはそれが普通なんです。
僕も例に違わず、側から見れば横井庄一さんのように異質に見えても、自分的にはキャンパスライフを謳歌しているつもりでした。
ただ、いくら鈍くて風呂に入る時にパンツにウンコが付いてることに気づくタイプの魯鈍な僕でも、一週間ほどキャンパスで過ごしてあること気づきました。
「だれも話しかけてこない」
やはり30歳という二日酔いの回復に丸一日かかってしまう体たらくな老体は、キャンパスに似つかわしくないのです。清廉性にかけるのです。倫理的に許されないのです。それはもはや犯罪行為なのです。
でも僕は18歳から家を出てずっと独りで生きてきたのでそれに慣れていました。ちっとも寂しくなんかありませんでした。
はい、ごめんなさい、嘘です。実はそれはそれで寂しかったのです。どんなに虚栄を身につけて、ロンリーウルフな振る舞いを覚えても、やっぱり僕もまた若き日に薄っぺらなJ-POPに心を震わせ涙した愛情乞食でした。
でもその寂しさの扱いには慣れていたのは事実です。それは何も優れたマネジメント能力でも何でもなく、愛情の飢えから心の飢餓を守る為に勝手に身についた誤魔化し方なのですが。
人間とは記憶の連続で成り立っています。自我なんてものは重ねられた記憶の現在の形でしかありません。それは誰でも生きているうちに、なんとなく理解できることだと思います。
つまり埋まることない寂しさも、それに無関心でいることを心がければ、いずれ記憶の形は変わっていき、それすら気にならなくなるのです。
求めるのは、手に入るから求めているのです。望むのは叶う欠片があるからなのです。不在をきちんと認識すれば、それに自然と人間は無関心になっていくようにできているのです。
まぁなんだか胡散臭い新興宗教の説法みたいな精神論になってきたので、この話はやめますが、とにかく僕は大学生活で誰かを求めることをやめて、学ぶ何かを求めるようにシフトチェンジしたのです。
そして、誰とも目を合わさずに机に向かい、資料を眺め、黒板を見つめ、講師の話に耳を傾けていました。
そんなある日、なぜか僕は英語の授業中に隣から視線を感じていました。チラッとそちらを見ると眼鏡をかけたベビーフェイスの男の子がこちらを見ていて「やぁ」と手を軽く上げ挨拶してきました。
(なんだこいつは?確か自己紹介の時にしどろもどろの日本語話してた中国人だよな。何が目的だ?)
僕は訝しみながらも「おう」と挨拶を返しました。すると彼は僕の冷ややかな態度に多少戸惑いつつも「僕はウコウです。はじめまして」と挨拶してきたのです。
僕はなんだかよくわからない気持ちになりながらも自分も名乗りました。すると間髪入れずにウコウは教科書忘れちゃったから見せてくれない?と言ってきました。
あぁ、そういうことかと僕は納得して、彼に教科書を見せてあげました。
彼はありがとうと手を合わせて、なんども僕にお礼を言いました。そして、授業が終わるとお礼がしたいからご飯にいきませんか?と言ってきたのです。
僕は正直めんどくさかったので(丁度、友達を諦めて心の鎖国政策を始めたばかりだし)
そんな気を使わなくていいよ。と断りました。しかし彼は中国ではお礼するのは当たり前なんだと、治外法権みたいな事を言いだしました。
中国は核保有国ですし常任理事国でもあるので、僕は仕方なく村上春樹の小説みたいに「やれやれ」と心の中でため息をついて彼とご飯を食べにいきました。
そこで僕と彼は友達になりました。年を聞かれ30歳だと答えると彼はとても驚いていました。そして、飯を食べて話をするうちに彼がとても良い人間だと僕は知りました。
彼は人の痛みをわかろうとする人間でした。
大学に行ってより気づいたのですが、大学には人の痛みに鈍感な人がとても多いです。それは恵まれた環境の人が多いせいもありますが、何より想像力に欠けてる人が多いからです。
目の前に困った人がいたり、目の前の人に災難が降りかかった時に、僕の通う大学の生徒のほとんどは、まず「それが自分でなくてよかった」と胸をなで下ろすタイプの人間でした。自己責任を婉曲させた自己解釈とも気づかないこういうマヌケな人間達にとっての正論はいつだって多数派です。
本当は自己愛にまみれて、目立ちたがり屋でワガママな癖に、それをひた隠していて、逸脱した誰かを嘲笑することで、没個性でいくらでも代わりがきいてしまう「在り来たりな自分」を慰めている、本当の意味の冷たい人間です。
僕は生理的にそういう人が苦手でした。でも彼は違いました。彼は言葉にはしないものの、30歳の大学生というマイノリティな僕をとても気遣ってくれました。
彼は教科書を忘れたことにして、僕に話しかけてくれてたのでした。
そして、一人でいる僕に友達の中国人を何人か紹介してくれたり、僕が他で作った友達と努めて仲良くしようとしてくれたりと、とても心根の優しい青年でした。
僕たちは自然と仲良くなりました。そして僕のいき過ぎたブラックジョークにも彼は常に笑ってくれました。
そんな彼と仲良くなって飲みに行くようになった頃(あっ、ちなみに彼は当時既に22歳ですからお酒が飲めます)話が飛躍して第二次世界大戦の話題になりました。
僕は割と戦争の資料を集めたり、その頃の思想や時代背景を考察するのが好きなので(ちなみな右翼でも左翼でもなく、ただ調べるのが好きなだけです)割とその話が盛り上がりました。
ただ内心はやっぱり中国と日本では歴史観にかなりの開きがあるわけで、この話はあまり突っ込まない方がいいかなとも思ってました。事実として一緒に飲んでた日本人の友達はちょっとその話に遠慮気味でした。
でも僕はウコウとなら、なんとなく分かり合える気がしたので、敢えてそこを突っ込んでみました。善と悪に分けるわけでもなく、それは事実として起きたことなのだから。
するとウコウは少しだけ間を置いて、彼の曽祖父がハルピンの方で日本軍に殺されたと語り出しました。
僕はその話を聞いて、背中に冷たい汗が流れました、、
僕の祖父が戦争でハルピンにいっていたからです。
僕の祖父は日中戦争に志願兵として出兵しました。祖父のいた部隊は、まだ日本が優勢の頃にどんどんと進軍していったそうです。
ところがある作戦中にとなりにいた戦友が地雷を踏んだのに巻き込まれて祖父は片足を失いました。(その戦友はそれで戦死)そしてハルピンの病院で、足の切断手術をした時に看護婦として野戦病院にいたのが僕の祖母だったそうです。祖父と祖母は戦地で出会ったそうです。
当時はまだ日本軍が優勢だったので、祖父はそこで負傷兵として日本へ帰還しました。それから祖母も役目を終えて帰国して、二人は結婚したそうです。ちなみに、祖父のいた部隊はその後も進軍を続けて、結局みんな死んでしまったそうです。
これは父から聞いた話なのですが、祖父は戦争の話を誰にもしなかったそうです。ただ一度だけ、父が子供の頃に、祖父と同じく負傷兵で生きて帰還した戦友が訪ねてきたらしく、二人はただ抱き合って泣いていたそうです。
この話を聞いて、きっと祖父も相当な経験をしたんだなと僕は理解しました。田中英光という小説家が祖父と同じハルピンの方に進軍する部隊にいたらしく、そのことに触れた「さようなら」という小説がありますが(もしかしたら祖父と田中英光は同じ部隊だったのかも)
そこには実際の戦争の狂気がまざまざと書かれています。そこには、どんな学者や評論家にも書けない、本当の現実が書かれています。
あえて内容は伏せますが、そんな惨劇の加害者と被害者の孫が、70年以上の時を経て同じテーブルで酒を飲んでいたのです。
僕のその話を聞くとウコウもまた現実が飲み込めず、目をパチクリさせていました。
なんだかとても変な時間でした。僕が謝るのも変だし、ウコウが怒るのも変だし、ただ事実としてそういうことがあって、あの戦争でウコウの曽祖父が生きてたら今のウコウはいないかも知れなくて、もちろん僕の祖父も地雷を踏んだのが隣の人じゃなくて自分だったら死んでたし、片足を失わなきゃ祖母とも結婚してないわけで、全ての運命の元に僕らが今ここにいるわけで、、なんだかとても言葉にできない時間でした。
ただ僕は強く思いました。僕たちは友達だ。と。
歴史観とか、国民感情とか、大きな渦の中で僕たちは色んな思想や考えにぶつかります。でもそれすらも記憶の積み重ねにしか過ぎないわけで、あったことは無くならないし、無かったものは存在しないわけで、ただ、僕らはいつだって当事者でありつづけるのです。
過去に起きたお互いの祖父のことは客観視して語ることができるし、戦争も、その後の平和も、小競り合いも、意見の相違も、何もかも過ぎた瞬間から客観的な視点で僕らは語り合えるのです。
でも今だけは違います。今という現実の前では僕たちは常に当事者なのです。だから、当事者として僕たちが友達であることが、唯一の事実なんです。
たらればの話とか、ありもしない話は生産性もないのであまり好みませんが、その当時、当事者として必死に生きていたお互いの祖父は絶対に今の世の中を想像できなかったと思います。ましてや、孫が憎き敵国の子孫と仲良く酒を酌み交わすなんて夢にも思ってないはずです。その時、懸命にその状況を生きた人間がいるからこそ、彼らにとっての夢みたいな世界を僕たちは当事者として生きているんです。
そして、僕たちもまた今を必死で生きることによって、遥か未来の人間達がきっと僕らにとっての夢みたいな世界の当事者になっていくのです。
豊臣秀吉の辞世の句にこんなものがあります。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
露のように生まれ落ちて、露のように消えてしまう人の命は、まるで夢の中で見ている夢のように儚いのです。まさに人の夢とかいて儚いとはよく言ったものですね。
儚い命についつい感情的になってしまいそうですが、僕たちは過去の人の夢の中を生きてるんです。そして、未来の子供達が僕の夢の世界を生きていけるように、僕は今日もまた頑張って、明日もまた希望を持って頑張らねばいけません。
こういうことは人の親になってから言わないと説得力がありませんが、、明日からもまた頑張りましょう。ってのが今日のまとめです。駄文を長々と読んでいただきありがとうございます。それでは、おやすみなさい。
おわり
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