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劇作に向けた龍潭譚の分析(10)

第10章 千呪陀羅尼

前章では、ついに少年の心象と現実との乖離がピークに達した。そうして少年は、毒をも疑い、食事すらとらないようになるのである。

衰弱した少年は寺の本堂に運ばれ、呪いを解くべく僧侶たちの読経が始まる。しかし僧たちが声高らかに経を唱えはじめたとたん、空に雷鳴が轟く。滝のような雨が吹きつけ、嵐の到来である。モノノケの呪力と仏の功徳の闘いだ。この嵐のさなか、少年のもつ母のイメージは、目の前に鎮座する千手観音像に托され、そのまま少年を後ろから抱きしめる姉へと転移する。

少年の心身が限界を迎え、畏れと怖れとが胸中に吹き荒れることでようやく、姉を受容する素地ができたのだろう。姉を受け入れることは、世界を受け入れることである。さらに云えば、九ッ谺の理(ことわり)を断ち、人の世の理を受け入れることである。

少年が姉の存在を受容した瞬間から、雷鳴は本堂から遠ざかっていく。こうして「乖離」は収まり、少年は俗世へと帰還を果たすのである。

一夜の嵐は、少年が迷いこんだあの山中に崖崩れを起こし、九ッ谺を淵の底へと沈めてしまった。ラストシーンでは、いまや海軍の少尉候補生となった少年が、「薄暮暗碧を湛へたる淵」を粛然と眺める場面で終わる。少年は、淵にむかって石を投げようとした友人を諌めて云う、「あはれ礫(つぶて)を投ずる事なかれ、うつくしき人の夢や驚かさむ」。

少年はこのとき、少尉ではなく少尉候補生であった。つまり彼はまだ何者でもなく、子どもと大人の〈はざま〉にいるのである。彼には、まだ俗世と異界とのはざまに迷いこむ余地が残されている。ただし、もし本当に異界へ入ろうと思うなら、深い淵に飛びこむ必要がある。淵の底には、現世とは反転した理をもつ、あの屋敷があるはずだ。思えば、あの屋敷での描写には水のイメージが重ねられていた。淵に沈む運命を予見していたのだろうか。

さて、ここまで龍潭譚という作品を分析してきたが、云うまでもなく今回「分析」は目的ではなく手段である。なので記述が支離滅裂でも構わないし着地すべき結論も特にない。ここから「団地」の物語への模索を始めてみたい。

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