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びたみん、あーと。

 先週。コロナワクチンの2回目を打った。1回目を打って思った事は、身体が熱くなり、別のものが身体の中に入ってきた感覚が拭えないところである。職場の先輩からは、「コロナワクチンを打っても意味ないらしいですよ。防御線貼るだけで根本的な解決ではないですよ。」と言われている。そう、この「コロナワクチン」と呼ばれるものが私にとって、一種のビタミン剤みたいなものなのではないのかとも考えるに至る部分が多々あった。

 「ビタミン」と呼ばれるものは、日々の食生活で摂取できるものではある。しかし、「これにはこのビタミンがありまして、これが貴方には足りてません。」と言われてしまう事で、日々の生活が別軸から批評されている様に感じてしまう。このコロナも同様に、批評軸として形のあるものでありながらも表面的には見えない。確かに、東京都のコロナの発生人数は日に日に伸びており、これでは誰もがコロナに1回は感染していると考えてもおかしくない数値になっている。そこには、実際にかかっているのか分からない人でさえもかかっている様にみえてしまう変わった風景があるが身内にかかる人が現れない限り、危機感は日に日に薄れる人もいる。この風景の差は、一体どういったものなのか気になった。これは、ひとつの文字から人々が想起させるイメージの差に近いのかもしれない。

 美術家、河原温はコンセプチュアル・アートの代表的な作家として知られているが彼の日付絵画は、文字からその日の日常を想起する鑑賞体験があり、作品から膨らませるイメージは、鑑賞者によって夫々異なる差異が発生する。ある人においてはそれが個人的な物語でもあり、ある人においては社会的な大きな物語を想起する作品となっている。

 さて、ここで改めて「ビタミン」の話に戻りたい。「ビタミン」は日々の栄養であり、それが足りているのか足りていないのかによって差が生まれるが数値で表現されても身体に変化がある様に感じる人とそうでない人がいる。日付絵画の場合、身体的なものよりも数値から様々なイメージを想起させるが、「ビタミン」の場合、数値や錠剤の個数よりも身体の感覚の方が分かりやすい。ところで、私は2回目のコロナワクチン摂取によって身体が熱くなるという作用が出た。この「あつさ」は、実際のところコロナワクチンによるものと解釈する必要性がどれだけあるのか。これは実際、ないのかもしれない。

〈参考文献〉
ミシェル・フーコー『これはパイプではない』

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