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不可視な領土 諸論

tele- vol.2 2023 spring / summer 特集:散歩』の特集企画「散歩談会」に掲載された文章です。

座らない。散歩する。そして話す。だから散歩談会。
ごくシンプルな発想から名付けられたこの企画の源流は、ある散歩にあります。 創刊号の完成後にメンバー何人かで集まってランチをし、話が尽きなくて、近くの植物園まで少し歩きました。「同じところを歩いてるのに、見てるものが違うんですね」とひとりが言い、同じ道行きがちがう体験になる、その不思議さに心惹かれて、もう一度、みんなで歩いてみることにしました。 舞台は武蔵野。昨夏、「ことばの学校」第一期の修了作品展を行った SCOOLを出発し、あちこち寄り道しながら玉川上水をたどって「遠く(tele-)」へ。
重なり、ずれて、広がる、それぞれの散歩の景色をお楽しみください。

『tele- vol.2 2023 spring / summer 特集:散歩』「散歩談会」より

 三鷹のハンモックカフェで岸田と落ち合う。ビルの2階にのぼり、店内に入ると漫画の書棚があり、スラムダンクを眺める岸田がいた。ハンモックに座って、コーヒーを飲みつつ岸田とシーシャを吸った。彼は最近文学よりも漫画を読んでいるらしい。『凪のお暇』の話になったりしていた。ハンモックに揺られながらシーシャを吸っていたら、藤野さんから岸田に電話がきていた。先に集合した人たちよりも案外遅れていたため、イベントスペース、SCOOLがある商業ビルまで急ぎ、合流する。合流したメンバーと玉川上水まで向かう。三鷹駅北口から続くいっぽん通り、そういえばここは去年辺りに展示の撤収後、歩いたっきり通っていない。展示のための印刷で何度も通ったパレットプラザは改装中。一旦、そこには存在しない。そんな想起をしながらいっぽん通りをそれ、玉川上水に辿り着く。そこから少し歩くとすぐそこに耳鼻咽喉科と内科が付された病院をみつける。その病院の建物がフロアとフロアを登る階段の側面を壁面として見立て、縦縞のソリッドがある。そのソリッドはコンクリートの凹凸によって構成され、建築家の設計理念がある様に思われた。建物の柱も壁面として見立てられ、骨組みとしてみえない。それは柱に光を反射する縦10cmと横18cmのタイルが埋め込められ、貝の内側を彩るような色彩が備わっていたからだ。その建物に耳鼻咽喉科と内科の名前だけが付されておりとても印象に残っている。それを横目に玉川上水を歩いた。その先に新設された公園の開会式が30分後にある。私は、道からそれて、高架下のうどん屋で舞茸天うどんを立ち食いする。向かいにうどん製造機がありSHINUCHIと書かれている。そこからドンキ、井の頭公園、新設された公園の順に私は歩を進めてしまう。寄り道に寄り道を重ね、公園に入ると地面が歪む。この歪みは昭和記念公園にある遊具に思えた。昭和記念公園の遊具は地面がゴム状のもので支えられ、歪みが遊具となっていた。その歪みと高架下の歪みはどこか異なる。この歪みは一定した機能を持っている。それは、怪我をさせてはいけないという保護者の視点だった様に思えた。あえて大袈裟にいえば、この視る/視られるの関係から設計される公園は監視的な意味も込められている。公園は家族連れで溢れかえっており、フェンスが高架下に設けられており、高架下に何故設置されたのか。こうした描写をここまで書いてきたけれども、この描写は帰りにスマホでメモをしてきた話となっている。ここからは後日談。となるともう少し混ぜて書いてみよう。1回目に書いた小説は分析美学をディスクールに基づいた書き方とは異なる書き方で書こうとした目論見であり、散歩の話ではない。たまたま2人で歩く話となる。そして2回目は冒頭の描写に結びつくのであるが、そこからどう展開できるのだろう。最後にこの散歩に参加する前に読んだレベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』について触れたい。本書ではポストモダニズム以降のポストコロニアリズムという視点から、〈ポストコロニアリズムとしての移動〉について語られている。筆者である私は哲学者、ルソーの徒歩旅行を紐解く姿勢から、西洋の哲学を再解釈する試みの様にも受け止められた。話を飛躍させると〈ポストコロニアリズムとしての移動〉について考えたとき、ジェイムズ・クリフォードの『ルーツ 20世紀後期の旅と翻訳』が思い浮かぶ。ここでも移動とそこで繰り返される誤訳も含む翻訳について、植民地や未開の土地での日記や散文に触れつつ書かれており、西洋の中で〈移動する〉という文脈自体が翻訳とセットになると解釈できる。そのクリフォードの言説よりもソルニットの本では西洋の立場から捉えた歩行、といった印象を覚えた。特に第2部では人工的に作られた庭園を周回する身振りから未開の土地へのまなざしとは異なる。確かに宗派によって入れない土地についての記述もあるが、どこか文学的な記述からもクリフォードと異なるのはソルニットの文献故だろうか。詳しくは本にあたって是非、実見してほしい。そうした言説に触れた上で玉川上水での私の歩行に戻そう。宗派によって歩けない空間もなく、あまりにも歩きやすい土地。一方、可視化されていない人や場があるとも考えていた。例えば、地方での散歩について考えたときに分かりやすいが、関東平野のはずれの方についてはどうだろう。歩道も整備されていない山奥や開けた原野を散歩したとき、まったく異なる描写とそこでのやり取りが発生する。それは畑に直売所とコンクリート製造工場が配置された環境かもしれない。こうした〈異なる土地での散歩〉をめぐって筆を滑らせたい所だが、紙幅が尽きてしまった。その描写について思いを馳せながら、他日を期したい。

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