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都市雑感 #1 戦略的黙認か、小さな積み重ねか

先日この記事を読んでからずっともんもんと考えていたこと。“公共”空間の活用促進について「面白いことは面白いとこからしか生まれないから、諦めてじっと見守るのが最大の支援」と考えるべきか、「日本らしく関係者巻き込みながら小さな事例を重ねる」と考えるべきかって話です。

http://heapsmag.com/tactical-urbanism-guerrilla

記事で掲げられている“Tactical Urbanism”をとても雑に要約すると「行政に頼らず市民自らゲリラで活動し、一定の支持を得たものを行政も追認してサポートする」というもの。公共空間に限らずの話。
以前から「都市をハックする」なんてことをずっと考えていたんですが、それにつけ気になる事例ってのは当たり前だけど自然発生的なものばかり。この記事に紹介されているもの然り、Park(ing) Day然り、Restaurant Day然り、72 Hour Urban Action然り。


http://parkingday.org/
http://www.restaurantday.org/ja/
http://heapsmag.com/72hua-guerrilla

経緯は不明ですが、活動当初から行政の許認可を得ていたものは少なそう。でも結果としてその放置?黙認?があったからこそ活動は大きくなっていったんじゃないかなと勝手に推察。これらが仮に行政との事前協議を経て合意のもとやっていたら、もっと別のカタチに収まっていたのではないかなと勝手に考えています。

もちろん日本では行政と手を携えて動きつつある事例もあります。(丸の内、新宿、池袋etc.)

http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/…/…/pdf/wg_douro_05.pdf

これを実現するだけでも相当の苦労があるのは理解しているし、アクションを起こすことはとても尊いです。しかし御幣を恐れずに言えば類似事例の焼き直しの域を出ないし、仮にこの空間で想定と違う活動が始まったときそれを許容できるのか。そういった意味でも前述の海外の事例に比べるとどうしてもダイナミズムに欠けてしまう印象です。枠の中での創造しかできない。

その大きな要因の一つが市民の“公共”の捉え方の差だと思うのです。
語りつくされている議論ですがやはりそこに行きついてしまう気がします。つまり先行事例では“公共空間=みんなで使う空間”であり、使う人全員がそれぞれに責任を負うし、自分たちの意思でやろうという姿勢がある。一方日本では“公共空間≒行政所管の空間”という意識が強く、市民の自治意識が弱い。何かあればすべて行政の責任という考えになる。それにおびえて行政側は予防策を張り巡らせる。そしてそれは行政だけでなく、大規模開発によって生まれた空間(公開空地など)もまた然り。何か活動が芽生えても一人の反対意見が千人の賛同をかき消してしまう。そんな差を感じています。

スケボーパークがつぶされた事例
http://goo.gl/jadKnw
ダンサーの練習聖地化している安田ビルの事例
http://dews365.com/special/yasuda-chui.html

そこでようやく冒頭の問いに戻ってくるのですが、これが皆目見当がつかんのです。個人的には「もっとゲリラにやっていこうぜ!」なんですが、先行事例を右向け右で真似すればよいってワケでもない。なぜならここは日本だから。上記のような日本人の意識はそう簡単に変えられるわけもなく、であれば、関係者とひざ詰めで合意形成しながら一歩ずつというのも分かる。でもそうするとお行儀よく小さくまとまって形ばかりのコウキョウクウカン活用になってしまうのではないか…。なんて思考が堂々巡り。かつ、ここまでの僕の見解は実際の事例を見たり現場の声を聞いたわけではなく、基本は二次情報での解釈でしかない。。。
・・・で、ここまで引っ張っておきながらなんと結論はありません。本当にすみません。でも、こんなことをずっとダラダラ語る飲み会があってもいいかなと思いました。笑

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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