自分探しの迷宮。


日本の学術界や出版界では、キルケゴールやニーチェが盛んに宣伝されている。
生の哲学なるものの特徴は、思想を展開記述し説明するにあたり、命題を、ともかく「自分を掘り下げる」ことにおく。

またキリスト教も、信仰や信仰心という人間とその個人と内面を見たり考えたりするもので、人間や個人の外にある社会や政治や支配者神などといったモノを見ないし、考えないようにする活動となっている。

神を見ない、見させないで、神やキリストなどを疑うな、試すな、信じろ、信じるところからすべてが始まるとしている。

さらに日本の学術界や出版界では、精神科学や心理学を流行らせっている。
これも人間そのものではなく、また人間は社会と不可分な命なのだがその社会も見させずに、個人の内面である精神と心理だけ見させ。考えさせるように前提している。(事実は騙しの学問である)

この世界では人間を捉える視点は、哲学と宗教が主軸としてあり、一見すると精神科学や精神医学、および心理学も、人間を捉えようとしている学問だと錯覚させられている。
しかし一般的学問と科学自体が社会とその人間を浮き彫りにするための学問だと言える。
精神科学や精神医学、心理学も学問としてはそれらと同じカテゴリーに含まれるものだろう。

しかし精神科学~心理学は一般科学よりも人間の、より内面の精神現象や心理現象を、医学的にか、社会科学的にか、それとも哲学的にか、あるいはそれらをマゼコゼにしてか、ともかくそのどちらの物差しを持って図るのかわからないまま、無理やり人間の、一部分の内面を見たり捉えようとしているものだろう。
要は、独立科学の根拠があるのかないのか、何なるものか、本当はわからないものなのだ。

それとは違い哲学が示す精神と心理は、世界外界と関わりをもってある人間と生理や認識の問題として探求している。
ヘーゲルなどは精神現象学とか、精神哲学とか言われるように、宇宙からこの世界全部を精神の一言に含めて同義語として哲学しているぐらい、宇宙と国社会と精神と心理を不可分なものとして探求している。
だからヘーゲル哲学は法哲学だし、倫理道徳人倫の哲学だし、歴史哲学だし、科学哲学、などなどに関係する、しかも間違いがない哲学となっているのです。

それを精神科学者や心理学者たちが、どう学びどう思い考え自身の精神と心理なるものと峻別しているのか、聞いてみたいものだ。

精神科学のうち、精神医学は近代に入り資本主義戦争が始まった第一次世界大戦後ヨーロッパの戦争後の戦争遺症だとかの精神的問題に対応しようとして、なおかつ産業界と政府で作り上げた体制なのです。(産業とは、分り易く言うと、石油から作る薬とそれで儲けるための産業、近代は化学産業の幕開けでもあった)

近代の学問として精神科学も生まれました。
この説明をしてると長くなるので、哲学的に話すと精神も心理も哲学の研究テーマと命題として対象となっている物でしたが、この時代に独立したかのように粉飾して、欧州支配者が学問としてしまったのです。
ですからこの2つの学問には独立独自の原論がないのです。
原論だと名うつ書籍でも、根拠をあれこれ探し幾つか示すのですが哲学的根拠は無く、ただ肝心なとこで、「だから現実に医療体制が〜薬が〜」という話しにして、原論だと強弁しているのです。あとは大学と研究者、出版社だとかの数の力で学問にしてしまったのです。

欧州哲学の大系としてある各学問の独立とその根拠、さらにその知性の発展方法は、この時期に、特にウィーン学団の徒党の「研究」者と情報報誌で、脈々と続いて来た欧州と人類史的知性の大道が、つまりギリシャ哲学から教会哲学とその科学学問として続いてきた哲学的知性の大道が途絶えしまい、偽物に切り替わってしまったのです。

人類が発展させてきた知性史の発展の頂点がヘーゲルとその哲学でしたが、最高の価値と意義あるものでしたから、
だからこそこの地点でウィーン学団によって「新ヘーゲル主義」なるヘーゲル関係ないものが喧伝されて、やがて真面目な者たちがそこにおかしな理屈を発見し始めると、その宣伝の力が消失していき、それを克服するためとか克服したとかで、また「新カント主義」を台頭させて大宣伝したのです。
大戦機運の中でウイーン楽団の有名人ユダヤ教徒ユダヤ人も米国へ逃れ、匿われて、その時まで欧州にあった"知性の権威体"を米国に移した状態にしたのです。
世界支配者の金と数の力で、ウィーン学団新カント主義科学と陣容を米国の大学や研究機関などに溶け込ませていった。

当時米国の学術と学術界の指導的、また主調的な哲学権威はやはり新カント主義が移入され始めていて、それまで米国の権威であったプラグマティズム(哲学ではない。キリスト教プロテスタント思想があり、米国資本主義に肌があうような人生訓や処世術などで使い勝手のいい理屈体系を作っていた。
その都度の状況に対応する理屈理論を継ぎ接ぎする功利主義的合理主義、実利実用の現実主義の思想)と欧州新カント主義と継ぎ接ぎし、親和性を持って、数と金と頭数でアメリカ社会と国に受容した。

日本にも影響を与えた、日本の明治から続いた欧化主義の欧州哲学権威が新ヘーゲル主義からさらに新カント主義へと思潮が移り変わり、動揺し退廃と劣化をすすめてきた。
日本のプラグマティズムについては長くなるので割愛。

まさかと思う貴方は、哲学や論理学及び知性は、出版社だとか大学と研究者の数の力で学問にしてしまう、また維持してしまう今の体制の恐ろしさ知らないのです。
各学科の理論と体制(学会とかの)が陳腐になっても、その改善改革ができないぐらいなのです。
つまり強大な理不尽システムなのです。

精神科学や精神医学、および心理学も、人間の一部分を見たり捉えようとしたもので、その説明の中心が個の内面たる「自分なるもの」に目を向けさせることから始めているのです。

こうして現代と現代人(世界的に)は「自分なるもの」を探求する倒錯に引きずり込まれ洗脳されることになっている。

私は人間は産まれながらの認識障害を持っていると思うがどうだろう。
例えば人間は今ここに居れば、同時に後ろを見ることができないし、東京に居れば埼玉や千葉神奈川だとかには居られないという、肉体的物理的条件で目の前の時空しか見られないのだし、知ることができないのだ。

だからすべての人間は現実を正しく見られないし捉えられないし、従って考えられない。
つまり人間は産まれながらの認識障害者なのだ。
それが事実だし真実だ。

さらに特に現代人は世界支配者の洗脳で一層事実を見られないようにされている。
その最たる実例が次のような愚民作りだ。いかなる国でも、またいかなる時代でも、支配者は人民支配をたやすくするために愚民を望み愚民政策をとっているはずだ。
愚民政策以外にも、様々な洗脳を行ない現実を見られないようにされている。
そのうちの中心的な洗脳は、社会と自分(個人)関係の主従を取り違えるようにさせていることだ。

主従関係を正しく捉えるなら、事実は宇宙があるからその一画に地球が存在できているし、地球があるから自然や各国も存在できている。
各国があるからその国民が存在できているし、国と社会があるから個人は生存できている。
確かに社会があり人間個人が生存できて、それらの条件があるから父母もいて赤ちゃん個人が生まれてこれる。それらの条件がわなければ赤ちゃん個人は産まれない。

だから、社会が主であり個人は従という関係なのだ。

この関係(原理)があることが普遍的事実であり真実と真理なのだ。

この主従関係を胡麻化せば、人々は自身の思考方法の第一ボタンを掛け違えてしまい、どんなに考えても、どんなに悩み苦しもうが、正しく物事を見ようとして書物を学んでも、権威ある大学で学び卒業しても、錯誤結論しか掴めないことになる。
そうしてそこに気付かなければ錯誤は倒錯してしまい、その極地まで進むことになる。
こうして生の哲学は死んで生きる哲学なのだ。

現代の若者たちは高校や大学教育で心理学主義の教育論で教育され、さらに長期に渡るメディア洗脳がかさなり、自覚なく自分探しの思考を持たされる。

自分の適性なるもの、自分らしさなるもの、自分の性格なるもの、長所短所さがし、自分の頭脳程度は、と自己点検したり、自己心理分析したりする。

しかしこのような主観主義洗脳や心理学主義洗脳とは別にして、人類は原始の時代から比較という方法を使って物事を判断してきた歴史が身についている。
A、B、C、のどちらが重いか、軽いか、大きいか小さいか、硬いか柔らかいか、黒いか薄いか、それら五感を使って対比してそれぞれを判断してきた。
それが生理的な体感として物事を正しく見て正しく判断し正しく考える方法として身についてもいる。
こうして自身を見る場合でも他者と対比して、自分の所属性の質量や関係性を見たり判断する方法を使っている。
こうして身近なものを対比して、自分を探す方法ともしている。つまり自分の外にある事物同士を対比させ、それと自分をも対比することで何らかの判断をくだしていたのである。
そのことは社会、つまり外的なものと自分を対比して自分を判断して理解しうるということです。

ここで申し訳ないが、疲れてきたので、整文添削を中断させてもらう。
おいおい作業を再開したい。
尚自分探しの問題については度々話しているので、このブログのどこかでも、同じことを述べていると思います。

社会が毒親なる言葉を広め、流行らせ、それを洗脳しているし、そうして
洗脳されて錯誤を重ねた「毒親・毒人間・毒男・毒女などなど」を生み出している。
錯誤と倒錯を広めているのは社会であり、社会が個人を洗脳し苦しめている。だから男である私個人は毒男だし子供も居るので毒親であるし、毒人間なのだ。社会一般の女たちもきっと毒の名がつけられるだろう。上の文章はその証明ではないだろうか?哲学的には主観的観念論の記述であろう。

引き篭もりの原理。
自分探しは、実は社会を知らないと、自分を探せないのだ。その原理はすでに話しているのだが気付いてくれてるだろうか。
自分の肉体と頭脳の中身、つまり知識認識意識精神といったものは、どの様に育まれて来たのか、を、知らないと自分の思考や考え方や思想は見当たらないのです。
自分育てた父母の人格や言葉の意味内容、父母が育った時代の話し方などさえ知らないと、言葉のニュアンスを知ることができない。
わかりやすい実例を示せば、お笑い芸人タケシが言う「バカやろうこの野郎」は東京下町の親しい他人への挨拶言葉だ。元気か?とかの意味だし、俺はお前が友達として好きだし大切な友人だと思ってるという意味を込めている。話しの内容と関わりなくこのセンテンスを入れる。話し歯車の拍車として入れて使う。
親が子供に向かってこの言葉を使って育てたとして、それを聞いて育った子供が、親がこのような時代と地域場所の言い回し方のニュアンスを知らないと、喧嘩を売られた、見下され貶まされた、ナドと理解してしまう。一生恨んでしまったりも怒る。しかねない

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