見出し画像

ビッグイシューは「貧困ビジネス」か?

皆さんは「ビッグイシュー」をご存知だろうか。

ホームレス・貧困支援に関心のある人であれば、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。

ご存じない方のために簡単に説明をしておくと、ビッグイシューは、路上生活者に「チャリティー(救済)ではなく自立の機会を提供する」ことをビジョンに、雑誌の路上販売という、仕事の機会を確保する事業を行う社会的企業である。

イギリスのロンドンで生まれたこの取り組みは現在多くの国々に広がっており、日本では2004年に有限会社「ビッグイシュー日本」(以下、「ビッグイシュー日本」と表記する)として創業された。

販売者登録を経て「販売者」となった路上生活の方は、はじめに雑誌を10冊無料で仕入れ、1冊450円で販売する。すべて売ると4500円の収入になり、次にそこから一冊220円で仕入れて450円で売るため(1冊あたり)差額の230円が販売者の収入となる。

こうしたビッグイシュー日本の取り組みに対しては、「雑誌購入を通じてホームレス支援に参加できるビジネスモデル」として著名人も含む多くのファンから賛同を得ながら現在に至っている。

他方で、ビッグイシュー日本に対しては批判も多い。試しにGoogleの検索欄に「ビッグイシュー」と入力してみてほしい。すぐに予測変換欄に「ビッグイシュー 批判」と出てくるはずである。

無題2

なかでも、「ビッグイシュー日本は路上生活者を食い物にした貧困ビジネスである」というものがある。そこで今回は、ビッグイシュー日本のスタッフと同じ事務所で机を並べて仕事をしていた筆者が、ビッグイシュー日本が「貧困ビジネス」にあたるのかを検討してみたい。

「貧困ビジネス」の定義は?

画像2

さて、ある事業や取り組みが「貧困ビジネス」にあたるのかどうかを考えるうえで、まずは「貧困ビジネス」の定義を確認することが重要である。なぜなら、「◯◯は貧困ビジネスだ!」といった批判は様々な場面でみられるが、こうした批判のなかには感情論や論者の主観に基づくものも多いと感じるからだ。

ある事象を社会問題として指摘するためには、客観的な判断基準が必要になる。そして、貧困ビジネス批判をする人の中には「貧困者と関わることを通じて利益を得ている」という点にのみ「貧困ビジネス」の客観的判断を求めるものがいるが、これは端的に言って誤りであろう。

「貧困ビジネス」をこのように定義してしまうと、社会保障制度に関わる公務員や研究者なども皆「貧困ビジネス」ということになってしまう。

それでは「貧困ビジネス」とはどのように定義するのが妥当なのだろうか。

この概念を提唱した湯浅誠氏によれば、「貧困ビジネス」は次のように定義されている。

「貧困層をターゲットにしていて、かつ貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化するビジネス」
(日弁連シンポジウム「貧困ビジネス被害を考える~被害現場からの連続報告」より)

ここで重要なことは次の2点である。

まず、「貧困層をターゲットにしている」だけでは貧困ビジネスにはあたらないということ。例えば困窮者支援を行なっているNPOや社会保障制度を運用する公的事業は貧困層をターゲットにしているが、これらは一般的に「貧困からの脱却」に資すると評価されるものだ。

次に、「事業者の善意・悪意」といった主観的な要素や、事業が儲かっているかどうかは貧困ビジネスの定義には含まれない(=評価基準ではない)ということ。

よく、「◯◯は悪意に満ちたビジネスだ!」「貧困者を食い物にして多額の利益をあげている」といった批判がある。また、それへの応答として「◯◯は100%善意だ!スタッフには良い人しかいない」「この事業は全然儲かっていないどころか赤字だ!」といったやりとりがある。

しかし、こうした論争は該当する事業が貧困ビジネスかどうかを判断するうえでは全く役に立たない。なぜなら、貧困ビジネスかどうかの評価基準は「貧困者をターゲットにしている」ことと「貧困を固定化しているか否か」によっているからだ。

この条件に当てはまる場合、仮に事業が100%の善意で行われていて、利益を全くあげていない(赤字)としても「貧困ビジネス」ということになるし、逆に悪意に満ちた事業であって大きな利益を出していたとしても「貧困を固定化している」と判断されない場合は「貧困ビジネスではない」と評価されることになる。

つまり、「ビッグイシュー日本が貧困ビジネスか否か」を判断するうえで、ビッグイシュー日本の職員及び事業が善意によっているか、利益をあげているかというのは批判材料にも反論材料にもならないということだ。

個人的には、ビッグイシュー日本の関係者が(決して多いとは言えない給与で)日々どれだけ路上生活者に対して真摯に向き合っているか、スタッフ全員が本気で彼らの生活再建を志向しているかを知っているので、それを強調したい気持ちでいっぱいである。

しかし、そういった私的な感情や事実は貧困ビジネスかどうかを判断するうえでは役に立たないのでこれ以上は言及しない。

二つの客観的な判断基準と、ビッグイシュー日本

さて、それではビッグイシュー日本の事業を上述した定義を念頭に置いた場合、どのような評価が可能だろうか。

まず、「貧困層をターゲットにし」ているかどうか。

これは殊更言及する必要もないだろう。ビッグイシュー日本は「路上生活者をはじめとする広義のホームレス状態の方のみが販売者になることができる」というビジネスモデルである。明らかに「貧困層をターゲット」にしている。

では、「貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化するビジネス」という定義についてはどうか。

「貧困からの脱却に資する」と評価するためには、日本の公的な貧困基準ともいえる生活保護基準を参考にするのが妥当だろう。

生活保護費は地域や世帯人員、加算金の有無によって異なるため、一概に具体的な額について言及するのは容易ではないが、ここでは便宜上ビッグイシュー日本東京事務所のある新宿区における単身世帯を想定したい。

加算金がないものとして考えると、住宅扶助費と生活扶助費の合算でひと月12〜13万円が一つの目安といえる。

この水準の額をビッグイシュー誌の販売で到達することは可能だろうか。ビッグイシュー誌の販売にあたっては、販売する時間は各販売者に完全に任されておりノルマなども一切存在しないため、売上は販売者によって大きく異なる。しかし、ひとつの基準としてはビッグイシュー日本を母体に設立された認定NPO法人ビッグイシュー基金が発行する『路上脱出・生活SOSガイド』内において、ビッグイシュー販売について紹介されたページが参考になる。ここでは、「平均的には一人1日、15冊前後売れます」とある。

これをもとに考えると、1日15冊販売した場合の販売者の収入は230×15冊で3450円。1ヶ月休みなく販売しても10万円を超える程度で、生活保護基準には届かない。

残念ながら、ビッグイシュー誌の販売だけで貧困ラインを上回る収入を得ることは難しいと言えるだろう。

しかし、これをもって直ちに「ビッグイシュー日本は、貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化」していると評価するのは早計である。

なぜなら、「貧困ラインを超える所得」を保障する役割は、必ずしも一企業だけが負うべきものではないからである。仮に「最低限度の生活を保障する所得を保障できない事業」をすべて「貧困からの脱却に資することがない」として貧困ビジネスと断定してしまうのであれば、アルバイトなどの雇用形態の多くは貧困ビジネスということになってしまう。

直接的な「囲い込み」と間接的な「囲い込み」

画像3

では、「貧困の固定化」についてはどうか。

例えば、ある事業が「貧困層をその担い手とし、彼らに貧困ラインを超える所得を保障せず、なおかつ、彼らがその事業以外に従事することを含めた異なる選択をできない状態においている場合」はどうだろう。

貧困支援を謳う悪質な業者のなかには、貧困当事者に特定の居宅にて生活保護を申請させ、保護費のほとんどを「管理費」などと称してピンハネし、本人の手元には数千円しか残らず毎日カップラーメンを提供されるだけ・・・というものがある。これではせっかく生活保護を利用しているのに、本人は貧困ライン以下の生活を強いられる(=貧困からの脱却に資することがない)うえ、利用者が「逃げない」ように見張りをつけるなど、文字通り囲い込みを行うケースもある。こうした囲い込みは明らかに「貧困を固定化」する悪質な貧困ビジネスだと言えるだろう。

こうした点から考えると、ビッグイシュー日本は販売の時間などは本人が自由に決められるうえ、ノルマがあるわけでもない。販売を続けるかどうかも完全に本人に委ねられており、「囲い込み」としての要素は何一つないように思える。

この点については、ビッグイシュー日本の広報も「販売者を路上に固定化している」という批判に対して次のように反論している。

また、「路上に固定化している」という声もありますが、「路上で眠る」という状態から「ネットカフェや簡易宿泊所で眠る」ということも路上からの脱出の一つのステップと考えています。
これまで12億1915万円の収入を販売者に提供し、199人がビッグイシューをきっかけに他の仕事を見つけるという形で卒業してきました。
合わない方は、合わないと思った日から仕入れに来なければよいだけなので、ビッグイシュー側が「販売者として固定」するということはありません。

しかし、「合わないと思った日から仕入れに来なければよい」ということをもって「固定化している」という批判を完全に免れられるわけではない。なぜなら、「貧困の固定化」という構造的な暴力は、既に紹介した「囲い込み」のような直接的なものだけではなく、間接的なものもありうるからだ。

例えば、住み込みで働く労働者について想像してほしい。仮に、この労働者が十分な賃金を保障されることもなく、兼業も禁止され雇用契約を労働者側からは破棄することができない契約を結ばされていた場合、これは明らかに直接的な「囲い込み」である。では、この労働者が「食べるには困らないギリギリの給与で雇われ、かついつでも労働者側から仕雇用契約を終了させられる場合」はどうか。

一見、このケースは「囲い込み」にはあたらないようにみえる。しかし、「ギリギリの賃金」である以上、彼らは貯金をすることができないために、この住み込みの仕事をやめるということは、ただちに住まいと仕事を失うことを意味する。

こうした状況下では、労働者は現状の生活に大きな不満があったとしても、仕事を辞めるという選択はとりづらい。これは、「間接的な囲い込み」と言えるだろう。

ビッグイシュー日本は、間接的な「囲い込み」?

それではビッグイシュー日本はどうだろう。既に確認したように、いつでも本人の意思でやめることができるビッグイシュー誌の販売は、囲い込みにはあたらないように思える。

しかし、ビッグイシュー誌の販売者にとって「販売をやめる」ということは「一般的な労働者が仕事が合わないから転職をする」のとは意味合いが異なる。多くの場合、路上生活の人が職を得るのは容易なことではない。携帯電話や住所をもたない場合、はじめから就職活動のスタートラインにも立てないことが多いからだ。

つまり、「ビッグイシュー誌の販売をやめる」ということは、彼らにとっては彼らが日銭を得ることができる数少ない選択肢を失うということだ。ビッグイシュー誌の販売を始めて路上生活からネットカフェなどで生活するようになった方からは、よく「もう路上生活には戻れない」という声を聞くことがある。

元々路上で寝ていた人であっても、一度ネットカフェなどの雨露しのげる環境に入ると路上で再び寝ることは耐えがたい苦痛になりうるということである。

こうした状況において「ビッグイシュー誌の販売をやめる」ということは、文字通り死活問題となる。これでは仮にビッグイシュー日本にどれだけ不満や不安を感じていたとしても「合わないからやめる」という選択はとりづらい。

こうした構造は、すでに確認した「間接的な囲い込み」に酷似しているようにも思える。

やはり、ビッグイシュー日本は「貧困ビジネス」との批判を免れないのだろうか?

雑誌販売は”ビッグイシュー”の一部でしかない

ここまで、ビッグイシュー誌の販売だけでは貧困ラインを上回る収入を得ることは難しいこと、また一度販売を始めた路上生活の方にとって、販売を続けるかどうかは自由であるとはいえ、販売をやめるという選択はとりづらいことを確認してきた。

以上を踏まえると、「ビッグイシュー日本は貧困層をターゲットにしていて、かつ貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化するビジネス」という貧困ビジネスの二つの要件に当てはまるようにみえる。

しかし、ここで改めて確認したいのは、「販売をやめるという選択をとりづらい構造」を作っているのか誰か、という点である。

改めて言うまでもなく、日本には最低限度の生活を保障するための制度として生活保護がある。路上生活の方は言うに及ばず、貧困ラインを下回る生活をしている人には最低生活費や医療などが保障されたうえで、就職などを含む幅広い意味での自立(自律)に向けたサポートが受けられるはずなのだ。

もしもビッグイシュー日本のスタッフがこうした制度について販売者に周知することなく、あたかも「ビッグイシュー誌の販売意外に日銭を稼ぐ選択肢はない」という印象を本人に与えているのであれば、これは明らかな「間接的な囲い込み」だろう。

しかし、こうした事実はない。

むしろ、ビッグイシュー日本のスタッフは販売者に対して再三に渡って生活保護をはじめとする社会保障制度の説明を行い、「ビッグイシュー誌の販売以外で生活をする選択肢」について本人と定期的に話し合っている。

そして、この役割を中心的に担っているのが、先ほども少し紹介した「認定NPO法人ビッグイシュー基金」である。ビッグイシュー基金は、ビッグイシュー日本と協力しながら、路上生活者をはじめとする生活困窮者の支援を行っている。その詳細は団体のHPを見ていただければと思うが、本記事の主旨にとって最も重要なのは、ビッグイシュー基金はビッグイシュー誌の販売者全員と販売者登録の際に面談を行ない、生活保護の説明は勿論、今後の生活を考えるうえで必要なサポートを本人と相談しながら実施しているという点である。

そして、販売を開始してからも生活の再建に役に立つ制度や民間の支援情報をまとめ、周知している。既に紹介した「路上脱出・生活SOSガイド」もその一つだ。

つまり、「”ビッグイシュー”による路上生活者支援」は、ビッグイシュー日本とビッグイシュー基金の合同で行われているのであり、その双方の活動全体を見てはじめて正当な評価が可能になるのである。ビッグイシュー誌の販売は、多岐にわたる”ビッグイシューによる支援”の一部でしかない。

事実ベースで言えば、少なくとも2016年10月から2020年6月末までの間に、生活保護を含む制度の説明を一度も聞いたことのない販売者は存在しない。

なぜそう断言できるのかと言えば、この期間にビッグイシュー基金の相談支援を担当していたのが筆者だからである。

「誰」が販売者を路上に固定化しているのか

しかし、東京の路上生活者が生活保護を利用して生活再建を目指すには、現状、様々な心理的・物理的なハードルがある。

その一因は、以前書いた以下の記事を参考にしていただければと思うが、

こうした制度上の課題を指摘することで筆者が改めて世間に問いたいのは、「一見『路上に固定化されているように見えるビッグイシュー誌の販売者』を、路上に固定化しているのは誰なのか」ということである。

ビッグイシュー日本およびビッグイシュー基金のスタッフは、日々、販売者が貧困状態から脱却できることを目指し(販売以外の選択肢を含む)様々なサポートを行っている。「販売以外の選択肢を積極的に提示すること」は、「ビッグイシュー日本の経営を悪化させること」であるにも関わらず、だ。

まとめよう。

”ビッグイシュー”は、貧困層をターゲットにした事業であるが、それは彼らの生活向上に寄与するものであり、「貧困を固定化するビジネス」にはあたらない。よって、”ビッグイシュー”は、貧困ビジネスではない。

むしろ、ビッグイシューが貧困ビジネスのように見えてしまうのはなぜなのか。真に行うべき検証と批判は、この点にこそあるだろう。

よろしければサポートをお願い致します。いただいたサポートは、執筆にあたっての文献費用やオンラインなどでの相談活動費にあてさせていただいております。