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【不定期連載】落書きの下書き #1、#2、#3


#1. はじめに

何かを読んだり、観たり、聴いたりする中で頭の中にふっと浮かんでくる考えや感情があります。そういうものは後で思い出そうとしても何か足りないどころか手掛かりすら思い出せないこともしばしば。

こうしたことを無くしたいという想いからSNSを開いてはポツポツと投稿することがあるのですが、SNSにはこれが出来る手軽さがある一方で、過去の投稿をカテゴリ分けすることが出来なかったり、参照したい時に見つけにくかったりと言う難点があります。

また、無課金Twitterやthredsでは1つの投稿に文字数制限があって、自分の中で切りたいくない場所であっても分割しないといけない場面が発生することがあります。これが参照性をさらに下げている訳で。

なので、カッコつけて言うならエッセイみたいな感じになると思いますが、SNSに投稿するようなあれこれを一度ここに書き溜めて、賞味期限が切れそうになるか、ある程度のボリュームが溜まったら投稿ボタンを押下するということをやってみようかなと思います。

「不定期連載」とタイトルの頭につけたのは、浦和レッズを数年追いかけている方ならピンと来るかもしれませんが、連載と言いつつ初回以降発行されることのなかった土田尚史さんのコラムのように、このやり方も1回だけで終わるかもしれないけどまあいいかくらいのハードルの低さでやってみようと思ったからです。

ちゃんと記事にしようとすると、何か議題があってそれに対する結論を用意出来ていないとせっかく書いても物足りなくなってしまって、お蔵入り、あるいは下書きを破棄することすらあります。そこまでのものは無いけど何か残しておいた方が良いなというものを置いておける場所が欲しくて、でもそれは誰かの目に触れるかもしれないという緊張感の中で自律性も担保したくて、そうした微妙な立ち位置のものを置いておきたいなと思います。

まあ、そんな感じで、その時のテンションによって文体も文量も定まらないと思いますが、ゆるりと。


#2. スポーツが憂鬱な夜に第八夜

井筒「サッカー選手のセカンドキャリア文脈で、お金を払っている人は誰なのか知りましょうみたいなクラブのポートフォリオを知っておきましょうみたいな話とか。それって、そうじゃないんだよなって気がしてきてて。ハンナアーレントとか読んだ方が良いんじゃないって、そもそも仕事とかって何だっけとか。ビジネスの仕組みを知っておきましょうは違う気がする。なんか俺はしっくり来なかったんですよね。仕事とは何かとか考えた方が良い気がするんだよな。」

後編の冒頭あたりからの話

この感覚はすごく分かる。SNSでよく見る広告や、youtube、書店で見るライフハック的なコンテンツに対する強烈な違和感は、ここで話されていることが今存在している枠組みの中でどうするかに留まっていて、その枠組みとはそもそもなぜ生まれて、今現在も存在し続けるのかという視点が無いこと。さらに言えば、この枠組みが別の何かに置き換わった時にその方法論はまだ有効なのか、という思いがよぎってしまうと僕はそこから前に進めなくなってしまう気がする。

決められた枠の中でどう生きるのかというのが大切なのは分かる。でも、その枠の中だけで生きていて良いのか、その枠の外、あるいはその枠の土台には何があって、それが過去、現在、未来とどのような接点を持つ可能性があるのかということを考えないと、変化が起きた時にまたゼロからスタンスを構築し直さないといけなくなるような気がする。


枠組みは法、文化、世間の風潮であり、これらは人間が作ったものだから人間の力によって作り変えられる可能性が多分にある。誰かが作ったものなのだから、それがいつ誰かの手によって作り変えられるか分からない。それなのに、たまたま今ここにあるだけの枠組みを盲信して良いのか。

枠組みの外側や土台に意識を向けるということはそれらを一旦疑うことでもあって、そうしていると自分を取り囲んでいる枠組みが正しいものなのかが怪しくなって不安になるかもしれない。僕は「そんなもんじゃない?」と思ったりもするけど、その不安に耐えられない人の方が多いのかもしれない。あるいは、そんな根本的なところから疑っていたら先に進むのに時間がかかって周りに置いていかれる不安があるのかもしれない。

でも、枠組みが作り変えられた時に戸惑うくらいなら先に疑っておいた方が楽な気がするし、置いていかれたからって何があるのだろうとも思う。「周りとの差」の物差しは結局その枠組みの中でのものに過ぎないのだから、枠組みが変われば物差しも変わって評価のされ方も変わる。それなら最初からそんなことを気にしても仕方がないと思う。

#スポ鬱


#3. 言葉

これを読みながら思ったこと。きちんとした感想は別のタイミングでまとめておきたいけども。

「言葉」と「数字」はどちらも文字や話させるものとしては並列だけどその性質は結構違う。どちらもコミュニケーションにおいて情報を伝えるものではあるものの、言葉はそれを誰が、いつ、どういう文脈で話すのかで意味が変わったり、そもそも同じ言葉を使っていても時代によって、人によって、解釈やニュアンスが違うものでもある。それに対して数字は、15は15だし、200は200でそこに解釈やニュアンスといった世代や人に帰属する要素の入り込む余地が無い。

エビデンス主義であったり、過度に自分へ責任が振ってくることを回避するためには誰から見ても分かるような客観性の高い表現方法が必要になる。そうした時に「言葉」は使い勝手が悪くて、自分が意図したことが伝わらなかったり、相手に意地悪な解釈をされてしまったりするリスクがある。それを回避したい時には「数字」の出番がやってきて、誰も逆らえない厳格性を持って主張を示す。


以前「マツコの知らない世界」というTBSの番組で、昭和歌謡に比べて最近の日本の売れている曲は歌詞の文字数が倍以上に増えているという話があった。話は「情景を思い浮かべるのは今の人の方が不得手なのでは」という流れに進んでいったように思うけど、それは先述したエビデンス主義というか、言葉を情報やコミュニケーションの道具として利用することが増えたことで、曖昧なものを避けるようになっているからなのだろうと思う。自分が何か文章を書くときも、きちんと一つ一つを定義しながら進めようとして文字数がどんどん増えていくから、そうなってしまうことは理解出来る。

一方で、LINEのスタンプや文字情報が少なく直感的に伝わるようなInstagramやTikTokのようなSNSなど、言葉を出来るだけ使わない流れもある。コミュニケーションの方法は言葉だけではなく見た目や音もそれに該当するので、画像や映像が持つ具体性があれば情報伝達には十分。それは、文字が読めない人にも分かるように教義を絵にして教会に掲出されていたりしたことと通じる。


文字数を増やすことも直感的に理解出来る方法で提示することも、どちらも受け手の解釈の余地を出来るだけ狭めることに繋がる。同じものを見たらみんなが同じように解釈させられることが今の価値基準では良いことなのだろうと思う。

ただ、これは自分が日本語という曖昧さに対する許容量が大きい言語を扱うからこそ思うのかもしれない。例えば日本語と比べて英語は圧倒的に合理的で、解釈の余地は狭い。最初から英語の枠組みで物事を考えていれば悩む必要の無いことだったのかもしれない。恐らく今から母語を変えることは出来ないので、日本語以外を母語にして育って来た人にこの悩みが伝わるのかは聞いてみたい。


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