夜を行く


拝啓、わたし今、夜行バスに乗りながらこの文章を書いています。22時15分バスタ新宿発なんとかライナー701号、目的地は京都。目的はいまんとこなし。都路里本店限定メニューのピスタチオかき氷がちょっと気になるな、とか、せいぜいそれくらい。夏休みなのに片道2000円くらいで行けそうで嬉しいな、と思っていたのが1週間前、購入を先延ばしにしてたら倍以上に跳ね上がって大いに落胆したのが昨日。で、今日。

夜行バスの中ってなんだかいい文章が書けそうだな、と昨日思いついてネタを探していたんだけど、べつだん思いつかなかった。それに微妙にねむくって、いい文章なんかまったく書ける気がしない。300文字も書いてない今の段階で、既に支離滅裂になっていることを自覚している。でもいいや、私もともといい文章書くタイプじゃないし。好きなことを書くのだ。思いついたことを。

夜行バスの中ってなんだかいい文章が書けそうだな、と思ったことに根拠はまったくないんだけど、実際に乗ってみると、いい文章が書けるかはともかく夜行バスって結構ぼんやりと考え事をするのに向いている、あるいはしてしまいがちな環境だなあと思う。

真っ暗ではないけどほんのり薄暗くて、隣ではまったく知らない誰かが無防備にもねむっていて、だから自分も自然と目を閉じて、視覚以外の感覚が敏くなって、まあマスクしてるからにおいと味はしないんだけど、不規則な車体の揺れを感じて、エアコンの音と車の走る音を聞いて、あれ、五感ってあとなんだっけ? これだけか。こういう外の世界を感じているうちに、次第にそれを感じる自分の感覚自体に意識的になり、自分自身に意識的になり、そこからとりとめのない思考が生まれてくる。だいたいは、なんらかのトリガーによって。

雨が降ったらあることを思い出す、みたいに、絶対に今後目にするであろうものに何かが刻まれちゃうのってめちゃくちゃ業が深いじゃないですか

以前書いた『吐いて捨てる』にも登場した、友人Cちゃんの言である。私は彼女の思考・言葉をとても信用しているのだけど、今わたしが思っていること言いたいことを綺麗に代弁してくれていたのでそのまま引用させてもらった(100おくまんちょうえんの使用料を請求されたが)。

彼女はこういう記憶のトリガーのことを、よく「呪い」と表現する。それが良いものであっても悪いものであっても、強烈な引力を持つのなら、たしかに「呪い」といって差し支えない気がする。

私自身も、本当にたくさんの「呪い」に囚われているな、思う。

今こうして夜行バスに揺られている、こんなに少ない情報量のなかにも「呪い」があって、嫌な記憶がフラッシュバックして、過ぎ去ったはずの感覚をなまなましく思い出す。心臓がざわざわしてくる。喉がカラカラ渇いてくる。「呪い」の数が多ければ多いほど、辛くなる回数も多くなる。それこそ彼女のたとえである雨なんて、最悪の部類だ。

呪い、きっとそんなものに縛られないタフな人もいるんだろうけど、私とかCちゃんみたいな人間はまったくダメなタイプだ。なんでもかんでも感じて、考えてしまうから。良い悪いにかかわらずあらゆる出来事を無視できなくて、かじりついて考えてしまって、だいたいそういうのって答えは出なくて、難しいよ辛いよもう考えたくないよってアウアウ言いながらも考え続けることをやめられずにボロボロになっていく、自滅型。

そういう生き方ほんとうに不幸だし誰も得しないからやめたほうがいいってわかってるんだけど、私(たち)そういう生き方しかできないよねって、そうやって21年経った。

けれど、本当にごく最近のことなんだけど、すこーしだけ考え方が変わってきた、というか、違う考え方を意識するようになった。

きっかけは、Cちゃんと同じく『吐いて捨てる』に登場した友人の話だ。えーと、呼び名を決めてなかったな。引用許可取ってないから、Aくんでいいや。

Aくんは、自分を漢字一文字で表すなら「諦」だと言った。
いろんなことを諦めて、煩わしいことからは逃げてきた。そしてそうやって生きてきた自分は今、幸せだと。

私と正反対すぎて、かなりびっくりした。

私は自分が真に幸せで満たされていると思ったことは人生で一度もなくて、あれが足りないこれが足りないと思ってしまって、だからこそ上に行きたくて這い上がりたくて、いろんなことに執着を捨てられずに全身全霊で齧りついて縋りついている人間だから。

ふだんなら、「私はそういう生き方できないや、えらいね」で終わるところだった。
でも、私が今自分の人生を結構真剣に考えている時期だということもあり、自分の頑固さを欠点として自覚したタイミングだということもあり、何より私がAくんに全幅の信頼を置いていることもあって、“そういう生き方”ちょっと頑張ってみよう、と思えた。現状に満足して幸せだと思う、という感覚に、強烈に憧れたというのもある。

それから、暗い思考に沈みそうになったときは「やめやめ!考えても感じても仕方ない!諦める!」と無理やり追い払おうとするようになった。思考の内容によっては「自分に期待しない!」か「他人に期待しない!」が加わることになるが、とにかく「諦める」をキーワードに思考の中断を試みた。

すると、思考の序盤であれば、意外にも容易に頭をリセットできることに気付いた。
もちろん、一度振り払ってもまたすぐに頭に浮かんできてしまうことはあるけれど、そのたびに「諦める」ボタンを押すことができるようになった。

「考えても仕方ないからやめな」「諦めも肝心」なんて耳が腐るほど聞いてきた一般論だけれど、Aくんの言う「諦める」には生きた中身があった。だからこそ、こんなにすんなりと自分の中に入り込むんだな、と思った。同じ言葉でも、時と場合によって受け取ることができる内容の密度はぜんぜんちがうのだ。

CちゃんにしろAくんにしろ他の友達にしろ。
他人の言葉に生かされているな、と思う。
自分を咀嚼している人の言葉はたしかだし、その人が私を咀嚼したうえでくれる言葉は貴重だ。真面目な話を真面目にしてくれる友達が何人かいて、それぞれ違った言葉を投げかけてくれるの、本当にありがたい。
その言葉を自分のなかに取り込んでいける素直さは私にはまだ足りていなくて、そこが目下の課題点ではあるけれども。

人生って結構長いみたいだし、私という人間もそこそこ変わっていくんだろう。たぶん。その記録と思ったら、こんなとりとめのない文章でも意味があるのかもな。

こんなに長く書くつもりなかったのに、気付いたらいつも通り3000字くらいにはなってしまった。

5時間後には京都に着く。少し寝ます。

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