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【不定期連載】落書きの下書き #4、#5

#4. 属人性

浦和レッズとしてのチーム強化の方針は、クラブ主導での方向性の維持と継続的な取り組みを、個人ではなく組織で実現していくことを基礎に据えております。

(中略)

クラブの代表を務めている私も含め、現在浦和レッズに所属している選手、チームスタッフ、クラブスタッフはいつの日か必ず、このクラブを去る日がやってきます。
それでも、浦和レッズというクラブは残り続けます。
ファン・サポーターのみなさまが愛してくださっている浦和レッズというクラブを、みなさまが将来にわたって愛していただけるクラブであり続けさせることが、今、浦和レッズに携わるすべての者の務めです。

この考えに基づきますと、チーム強化は決して聖域としてはならず、属人的なものであっても、精神論に頼ったものであってもなりません。

組織での人の出入りは必ず発生するし、組織を構えるのであればみんなで同じ方向性を取れるように出来るだけ属人的な事柄が生まれないようにしたい。それは分かる。組織の中でルールや原則を定めて、みんなでそれに沿って、その枠組みに従って行動することで実現していくことになる。

ただ、属人性を徹底的に排除した状態というのは誰もが自分の代わりになれるということ。自分で無くても成立する状況ばかりになるということ。僕がそういう状況におかれた時には猛烈な虚無感に襲われるのではないかと思う。

属人性は創造性と結びついていて、属人性が高いということはそれを実行しているその人の創造性が発揮されている状態、属人性が低いということはその場には創造性は不要なのではないか。創るのではなく、既にあるものを実行するのだから誰がやってもそれなりのものにはなるということなのだろうと思う。

「それぞれが仕事にやりがいを持てるようにすることが大切」なんて言われたりする。「やりがい」とは何か。僕は「自分だからこそ出来ることをやっている実感」ではないかと思っている。目指しているのはそういうことなのかなと思う反面、属人的にならないようにしようと「その人だからこそ」を取り除こうとする動きもある。今正に僕はこの矛盾に挟まれている気がしている。勿論、属人的すぎると自分ががんじがらめになる可能性が高くなるから緩和させた方が良い面もあるんだけども。

自分だからこそというものを感じられない状態が続いたり、その状況が変わる未来が見えない時が今の組織を離れる時かなとぼんやり考えたりもする。もしかすると、西野さんも浦和のフットボール本部体制がある程度形になって来て、その中で自分だからこそというものを感じられなくなって来ていて何か違う場所で違うトライをしてみたくなったのかもしれない。


決められた枠組みを見事に実行することに楽しさややりがいを見出す人もいると思う。そういう感覚の人は属人性を排除してもやっていけるのかもしれない。あるいは、自分の志向を一旦置いておいて、枠組みに向き合える人もいる。

今の自分は原則や正論の枠組みの中に押し込まれていく感覚がある。ただ、千原ジュニア×立川談春の動画で「基礎は誰でも習得出来るものだからこそ個性が入り込む余地はない」という話があった。

僕が今直面しているのは基礎(プレーモデル)の修得の最中だからこそ自分自身を反映する余地が無い局面というこもだろうか。これをやっていった先には、今やっていることの上に自分自身を乗っけられるのだろうか。とりあえず乗っけられるようになると思わないとしんどいから乗っけられると思うことにする。属人性を排除した先に、とんでもない属人化が起きるのかもしれない。

守破離のうち、離は文字通り組織からも離れていくのかもしれないけど破の段階ではまだ組織にいるなら、それはその人の色が強く出るし、それはとても属人性が高そう。結局、組織は人が構成するものなのだから、各々が色々な局面にいて、何かが徹底されきっている状態にはならない。だから、極論までは考えなくても良いのかもしれない。


#5. 母語以外の言語

SNSでたまに「ヘグモさんにはノルウェー語の通訳をつけた方が言いたいことがちゃんと伝わるのでは」という意見を見かける。本人の母語で話せるからこそ、本人が意図するニュアンスも拾えるのではないかという考え方は理解出来る。

ノルウェー語⇄日本語が出来て、尚且つヘグモさんの話すニュアンスを掴めるくらいにフットボール理解の高い人を見つけられるのかということは難しいからどのくらい現実的か分からないよねというのはあるけど、そもそも僕らが思う母語と第二外国語の差異と彼らの思うそれとでは具合が違うのではないかと思う。

例えば英語とスペイン語にはある程度の類似性があって、スペイン語はイタリア語やポルトガル語とかも類似性がある。なので、英語が分かればそこから隣の言語に手を伸ばすことはそこまで難しくないのではないか。

でも、日本語と英語は全然違う。日本にいると最初に教わる第二外国語は英語になることがほとんどだけど、ここの隔絶具合に戸惑う人は少なくないと思う。単語も文法もその言語自体が持つ思考の枠組みもかなり違うので言語間の互換性はとても低い。だから、その感覚で母語と第二外国語の差異を語ってしまうのではないか。

世界的に見ればモノリンガルの方が少数派では?という数字を見たことがある。それが本当かは分からないけど、日本にいて思うよりもずっとバイリンガルやマルチリンガルは多いと思う。主要な言語は文法的に体系化されやすいものばかりなので、才能ではなく必要に応じて勉強すれば習得出来るものでもあるから。

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