ファン復帰してやっと私を取り戻したのでありがとうと各方面に言いたい

ドリカムの新曲「YES AND NO」を聴いてから1ヶ月のなかで、私は様々なひとたちに助けられてドリカム復帰ができた。

ばたこさん「私はドリカムが聴けなくなった」というnoteを拝読したことがとても大きな出来事であった。ずっと遠ざかっていた自分とドリカムとの距離。同じようなときに体験されている方がいて、才能あふれるユーモアある文体でかかれたnoteは、それを読んだ日から私の頭のなかで繰り返し繰り返し思い出されていた。ファン特有の辛さ、とくに「結婚をしてもご祝儀も包めない」のところに、共感した。いてもたってもいられなくなり、はずかしながら、筆者に連絡をとり、感謝を伝えた。優しい返信をくださり、筆者への返信のようなかたちで「ドリカムとわたし」というnoteを綴る。あまりに文章に影響を受けていて申し訳ないと思いながらも、素直に綴っていくなかで、一種の癒しを得たように思う。

書き上げてからは、自分の楽しいと思える時間を、新芽のように大切に育ててみようと意識している。もう大丈夫、わたしは私を許せる。幼子を育児中で睡眠もままならないけれど、なんとか時間を捻出してドリカムにあてるようになった。

最初は自分でも信じられないほどぎこちなく「何に魅力があるのだろう」と考えながらの接近だった。それがいままでとりこぼしてきた10年の、ワンツアーごとに追っていくうちにほどけるように聴く体勢が変わっていく。自然に息ができる、自然に口ずさめる。

ワンツアーごとに追う中で今から約10年前のライブ映像を見ているとき、ぱちんと私のなかのドリカム器がいっぱいになって、こころが溢れだした瞬間があった。

「あっ、このかんじは、あの頃夢中だったときに感じていた状態だ」とはっきりわかった瞬間だった。

ずっと聴きたいと思っていたのに聴けなかったドリカムは、人生に失敗した自分を許せないことへの間接的な拒否反応だった。10年間ずっとその感じを思い出すこともなかったし、失ったことさえ気付いてなかった。

いまは、脳内麻薬のようなものが溢れて、何をみても幸せでしかなく、ちょっとこわいくらいだ。そのこわさは、また以前に経験したドリカムとの距離感に気付いて、はっとしてしまうこわさも含んでいる。が、おそらく大丈夫だろう。今はドリカムとは関係のない私の日常があり、育てている家族もいるから。それは比べようのない幸せである。ドリカムから受け取った幸せをドリカムへ還元しようとしていた過去の私ではない。

ドリカム復帰を果たしてから、私はずっとなりたいなと思っていた「ニコニコ優しくていつも歌をうたってくれるお母さん」になっていた。気付かぬうちに。私の自己肯定力が低いために、ピリピリしがちだった家庭内の空気が自然にゆるんでいた。この1ヶ月で、自分でもとても素直になったと思う。なったというか、小さい頃に戻ったというか。

1ヶ月でまるきり違う人格と日常を得た。

私にとって楽だった自然な自分に戻れた。ドリカムありがとう。ばたこさんありがとう。

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