わたしは主人公
”わたしは主人公”というモチベーションは何をくれるのだろうか。
もれなく人は、「わたしは主人公」と思う生き物だと考えると、全てが楽になるのかもしれない。
おそらく、誰もが認める清く正しい人も、何かしらの”満足感”や”達成感”などの”やりがい”を感じて、それが次への原動力になっている。
その意味では、誰しも「わたしは主人公」と思っていると言えよう。
言い換えるならば、”自分を中心に考える”ということ。
こう言い換えると、とても品がないようにも思えるが、冒頭2行目の文面も腑に落ちるだろう。
何か自分にとって周りにとって、よろしくない振る舞いをする人が現れても、その考えがあれば楽になると思いはしないか。
とはいえ、ほとんどの人は”わたしは主人公”という自覚のありなしに関わらず、その意識を持っていながら、未知のことには無関心だ。
たとえば、国や地方の政治・選挙。
たとえば、金融・資産管理。
分からないから手を付けない。
これは、ときとして正しい選択である。
お金や心の面でダメージを受けるリスクがあったり、法に触れるリスクがあったりするからである。
しかし、ときとして好ましくない結果を呼ぶことにもなる。
それが政治・選挙にも言えるし、金融・資産管理にも言える。
政治・選挙は暮らしの根っこ、金融・資産管理はお金を寝かせても増えないということに尽きる。
他方、これとは別に、未知のことに過度の期待を抱いたり、不安を覚えたりすることもある。
たとえば、ギャンブル、宝くじ・懸賞・抽選、資産運用。
たとえば、感染症、将来の貯蓄・健康。
どれも簡単に想像がつくような事柄だろう。
同じ未知でも動きが変わるのは、得や損が漠然とでも計算できるという点に理由がありそうだ。
選挙に行かないことで、明日の生活に困ることはないし、大切な誰かと会えなくなることもない。
ただ、忘れてはいけないのは、全ての事柄は互いに結びついているということだ。
分からなくても行動できる私たちなのだから、主人公として物語を作ってみようじゃないか。
”わたしは主人公”という考えは、あらゆる行動のモチベーションということを忘れてはならない。
たとえ、ある選択が正しかったとしても、失敗だったとしても、それは学びをくれる。
ある選択が失敗であるとき、それは”何か自分にとって周りにとって、よろしくない振る舞い”なのかもしれず、行動し続ける主人公の1人なのかもしれない。
物語の主人公というのは、中心人物であると同時に、周囲の人々にも良い影響も悪い影響も与える傾向にある。
”わたしは主人公”というモチベーションは、学びをくれる。
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