【再読】染野太朗の第三歌集『初恋』の

ありがたいことに、わりと日常的に歌集の再読機運を得ることが多くある。実際に再読できる場合とか、再読した結果やっぱり所感は変わらなかったりとか、まぁいろいろはあり。もちろん、ふつうに機運を逃し再読できない場合もあり。

という感じで今、再読した染野太朗の歌集『初恋』があり、みんな既に通読はしてると思うけど……っていうつもりで、このテキストがあるとして。

やっぱりなんだよなぁ……と思うところに、
なんか、ずっと過去の話みたいな列挙に見える
というのがある。それは、恋バナ(が、歌集収録作の全てではないだろうが)の読み味・抒情としては、ものたりなさがあるんじゃないだろうか。
良く言えば、抑制と冷静さがある。と言えるかもしれないけれど、意味内容にマッチしているのかは判然としない。臨場感みたいなのは特にない、自身の入院に際する「尿 濃い」二十二首においても(自身の入院に際してだからこそ、の可能性もあるが)同様にない。
歌集には、時間の経過と生活の変化があるのに、ある統一した意識が通底されている。というのが、
なんか、ずっと過去の話みたいな列挙に見える
という要因の一つにあるかもしれず、その「ある統一した意識」は何か、というアプローチがあるかと思うが、しかし完全に統一された意識があるわけでもないんじゃかいかとも思う。ゆうて気分みたいなのの差はあるし。
恋バナ(が、歌集収録作の全てではないだろうが)の読み味・抒情としては、ものたりなさがあるんじゃないだろうか。というときに、そもそも出来事としての恋バナがしたいわけではなく、恋バナを短歌にする営み・歌集にするときの過程みたいなところに着眼するといい余地があるのは分かるんだけど(第二歌集『人魚』も、同様の余地があると思う)

あるいは、
一人ですること/他者とだからできること と、その間
みたいなところのバランスに、歌集の特徴の一つがあるかもしれない
とは、今回の再読で思った。

   ▽

なんか、ずっと過去の話みたいな列挙に見える
というのを気にし続けて読むけれど、

柿の実のよつつパックのゆたかさを分け合ふひとのあらねど買ひつ
柿の実のよつつのうちのただひとつ食べて足らひぬみつつを捨てつ

の並びで、内容上の展開に「やっぱりね……」と思い受容するには、些か難易度の高さがある。
たとえば、

博多駅阪急地下に泣きやまずごばう天うどん啜る春なり
会ひたさも嫉妬もやがて失はむさうして夏が輝けばいい
〈こむらさき〉に熊本ラーメン啜りたればよろこぶ喉の冬のゆふぐれ

あたり、一首に乗り切ることが(まだ)できない。

ドトールでアイスコーヒー飲みをれば父のごときの怒りてゐたる
感情を怖れるけふのドトールのひとりにひとつづつの椅子にて

ドトール。
(実際には、もう一首ある)

うれしくてなんべんひとに言つただらう生年月日の同じなること
嘘くさくなるがかならず言ひそへる血液型も同じなること

の並びは案外、功を奏している。

水切りに興ずる人を見下ろして真夏の橋でぼくはとどまる
どこへ向かふ人かわからずけれどみなどこかへ向かふ夏のゆふぐれ

この並びなんか、なにかメタファーがあるかとも推察したくなってくるんだけど、べつにメタファーとかないんじゃないかとも思う。同じようなこと、歌集を通して思う。
メタファーとかメタファーではない部分とか、ではなく、とはいえ具体的なことは歌集を通して多くあり、一方で具体な故に分からない部分/見えない部分も過多にある。
それなら、メタファー的な偏りで何かありそうなのは「肺魚」の十首。
分かるからこそ、無邪気さみたいなところに「もうちょっと、どうにかしてくれ……」って感情になる(こちらを、こちらの感情にさせる)のは「つよくなつた」二十六首の前半。あと、旅行詠っぽい「Ⅳ」章にも。

〈kona〉といふ美容室にて切つてもらふ薄毛気にしてますとまづ告ぐ
ぼくよりも十歳くらい若からむ山口さんに髪切つてもらふ
佐賀インターナショナルバルーンフェスタには行かなかつたと山口さんに言ふ

一首目の「ますとまづ告ぐ」まで、でいいじゃん。と思う二首目も、しかし三首目があるなら必要か……と思い直せる、みたいなことばっかりだ。と思う、この歌集は。

福岡に引つ越した日のラーメンの旨さを超えるラーメンがない

まぁラーメンに(限らず、食べ物に)そのものの味だけではなく、そのときの感情が付随して味わっているのは分かる。分かるが、福岡に対して随分な言い草だ。

空港のフードコートにひと満ちて食欲はあかるし春のやうにあかるし

初読時でのチェックが付いていた一首。

ストローをせり上がりくるコーヒーの見えざる黒きストローなれば
ストローでホットコーヒー吸ふやうなさみしい恋もとうに終はつて

ストロー。

ひとをおもふことがそのまま罰だつたぼくを罰するためにおもつた

歌集も終盤に近く、しかし全く同調することも、感情移入することもできない。それは逆に、歌集側からの同調圧力はない。感情移入させられるってこともない。
というのは、微妙にミスリードで「Ⅵ」章で急にセンチメンタルな気分が出てくる/出してくるじゃん。
ぼくを罰するためにおもつた……思おうとしている?というのもあり、急に、まとめに入ったな?って警戒もする。
なにを急に(自分だけ)楽になろうとしてるんだろう?

ひとの幸せを願へぬといふ罰ありきメロンパン口に乾きやまずき

来た。と思う、し、この「来た」は、どちらかというと好意的には受け取る。としても、やはり「罰」だなんて全く同調することも、感情移入することもできない。全く同調することも感情移入することもできないまま、歌集中二度目の「罰」に、些か大仰な言い方に笑ってしまいそうにすらなる。
(別に、肯定してるとか許してるとか、そういうんじゃなく)

この「罰」って何だろう、というアプローチもあるかもしれないが、それにしては自己完結的すぎる歌集ではないだろうか。少なくとも、歌集だけで楽しもうとするには。あるいは、歌集のみで楽しむなら楽しめるだろうか。
あと「まひる野」価値観で読めたら、かなりいいんじゃないかって説もある。

初読時より(初読時から二度目の通読なわけではないけど)所感は増えた再読だった。
こういうバイアスの所感でいいのかは、ともかく……でも、一首単体で読みたい気持ちがあっても、なかなか一首単体で読みどころが多い歌集ってわけでもない気がする。

(終わり)

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