モノクロの世界④─2

ふと目を開けると見慣れない天井が視界に入った。
驚いて一瞬身体がビクリとしたが、徐々に昨日のことを思い出す。確かこの辺に置いたはずと、頭の近くにあるであろうスマホを手探りした。指先に硬い物が触れたのでそのまま掴み時刻を表示すると、朝の6時。おぼろな記憶を元に窓の方を見るとちょうどカーテンの隙間から朝日がじんわりと差し込んでいる。
昨日一日が慌ただしく、布団に入るなりすぐに寝てしまったのだろう。しっかり休めて疲れは取れたが、何か大事なことを忘れている気がして室内をぐるりと見回した。
「…あ」
左隣にいる冨樫を見て、そういえばコイツも一緒だったんだと思い出した。
今日からは冨樫の依頼に取りかかることになるだろう。楽な内容ではないが時間的な猶予はまだあるし、有給休暇の期間が終わってしまったとしても最悪冨樫一人を置き去りにすれば良いだけの話だ。特に困ることはないだろう。
肝心の冨樫はまだ眠っているらしく、緩やかな腹部の上下が僅かに確認できるだけでそれ以外はピクリとも動かない。起こそうか迷ったが疲れているのかもしれないと思い止めておいた。僕は僕で確かに多忙だったが、しばらく家に来なかったのは冨樫も忙しかったからかもしれない。
思えば冨樫のことは知っているようで知らないことばかりだ。例えば行きつけのコンビニの場所や、年中アロハシャツを着ていること、仕事スタイルはマルチで基本なんでも引き受けていることは知っている。
だが、好きな食べ物や、何故アロハシャツばかりなのかや、何でも屋紛いの仕事をしている理由など、根っこの部分は知らないことが多い。
今回の依頼兼旅行で、好き嫌いせず食べているがお酒は飲んでいなかったなとか、宿の浴衣も似合うなとか、仕事の依頼に蔵掃除なんてあるんだなとか、そんな新しい一面を知ることができた。
とは言え、僕は僕で冨樫に話していないことがたくさんある。話したくても話せないことや、自分から話すことでもないから言わないでいることなどがある。
人に深く関わる気はない。どうせいなくなるのだから。短い付き合いになるのだ。知らなくていいこともある。
「ん…きょう?」
声が聞こえて我に返ると、冨樫が布団の中からもぞもぞと出てきているところだった。
「冨樫、おはよ」
「おはよ~…。ふぁーっ、眠ぃ…」
まだかなり寝ぼけているらしく、ぼんやりとした様子で目をゴシゴシとこすっている。
「そんなにこすると赤くなるぞ」
「はぁ~い…」
分かっているのかいないのか間延びした返事をよこす。
のそりと立ち上がると、洗面所の方へとよろけながら歩いていった。
浴衣の帯がほどけていたので踏んづけないか心配していると、予感は的中したらしく冨樫が消えた方向から「ゴツン」と音がした。
「おい、大丈夫か?」
さすがに気になり様子を見に行くと、額を両手で抑えながら悶絶している冨樫の姿があった。どうやら洗面台にぶつけたらしく、無言のまま床に突っ伏している。
「あーあ…」
かける言葉を失った。かなり痛そうだ。
とりあえず備え付けのタオルを水で濡らし、「ん」と冨樫に渡す。
「ありがと…」
左手でタオルを受け取ると、額をそっと冷やし始めた。
「ちょっと出てくる。保冷剤か何かないか聞いてくるわ」
「キョーちゃ…。ちょっ、待っ…」
冨樫が何か言いかけていた気もするが、僕は無視して宿屋で働く人に声をかけ、保冷剤をいくつか手にして部屋に戻った。
少しはマシになったらしく、冨樫は布団まで自力で戻っていた。
「ほい、保冷剤借りてきたぞ」
ハンドタオルにくるんで渡す。冨樫は何故か素直に受けてろうとせず、ああとも、うんとも判然としない返事をした。
「…冨樫?」
「あ、ううん。保冷剤、ありがと。…ねぇキョウちゃん、ちょっと聞きたいんだけど、この保冷剤は何て言って借りたの?」
「え?そのままだよ。部屋で転んで軽くぶつけてしまったので、冷やせるものを貸してもらえませんか?って」
どうしてそんな事を聞くのか不思議に思っていると、冨樫が「あー良かった!」と急に元気になった。
「何なんだよ一体」
「だって~もしも宿の人に、私が転んだとか、額をぶつけたとか話していたら、恥ずかしくて部屋から出られなかったもの~!」
「…は?いや、喋ったけど?」
「…え?」
「保冷剤貸してほしいって言ったら理由も聞かれるだろ、普通。だから『連れが部屋で転んで軽くぶつけてしまったので』って言ったんだ。そしたら、どこをとか出血はとか心配されたから、『額を打っただけなので大丈夫ですよ』って伝えたんだ」
「あ…そう…」
まさかそんな事を気にすると思っていなかったので、悪いことをした気分になる。
「…何かゴメンな」
「いいのよ…別に…いいの…」
目に見えてドヨンとしている冨樫。
どうしたものかと思ったが、今は何を話しても伝わらなさそうだとひとまず放っておくことにした。
着替えを済ませ、ほどなくして朝食の用意がされた。
女将は冨樫の怪我を見て深刻そうに眉をひそめ心配したが、冨樫はいつも通りへらへらと笑ってごまかした。
あれこれと支度をしている間に冨樫は普段の調子を取り戻したらしく、依頼をこなすべく宿を出る頃には元に戻っていた。
「あー、いい天気ねぇ~。まさに掃除日和って感じ~!」
うーんと気持ちよさそうに大きく両手をバンザイしている。雀がどこからかピピピ…と鳴いて空へと飛び去る。
「うるさいってさ」
「失礼ね」
「で、ここからどうやって依頼の場所まで行くんだ?」
「あっ、割と近いから歩いていくよ!大体30分くらいかな」
「……」
田舎道の30分は、実際歩いてみると1時間くらいかかるのではないか。
そんなことをふと思ったが、既に歩く気満々の冨樫を見て口を噤むことにした。
まあ、どちらにせよ歩けない距離ではないだろう。
「さあ、しゅっぱーつ!」

分かれ道のほとんど無い一本道をただひたすら歩き続けること早1時間。いい加減目的地についてもおかしくはないと思うのだが、目当てのものは見つからない。
というのも、蔵の外観の写真と住所を元に探し歩いているのだが、それらしき場所に建物が見つからないのだ。
「冨樫…一体どういうことだ。依頼人に再確認した方がいいんじゃないのか」
秋晴れも手伝って、額にはうっすらと汗が滲む。
「おかしいなあ~?この辺だと思うんだけどなあ~」
冨樫は首を傾げながら、写真を何度も見たり地図をクルクルと回し見たりしている。
おい、それは方向音痴の人間がやることじゃないか?
冨樫に限って方向音痴ということはないと思うが、何となく不安を覚えた僕は背後から冨樫の手元を盗み見た。
「あっ、キョウちゃん!」
「冨樫…これもうちょい先じゃないか?」
「…先?」
「ああ、地名は似ているが。ほら電柱を見てみろよ」
「……わー、本当だー」
何度も地図と電柱に書かれた住所を見比べてようやく気がついたらしい。どうやらもう一つ先の道のようなのでそのまま二人で並んで歩いていくと、ようやく写真と同じ蔵を見つけることができた。
ザ・蔵とでも言うべきだろうか。歴史の教科書に載っていてもおかしくないような立派な造りだ。よく見る白と黒のコントラストが美しい。持ち主がしっかり手入れしているのか、古さはあまり感じられなかった。ただ、瓦がほんの少しかけていたり、壁に微細なヒビが入っているのは確認できた。だが、逆に言ってしまえばそれ以外は特に気になる部分はなかった。
「とりあえず、中に入ってみよっか」
冨樫は鍵を取り出すと、扉の錠前に差し込みぐるりと回した。
ガチャン、と重たげな音がして錠が外れる。
ゆっくりと扉を横に開く。ギィと僅かに軋む音が静かな空気を揺らした。
扉をめいっぱい開いて中の様子を見てみる。雑然と箱が積み上がり、物置部屋のように感じられた。
その様相に違和感を覚えたが、何がそう感じさせるのかが分からなかった。
「ん~いっぱい物があるねぇ~。じゃあ、とりあえず片付ける物を分担しようか。僕はこっちの方を片付けるから、キョウちゃんは反対側からお願い。何があるかざっくりとしか聞いていないんだけど、紙類と衣類とその他でまとめてくれればいいって」
「分かった」
短く返し、左側の箱の山を眺めた。
ダンボール40~50箱ほどだろうか。それが重なっていたり一個だけ置かれていたりしている。
こんな乱雑な置き方がされているものを片付ける必要があるのだろうか。
内心ため息を吐きつつ、近くにある箱を片っ端から開けて整理を始めた。

「まだ結構あるな」
小一時間くらい作業をしていたが、終わったのは3分の1程度だろうか。とにかく物が多い。歴史的な価値のあるものは無いらしいが、それでも古くなった物を壊さないように仕分けしていくのは大変だ。
あまり詳しくはないが、保存状態は良いように思う。経年劣化こそあれど、虫食いや欠け割れなど破損しているものはほとんどない。雨水に侵食されたものも無く、紙に書かれている文字も読めるくらいだ。
「こっちも中々終わらないよ~」
少し離れたところから冨樫の泣き言が聞こえる。どうやらお互い進捗は芳しくないようだ。
「僕は一旦休憩する」
開きかけのダンボールを脇に寄せて外に出ると、突然の日差しに思わず目を細めた。薄暗い室内で作業していたせいもあるが、抜けるような晴天ということも重なって痛いくらいに眩しく感じる。
有給休暇を何に使っているんだろうか、とぼんやり思ったが、今更ぐちゃぐちゃ言っても仕方がない。
手にしていたペットボトル飲料をごくりと飲み、一息つくと再び中に戻った。
たった数分なので先程までの光景とほとんど変わらない。
「冨樫も休憩してきたらどうだ?」
「そうする~…」
僕と違い、冨樫は事務的な作業が苦手だ。
頭も身体も対して使わないから楽なはずなのだが。とはいえ、張り込みは何日でも続けられるのだから不思議だ。本人曰く、緊張感があるかないかで全然違うのだそうだ。言わんとしていることは分かるが、僕は張り込みの方が苦手だと感じるので理解は今ひとつだ。
ズルズルと気だるそうに足を引きずりながら外へと向かう冨樫を横目に、僕は再び荷物の山と向かい合った。
あまり歴史に興味はないのだが、何ともなしに手にした物を眺めては仕分けていく。どこかの村の地図、誰かの家系図、古い着物や帯、使用用途がイマイチ分からない陶器類。
はるか昔に生きた人の物に触れていることに、歯がゆいような、胸が苦しくなるような、何とも表しがたい気持ちになる。

生きた証がここにあるのだ、と。

「って、そんな繊細な生き物じゃないだろ僕は」
何を感傷的になっているんだ。一人苦笑いしつつ物の仕分けを続けていると、ふと気になるものを見つけた。
「……これは」
先程まで見ていたものと変わらない、どこかの村の地図とどこかの家系図。色褪せ所々に破れが見られるものの、書かれた内容の大部分は読める状態だ。
これの何がそんなに気になったのだろう、と自問してみる。この辺りの土地に縁は無い。なので知人が住んでいるという訳でもない。
なのに何故か、地図と家系図に引っかかるものを感じた。何か大事なことを忘れているような、だけど思い出せないくらい奥底にしまわれているような。そんな印象だ。
「戻ったわよ~…って、あら?どうしたの、そんなにマジマジと見て」
冨樫の声に、視線を手元から離した。
悪いことをしていたわけではないのだが、説明がしづらくて何となく後ろめたくなってしまう。
「いや、その、なんというか…テレビでしか見たことないようなものがたくさんあるな…と」
しどろもどろになりながら説明すると、冨樫も「そうだね~」と返してきた。
「こーんな古い地図とか、どこの誰のかも分からない家系図とか、捨てちゃえばいいのにね~。レキシテキカチって分からないわ~」
僕が持っていた紙に、鼻がくっつきそうなほど近づけて見ていたが、興味を失ったらしくすぐに離れた。
「さっ、さっさと終わらせちゃいましょう!」
何となく気にはなるものの、僕もこれ以上考えるのはやめにして、無心で手を動かすことにした。

「あっという間の二日間だったわね~!」
結局一日では終わらず、2泊3日に切り替えて片付けをした。
何とか依頼は終わったものの、冨樫の自宅兼事務所に着いたのは午後10時だ。
慣れない作業をしたせいか、身体のあちこちが痛む。
今日も本当は泊まっていきたいところではあったが、有給はあと2日しか残っていない。
あまり長居をすると、今度は帰るのが億劫になってしまうため、泣く泣く諦めたのだ。
「全く…僕の有給返せよ」
ジトリと睨みつけてやるが、冨樫は全く気にせずにルンルンで荷解きをしている。
正直言って僕はもう何もしたくないので、ソファにだらりと寝転んだ。
天井のライトが眩しい。手で光を遮りながら、ぼんやりと思考を巡らせた。
(…今回の、本当の目的は何だったんだろうな。単に人手が欲しかっただけ、とは思えないし…。たまに、なんていうか、こう…)
ここ数日の出来事を思い返していると、「ねぇキョウちゃん」と冨樫に呼ばれた。
「…何?」
「キョウちゃんはさ~、今回のりょこ…じゃなくて依頼、どう思った?」
心を見透かしたかのようなタイミングだ。
どきりとして思わず言葉に詰まってしまう。
「別に…楽しかったぞ?」
「そっかぁ~…」
冨樫の様子がおかしい。
普段なら「だよね~!ワタシもキョウちゃんと二人っきりで楽しかった!」とか何とか言いそうなのに。
気になってすぐそこにいる冨樫の顔をちらりと見てみると、険しい顔つきで何か悩んでいるように思えた。
「…ねぇ、キョウちゃん。あの蔵でさ、じーっと見ていた家系図とか、村の地図とかあったじゃない?」
「ああ。それがどうかしたのか?」
「…何かさ、気になることでもあったの?」
「……」
言葉を選びながら話しているような慎重さを感じる。まるで、一歩間違えば断崖絶壁から落ちてしまう、とでもいうような雰囲気だ。
「…別に、具体的に何かあったわけじゃない。ただ…なんて言うか、見覚えがあるような、ないような。懐かしいような、知らないような…。多分、テレビか何かで見たものと重ねているんだと思う」
「…そっかぁ」
ぎこちない沈黙が僕達の間を漂う。この空気に色をつけられるなら、雨が降りそうなくらい沈んだ灰色が似合いそうだ。
「ねぇ、キョウちゃん。もしも…もしもね…」
あまりに切羽詰まった声を出すので、ソファから身体を起こして冨樫の方を見ると、相手も僕の方を見ていた。
互いの視線がぶつかり合う。
「……ワタシのことが好きなら、そう言って?」
「……はあ?」
意味が分からず、頓狂な声をあげてしまった。
「だ・か・ら!ワタシのことが好きなんでしょ~!も~そう言ってよね~!」
「待て待て待て。どうしてそうなった?」
「だって~キョウちゃんったら、ワタシのことをアツ~い眼差しで見つめてくるんだもん!ドキドキしちゃったわ!」
「……」
呆れて何も言えない、とはまさに今この状況の為にあるのだろう。
先程までは多分、別のことを話そうとしていたのだ。
だが、僕と目を合わせ、言葉を飲み込むことに決めたらしい。
こうなると、冨樫は絶対に答えてくれない。
「はぁぁぁー……」
仕方なく僕は、特大のため息でこの場を濁すことにしたのであった。

【続く】

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