voluntary restraint

「自粛」は、自ら進んで態度を改め慎むことである。
「不要不急」は、どうしても行う必要も急ぐ必要もないことである。
これらは自身が良心に従って判断することになる。
社会的に合意のある基準(社会通念)に照らして判断する場合もありそうだ。

いずれにせよ、自粛や不要不急はふわふわしている。
「自重せよ」と言えても、「自粛せよ」とは言いづらいものだ。
あくまで各個人に委ねられる判断である。

もっとも、「不要不急」は拙速な判断を戒める上では、多少落ち着いているかもしれない。
「今、この商品が本当に必要なのか」「この深夜に、このラーメンを食べて良いのか」といった課題は、「不要不急」で判断しやすそうだ。

ただ、「不要不急な外出」というのは、これ如何。
これまで何ら計画がないのに、「そうだ、京都に行こう」「今から行こう」は、おそらく不要不急だろう。
では、何日前から決まっていれば、不急なのか。
そもそも「不要」とは何か。
アーティストなどにとっては死活問題であるから、自粛などしていられない。
ファンが公演などに行くことは不要不急になるのか。

レジャーは不要か。
夜の街やお酒は不要か。
百貨店は不要か。

極端な話、人類が行うことは、ほぼ全て不要だろう。
別に生きられれば、多様な料理はいらないだろうし、ある程度、収束しても良さそうなものだ。
デザインも富まなくて困ることはない。

「自粛」も、本来的な意味から離れて、「自粛が当然」「派手なことはしてはならぬ」「外で食うてはならぬ」といった形で、外圧になっている。
そもそも自粛を要請するというのは、なかなかな表現だ。
自粛は要請されて行うものでないだろう。
ましてや、自粛に応じねば、指示に代わり、指示に従わねば云々という流れは、良心的な段階を踏んでいるように見えて、事実上の「自粛要請」=「勧告」ではないか。

ようやく再開という言葉を口にするようになってきた。
ところが、実証実験や検討の段階にある。
対策も遅くて中身がなければ、再開も遅くて中身は未定なのか。
この機を逃せば、また波が来て尻込みするのではないか。
次はおそらく11月だろうと、これまでの傾向からいう人もいる。

あくまで手続きや根拠を問うものであるから、曲解されなきよう。

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