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Cift #9 ~仕組みを作る側と受ける側 それは政治に似ている~

■意思決定の方法

Ciftが活動を始めて約一年。ちょっとずつ仕組みができてきた。その一つ、大きなものとして挙げられるのが、意思決定方法の構築である。

・月1回、意思決定の場(リアル+オンライン)を持つ
・そこに上程する議案は事前にリアルの場で議論
・そのうえで会議前に議案をオンラインで提示
・会議までにオンライン上で議論する

詳細までは割愛するが、メンバーの多くが多拠点生活を営み、一堂に会する機会がほぼ皆無と言う環境でもワークするように、かつ、今後Ciftの規模が拡大したとしても(恐らく)耐えうる構造として構築された。

なぜそのようなものを作ったのか。
Ciftは価値観でつながる拡張家族ではあるが、別に仲良しクラブというわけではない。目的を持ったコミュニティであり、そのために様々なアクションを生んでいく。そこで全体として動いていく時、完全な無秩序なままで動いてしまっては、それは「全体」ではなくなってしまう。だからこそ仕組みが整えているのだと、私は捉えている。

しかし、率直に言って窮屈になってきた。


■理屈は分かるが窮屈

意思決定の仕組みが必要であることは分かっている。そしてそれに基づいて決定された事柄が必要なことと言うのも分かっている。けれども、感覚的には窮屈なのだ。居心地の良い原っぱが、ちょっとずつ狭められていくような、そんな感覚。

意思決定のプロセスにおいて、その情報自体は開かれている。気になれば覗きにいくことも可能である。さらに関与しようと思えばいくらでも出来るのである。

しかし、日々の暮らしにかまけていると、これらの情報は瞬く間に目の前を流れ去っていく。主体的に関与しようとしなければ、どんどん置いていかれる感覚に陥るのだ。そうして意思決定された事柄に自分事感はなく、ただ義務感と窮屈さだけが残る。
(こうして文字化するととても自分勝手な感覚であることを再認識する…)

これは「政治に無関心な人が世の中に不満を言う」それに近い構造にも感じる。


■政治との相似

構造とは、こうだ。
日本において国民は政治に関与できるための仕組みは(一応)整えられている。しかしその仕組みにあまり関心を持たず、主体的に関与しない。けどそこで決定された事柄に不満は残るという状況。(例えば私の場合、年金制度が積立式ではなく賦課式であることに不満があるが、あまり選挙に向き合わない、など)
このような図式が、まさにいま私がCiftの意思決定に感じる窮屈さと同じ構造なのではないかと。

しかし日本という1億人を抱える集合体での仕組みならまだしも、Ciftと言うたかが50人程度の集合体においてこの状態である。自分の意思が全体へ反映される度合いで言えば、日本の政治のそれに比べ圧倒的に手触り感のある規模感であるはずなのに。。。


■窮屈さを打破するには

そのような具合で自分勝手に窮屈さを感じているこの状況をどう打破すればよいのか。課題は二つあると思っている。

一つは主体性である。これは至ってシンプルで、いかに全体のことを自分事化できるか、これに懸かっている。シンプルでありながら、言い換えれば「主体的全体」、是即ちCiftのコンセプトそのものでもある。

もう一つは仕組みの洗練である。この仕組み自体、まだまだ発展途上。かつ、オンラインでの議論はどうしても文字中心になりがちである。文字が苦手な人には苦しい。さらにはこのプロセス自体、どうしても理性中心というか、ロジックが全面に出ることが多く、温かさ?のようなものが足りていない気もする。いずれにせよ、まだまだ改善の余地はある。

そんなことを感じながら、でも仕組みがこうして構築してチャレンジしていること自体に、敬意を払い、また向き合っていこうと思う。

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