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支援者に猫好きが多いのはなぜなのか?

福祉、とりわけ生活困窮者への支援を行っている活動家には「猫好き」が多いように思えてならない。

そこで今回は、「なぜ困窮者支援業界には猫好きが多いのか?」という誰の得にもならないテーマで綴ってみたい。

もっとも、「困窮者支援業界には猫好きが多い」ということを裏付けるデータなど世界広しといえどどこにも見当たらない。(当たり前だ)

なのでそもそもこの仮説自体が私の思い込みである可能性は極めて高いし、今回のエントリーは「全く論理性を追求しない」ものになる。

とはいえ、とにかく(とりわけ)困窮者支援に関わる人や活動家には猫好きが多いように思えてならないのだ。

むすびえ理事長の湯浅誠さん、つくろい東京ファンドの稲葉剛さんをはじめ、ビッグイシュー基金共同代表の枝元なほみさん、作家の雨宮処凛さん…と「愛猫家」として知られる活動家を挙げるとキリがない。

また、ホームレスの方に雑誌販売の仕事を提供する「ビッグイシュー日本」で、ボブという猫が表紙になった号は軒並みソールドアウトしている。

これは、著名な活動家だけでなく、ホームレス支援に関心の高い一般の方にも猫派が多いことの証左とはいえないだろうか。

これは単なる偶然なのだろうか。

私は、「猫好きである」ということと、困窮者支援には関係があると思っている。

というのも、困窮者支援を行う人の当事者に対する「立場」が猫に対するそれと近似しているように感じるからだ。(無論、上述した活動家の方々が以下の内容に同意されるかは知りません。違ってたらごめんなさい。)

この「当事者に対する立場」というのは、端的に言えば「自分のことはできるだけ自分でしてもらいたいし、一般的な規範が何であれ、何を選択するかは本人に決めて欲しい」というものである。

例えば、金銭管理について。

生活に困窮されている方のなかには、知的障害や精神疾患などから「計画立ててお金のやりくりをする」ということを苦手とする人も少なくない。

基本的に自分のお金をどう使おうとその人の自由なので支援者もできるだけ口を出したくないのだが、例えば生活保護の支給日初日に保護費の全てをつかってしまった場合、残りの日数をどう過ごすかというのは切実な命の問題になってしまう。

そこで、あらかじめ本人とも相談をしたうえで金銭管理のお手伝いをすることがある。公的な制度でいえば「日常生活自立支援事業」などがこれにあたるだろう。

しかし、これはあくまでも本人がそうしたサポートを望んだ場合に限るべきだと思う。

なぜなら、繰り返しになるが「自分の所得(社会保障制度による支給を含む)をどう使うかというのは、本人の自由であり、この自由は基本的な人権として位置付けられるべきもの」だからだ。

さらに言えば、正直、人のお金の使い方に口を出すというのはサポートする側も気持ちが良くない。もう少しありていに言えば、面倒くさいのだ。

その人が何をしたいか、どこに行きたいか、何を食べたいか。これらは、本人にしか分からない。(本人だって分からないこともある)

そういった一つひとつの選択を通じて、人の人生は作り上げられていくわけだが、これは本人が選ぶからこそ「作り上げられる人生」としての意味を持つのである。個人の意思決定を他者が先取りして行ってしまった場合、その人の人生の「責任」はどこに帰属するのか。

「責任」というと、できれば負いたくないものというイメージが強いかもしれないが、責任は必ずしもネガティブなものではない。その人の責任をその人に求めるということは、その人を自律的な個人として承認し敬意を払うということでもある。

ところが、支援者が当事者の意思決定に強く介入するということは、本来当事者に帰属する責任の一部を、支援者が負うということなる。これが、個人の自律性に対して敬意を払うことに特別な関心を寄せる支援者にとっては、ちょっと厄介な問題になる。

これは、「支援するのが面倒」という話ではない。むしろ、支援者側がどんどん決めて進めてしまったほうが業務上ははるかに楽である。

例えば路上生活者の申請に同行するとして、「どこで申請するか」ということを考える際、本人がアパート入居を望んでいる場合、そうした資源の多い地域で申請するほうが諸々の手続きはスムーズに進みがちである。「アパートに入りたいなら◯区にしましょう」と進められるならどれほど楽か。しかしそれでは個人を責任ある主体として尊重することにならないから、より詳細な希望を本人が福祉事務所で伝えられるよう格闘したりするのである。

障害者手帳の取得などの社会保障制度の手続きにしたって、支援者主導で進めたほうが早いし確実であることが多い。それでも申請書類の準備などを、できるだけ本人に行ってもらうよう伴走的に支援をするのは、そうしたプロセスのなかで本人の意思に反するようなことを避けるためだ。

きちんと意思表示できることはしてもらいたいし、時間と手間がかかったとしても本人にできることは本人にやってもらいたい。これは、「本人の意思決定」や自律性を何よりも優先したいと考えるからだ。

さて、前置きが長くなったが、「猫」である。

基本的に猫は飼い主に従順な姿勢は見せない。自分が撫でて欲しい時には寄ってくるくせに、機嫌が悪い時には触っただけで毛を逆立てて怒ったりする。

最近はなかなか社会的に難しくなったが、私が子どもの頃の「飼い猫」なんぞは猫の好きなタイミングで勝手に外出して散歩して帰ってくるというのも珍しくなかった。

本人(猫)の意思に基づいて勝手気ままに行動しているのである。そのうえ、彼らは媚びない。

「猫に今何をしてあげる必要があるのか…」ということを飼い主が1から10まで考える必要はないのである。

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犬だとこうはいかない。散歩に行くには首輪をつけなければならないし、故に排泄のタイミングも飼い主の都合に合わせてもらわざるを得なくなったりする。

常に飼い主のタイミングや都合によって彼ら(犬)の生活が規定されるためか、飼い犬の多くは主人に対してとても従順になりがちだ。これだと本人(犬)の意思が分かりづらくなるし、だからこそ飼い主が負う「犬の人生」への責任は相対的に重くなる。

(無論、これは犬が悪いわけではない。私たち人間が、犬が自由に過ごすことを許容できない社会を作ってきたからである。)

さて、同じ福祉畑であっても、「自分の意思表示をはっきり行い、支援者側の提案や思いとは異なる主張や言動をする当事者」を「困った人」と捉える支援者もいる。こういう支援者にとっては、「支援者の提案に従順な当事者」のほうが「優等生」であり「楽」だと感じるのかもしれない。

しかし、当事者の自由を第一に考える支援者は、支援者側の提案に対して全く異論を唱えない当事者と対峙する時、かえって居心地の悪さを覚えるだろう。

いちいち「この人の意思は本当にこの提案で汲み取れてるのだろうか」と気になって仕方がないからだ。

どれだけ業務上の手間が増えても構わないから、気ままにわがままに振る舞ってもらったほうが逆に安心できたりする。

支援者に、社会に、従順にならないでほしい。

あなたの人生は、他ならないあなたのものなのだから。

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