言葉の理解で視力アップ

物事を見る目というものは、言葉の理解に左右され得る。

「多人数での会食は控えてくだされ」と呼びかけられたことがある。
医者の「会食はしましたか?」という問いに「いえ、していません。」と答え、「友人と食事はしました。」という趣旨のことを話す患者さんがいたという。
私人のSNS情報なので真偽を確かめることはできない。
ただ、この流れや発想は、簡単に想像することができる。

「会食」とは、単に複数人が食事をすることを指す熟語である。
この場合の患者さんがイメージするような「格式ある店での複数人の食事」や「会費制などの形式ばった食事」を指すものではない。

そもそも、「会食は避けてくれ」という言葉を額面どおりに受け取っても、理解が難しいかもしれない。
その背景にあることや言わんとしていることをくみ取る必要があるだろう。
それ以前に、文章の前後では、きちんと説明されていることが多い(いや、むしろ説明されていなければならない。)。

大衆に向けて何かを言うときには、ある程度、物事を単純化して簡単な表現で理屈を省略する傾向にある。
その方が伝えるもの簡単で、結論は伝わりやすいからだ。
したがって、額面どおりに受け取る人が多ければ多いほどに、言葉を理解して理屈で応用が利くように考える人が困ることもある。
理屈でいえば、手を消毒し、手づかみで食べず、黙食で、顔を手で触れないのであれば、複数人での食事もOKだ。
もちろん、この条件下であれば、お酒も飲んで良い。
ただ、人流のことを問題にした場合には、会食のために集合している点でNGと考えることもできる。
このように、言葉の意味に加えて、言葉の背景でも左右することがある。

付け加えるならば、「黙食」という言葉の意味を説明せずに、掲示などした場合の理解に差もあるだろう。
「黙って食う」ではなく、「黙々と食べる」と理解した場合。
「黙々」の意味は言葉を発しないとか、押し黙るとか、そのような意味だ。
他方、イメージとして「淡々と」「粛々と」がある場合には、必ずしも「黙る」という要素が頭にない可能性もある。
言葉はイメージで使われることもあるため、それを踏まえれば、あり得ない話ではない。
ここでの趣旨は、それほどに言葉の理解を標準化する必要があるということだ。

しばしば本来の日本語の意味を知る人と、見聞きしていない人との間で、理解に違いが生まれることもある。
言葉は生き物なので、ときの流れとともに意味や用法が変化することは致し方ない。
むしろ言葉を楽しむ上で歓迎しても良い現象だ。

新たな流行り言葉が常態化し、美しい言葉遣いが消えていくことは見過ごせないが、ある程度の許容は必要だと考える。

他方、理解に影響のない日本語の考え方もある。
たとえば、「他」という漢字には「ほか」という読みはもともとなかった。
多くの人が「ほか」という読みをするために、常用漢字表の読みに、あとから加わったくらいだ。
それから、「依存」は「いぞん」ではなく、「いそん」と読む。
同じように「既存」も「きそん」である。
「生存」は疑う余地もなく「せいぞん」だ。
これらも、理解に影響のない理解の差といえる。

その上で、私も「正しくは~」と表現しそうになるのだが、もっと正確を期するならば「本来は」や「慣習では」というのが適当だろう。
読みが増えることもあれば、当て字が常態化することもあり得る。

言葉の持つイメージや力を信じるということも大切だ。
ただ、伝えたいことを効果的に伝えたいならば、具体的な情報も必要になる。
そして、受け取る側も重要なので、言葉が持つ意味を知ることも大切。

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