世界と社会の実像を見るには。真実と真理を獲得するするための5つの方法のどれがいいか。

世界と社会の実像を見るには。真実と真理を獲得するするための5つの方法のどれがいいか。

「非常識人が生息するところ。 社会の3つの姿」https://note.com/y1117259k/n/n10f6371eeb2eの続き。

世界(自然)や国や、社会というものの実態や実像、事実、真実の姿は5つある。
1,毎日の生活で5感する個人経験。
2,報道が作り出す社会。
3,社会科学が示す社会。
3,宗教が作り出す社会。
4,哲学が示す世界と社会。
物事を計るには計測器が必要だが、計測器になるのは哲学だけ。
哲学の知識無く、実態や真実は計れず分からない。

最近では胸を張って「記事元を読み見て、確認しましょう」などという電網会社まであり、自分の狂気を計れないことを証明している。

哲学を知る者からすると吹き出してしまう。噴飯もの。


さて上の5つを説明していく。

1,の個人経験を疑うものはほぼいないだろう。しかしそれは人間全体の人間経験でも体験でもないし、現実なるものや、社会なるものや世界や自然や宇宙ではない。あるようで無いような像である。そのことで人々は考え、ある人たちは苦悩することになる。

人類は実像は何処にあるのか、どうしたら知ること(認識論)ができるのか思考活動を始め、一人では分かりようがないから集団で認識活動を始め、さらに僅かな年月では分かりようがないから、その体験的認識と知識を記録し始めた。

現代人はそこから学ぶことで、目の前にあるようなないような対象の実像(真実・真理)をりかいするようになってきた。


2,のマスコミや報道の虚偽性は、次のように理の当然に理解できる。
例えば、人ヒトや人間や人類が行為したり活動したり仕事をしたり、歩んだり、進歩したりするためには、その行為結果や活動の結果、歩む終着点などの結果を知らないと、その行為や活動などは着想意図と真逆(否定的結果)になるか、無駄(否定的結果)になるか、中途半端(不十分な結果)になるしかない。それをどう評価するかは個人で判断する問題であり、「それでもいいじゃないか」とか、「迷い悩むのが人間のいいところ」「好きだ」「嫌いだ」等など各自が主観判断すればいい。
しかし個人とは別にした人間と人類は、行動結果を知らないとその行動意図(着想)は保証されない。試しでヤッテミル場合でも、なんらかの結果予想を立ててから実行するものだろう。
こうしてみると報道マスコミなどは、その行為と活動仕事は、社会が動き進んで行く結果を予想しないで、今現在を評価・判断している(とはいえなんらかの結果予想を立ててから実行しているはずで、その意図を隠し持っている)し、広報の活動を行っている。
人間と人類の社会と世界の行為と活動と仕事の結果は何処だと思っているのだろうか。結論を持っているのだろうか?それなくして毎日の報道(活動・仕事)をしているのだろう。
ヒトが歩む行為や活動をするとき、その終着点、目標を定めないで歩み始めたり歩み進んで行くものだろうか?行く当のない気ままな散歩でも「気ままな散歩をしよう」という目的目標を待っていて実行しているだろう。
まして公器たるマスコミなどが目標や意図なく仕事をして良いものだろうか?
現在人類は、その行くすえは資本主義社会や国家は必ず終焉して、次に社会主義と共産主義の国や社会になると科学的に論証されている。それ以外に科学的に論証されている未来社会像は提起されていない。社会・共産主義理論が一人勝状態の事実となっている。

マスコミはその科学的事実を無視して、今と現代を語っているのだが、どんな仕事結末や社会活動結末を見定めて、また現在と時代の進行結末を見定めて、さらに現在進行中の政治や国会や経済進行結末を見定めて、また評価基準と価値観で判断して、それらの着想で記事書きの仕事や広報の仕事をしているのだろうか。
社会・共産主義理論を学ばずに毛嫌いし、また哲学を知らずなければ、そこには否定的意図しか残らないのだ。
これはマスコミ報道界に限らず、小説家、映画監督、などの社会に向かって仕事をする者全てに問われている問題であり、はっきり言えばこの見地からすると、人間と人類の道に反する否定的行いをやっている性悪な人物としか言えない。
それらを知らず自覚していないから惚けて、行為行動仕事活動をしているし、していけるのだ。
人間と社会を理解した小説家などの創造者は、その発言を止めて躊躇してしまうことがある。



3,の宗教は、哲学論争が確定していない時代と学問や学校が無い時代に、人間と社会と自然を見るための導きとして各民族や国から生み出された。その理論の科学的根拠はなく、人間のような神なるものを想定して理論を組み立てていった。それを信じる者もいるし信じない者もいる。さらに一つの宗教は他の宗教を否定しその誤りを批判する関係に互いがおいている。そういった不確定な「導きの教え」が宗教といえる。

近代的知識があるものは信じないし、科学や学問の論拠と根拠にはなれない。宗教学でさえ、学問であるある以上参考や出典としてその名前を上げているだけとなる。あるいは私がそう言うのだから正しいのだ、と主観観念論的に論拠づけるものは、自らがその神を超えるものとする。



4,の学問と科学では、5つの世界像と哲学の優位性は、人類知性が獲得した常識であり哲学無き学術(現代米国発祥)は虚偽である。

実例は沢山あるだろうが、上にのべてきたように、調べても何も得ることはない。ただ各著作が様々に語るその論拠を支える、本人の認識と結論の根拠(哲学の立場)を語ったものはほぼないと言える。「私の主観だから」とか「高名な米国の誰それが言うから」「別な高名な仏国の誰それもいうから」「神がしめす、聖書が示すから」とかになっている。
沢山の高名な学者同士で支え合ってもなんの根拠にもならないから、難解で有名で高名な観念論の立場の哲学者を挙げるのはマシかもしれないが、難解なヘーゲル哲学(科学)でさえもマルクス唯物論に指摘批判されて取って代わられたのだ。


5,は、人類の永い哲学論争史上で勝利し確定した哲学を学ばず、知ったかぶりの知識人、小利口、報道記事を信じるな、語るな。

現代人は、目の前の現実を知ることができない無知なる汝自身を知り、無知の智を自覚する必要がある。まさに非常識であることを自覚するべきなのだ。

私もそれを自覚する。

偉そうに人々に教えるように書いているが「何様だ」、というヒトもいるだろうが、最低限私は自身の無知を自覚する智慧を持っていることを胸を張って言うことができる。

言うなれば「下から目線」の方たちに「上から目線」で語るほど無知でもない。

ここで書いていること私が言っていることは、私し個人の主観であり、また同時に人々と人類史で言われている客観的記述であって、私の間違いが含まれているのは確実である。

さらに現実と事実は、かくなるように複雑であり、ここで書かれる言葉とは全く別なものとして有る(有論)。

平たく言えば、現実が有ることと理屈とは別物だということです。

また私は理屈と道理を述べているだけで、一般的に理解されるような真実や真理を自覚した崇高で清廉潔白な宗教的人物でもない。

泥まみれのドロドロ人間であり、人間のすべての愚かとは言えないが、大半の愚かを体現した者だ。

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