少数派?多数派?弱い?

民主主義の国では、ある事柄で意見が対立するときに、多数によって一方の意見に決定する方式が採られている。
このとき、意見が拮抗することもあれば、圧倒的な大差をつけることもある。
一時期、「強行採決」という言葉で賑わった。
時間をかけて審査をした上で、いつかは多数決を取らなければならないのだ。
合意形成に近づけていることは大切であるが、いつかは決めなければいけない。
民主主義は、多数決というのも間違いではないが、そういった時間をかけて合意形成に近づけるという意味合いも含むものと考える。
したがって、「強行採決」という日本語はおかしなものがある。

いずれにしても、採用されなかった意見も、尊重した方が良い場合もある。
とりわけ、圧倒的な大差がついたときは、場合によってはそうだ。

さらには、多数決を取らなくとも、結果として多数と少数に分かれることがある。
そして、必ずしも、多数であるから強く、少数であるから弱いという構図でないことも確認しておきたい。

その上で、結果として多数と少数に分かれる例を挙げてみたい。
よく思いつくことには、LGBTQ、精神障害者、身体障害者、経済的貧困、高齢者、外国人があるだろう。
これらの場合には、少数=弱者という定義づけが成され易い。
ここで問題となるのは、日本で高齢者が少数派というべきかであるから、例外的に多数派が、ある特定分野では弱い力であると言えよう。
たとえば、公民権(投票する権利など)であれば、高齢者は弱いとは言いづらい。
他方、移動や購買などであれば、高齢者は相対的に弱いと言える。

さらに、本当に少数=弱者という構図が良いのかという問題もある。
この点については、否定しておきたい。
弱者という言葉自体が似つかわしくなく、使いたくないが。

弱者と言ったときに、無条件に弱いであるとか、守らねばならないとか、そういった概念が伴う。
忘れてはならないのは、必ず「相対的に」という枕詞がつく。
「絶対的に」は似つかわしくないのだ。

これに加え、弱いか否かは「何と相対するか」に依存する。
いわゆる働き盛りで五体満足の健康体、正確に言えば人々の平均値を取ったものと相対させていると考えられる。
「普通なら」「常識的に」という枕詞がつくだろう。
このとき、ある事柄を非常に抽象化して「普通」「弱い」と比較しているものと考えられる。
そうであるならば、その事柄は多面的であるのだから、ある点に注目してみよう。
そうすると、その事柄は必ずしも「弱い」と言えないことだってある。

ここまで詳細に比較すると、全てにおいて、必ずしも「弱い」とは言えないのだ。
むしろ、「普通」を通り越した「強い」(=強み)になり得る。
これを「個性」と呼んだり、「才能」と呼んだりするだろう。

ところで、こうした少数派の人々は、実は少数派ではないという話も考えられる。
先に示した人々の平均値に位置する人であっても、スポーツが苦手、計算が苦手、絵が苦手、じっとしているのが苦手、文章が苦手、さまざまある。
腰痛や肩こりを持っていたり、視力が悪かったりすることもある。
特殊な趣味を持っていたり、独特な絵を描いたり、異国の文化が好きだったりすることも。
これと、LGBTQ、精神障害者、身体障害者、経済的貧困、高齢者、外国人の、どこに違いがあるのだろうか。

付け加えるならば、LGBTQ、精神障害、身体障害、経済的貧困は、いつ自分が当事者になってもおかしくはない。
なんなら、長生きすれば必ず高齢者になる。
世界から見れば、私たち日本人も外国人だ。

偏見・差別があるというのは、ある意味では、自分との違いを認識して、そのことに関心があるということだ。
その意味では、よくないことではあるが、少し光は見えてると言える。
一番の問題は、違いが違いとして認識されず、そのことに関心が持たれず、取り残されることにある。

さて、偏見・差別の考え方だ。
要は、自分との違いに対し、それを許容できないということなのだから、「人に構わない。世の中にいろいろな人がいるんだなと思う。」ということからはじめてみてはどうか。
「構わない」というのは、自分との違いを指摘するなど、互いに何の嬉しみもないアクションをしないということだ。
「世の中にいろいろな人がいるんだなと思う」は、客観的に見て、存在を認めるということだ。

ここで例を出そう。
「この人、態度悪いな」と思う人がいたとしよう。
その人は、前日に知人と喧嘩をしたかもしれないし、寝不足で頭が回っていないのかもしれない。
読者がそうであるように、また筆者も、全ての人がそうであるように、人はさまざまなバックグラウンドを持っている。
「この人、感じ悪いな」と思う人がいたとしよう。
その人は、毎晩毎晩、その1日を「あぁすれば良かった。あれは悪かったかな。」などと反省するも、いざとなったら上手くできないだけかもしれない。
その人が持つバックグラウンドを知るには時間がかかるのだ。
そうしたことを考えれば、受け手も楽になるし、相手も楽になるだろう。

弱い云々の話に戻ろう。
「弱いのだから守ろう」という視点は個人的に少し乗り気でない。
むしろ守る理由があるならば「阻む何かがあるから守ろう」である。
もし、その「阻む何か」がなくなれば、「守ろう」から「声を取り入れよう」になるだろう。
そして、守るのみならず、その人が自立・自律できるなど、一定程度支援を受けながら生活ができる環境が必要だ。

問題・原因を抱えているのは、その人個人ではなく、社会だ。

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