見出し画像

ムッソリーニの墓

🏍️仲間の友人が「バイクで出かけよう。MugelloのBarで待ち合わせね。」と携帯で

食事は🏠で済ませ、友人と午後カフェをして
もう1人の友人を待ち
美味しそうなスキアッチャータのサンド
🐶可愛い😍暑いワン
ロシアシープドック
露Kavkazskaja Ovtčarka
伊pastore del Caucaso
オオカミ、チベッタンマスティフの血を引く。
牧羊犬、番犬、護衛犬。
いざ、出発。
「着いてからのお楽しみ」ってミステリーツアーかい?
どこに向かっているかは知らされず、友人の後を走る。
途中、自転車グループ通過の為、しばらく足止め、要約通過して再び出発!
Tour de Franceのおかげで道が舗装されてる。
2024年大会が33回フランス5輪に影響(パリでオリンピックが開催されるのは1900年、1924年に続き3回目。100年ぶり。パリを中心に開催される大会では、32の競技のあわせて329種目におよそ1万人の選手が参加)を受けて、隣国フィレンツェ開幕地に選ばれ(111回の歴史上初めて)、6月27日は、フィレンツェpiazza Michelangelo で開催式。29日にフィレンツェを出発🚲フィニッシュ地点がパリ・シャンゼリゼではなく、フランス南東部ニースなのだそう。
6月29日(土)第1ステージ フィレンツェ〜リミニ
205km photo:A.S.O.
San Godenzo ,DicomanoはMugello エリアなの。
6月30日(日)第2ステージ チェゼナティコ〜ボローニャ 200km photo:A.S.O.
7月1日(月)第3ステージ ピアチェンツァ〜トリノ
225km photo:A.S.O.
穴ボコだらけだった道もこんなに綺麗!
黄金色の麦稈ロールが畑に転がるこの風景👍
小麦の収穫で穂と残りの茎部分に分け、残った茎部分を集めて特殊な機械でロール状にして干し草ロールにする。このロールは牧草の無い、冬の間の家畜のベットやエサとなる。
アンティークなponte Nouvo
低いアーチ型の石畳みの橋。 16 世紀前半に崩壊し、跡地に 1600 年頃に建てられた。 ラビ川が岩を削ってできた入り江に流れ込み、轟音を生み出す癒しスポットでGrotta Urlanteと名付けられている。以前はトスカーナ州だったこの地は、ムッソリーニがエミリアローマニャ州に入れたエリア。ポー川北部、ポー川流域を中心に各地で暴力で敵を倒して、勢力圏を広げ、コムーネごとに1つずつ陣地を増やしたそう。
辿り着いた先は、
エミリアローマニャ州Predappioのムッソリーニの墓よ!
えっ?お墓?私は「墓マイラー」でないのだけど.…。
ムッソリーニは、ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県プレダッピオ市ドヴィア地区で1883年7月29日に北部フォルリ近郊プレダッピオ村で鍛冶屋の父と小学校教師の母の間に生まれた。父の影響もあり、社会主義者として頭角を現す。しかし第一次大戦の勃発と同時に愛国主義者へ転身。 大戦後の混乱中、ミラノの結成「戦闘ファッシ」がファシスト党へと発展。1922年のローマ進軍によって権力を握り、イタリア首相に就任…..。
詳しくは↓

ムッソリーニが銃殺された1945年4月28日の命日には信奉者が集まり追悼集会が開かれる4月と、ローマ進軍の記念日にあたる10月末〜11月初旬の週末は、プレダッピオのムッソリーニ墓に6000人以上の人が訪れるそう。

残忍な独裁者と語られることが多い一方、
彼を英雄として崇める人たちも多いイタリア
正面建物霊廟の地下に家族とともに安置
ベニート・ムッソリーニの墓。
ファシズムの創始者(ドゥーチェ=総領と呼ばれていた。)
ムッソリーニは勇敢で大胆。 組織を動かす手腕があり、知的で決断力に富んでいた。ヒットラーに影響を与えた独裁者。1929年イタリア国家とローマ教皇庁の和解協約締結、カトリック教会を「国の宗教」と認めることでイタリア国家と教会との対立解消、リソルジメント(祖国統一)が終結するなど今に繋がる体制を築き上げたことや医療費、学校無料の制度をつくったことにも注目。「バリッラ」と呼ばれる青少年育成組織を創設し、ファシズム思想を子供たちに行き渡らせることに力を注いだ。このシステムはドイツや日本にも導入。1928年日本の白虎隊の話に感銘を受けムッソリーニは、 古代ローマ時代のポンペイ発掘宮殿の石柱を寄贈。 隊士の墓の傍らに記念碑建立。1940年五輪開催地にローマ開催を、東京に譲ったのは彼の親日感情だとも言われている。
こちらはムッソリーニの奥さん、ラケーレ氏の墓
農家の娘として生まれ、ムッシリーニと出会い1910年1月からフォルリでと同棲。娘のエッダをもうけた。1914年にムッソリーニは、イーダ・ダルセルと結婚するが、ムッソリーニは政権獲得後にこの経歴を抹消。彼はイーダに生活費を与えていたが、彼女との息子ベニート・アルビーノの存在は無視。ラケーレとムッソリーニの間にベニート・アルビーノが生まれる直前の1915年12月17日にロンバルディア州トレヴィーリオで結婚式を挙げ、彼がローマ進軍で政権を掌握した後の1925年には2度目の結婚式をカトリック式で挙げた。ベニートは多くの女性と関係を持っていたが、ラケーレは意に介すことなく、彼との間に5人の子供をもうけた。 ムッソリーニ政権成立後、ラケーレはファシズム下の模範的な妻・母と見なされる。彼女はムッソリーニに忠実だったが、第二次世界大戦末期の1945年4月28日に彼の処刑時、側にいたのは愛人のクラーラ・ペタッチであり、ラケーレではなかった。ラケーレはイタリアから脱出を図ったが、同年4月にスイスに近いコモで逮捕。彼女はアメリカ陸軍に引き渡されてイスキア島に拘留されたが、数か月後に釈放。 ムッソリーニの死後、ラケーレは故郷の村でパスタ料理店を経営し暮らした。また、晩年にはアルバート・ザッカーとの共著でベニートの伝記を出版した。
ムッソリーニの長男、ヴィットーリオの墓
ファシスト政権期は弟ブルーノと共に空軍のパイロットとして参加。映画監督としても活躍。
戦後は映画事業に関わらずに静かに余生を送ったそう。
次男、ブルーノの墓
ムッソリーニの息子の中で唯一愛人との間の子であるアルビーノを除き、戦時中に亡くなった。 幼少から航空機に興味があったブルーノは兄ヴィットーリオと共に空軍パイロットになるが、1941年に若くして事故死。
三男、ロマーノ氏の墓
政治に関わる事無くジャズピアニストとして生き、ソフィア・ローレンの妹アンナ・シコローネと結婚、娘アレッサンドラを設け。 アレッサンドラ・ムッソリーニ(1962年12月30日生まれ。イタリアの政治家、女優、医師。昔日本で歌手だった事実。しかも日本語で歌ってる。アルバムAmoreから)の父。現在母アレッサンドラ・ムッソリーニと父マウロ・フロリアーニの第3子ムッソリーニのひ孫のロマーノ・フロリアーニ・ムッソリーニはサッカー選手と血縁が残る
次女、アンナ・マリアの墓
幼い頃は病弱。戦後はRaiラジオ局で働き、エンターテイナーとして有名になった。 俳優ジュゼッペ・ネグリと結婚し、娘エッダを儲けた。 エッダも同じムッソリーニの孫娘のアレッサンドラ同様に政界進出。ジェンマーノ市長になる。アレッサンドラはネオ・ファシスト系政党だが、エッダは自由主義系政党。 ムッソリーニの長女エッダの墓はここには無い。何故なら、RSI政権期に夫ガレアッツォが処刑された際に、父のムッソリーニと決別したから。
長男ヴィットーリオの息子グイードの墓妻オルソラ・ブヴォーリ、二人の娘マルチナ墓も有り。 グイードはローマのチーズ工場に勤めていた。その娘マルチナはベネズエラで実業家として活動。マルチナは反マドゥロ大統領の政治活動家でも知られていたが、2016年に若くして亡くなった。
母ローザの胸像。カトリック信者
プレダッピオに小学校建設時に赴任した教師で、教育環境向上を訴えて小学校建設に協力。アレッサンドロと出会い結婚。イタリア王国習慣の民事婚と教会の結婚式を二度した。
父アレッサンドロの胸像。無神論者
父は、生計の為鍛冶屋で働くが、独学で勉強し、プレダッピオの市会議員や助役も務めた。社会主義者の父の影響を受けたムッソリーニは、社会主義的考えでありながら、イタリア統一を進めるガリバルディやマッツィーニらの愛国主義、共和主義にも傾倒して行くが、目指したものはヨーロッパの国々からイタリアを守り、国を強くして行く事にあったのだ
墓内に敷地内
プレダッピオの街
プレダッピオのサン・カッシアーノ聖堂
ムッソリーニの生まれ故郷であり、
生家などゆかりの地が残されている。
デポカのバイク!
ひまわり🌻の花が綺麗に咲いていた🌻
帰りはもと来た道に戻らずイモラ経由でフィレツォーラからトスカーナ入りしてフィレンツェへ
イモラのサーキットコースを通過
塀の向こうが見たくて、鎖のついた扉の隙間から中を
扉の中は
葡萄畑が広がる!
暑い🥵
フレッシュな山間入り涼しい
強風でバイクがゆらゆら怖
自然って👍
トスカーナ入り!
しばしばアペリ休憩!
フィレンツォーラのPietra serena 
自然石で ルネサンス建築、彫刻でよく使用の由緒ある石。
グレー砂岩
ジネストラの花と黙々の雲
お城🏰だね
まもなく陽が暮れる
🏠到着20:30
著名人のお墓でも、あまり行きたくない私だが、
そのおかげでムッソリーニについて少し学んだ。
お墓までの行きと帰り一部トゥールーズフランスの
コースを含むバイクで走ったコース最高だった♡


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?