モノクロの世界③

カタカタカタカタッ

キーボードをリズミカルに打つ音が、シンとした空間に響く。
ここには僕の他にも人がいるはずなのだが、いつもの如く気配は感じられなかった。それもそのはずで、各個人の部屋は半個室状になっており互いの集中や仕事の邪魔にならないような作りなのだ。今の隣人が誰かも知らない。前に、隣にいると思っていたチームメイトが部署異動していたなんてこともあった。しかも半年間全く気付かなかったのだ。
こんな感じでも仕事や組織が成り立つから不思議である。完全に分業状態だ。
ちなみにこれはウチの部署だけらしく、一つフロアが変わればチームメイト同士が和気あいあいと話す姿も見られる。

まあ、僕のいる部署は変人揃いだからな。

パソコンをパタリと閉じ仕事を終える。
椅子に適当に引っ掛けてあった上着を掴み、帰ろうと通路に出ると珍しく人と出会った。
「桜木さん、お疲れ様でした」
相手は僕のネームプレートをちらりと見ながら挨拶をしてきた。名前なんて分からないよな、うんうん。
「はい、下田さんも」
僕は軽く会釈をした。確か3ヶ月くらい前に異動になっていた人のような気がする。
ちなみに、桜木というのは会社で使っている偽名だ。
一言断っておくが、偽名OKの会社ではない。僕は例外だ。
エレベーターに乗り1階へと降りるとエントランスに出た。僕以外の人間は2~3人くらいで、誰の顔も知らなかった。声もかけず外に出ると、綺麗な夕焼けが僕を迎えてくれた。
夏も折り返し地点。徐々に日は短くなってきたものの、やはりまだ18時台は空が明るい。歩道には人が疲れた様子を見せながら歩いている人がたくさんいて、僕の勤め先とは別世界のように感じた。

世の中って人がいっぱいいるんだな。

毎日こうした「ズレ」のようなものを感じる。
たまに世界がハリボテに見える時もあるのだ。
子どもがおもちゃの庭や建物を作るように、目に映る物が巨大な手で創作された物に感じられる。木も、建物も、人さえも。全てが滑稽に思えてくるのだ。もちろん自分自身さえも。
僕のいる世界がモノクロに感じられるのだ。色のモノクロではない。言葉では表しにくいのだが、神様の箱庭といったイメージがするのだ。神様の気分次第ですぐに壊され、また作り直される。そんな印象だ。

申し遅れたが僕の名前は狭間キョウ。会社での偽名は桜木。ごくごく普通の会社員である。優れた資格もキャリアもないが、日々定時に出社し残業無しで上がるというホワイトな働き方をしている。

ただ一点を除いては。

***

ガチャッ、バタン。

「はーっ」
リビングに入るなりソファにダイブした。
職場は快適空間なのだが、往復の電車30分と徒歩30分がただただしんどい。暑いのは大の苦手なので、普段なら1時間くらいなんてことないのだが、夏場は2倍も3倍も時間と体力を消耗している気がする。
かといって冬は冬で雪にやられるのだが。
手探りで机の上のリモコンを見つけると、ピッピッピッと設定温度を下げた。定時帰宅なので家に着く頃には涼しくなるよう予約設定しているが、今日はいつにも増して暑く、とにかく今すぐ涼しい風が欲しくなった。

こうやって温暖化は進むんだな。いや、沸騰化か。

偉い人も言葉を選べなくなるくらい地球の状態はヤバいんだろうなとぼんやり考えつつ、あと15分だけは許してくれと地球に謝った。
そのまま15分間へたばった後、設定温度を戻しシャワーを浴びることにした。最初からそうすれば良いのだろうが、その気力も湧かないくらいぐったりしていたのだ。
温度と湿度が重要とはよく聞くが、身体が熱を持ってしまっていると、温度も湿度も関係無しにダルくなってしまう。熱っぽいとはまさに、こんな状態の時に使う言葉だろう。
水からお湯になるまでの僅かな間、足元を冷やす。身体の末端を冷やすといいと聞いたことがある気がする。ひんやりした心地が気持ち良く、お湯に変わるのが少し勿体ないと感じた。とはいえ水を全身に浴びる勇気は無いので、ぬるめのお湯でささっとシャワーを終えた。
髪をガシガシ拭きながら下着姿で台所へと行き水を飲む。少し恥ずかしい気もしたが、どうせ誰も見ていないのだからまあいったかと一人頷く。極力衣服を纏わないと開放的な気分になるのは、それだけいつも自分が洋服に縛られているからなのだろうか。

確かにこのクソ暑いときに上着なんかいらないよな。

「上着」でふと思い出し、ソファにほったらかしだった上着をシワにならないようにハンガーにかけた。暑いのにアイロンなど使いたくない。
それからカバンを漁り、中身を整理する。朝と帰りで中の物はほぼ変わっていないのだが、なんとなくごちゃごちゃしている気がして、こうして毎日直しているのだ。
ちなみに出勤前にも確認している。
ようやく一息ついたところでテレビをつけてみた。特に見たい番組がある訳ではないが、自宅で仕事とは無縁なため、家にいると手持ち無沙汰になってしまう。
画面にはいつも見ているニュース番組が映っていた。この人達は夕方を過ぎても仕事しているんだなぁ…などとズレたことを考える。『世界は誰かの仕事でできている』なんてセリフもあるが、まさにその通りだと思う。自分が休めるのは、知らない誰かが働いてくれているからなのだ。その名前も顔も知らない誰かさん達に感謝しつつ、ぼーっとテレビを眺める。いつも似たようなニュースばかりだ。どこどこの誰それが死んだ。何なにでアレコレが発売・発表された。今の季節と言えばあれですよね!明日の天気はほにゃららで~。

ニュースって、何のためにあるんだろうな。

画面の向こう側にいる人全員を敵に回しかねない独り言を脳内で反芻してみる。
不特定多数の人間に情報を伝えるのには向いているのだろうが、知らない人間が死んだ話とか、興味のない時事ネタとか、正直見るのはつまらない。それはどこか自分に無関係だと感じているからだろう。人が死のうが、季節がどう巡ろうか、どうでもいいのだ。それを知ることに果たしてどれ程の価値があるのだろうか。自分の人生が激変するほどのきっかけとなってくれるのだろうか。どうせ3日もすれば忘れ去られてしまうのに。刹那を詰め込んだ毎日は繰り返さないというのに。
『ジャジャーン!!次はこちらの…』
派手な効果音が耳に届き我に返った。こうして暗黒ループの思考にハマってしまう自分に呆れてしまう。考えるのは嫌いじゃないし、思考をとことん突き詰めていくのも好きだ。答えが出ないと分かっていてもなお、考えてしまう。だけど放っておくと、最初の論点からどんどんズレてしまうのだ。「あれ?最初何考えていたんだっけ?」となることも珍しくはない。頭が良いのかバカなのか自分でも分からないが、最終的に考えることすらどうでもよくなるあたり、ただの飽き性なのだろうと思うことにした。
すっかり体の熱も冷め、エアコンが寒く感じられてきたので設定温度を元に戻した。軽く腹ごしらえしようかと冷蔵庫を覗いてみると、昨日の残りのご飯と納豆とサラダがあった。冷凍庫には唐揚げもある。これでいいか、と手に取りそれぞれ温めると立派な夕食がテーブルに並んだ。一人暮らしだとこんなものだろう。冷蔵庫も綺麗になって一石二鳥だ。
誰かと食べる食事が嫌だとは思わないが、やはり一人で静かに好きに食べる方がいいなと改めて実感する。一人でいることに慣れてしまっているせいもあるが、他の誰かとテーブルを囲むとつい食べ方やバランスなどに気を配ってしまい、あまり食事そのものを楽しめなくなってしまうのだ。ここで言うバランスとは、野菜多め肉少なめとかそういった意味ではない。相手はどのメニューを好んで食べているか。相手が好きそうなものは相手に差し出し自分は残りそうなものから優先的に片付けていくといった意味での「バランス」だ。

…もう少し、他人といることに慣れた方がいいのだろうか。

小さくため息をつく。こればかりは何年経っても解決しない問題のような気がした。

***

「──…」
ヒソヒソとした囁き声が聞こえる。
暗闇の中、薄らと目を開けて声がした方に視線を向けてみた。
大人が二人。男女は分からないが、若い声のような気がする。二人の前には蝋燭が一つ。洞窟のようなものの中にいるのか、蝋燭の火がぼんやりと岩肌を照らし出していた。こちらに背を向けているため表情は見えないが、何やら深刻な話のようだ。
「アイツは──だから…」
「でも、それは──」
会話の中身までは届かないが、どうやら片方が何かしようとするのを、もう片方が止めようとしているようだ。
そのまましばらくボソボソと話し合っていたが、突然右の人間が立ち上がった。
「っ、もういい!」
低い声でそう言い放つと、もう一人が止めようとするのも気にせずこちらに近づいてきた。
「お前がいるから──!」
ボグッという鈍い音と共に、意識は遠のいていった──。

「っ!!」
ガバリと身を起こすと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
「クソっ…胸糞悪い…」
夢だと気づき髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。気持ちの悪い汗が服をじっとりと濡らした。
何度見ても嫌な夢だ。いや、厳密には夢じゃなく過去の記憶だ。遠い昔、まだ家族と共にいた頃の──。
「いや…いい…」
思い切り頭を左右に振る。その時の感情がせり上がってきそうになるのをぐっと堪えた。

思い出すな!

自分に強く言い聞かせる。思い出さなくていい。記憶の糸を手繰らなくていい。ギュッと胸元を掴みながら布団の上で丸くなる。恐怖が、苦痛が、飛び出さないように。心の蓋を必死になって押し込めた。
「…っ、はぁ…はぁ…」
途中、息をしていたのかさえも分からなくなるくらいだった。少しずつ呼吸を取り戻し、もう一度ゆっくりと身体を起こした。
額から汗がポタリと垂れる。小さな雫は布団にじんわりと染み込んでいった。
いつまで経っても忘れることの出来ない記憶は、こうして夢という形に変わってまで苦しめてくる。まるで思い出せと言わんばかりに。
こっちは忘れたいと言うのに。
はぁーっと深く長く溜め息をついた後、そっと布団から出て冷蔵庫に向かい、冷えたペットボトルの水をごくりと一口飲んだ。
「もう…忘れさせてくれよ…」
暗い部屋の中、自分自身に言い聞かせるように呟いた言葉は、どこへともなく流れていき静寂に吸い込まれて消えていった。

***

「キ・ヨ・ウ・ちゃ~ん!」
「ぐあっ!」
いきなり背中から抱きつかれ、思わず変な声が出た。例によって冨樫はまた僕の部屋に来ていた。最近どうも頻繁にやって来るのだが、世間話や近況報告をしてはふらりと帰っていく。
昨夜は夢見が悪くあまり眠れなかったので昼寝でもしようと思っていただけに、いつにも増して冨樫のテンションがうざったく感じる。
「何なんだよ、もう!」
「あれ?何だかいつもよりイライラしてる?」
やっと気づいたかと言わんばかりの勢いで睨みつけてみたが、冨樫はどこ吹く風で「どうしたの~?」と聞いてきた。
「昨夜嫌な夢見ちまったから寝不足なんだよ」
「もしかして、お昼寝の邪魔しちゃった?」
「そういうことだ」
へえ~と冨樫は呑気に言う。
「そんなに変な夢だったの?」
「変…って言うか。…昔の出来事が、夢に出てきたって感じかな」
思い出しそうになり、ギリッと奥歯を強く噛み締める。
「キョウちゃんの昔話かぁ~、気になるな~」
いい歳のオッサンに上目遣いされてもイラッとするのだが。
「いい歳のオッサンに上目遣いされてもイラッとするのだが」
「ちょ、キョウちゃん!心の声ダダ漏れだよ!」
「失礼。ついうっかり」
「うっかりってレベルじゃないじゃんさ!」
冨樫と出会ってしまった5年前の自分に心の底から同情する。あの時は冨樫のことを「なんていい人なんだ」と思っていたのだ。過去に戻れるなら5年前の自分を思い切りぶん殴って目を覚ましてやりたい。
コイツは全然「いい人」じゃない。ただのイカれたオッサンだ、と言ってやりたいくらいだ。
「別に、僕の昔話なんて面白くもなんともないよ」
「え~?聞きたい聞きたい!」
「面白くないから話さない」
「今のは話す流れだったじゃん!」
「そんな流れは存在しない」
ぶーぶー文句を言い続けている冨樫は無視することにして、僕はソファから立ち上がった。
昔の記憶なんてもう僅かしか残っていない。その癖嫌なことは夢になってでも思い出させられてしまう。もっと何か、優しい思い出や温かい記憶もあったはずなのに。それだけあの日の出来事は強烈で良かったもの全てを塗り替えてしまい、憎悪と嫌悪だけになってしまったのだろう。トラウマなんて生易しい言葉ではくくれないくらい、深く深く無意識の領域にまで食いこんで抜けてはくれない痛みと拒絶が、心の中にずっとずっと居座り続けているのだ。
だが、これをどう説明したらいいかも分からない。
喉元でつかえている言葉を飲み込むように、冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶をごくごくと一気に流し込んだ。
「キョウちゃ~ん、僕にも飲み物ちょうだ~い!」
「水道水で十分だろ」
「ひどっ!」
面倒くさいと思いつつ、たまたま買い置きしていた炭酸ジュースを手に取りソファへと戻る。
「ありがと~!炭酸好き~!」
頬ずりするかのような勢いで炭酸ジュースに顔をくっつけている。ニマニマと嬉しそうに笑う顔がまた若干キモい。

やっぱり水道水にしときゃ良かったか。

失敗した…とため息をつく。
冨樫なそんな僕の様子には気づかずにキャップを開けると、ぐびぐびと一気に飲み干した。
「かぁ~、キク~!やっぱり炭酸は一気飲みだよね~」
すっかり空っぽになったペットボトルに、流石に驚いた。
「今、10秒くらいで飲み終わらなかったか?」
「え~?そんなに早くは飲めないよ。多分15秒くらいじゃないかな?」
「いや、そんなに変わらんだろ」
微妙に論点がズレているような気もするが、気にしたって仕方ない。これが冨樫という男だ。どこでもブレないキャラを褒めるべきなのか、それとも呆れるべきなのか。
「で?キョウちゃんの過去って?」
「いや、スルーしようよ」
「えー…。どうしてもダメ?」
ダメではない…が。
「別に、面白くもなんともない話さ」
ソファに深く座り直し冨樫をチラリと見ると、目で「続けて?」と返してくる。
はぁ…と一度深くため息をついてから、僕は記憶の糸を手繰り始めた。

***

あれはもう何年も前の話さ。
それこそ両手の指じゃ足りないくらい昔のね。
だから僕の記憶は本当に朧げで、名前や顔を思い出せない人もたくさんいる。
まあ、その辺は適当に割愛しながら話していくね。

僕の生まれ故郷は、ほんとにド田舎だった。
周りには田畑が広がり、隣町までは歩いて半日はかかる。
不便ったらありゃしない。
そこでは男も女も、老人も幼子も関係なく日が昇ってから日が沈むまで、毎日毎日飽きもせず野良仕事をしていた。
僕の家も例外じゃなかったし、僕もまた同じように毎日外に出ては働き、日暮れと共に休む生活だった。
村は共同体みたいなもんだから、一人が病に倒れれば誰かが医者を呼び、誰かが代わりに仕事をする。
乳飲み子や身体の自由の利かない者が家族にいれば代わりに世話をしてやる。
飢える時は等しく飢え、豊穣の時には天に祈りを捧げ等しく分け与える。
それが普通だった。

同じ毎日を繰り返し続けていたある日、いつもと違う出来事が起きた。
旅人がやってきたんだ。
僕も二度見かけたことはあるが、二人とも村で一泊した翌日には既にいなくなっていた。
まあ、これといって何も無いから当然なんだけどな。
だからその旅人も明日にはいなくなるだろうと思い、特に気には止めなかった。
ところが、そいつは次の日になっても村に残った。
それどころか村から出て行く素振りも見せず、気づくと家を建てて住み始めていたんだ。
村の連中は喜んでいたが、俺は何となく腑に落ちなかった。
理由や根拠があったわけじゃない。
ただ、ふとたまに見せる旅人の表情がどこか嘘臭く、笑顔の裏にギラついた素顔を隠しているような、そんな気がしたんだ。
そんな僕のモヤモヤした気持ちを嘲笑うかのように何事もないまま、あっという間に一年が過ぎた。
すっかり旅人は村の住人となっていた。
周りに溶け込んでいて、まるで昔から一緒に暮らしていたかのように感じるくらい馴染んでいた。
僕の不安はどうやら杞憂のようだ。
そう、思ってしまったんだ。

何の前触れもなかった。
少なくとも僕が気づかないくらいには、皆普通にしていた。
いや、「普通のフリ」をしていたんだ。

あれは雨が激しく降る朝のことだった。
前日の夜中から降り続いた雨で村のあちこちに水たまりがたくさん作られ、田んぼの水位も上がり、畑の作物は雨粒の重みでしんなりと葉や茎をしならせていた。
山に近い村だ。
決して珍しいことではない。
去年も、その前も、更に昔にも同じ光景を何度も見ている。
だから僕は「ああ、また梅雨が来たのか。それとも今だけの通り雨か」と思っていた。
両親は用事があるといい雨の中出ていったので、僕は家で一人留守番をしていた。
雨粒が屋根や壁を叩く音を聞きながらぼんやりしていると、突然玄関の戸を激しく叩く音がした。
バンッ!バンッ!バンッ!
僕は驚いて身動きが取れずに部屋で固まっていた。
すると音の切れ間から誰かの声がした。
父さんと母さんの声だった。
「お願い!開けてちょうだい!」
「頼むから早く!」
鍵もかかっていないのに何故自分たちで戸を開けようとしないのか不思議に思ったが、あまりに切羽詰まった声だったから考えるよりも先に体が動いた。
「今開けるよ!」
そう言って戸をガラリと開けた途端、必死の形相をした二人がなだれ込むようにして家の中に入ってきた。
傘もささずに帰ってきたのか、全身ずぶ濡れになっていた。
「はぁっ…はぁっ…」
「と、父さん、母さん。どうしたの、一体」
「…出るぞ」
「えっ?」
「ここから出るぞ」
「出るって、こんな雨の中どこに…」
「いいから早く支度をするんだ!」
父さんの怒声に圧倒され、思わず一歩身を引いた。
どういうことかと母さんの顔を見たが、母さんは唇まで真っ青にし震えながら、黙ってこちらを見つめるだけだった。
訳が分からないまま外に出る準備を終えると、父さんにぐいと右腕を強く引っ張られ外に連れ出された。
冷たい雨が顔を容赦なく打ち付け、掴まれた右腕は父さんの力が強すぎてギリギリと痛む。
僕はもつれそうになる足を懸命に動かしながら必死で両親について行った。

それからどのくらい歩いたのか僕には分からない。
どうやら、途中で疲れて倒れてしまったらしいからだ。
次に目を開けた時には、視界に岩が見えた。
ひどく暗くて見えづらい。
目をゴシゴシこすってみたが、あまり変わらない。
この岩はどこまで高いのかと寝転がったまま視線を上へと向けてみると、それは天井まで続いていた。
どうやらここは洞穴のようだ。
「うっ…」
寝返りを打とうとした瞬間、下半身に違和感を覚えた。
倒れた時にぶつけたのか、両膝が痛む。
ゆっくりと身体の向きを反対にすると、少し離れたところに小さな灯りと二つの影が見えた。
僕に背を向けているため顔はよく見えなかったが、背格好からして恐らく両親だろう。
「とうさ…」
僕は声をかけようとしたが、風邪でも引いてしまったのか、ガサガサとした掠れた声しか出なかった。
「…だから…なんだ」
「でも……なのよ」
洞穴の壁に反響して二人の話し声がこちらに届いた。
内容まではよく聞こえなかったが、何やら大事な話のようだ。
何となく起きているのを気づかれちゃいけない気がして、僕は目を閉じてゆっくりと寝返りを打ち寝たフリをすることにした。
そのまま二人はボソボソと低い声で話し続けていた。
僕を起こさないようにするためというよりかは、僕に聞かれないようにしているような様子だった。
段々聞き耳を立てるのにも飽きてきたので、僕はうとうとし始めた。
「もういいっ!!」
突然父さんの怒鳴り声がした。
まるで雷鳴が轟いたような強さと怖さに満ち溢れた一言だった。
「ダメよ!」
母さんの悲痛な声に僕は飛び起き、慌てて二人のいる方を見た。
父さんは僕の方へ向かってこようとしていた。
それを母さんが必死にしがみつき止めようとしている。
「と、とうさん?かあさん?」
掠れた声を何とか振り絞って二人に声をかけた。
「逃げなさいっ!」
父さんにしがみついたまま、母さんは今まで聞いたことがないくらい大きな声で叫んだ。
僕は立ち上がると、脱兎の如く洞窟内を走った。
「待てっ!!」
父さんが大声で叫んでいるのが聞こえる。だけど、怖くて立ち止まる気にはならなかった。
どちらが外に繋がる出口かも分からない。
当然明かりはないから、真っ暗な中を闇雲に走っているだけだ。
何度も石につまづいて転んだり、壁に気がつかなくてぶつかったりしながら道無き道を進み続けた。
必死に走りながらも、頭の中ではさっきの出来事を思い出していた。
いつも穏やかな母、厳しいが優しい父。
それが僕の知っている二人だった。
だけど先程の二人はどうだ。
母さんは髪を振り乱して父さんにしがみつき、父さんは能面のような感情のない虚ろな目でこちらを見ていた。
いや、虚ろの奥に、激しい怒りの色が見えた気がした。
あれは、しがみつく母さんに向けてなのか。
それとも、僕に向けてなのか。

どこをどう彷徨い続けたが分からない。
息はすっかり上がり切ってしまい、走る足にももう力は入らない。
肺は落ち着いて呼吸することを求め、膝はガクガクと震えている。
身体中の水分が奪われたかのように、いつの間にか汗も流れなくなっていた。
喉も口もカラカラだ。
もう一歩も動けない…と足を止めようとしたその時、視界の端に光を感じた。
ハッとして右側に顔を向けると、遠くに小さな光が見えた。
出口だ!と思い、疲れも乾きも忘れて光目指してがむしゃらに走った。
光はどんどん近くなる。
火のような明るさじゃない。
太陽だ。
太陽の光が出口を示してくれている。
暗闇に慣れすぎた目では、徐々に壁に反射する光すら眩しく思えた。
あと少し、あと少し、はやる気持ちが抑えきれない。
勢いのまま光の中に飛び込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ…っ!」
がくりと膝をついた。
流石に体力の限界だった。
荒い息のまま辺りをゆっくりと見た。
緑、緑、緑。
洞窟の出口付近はやや開けているが、目の前にあるのは背の高い木と、膝まで隠れそうなほど鬱蒼と生い茂っている葉っぱ。
ちょうど出口に向かって陽の差す角度だったから遠くからでも気づけたのだろう。
もしも夜だったり、木々と日差しが重なる時だったらきっと今も暗闇の洞窟を彷徨い続けていたに違いない。
「…それにしても」
ここは一体どこなのだろうか。
景色に全く見覚えがない。
洞窟の入口と出口が別々だったのだろうか。
とりあえず適当に道を探してみようかと、ゆっくり立ち上がった時だった。
「いたぞ!あそこだ!」
「っ!?」
突然、男性の声が聞こえた。
直後、ガサッガサッと目の前の草が揺れた。
どうやら一人ではないらしい。
三人、五人…、あっという間に十人になった。
そしてその十人の顔には全員見覚えがあった。
(…!村の皆)
友人の父、隣に住むおじさん、毎日笑顔で挨拶してくれるお兄さん。
知り合いの顔に安堵して歩み寄ろうとしたその時だった。
「ここにいたのか!」
「手間かけさせやがって!」
普段からは想像もできないような、恐ろしい表情でこちらを睨みつけてくる。
「え…?」
僕はそのギラギラとした鋭い目付きに怖くなり、一歩踏み出した足が固まった。
まるで飢えた野犬を前にしているかのようだ。
(そういえば、父さんも…)
洞窟で見た父も、目の前にいる大人達と同じようなギラついた目をしていたのを思い出した。
ザワッ、ザワッと木々が揺れる。
言い表しようのない恐怖が喉元に込み上げてくるが、そこで張り付いてしまったかのように声になって出てくることはなかった。
「お前が…お前さえいなければ…」
「殺せ…殺してしまえ…!」
男達はじりじりと僕に近づいてきた。
「あ…あ…」
何故こんなに殺意を向けられているのか分からず混乱していると、ふいに後ろからジャリッと砂を踏む音がした。
後ろは僕が来た洞窟だ。
いつの間に背後に回られたのだろうと、ぎこちなく首を回して洞窟の出口の方を見てみた。
そこにいたのは、僕の両親だ。
母さんは父さんに髪を鷲掴みにされ、引きずられるようにしてよろけながら歩いてくる。
父さんもまた、他の男達と同じ目をしていた。
強い怒りと憎しみの混ざった恐ろしい目だ。
どうしたら良いか分からず立ちすくんでいると、母さんが僕の存在に気がついた。
「逃げなさい!」
母さんはガサガサに割れた声で僕に向かって叫んだ。
「余計なことを言うな!」
「きゃあっ!」
父さんが思い切り母さんを殴り飛ばす。
「母さん!!」
僕が駆け寄ろうとすると、男達が両脇から僕に掴みかかってきた。
「離せっ!」
「うるせぇっ!」
ジタバタと身体を動かすが、大人の男が四人がかりで抑えにきているせいで全く抵抗出来なかった。
「やめてぇっ!」
母さんが今にも泣き出しそうな声を絞り出している。
「黙れ!」
「こいつさえ…」
「こいつさえいなければぁぁぁぁぁあ!」
「いやぁぁぁぁぁあっ!」
「母さん…父さん…っ!」
「死ねぇぇぇえっ!!」

***

「気がつくと僕の周りは血溜まりになっていた。僕以外の全員が死んでいた、ように思う。…正直、このあたりの記憶は途切れ途切れだ。どこまでが現実で、どこから妄想かは自分でももう分からない」
一度も冨樫と目を合わせず、ひたすら目の前にあるテーブルを見つめながら過去を語り終えた。
「……」
なんとも言えない静けさが室内を満たしている。
気まずいので何か喋ろうと思うのだが、言葉が口から出てこない。
やっぱり話さなきゃ良かったかと苦い思いをしていると、「キョウちゃん」と徐に冨樫が僕を呼んだ。
「…何だ」
「ありがとう、話してくれて」
「…は?」
「だから、ありがとうって。昔のことを、話してくれて」
顔を上げると、優しい目をした冨樫と視線がぶつかる。
冨樫は、優しげで、悲しげで、どこか嬉しそうで、でも辛そうな、複雑な笑みを浮かべた。
「…別に、礼を言われることのほどじゃ」
「それでも」
冨樫は僕の言葉をピシャリと遮る。
「それでも、嬉しかったんだよ。キョウちゃんが自分から、自分のことを話してくれたのが」
「…大した話じゃないし」
「大した話だよ。思い出すの、辛かっただろ?」
「そんなことない。もう随分前のことだし」
「でも、泣いてるよ」
「え?」
そんな馬鹿なと思い、自分の左頬に触れてみる。手が濡れる感触がした。雫のついた指先を見て、初めて自分が涙を流していることに気がついた。
「…どうして」
過去は乗り越えたと思っていたし、実際話している時も何の感情も湧かなかった。なのに何故、僕は泣いているのか。
「キョウちゃんさ、このことを誰かに話すのって初めてだったりする?」
冨樫に聞かれ、少し考えてみる。
「…そうだな。昔のことを話すのは、これが初めてだ」
「だからじゃないかな。今まではずっと一人で抱え込んで、思い出さないようにとか、もう大丈夫って自分に言い聞かせていたから、蓋が開いて感情が外に出てきたのかもよ」
「…なるほど」
それは確かに一理ある気がした。思い出してもあまり気持ちの良い記憶ではない。だから、感情と共に蓋をして奥底にしまいこんでいたのかもしれない。
「キョウちゃんにとっては辛いかもしれないし、思い出したくもないかもしれないよ。だけど、僕は今日聞けて良かったって思う」
「…ありがとう、冨樫」
「キョウちゃんがお礼を!?」
「僕だって礼ぐらい言うさ」
冨樫が大袈裟に仰け反って僕を茶化す。
僕は少しばかり気恥ずかしくなったが、不思議と悪い気分ではなかった。
「ところでキョウちゃん。一個だけ質問してもいい?」
冨樫はハイ、と小さく手を挙げて僕に聞いた。
「ん、何だ?」
「その過去の話、一体どれくらい前なの?」
「……」
鋭いところを突いてくる。気づいていないようで、しっかり気づいている。流石は冨樫だ。
「さあな。この頃の記憶はあやふやだから確かなことは言えないが、大体五、六年前くらいじゃないかな。それがどうかしたか?」
「いや、なんて言うかさ。キョウちゃんがすごーく昔のように話すから、いつのことなのかなぁって」
「まあ、その後も色々あったからな。年齢以上に歳月が流れたような感覚もするし。まだ二十四歳なんだが、中身は大分大人になった気がするしな」
「ふうん」
冨樫は納得したのかしていないのか、よく分からない短い返事を返してきた。
僕もそれ以上何も言わなかった。これ以上喋ってしまえば墓穴を掘ってしまいそうだからだ。
「で、お前は一体何の用でウチに来たわけ?」
随分と話し込んでしまったが、そもそも冨樫が今日ウチに来た理由をまだ聞いていなかった。
「あ、そうそう!すっかり長話して忘れてた!あのね…」
冨樫は両手をパンと合わせて、思い出したように話し始めた。
胸のどこかがチクリと痛んだ気がしたが、気にしないようにした。
冨樫には悪いが、まだ全部は話せない。時が来ればとも思うが、その「時」がいつなのかも分からない。
「ちょっと、聞いてる?」
いつもの調子で、若干オネエが入ったような喋り方に戻っている。こっちの方が冨樫らしい。シリアスは似合わない。
「悪い。なんだっけ?」
「ちょっと!ちゃんと聞いててよ!」
そんな下らないやり取りをしながら、僕は昔話を再び心の奥底にしまいこんだ。

数時間話した後、冨樫は満足したのか「じゃあね~」と帰っていった。相変わらず話す内容は世間話に近いものだ。この家に来ることそのものが目的のようにも感じる。かと思えば、「仕事はどう?」「恋人できた?」と急に僕の身の回りのことに話を振ってくる。
「何を考えているのやら…」
軽薄そうに見えるが、冨樫はなかなか切れ者だ。そのせいか、冨樫は裏のボスと繋がっているだの、全世界の情報を持つスパイだの、実は暗殺者だのと、嘘か真か分からない噂が絶えない。
僕も人の心を見抜く目には自信がある方だが、冨樫に関してはさっぱり通用しない。面の皮が厚いというか、巧妙に隠しているのだ。
それでも僕みたいなのを拾ってくれる辺り、意外と優しい一面もあるのかもしれない。まあ、どこまでが計算された行動かは謎なのだが。
「ふわ…ぁ。とりあえず、喋り疲れた」
悪夢にうなされてあまり眠れなかったせいか、今になってどっと眠気が押し寄せてきた。ちらりと壁にかかる時計を見ると、夜の7時を過ぎていた。
「ちょっと早いが…もう寝るか…」
堪えきれず大きな欠伸をする。
もしも今日、再び悪夢が襲ってきたとしても、冨樫が夢に現れて笑わせてくれそうな気がした。
「冨樫、ありがと…」
誰もいない部屋で、ぽつりと感謝の言葉を呟いた。

その夜、再び夢を見た。
夢だと分かるのは、冨樫が泣いているからだ。
アイツの泣き顔なんか今まで見たことがない。
「似合わないよ」
そういって僕が冨樫の涙を拭おうとすると、急に強い力で腕を掴まれた。
「キョウちゃんの嘘つき」
暗い、冥い両の瞳が、僕を捕らえて離さなかった。
「冨樫…」
「裏切り者」
そう言うと、それきり冨樫は動かなくなった。
夢はそこで終わり、目が覚めた時にはもう忘れていた。

***

いただいたサポートは本の購入費として使わせていただきます!また、note収益金の内、10%を子ども達に絵本をお届けする活動の支援金として使わせていただきます。