モノクロの世界

同性カップルの蓮と和真。二人と同居する私・キョウ。少し変わった組み合わせの同居生活に、ある日突然影が差す。両親とは絶縁。バイト先にはゲイバレ。それでも互いを信じ、元の日常を取り戻そうとするが、更なる悲劇が彼らを襲う。愛を貫き、和真と蓮が行き着く先とは?そしてキョウは何を思うのか。「私」目線から紡ぐ恋愛ストーリー。


バタタタタタタッ。傘に、足元に、叩きつけられるように降ってくる雨。濡れて張り付いてくるズボンの裾。同じく濡れた脇のカバン。何故人類は進化し時代は進んでいるのにコイツは変わらないのだろうと右手に持った傘に八つ当たりをしながら、ぼんやりと辺りを眺める。誰も彼も傘があるのに自分と似たような姿になっているのを見ると、あぁ一緒なんだなと謎の安心感と連帯感とついでに同情の気持ちが生まれてくる。片手を塞いで傘を持っているのに濡れるのだ。もっと他のものを使った方が防げるんじゃないかとさえ思えてくる。というか、もうカッパでいいんじゃないだろうか。ならば何故自分は傘を選んだのだろうか。
ふいに雨と傘について思考することに飽き、ポイと投げる。考えるのは好きだ。ただ、それだけだ。答えが欲しいわけでもないし、見つけてどうこうする気もない。ただの暇つぶし。そう、いつものこと。

私の名前は狭間キョウ。一応成人しているのだが何故か学生に見られることが多い。特に何の取り柄もなく、夢も野望もなくただフラフラと生きる普通の人間だ。

ただ一点を除いて。

「キョウ!いいところに来た!聞いてくれよ、蓮がさぁ…」
「何。僕が悪いって言うの?和真が名前をちゃんと書かないのが悪いんでしょ」
「俺がプリン好きなの知ってんだろ。勝手に食うなよ!」
「知らないね」
蓮がツンとそっぽを向く。どうやら冷蔵庫の名無しプリンを食べられてしまったらしい。この家では個人の食べ物には名前を、無記名の物は勝手に食べていいというルールがある。
「つか、名前書いてあんじゃねーか!」
テーブルの上に残っていたプリンのフタに気づき指差す。確かにペンでサインしている跡が見られた。
「あーごめん。見えなかった」
半分泣きながら捲し立てる和真に、さすがに同情した。「明日で良ければ買ってきてあげるよ?」
「マジ!?キョウ、ありがとっ!」
「キョウちゃん。甘やかしちゃダメだよ。和真の脳みそまでプリンになっちゃう」
「ならねぇし!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を見て、今日も平和だな、と思った。

プリン大好きの長身イケメンが真田和真。小柄でクール、外見は可愛めだけど中身は和真より男前な九条蓮。そしてごくごく平凡な私、狭間キョウ。私達三人はルームシェアをしている。元々は私一人だったのだが、ひょんなことから二人と暮らすようになった。

実はこの家には一つ、秘密がある。
──和真と蓮は、いわゆる同性カップルだ。

二人とも両親にはカミングアウトしたらしいが、どちらも頭が堅いらしく、絶縁していると本人達からは聞いている。以来7年間、二人はほとんど誰にも互いの仲を言わず今日まで暮らしてきた。何故数少ない人の内に私が知っているかと言うと、理由は簡単。この二人は普通に家の中でイチャついているからである。最初は全く知らず、昔から何かと世話になっている知り合いから「二人を住まわせて欲しい」と頭を下げられ、期間限定でこの家で暮らしている。ちなみに後から知り合いに二人の仲についてそれてなく聞いてみたところ、「あれ?言わなかったっけ?」と返されてしまい思わず殴り飛ばしてやりたくなった、なんてこともあった。
そんな変わった巡り合わせで共同生活を送ることになった。最初こそぎこちなかったものの、今ではこの騒がしさが日常茶飯事になっている。互いに言い合える仲なのでストレスは少ないが、夜の営みにはぜひホテルを利用して頂きたいというのが本音だ。

「夕飯、何がいいかなー」
三人で近所のスーパーに買い物に来てみたはいいが、かれこれ10分は空っぽのカゴを引っさげて物色し続けている。
「雨でじめっぽいから冷奴にしようよ」
「いや、がっつり肉だろ!」
「僕はお刺身食べたい」
三者三様の意見が飛び交う。自慢じゃないが、買い出しがすんなり終わった試しがない。皆好き嫌いがあるわけではないのだが、「その日の気分」がバラバラ過ぎるのだ。以前鍋にしようとした時も「豆乳鍋でしょ」「いや、ちゃんこだろ!」「えー?チゲ鍋の気分だよー」となり、結局一人前ずつミニ鍋に作ったのだ。中の具材は一緒なのに、鍋の素だけ意見がキレイに分かれるから始末が悪い。
「俺はガーリック炒めだな!がっつり肉とにんにくがいい」
「え、にんにく?」
臭くなるじゃん、と顔に出ているが和真は全く気づかずに肉とにんにくをカゴに放り込む。
「じゃあ、僕はネギトロ丼とキムチにしようかな」「は?キムチ?」
唐辛子でピリピリするのを想像したのか、和真は痛そうな顔をした。
「私は冷奴と納豆にしようかな」
「「 換気扇忘れずに」」
蓮と和真がキレイにハモる。納豆よりにんにくとキムチの方が香り的には強い気がするのだが。その言葉をそっくり返してやりたくなった。

結果、部屋の中には色々な匂いが充満することとなったが、各自好きな物を食べ、一息つく。和真は食後のデザートにプリンを食べご機嫌だ。蓮はというとテレビゲームに夢中である。私は食器洗いを終え、「先入るねー」と一声かけお風呂へと向かった。体を流し、ちゃぷりと湯船につかる。あの二人は基本シャワー派なので、湯船は私専用となりつつあった。
「はあ…」
和真と蓮と住み始めてから約半年。色々見えてきたものもあるが、二人は良い人達だし、このまま暮らすのも悪くないなぁなんて思う。 でもわざわざ私と一緒じゃなくていいんだよな、とゆらめく水面に目を落としながら考える。知り合いの頼みで住まわせることになった、ただそれだけのこと。いつかは出て行くんだろう。そもそも、私はあの二人が何故宿無しだったのかを知らない。互いのことは、知っているようで実はあまり話していない。私は自分のことを話すのが苦手だし、二人もまた他人には言いづらいことがまだまだあるだろう。
湯けむりのように、浮かんでは消える思考のゆらめきを追うのをやめた。それは、今の私には何も関係ない。自分にそう言い聞かせた。

***

パチュ。パチュ。パチュ。
薄いドアの向こうから聞こえてくる淫靡な音が鼓膜に届く。
「あっ、和真…っ。も…ダメ…っ!」
「ん…っ、俺、も…!」
その言葉を最後に、部屋はシンと静まり返った。
頃合いを見計らって、私は扉をコンコンとノックする。
「あの、そろそろ入ってもいい?」
返事を待たずにガチャリと開けると、和真と蓮が慌てた様子でこちらを見た。
「うわっ、ちょっ!キョウ!いきなり開けるなよっ!」
「だってここ、私も住んでいる家だし」
必死に洋服で前を隠そうとしている和真に対し、蓮はソファのクッション三つを駆使して頭まですっぽりと隠れている。小柄とは便利なものだな。
「別に見ないし、興味もないから」
「いや、だからって隠さない訳にはいかないだろ」
「そう思うのなら、リビングでしないで欲しいんだけど」
呆れてため息をつくと、クッションから顔だけ出した蓮と目が合った。
「…いつから居たの」
「んー、5分くらい前かな?」
ニヤニヤ笑いながら返すと、再びクッションで顔を隠してしまった。くぐもった声で「サイアク」と呟くのが聞こえた。
立ち聞きなんて趣味の悪いことをするつもりは無かったのだが、入るに入れず、かといって仕事終わりで出直す気にもならなかったこちらの気持ちも少しは理解して欲しいものだ。
「まあ、とりあえずシャワーでも浴びたら?」
「お前が言うなっつーの!」
和真の叫びを背に、私は自室へと戻った。

この家は玄関のすぐ横に二部屋。玄関とリビングを繋ぐ。短い廊下沿いに風呂トイレが別であり、リビングの隣にもう一部屋がある。
玄関に近い方は日当たりこそあまり良くないのものの、リビング隣の部屋より広いため二人にそれぞれ使ってもらっている。私物が少ない私はリビング横のこじんまりとした部屋を使用している。そのため、リビングを通らないと私は自室に行けないのだが、よりにもよってリビングでイチャイチャされていると入れなくなってしまうのである。廊下には扉があり、いくら薄くても閉まっていると玄関の物音を拾いづらい。だから私が帰ってきたことに気が付かないのもまあ仕方ないというものだ。
リビングは共用スペースで、特にルールは設けていない。二人とも部屋の使い方は綺麗だし、掃除も進んでしてくれるので、私としてはかなり楽させてもらっている。互いの部屋に入っちゃいけないという決まりもなく、必要があれば自由に入っている。外に布団や洗濯物を干していて急に雨が降ってきた時など、誰かが取り込んで部屋に入れてくれていたりするのだ。以前「シャーペンの芯が無くなったから貰った」という理由で私の部屋の引き出しを片っ端から探していた、なんてこともあった。ちなみにそれは【文房具】と引き出しに貼っておくことで解決した。今では良い思い出である。というか、それくらい買ってこいとも思うが。

荷物を部屋に置き一息つく。上着をいつものハンガーにかけ、カバンの中を整理する。充電器にスマホを挿し、ゆったりした部屋着に着替えていると、遠くから「行ってきまーす」と声が聞こえた。どうやら和真がバイトに行ったようだ。実は三人とも生活スタイルがバラバラで、三人そろうことの方が珍しい。私は朝から夕方までというごく一般的な仕事スタイル。蓮は夕方から夜までで、在宅でできる仕事も持っているため比較的家にいる時間が長い。和真は夕方から早朝までいくつかアルバイトをかけ持ちしているといった感じだ。前に何故深夜に働くのか訊ねたところ「深夜手当が欲しいから」とごくシンプルな返事が返ってきたのを覚えている。二人とも家族とは縁を切られているので、文字通り自分の食い扶持は自分で稼がなくてはいけないからだろう。私にお金を借りたいと言ったこともないため、自立した人間だなとつくづく思う。
ただ、ゲイカップルというのはやはりまだまだ受け入れられないらしく、二人とも仕事先では隠していると話していた。また、部屋を借りるのも難易度が高いらしく、ルームシェアにしろ同棲にしろ、審査がなかなか下りないのだそうだ。その辺の事情は詳しく分からないが、そんな背景もあって私の知り合い経由でこちらを紹介されたのだろう。確かに部屋は私一人では持て余していたし、そもそもここは知り合い名義の部屋だ。なんなら家賃は一向に払わせてもらえていない。曰く「些細な金額だから」だそうだが、駅の近くにあるのだし、年数もそこまで経っていない。よくある隣人トラブルともすっかり無縁だ。それ以前に他の部屋の人に会ったことはない気がするのだが。そんな恵まれた環境すぎる私に文句が言えるはずもなく、現在に至るという訳だ。

着替えを終え、コーヒーでも飲もうかと台所にいると、お風呂から蓮が出てきた。
私の顔を見ると居心地悪そうな顔をし、タオルで頭をわしゃわしゃと拭きながら表情を隠す。
あーバツが悪いんだろうなあなんて他人事のように思いつつ「何か飲む?」と声をかけると、「同じの」と短い返事が返ってきた。
ちなみに私と蓮はブラック派、和真はこれでもかというくらいミルクと砂糖を入れる超甘党だ。
リビングで座っている蓮の前にコトリとカップを置き、向かいに自分のコーヒーと前日の残りのサラダを用意した後、テレビをつける。ちょうど夕方のニュースの時間らしい。腰を落ち着けて何の気なしにキャスターが喋り移り変わる画面を眺める。
「キョウちゃんさ」
おもむろに蓮が口を開く。目で続きを促す。
「よく平気だよね」
「何が?」
「だから、その、ああいうの」
もごもごと言いづらそうな蓮の様子に、「ああ」と合点がいく。
「君達のイロゴトのこと?」
これでもオブラートに包んだつもりだったが、ぐっと言葉につまり俯く蓮を見て思わず笑いそうになった。
「ごめん、からかっているつもりじゃなくてさ」
「いいよ、別に」
さっきのことが余程恥ずかしかったのだろう。顔が真っ赤だ。いや、普通はそうか。
「分かってるよ。男同士で気持ち悪いって思わないんだなって意味でしょう?」
「まあ、うん」
「んー...これはあくまでも個人的な意見なんだけどさ」
コクリとコーヒーを飲み、続ける。
「男性とか、女性とか、分かるんだけどさ。だからなんなの?って思うんだよね。そりゃ、同性同士は子孫を残せないからって意味は理解できるんだけど。それは、子孫を残したいって思う人達に任せておけばいいじゃん。子孫を残したいって思うのが生物の本能?宿命?まあ、それはそうなんだろうけれどさ。人間独自のルールをいっぱい作って自然界からはみ出しまくっている癖に、そういう時ばっかり生物とか本能とか利用するのってズルいと思うわけ。それに、そんなに大事な本能なら、絶対に男女が繋がって子孫を確実に残さなきゃいけないようなシステムが内外に存在しなきゃおかしいっしょ?それがない、もしくは希薄ってことは、そんなに重要じゃないんだよ。超極端な話、100人のバカと1人の優秀な人間なら、皆優秀な一人を欲しがるっしょ?一人一人の希少価値を高めるため、代外品を求めさせないため、子孫が減るという流れもまた大事だと思うんだけどね。だって、このままじゃ」
勢いのまま捲し立てていた言葉をブツリと切る。
「消耗品扱いされて終わりだもの」
ハッキリと言い切る。蓮はやや俯いて思案しているようだ。
「それに、人が人を好きになるのは、それこそ理屈だけでは説明できないものがあるって私は思う。輪廻転生の話じゃないけれど、前世は男女で今世が男男だったってだけかもしれないし。男女じゃなきゃダメって言っているソイツの方が私はキモイって思うし。つうか、アンタに関係ないじゃんって感じだし」
「そ、それはそうだけどさ」
「っていうか、」
蓮の言葉を遮り、私は畳みかけた。
「男と女じゃなきゃダメって、誰が決めたの」
「アホくさー」と吐き捨てる私に、蓮は呆気にとられた顔をした。そして、クックッと笑い出す。
「そんなこと言うの、キョウちゃんだけだよ」
安心したような、子どものような、小さいけれど優しい笑顔に、私もつられて微笑む。
「キョウちゃんはすごいでしょ?」
ウインクして自画自賛したらドン引きした顔をされた。何なのさ、一体。

本音を言えば、自分以外の人間には興味がない。
だから、その人達がどう生きようが、正直どうでもいい。
和真と蓮が恋人同士で私に害があるわけでもないし。
地球から子どもが減ったって関係ない。
そんな希薄な感情しか持っていないから、人の好みにはとやかく言わない。
普通という言葉から一番離れているのは私かもしれない。
だけどこれが私の普通なのだ。
普通っていうのは、その人にとって当たり前だというだけで。
誰かに押し付けたり強要するものではない。

だから、私は私でいいと思う。

蓮とはその後、他愛ない話をした。会社の誰それがムカつくとか、コンビニの新作スイーツが美味しかっただとか。こうして話をしていると、いわゆる「普通」の人たちと何も変わらない。なのにどうして「同性愛者」というだけで気味悪がられ、罵られるのだろうか。いや、むしろ「普通」に見えるからこそ排除したくなるのだろうか。自分の、自分たちが思う「普通」を守りたいから。
根が深いようで、理由なんてものは至って単純なのかもしれない。

人間は過ちを犯し、歴史に学ばない生き物なのだから。

結局そのまま宅飲みになり、二人ともリビングで酔っ払って眠ってしまったらしい。朝方帰ってきた和真に叩き起こされた。蓮は今日外で仕事があるらしく、「眠ぃ...」とぼやきながらフラフラと出て行った。
和真と少し遅めの朝食を食べていると、テレビから『お悩み聞かせて下さい!のコーナーです!』と、元気のいいアナウンサーの声が聞こえてきた。どうやら街頭でインタビューしていき、お悩みを聞いていくという趣旨らしい。よくある話だ。
特に何も考えずぼんやりと見ていると、「気楽だな」と和真がぼそりと呟いた。
「ん?どした?」
聞き返すと、「いやさ」とため息混じりに話し始めた。
「気楽だな、って思ったんだよ。いきなりアナウンサーに街でつかまってさ、『私の悩みは~』なんて話せるの。俺らはさ、話したくたって言えない。言ったとして、その後にどう返ってくるかも予想できる。こんな風に公衆の面前でなんて、とても無理だ。例えテレビに映らなくてもな」
「まあ、確かにね。そういう人は他にもいますよ~とか、逆にゲイをやめちゃえば?とか。的外れもいいとこよね」
「だろ?俺が言いたいのはさ、『何で同性愛ってダメなんですか?』『どうやったらこの生きづらい世の中を変えられますか?』ってことなんだよ。外国に行けばいいじゃんとか、そういう話じゃないんだよ」
苦々しい表情を浮かべている和真。きっと今までそう言われてきたんだろうな、と思った。
「俺はさ、蓮が好きだ。でもだからって、男なら誰でもいいわけじゃない。女なら誰でもいいってわけじゃないのと同じだよ。好みがある。相性がある。時には失恋もする。男も女も一緒なんだよ。なのに何で」
グッと奥歯を噛み締め、フウゥと息を吐いてから続けた。
「男からも女からも、軽蔑されなきゃいけないんだよ」
詳しく聞いたことはなかったが、親しかった人物にはカミングアウトしてきたのだろう。なのに今、二人の周りには友人や親友と呼べそうな人影は見られない。蓮、和真、私。この三人がイツメンなのだ。とはいえ、私と二人の付き合いはほんの半年で、それよりも前の知人がいてもおかしくないのに。

つまりは、そういうことなのだ。そう思うことにした。

「キョウはさ、いいやつだと思うよ」
急に自分の名前が出てきて驚く。
「え?そうかな」
「そうだよ。だって...俺たちのこと、人として接してくれるじゃん」
いつもは見せないような、柔らかく緩んだ目元。少し寂しげな、だけど寛大な優しい笑顔。
痛みを知る者は、それだけ優しくなれるのだ。
「そりゃ...まあね」
どう返したら良いか分からず困っていると、和真が小さく笑った。
「ありがとな、キョウ」
「...うん。どういたしまして」
私も、和真の気持ちはほんの少し分かる。
この人ならと信じて、なのにやっぱり同じで、信じた自分が馬鹿だったなぁ、言わなきゃ良かった、なんてずっと悩んで後悔して、それすらも完結しない悩みで、いつまでもぐるぐる考えて。
それはきっと凄く辛い。自分が悪いんだと責め続けてしまう。そんなことはないのに。信じることも打ち明けることにも臆病になっていき一人で抱え込んでしまう。

本当は、手を伸ばして、助けてあげられたらいいのに。

和真に気づかれぬよう、私はそっと瞼を閉じた。

***

ガチャ、パタン。今日もいつもと同じ時間に帰ってきた...つもりだったのだが、どうもいつもと様子が違う。
部屋は薄暗く、物音一つしない。二人の靴は玄関に並んでいるから、昼寝してそのまま寝過ごしたのだろうか。
アクティブで騒がしい二人にしては珍しい。何となく静けさを破ってはいけない気がして、ゆっくりとリビングに繋がる扉を開いた。
「……」
二人は、そこにいた。和真はうなだれていて、こちらに気づいた様子もない。そして、蓮も。
どう声をかけていいものか分からず迷っていると、蓮がこちらを見た。
「おかえり、キョウちゃん」
声は低く掠れ、弱々しい。よく見えないが、泣いた後だったのだろうか。うっすらと頬に跡がある。
「…ただいま」
私の声に、和真もぴくりと反応する。
「キョウ……」
虚ろな眼差しで私の姿を捉える。
とりあえず電気をつけようとスイッチな手を伸ばすと、「つけないで」と蓮が強い口調で止めた。
「つけないで、キョウちゃん」
「分かったよ」
肩にかけていた荷物をドサリと床に降ろし、その場に座る。
「…で?どうしたの?」
私の問いかけに、二人は沈黙で返してくる。余程話しづらいことなのか、それとも何から話していいか考えているのか。どうすることも出来ず、私もそのまま黙っていることにした。膝を抱え、俯いて待つ。

どのくらい経っただろうか。相変わらず物音一つしない。互いの呼吸と気配が僅かに感じられるだけで、それ以外はほとんど何も分からなくなってきた。陽は段々と沈み、いつの間にか窓の向こうは暗くなってしまっている。カーテンの隙間から届く街路灯が唯一の光源だ。室内の人影と物の影が黒いシルエットとなってぼんやり浮いて見える。
「今日さ…」
ふいに和真が話し始めた。ゆっくりと、口にする言葉を手探りするように。
「俺らが、ゲイで、付き合ってるって、バレちまってさ」
「僕が悪かったんだ」
蓮が強い口調で和真の言葉を遮る。
「和真の忘れ物を届けに、バイト先に行ったんだ。そしたら、和真とバイト先の先輩がすごい仲良さそうに喋ってて。それだけならまだ、平気なんだけど。和真にベタベタ触ってて、すごい近くにいたし。だから僕、思わず割り込んで、それで…」
消え入りそうな蓮の言葉を、和真が引き継いだ。
「先輩にさ、『え、何?和真の弟ー?可愛いねー』って言われたんだよ。そんだけなら俺も適当にあしらえたんだけどさ。『てか、君可愛いねー。俺、実はオトコもいけるんだー。バイト終わったらさ、俺と遊ばない?』って誘われてて。蓮は何回も断っていたし、俺も先輩止めたんだけど、全然聞いてくんなくて。しまいには無理矢理蓮のこと連れていこうと腰に手ぇ回しやがったから、思わずかっとなって喋っちまったんだよ」
はあ…と小さくため息をつく和真。蓮は、泣きそうな声で話を続ける。
「和真から聞いていたんだ。職場に、タチの悪い先輩がいるって。可愛い系が好みらしいから和真は口説かれたことないって言ってたけど、もしかしたら、この人和真のことを...って焦っちゃって。だけど…僕が余計なことしたせいで、僕どころか、和真にまで迷惑かけちゃって」
泣き出してしまった蓮を慰めるように、和真はゆっくりと声をかけた。
「蓮のせいじゃないって。今俺が話した以外にも...とにかくホントしつこくてさ。俺、我慢できなくて。だから、蓮は悪くないよ」
「でも、今日のこと、先輩がバイト先の皆に言いふらしちゃってさ。気まずくなって和真、早退してきちゃったんだよ。僕は先に帰されちゃったから分からないけれど、多分色々言われたと思うし…」
「分かった。とりあえず二人の話は分かったから」
このままじゃ話が進まなくなる。そう思い、私は二人の会話に割り込んだ。
「これから、どうするの?」
今日のバイト先は、電車で三駅先だ。決して近い訳ではないが、顔を合わせる可能性もあるため、引越しも視野に入れた方がいいのかもしれない。
「んー…とりあえず、あそこは辞めるよ。他にバイト先もあるし。後は別に、今まで通りでいいかなって俺は思ってる」
「でも、また会っちゃうかもよ…?」
蓮が心配げに訊ねる。
「そん時ゃそん時だよ。それに、俺は別にバレたって構わないんだ。バイトも、別にどこだっていいし。蓮やキョウに迷惑がかからなければ、それでさ」
ふっと空気が緩むのを感じた。和真のセリフは、本心からなのだろうと思った。
「私は別に気にしないよ。ゲイカップルとルームシェアしてるってバレたところで困ることはないし。和真も蓮もいい人なのは分かっている。だから、私のことはとりあえず置いといて、二人がどうしたいかで決めたらいいよ」
事実、私は部屋を貸しているだけだし、そもそも私だって借りている身だ。仕事先はそんなこと特に気にしないだろうし、必要ならば転職すればいいだけだ。
「僕は...和真が困らないなら、それでいい」
ポツリと蓮が呟く。
「迷惑かけちゃったけれど、僕もあんまり外に出ないし、僕自身が困ることはないと思う。それにここは、キョウっていう理解者が居てくれる」
蓮はくるりと身体の向きを私の方へと変えた。
「僕、ここが好きだ。だからできれば、ここに、三人でいたい」
「じゃあ、今まで通りってことでいい?」
「そうだな。俺は文句ないぜ」
「僕も」
そう言って暗闇の中、お互いに頷き合った。

電気をつけ蓮の顔を見てみると、目が真っ赤になっている。
台所から保冷剤を持ってきて手渡すと「ありがとう」と照れながら小さくお礼を言ってくれた。
和真は「メシでも食うかー!」と一際明るい声を出し、私たちに気を使わせないように振舞っていた。
久々に三人で囲む食卓は、今までよりほんの少し距離が近く感じた。クイズ番組を見て、盛大に誤回答する和真を蓮と二人で笑った。寝る時間には、すっかりいつもと同じ状態になれた。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみー」「また明日」と返事が返ってきた。
驚くような出来事があったけれど、前向きになれそうだ。

この時は、これが正解だと信じて疑わなかった。

あの日から二週間経った。和真は例のバイトを辞め、別のところを見つけようとしている。蓮と私は今まで通りの生活を送っていた。たまに顔を合わせては他愛ない会話をし、それぞれ平穏な日々を過ごしていた。

そう、今日までは。

しとしとと雨の降る週の真ん中の午後。
和真宛に手紙が届いた。
差出人の名前はない。
訝しみつつ本人に手渡すと、首を傾げながら封を開けた。
中に入っていたのは、一枚の紙。
書かれていた内容は──。

「...んだよ、コレ」
手紙を読むなり、眉をひそめ不快そうな表情を浮かべる。
こちらに無言で回してきたので見てみると、
──カ ズ マ ス キ
ひっくり返して裏を見たり封筒の中を改めたが、この五文字以外何も無い。
「...和真、心当たりは?」
和真は首を左右に振る。
一体何なのか、何が目的なのか。一抹の不安を胸に抱える。
蓮がいなくて良かった、と思った。
ちょうど今日は新作のゲームが出たとかで朝から出かけているのだ。
「このこと、蓮には秘密な」
人差し指を唇に当てる。先日のこともあるため、今はあまり不安にさせない方がいいだろう。
「うん。私と和真だけの秘密ね」
私達は互いに見つめ合い、うんと頷いた。

謎の手紙は、それから毎日一通ずつ同じ内容で届き続けた。最初こそ気味が悪かったものの、今のところ害もないので中身を読んでは処分するという流れが定着しつつあった。郵便受けは基本的に私しか見ないので蓮に気づかれることもなくやり過ごせた。
「一体誰なんだろうねぇ」
コーヒー片手に呟く。
「差出人の名前が無いからなぁ...なんとも」
「男か女かも分からないからなぁ」
「消印だけみると割と近所っぽいけどな」
あれこれ推測してみるが、手がかりが少なすぎて答えは全くでない。
「和真、本当に心当たりないの?」
「あれば苦労しねぇよ」
頭をガシガシとかく。
「お手上げだね。相手さんの動きを見守るしかないよ」
「そうだな。...それより、蓮遅くね?」
「そうだね。コンビニに買い物行くって言っていたけれど、蓮が買うものって大体いつも一緒だから帰ってくるの早いんだよね」
「新作商品でも出てたかな」
和真のスマホに蓮から連絡が来たのは、その5分後だった。

***

サアアアアアッ。
じんわりと雨が降り、濡れた路面を走る車から水しぶきがあがる。街路灯に照らされた水溜まりが夜の道に似合わない輝きを見せている。時折すれ違う人達は皆傘を差しているが、そんなものは邪魔と言わんばかりにバシャバシャと盛大に音を立てながら走り続けている私たちを見て、ギョッとして身を引いていた。
和真のスマホに、蓮から連絡がきた。いや、正確に言えば蓮のスマホを使った、蓮ではない他の誰かからの電話だった。『─町─丁目─番 工場跡地』とだけ三度繰り返され通話は切れた。
「クソっ、何なんだよあの電話は!」
嫌な予感に胸をざわつかせつつ、私たちは指定された場所へと急いだ。

シ……ン。辺りは静まり返っている。不気味に思えるくらいだ。
丸腰だが躊躇はしていられない。
二人で一気に扉を開け、中に飛び込んだ。
「...!れ、れ...ん...?」
中には小さなライトが2、3個。必要最低限の部分を照らすかのように置かれていた。その中心には二人の人影。一人は床に横たわり、一人はその近くに静かに座っている。
「あ、あ...!」
数歩近づくとその姿がよく見えた。床にいる人物は、全裸で両手を上で縛られている。身体には細かな傷跡が至る所にあり、乾いた血がこびりついている。何やら光るものが身体に塗られているのか、状況とは不釣り合いなほどに妖しい輝きを放っている。
横たわっているのは─蓮だ。
「蓮...っ!」
私たちが近くに駆け寄っても、蓮の傍にいる男は微動だにしなかった。ぼんやりと宙を見つめている。
「蓮、蓮...っ」
蓮もまた虚ろな表情を浮かべていた。瞳の焦点は合わず、和真が声をかけても反応しなかった。間近で見て気がついた。身体に塗られているものは白濁としていて、酷い臭いがする。精液だと理解するのに、さほど時間はかからなかった。
僅かな呼吸をしている蓮に、しっとりと濡れてしまっている私の上着をかける。救急に連絡を入れていると、和真が座っていた男に早足で歩み寄っていた。
「かず─」
制止は間に合わず、和真は男の両肩をガチッと掴み、額が触れんばかりの勢いで顔を近づけた。
「テメェ!蓮に何をした!!」
怒鳴られた男は一瞬の空白の後、「フフっ」といやらしく笑った。
「君が悪いんだよ、和真くん。君のせいで、こうなっちゃったんだよ」
「何だと!?」
凄まじい気迫で睨みつける和真を意に介さず、男はニヤニヤと気味の悪い笑顔を崩さずに続けた。
「君のバイト先にいたユリちゃん、覚えている?」
「は?」
「ユリちゃんはねぇ、君のことが好きだったんだよ。なのに、可哀想に。君がゲイだと知って、ショックで寝込んでしまってねぇ。僕はユリちゃんの代わりに、君に罰を下すって決めたのさ!」
和真がバイト先でゲイバレした時のことなのだろう。
「だから何なんだよ!佐々木さんから好きだって言われたこともないし。そもそも話しすらほとんどしたことねぇよ」
「そりゃ、君からしたらそうさ。でもね、ユリちゃんは違うんだよ。僕はユリちゃんが大好きだから、彼女の気持ちがよく分かる。ゲイなんて気持ち悪いし、そんなヤツにユリちゃんが傷つけられたってのも許せない。だから、」
言葉をぷつりと切ったあと、今度は自ら和真に顔を近づけとびきりのゲスな表情を浮かべて言った。
「君も、君の大切な人も、ズタズタにしてあげるって決めたんだぁ」
「!テメェ...!」
「和真、ダメっ!」
ギリギリのところで和真に飛びかかり殴りかけていた右手を掴む。
「そんなことするな、気持ちは分かるが...」
「お前になんか分かんねぇよ!」
和真は思い切り私を突き飛ばす。蓮の上にドサリと倒れ込んだ。
「お前らなんかに、俺の気持ちが分かってたまるかよっ!」
逆上し、周りが見えなくなってしまっている。
「和真...」
その時、遠くからサイレンの音がした。どうやら、救急と警察が来てくれたらしい。
間に合った...と安堵していると、男が不気味な笑い声をあげた。
「ウフッ、ウフフヒャァァァア!ああ、楽しかったよ!あんまり暴れるものだからちょっと強い薬を打ってしまったけれど。流石、男を相手しているだけあって、中はグズグズだったよ。僕はホモじゃないし、ユリちゃんのことが大好きだけど、ユリちゃんの中もきっとこのくらい気持ちいいのかなって思ったらすごい興奮してさ!何回も何回もしているうちに、彼は静かになっちゃってねぇ。つまんなくなっちゃった時に、君たちが来たってワケ。それはそれで、可愛いお人形さんだったよ。ユリちゃんの次に好きかなぁ。あ、でもこのコ、男の子なんだよねぇ。勿体ないなぁ」
「ふざけんな!」
ガツンッ!
固く握られた拳が男の頬に直撃した。
「和真っ!」
「うあああぁぁぁぁっ!」
グシャッ!バキッ!
鼻の骨が折れ、鼻血がボタボタと垂れる。
「アヒャャァァ...痛い。いたいよぉ...」
男は両手で鼻を抑える。
「蓮はなぁ...もっと痛かったんだよ!」
股間を思い切り蹴り上げると、「グゲキャッ!」という奇声を発し、男は地面にのたうち回った。

救急と警察が来るまでの間、和真は男を殴り続けた。駆けつけた警察官が和真を引き剥がすまで、ずっと。蓮はピクリとも動かず、どこを見ているとも分からない瞳のまま病院へと運ばれていった。私は事情聴取の為に警察署へと行き、和真と男は一晩留置所で過ごした。
全てが落ち着いたのは、真夜中だった。

***

ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピピッ...。いつも通りアラームが鳴る。休みだからスルーしようと思ったが、それどころではなかったのだと思い直す。頭を振って重い身体を起こし布団から出た。
昨夜あの後、タクシーで家路に着いたまでは良かったのだが、玄関を開けた瞬間どっと疲れが出て、身体を引きずるようにしてやっとのことで布団に入ったのだった。おかげで服は昨日のまま、ついでにシワシワになってしまっている。はぁ...と小さくため息をつき、朝食にしようと台所へと向かう。蓮も和真もいない空間は嫌に静かだ。心無しか部屋が暗く感じる。
適当にパンとコーヒーを用意する。食欲はあまりなく、数口だけかじり後はやめた。コーヒーは大して効かないタチだが、今はこの眠気が少しでもマシになるならなんでも良かった。昨日の出来事があまりにも急でどこか非現実的に思えたが、二人のいない家が皮肉にも夢ではないと教えてくれていた。
警察署と病院、どちらも行かなければならないが、とりあえず和真の元に向かうのを先にした方が良さそうだった。昨夜、最後に見た和真の顔は男を視線で殺さんばかりの勢いだった。と同時に、どうしようもないほどの後悔が混ざった表情を浮かべていた。放っておいたらどんどん悪い方へ考えてしまいそうな様子だった。
朝イチで警察署に着くようにしようと決め、私は支度を始めた。

コツ、コツ、コツ。病院の廊下に三人の靴音が響く。うるさく歩いている訳では無いのだが、病院というだけあってどこも静かだ。呼吸音さえ拾われているような気がしてならない。
午前中和真に会いに行くと、目の下を黒くしていた。どうやら一睡も出来なかったらしい。無理もないだろう。和真のことだから、自分がしたこと云々というより、ただただ蓮を心配していたのだろう。
今回起きた事件について、警察は捜査中とは言いながらも、少しだけ詳しく教えてくれた。
昨夜蓮を犯した男─清水という奴なのだが、そいつに関しても話を聞けた。どうやらユリちゃんこと佐々木百合とはただの他人らしく、一方的に恋心を抱いていたようだ。また、佐々木百合にも警察が話を聞きにいったらしいが、清水という男の存在すら知らず、和真に好意を抱いている訳でもなかったらしい。和真の退職前後にバイトを休んでいたのは事実だが、単に学校のテスト期間だったからで、和真のゲイバレとは一切無関係とのことらしい。
つまり、清水という奴の勝手な妄想により今回の事件は起きた、ということだ。しかも、清水はどうやらドラッグに手を出していたらしく、正常とはおよそ言い難い状態らしい。
どこにぶつけていいかも分からなくなった怒りを胸に、和真は気力だけで立ち、今こうして病院の廊下を私と歩いている。ほとんど問いかけには応じず、ただギラつく目だけが和真の心中を物語っていた。
「こちらの病室になります」
案内してくれた看護師さんが淡々と告げる。
和真の方をちらりと見ると、彼は震える手をドアノブにかけた。
室内は至って普通の病室だった。窓こそ開いていないものの、陽光が入り柔らかく明るい。一歩中へと進みベッドの方に目を向けると、昨夜と変わらぬ虚ろな表情で蓮は座っていた。
「...っ蓮!」
たまらず和真は駆け寄る。蓮はその声にビクリと身体を震わせ、恐怖の色を浮かべた眼差しを私たちに向けた。
「うわあぁぁぁっ!」
枕やスリッパ、紙コップなど、手近にあるものを次から次へと投げつけてくる。投げる物が何も無くなると、彼は頭から布団を被り、小さく丸くなった。
「こないで。こないで...」
低くくぐもった声が布団の中から聞こえてくる。
目の前にいるのは確かに蓮のはずなのに、まるで私たちのことを敵か何かのような反応をしていた。
突然のことに呆然としていると、後ろから肩をトンと叩かれた。
ハッとして振り向くと、そこには白衣を着た男性が立っていた。
身長は180センチくらいだろうか。すらりとしていて、髪が長めである。男性のようだが、どこか中性的な雰囲気があった。
「少し、説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
同じく呆然としていた和真の腕を掴み、先生の後について歩いていく。いくつかの部屋を通り過ぎた後、白い扉の前で止まった。ドアには「面談室」と書かれたプレートがぶら下がっている。
「どうぞ中へ」
ガチャリと扉を開け、ソファを勧めてくれた。
私たちの前にお茶を置くと、先生も向かい側に座った。
「初めまして。私は、九条蓮さんの担当医の細目と申します。九条さんの容態について、ご説明させていただきます」

ドクドクドクドク。心臓がうるさい。何一つ言葉は口から出てこないのに、ただひたすら鼓動だけは早く強く脈打つ。
それは和真も一緒で、私たちは頭から言葉をひねり出そうとしては失敗し、俯いた。膝の上に乗る拳に、ギュッと力を込めて。
先生の話によると、蓮は清水と同じ薬物を打たれたらしい。薬物とレイプにより精神に異常をきたし、今のような状態になってしまったとの見解であると説明した。
一種の、現実逃避のようなものだ。
蓮は今もなお錯乱しており、落ち着く場所での静養が必要不可欠とのことだった。とはいえ実家に帰ることも出来ず、親しい私たちにも先程のような態度であったため、これから先どうしていくかを相談したいという話だ。
「医師としては、正直こちらで何か出来るわけではないとだけ先にお話ししておきます。冷たい言い方に聞こえるかもしれないですが、暴れた時に睡眠薬を投与するくらいですね。薬による治療効果は見込めないかと思われます。それでも自宅よりこちらの方が落ち着けるというならば、このまま入院を継続して頂いても構いません。自宅に戻ってみて、どうしても九条さんや同居の皆さんに無理が出るようなら再度入院も可能です。一番は自宅でゆっくり休んで、お二人と少しずつ会話が出来るようになればいいなと思っておりますが、何を選ぶにしても、決して楽な道のりではありません」
しんしんと降り積もる雪のように、静かに言葉を重ねる細目先生。私たちが何も言えないでいるのに、答えを急かすでもなく待ち続けてくれている。
説明が終わってからどのくらい経っただろう。和真はゆっくりと顔を上げると、そっと言った。
「もう一度、蓮に会ってから決めてもいいですか?」
細目先生は重々しく頷いた。
私たちは、再び蓮のいる病室へと戻っていった。
「...蓮、入るよ」
コンコンと優しくノックをし、ゆっくりと小さな声で病室の中へと話しかける。
返事は無いが物音もしないので、和真は慎重に前へ進んだ。私と先生は入口で固唾を飲んで見守る。
「...蓮、蓮?」
少しずつ近づきながら、蓮の名前を呼び続ける。先程のような反応はまだ見せない。
「...蓮」
低く囁きかける。ベッドから1メートルくらいの距離まてたどり着いた時、蓮の身体がピクリと反応した。
和真はそこで近寄るのを止めると、床に座り話しかけた。
「...蓮、あのさ」
蓮は窓の方を見たまま動かない。ガラス玉のような瞳には何が映っているのだろうか。
「...蓮は、どうしたいのかなって思ってさ」
震える声で尋ねる。
「もしかしたら、家に帰りたくないのかなとかさ。俺の顔なんてもう見たくないのかなとかさ。色々考えたんだけど、やっぱ分かんなくて」
ぽつ、ぽつと話す声はあまりに弱々しい。窓からの光が和真を溶かして消してしまいそうなくらい眩く見える。
「...蓮。俺は、一緒にいたい」
和真の目から涙が零れる。感情まで溢れ出してしまいそうなのを必死に堪えながら、蓮に話しかけ続けた。
「...蓮。好きだ。俺のせいで、ゴメン...」
堪えきれなくなり、手で口元を覆う。和真の背中を見ていられず視線を逸らすと、ふいに声が聞こえた。
「...かず、ま」
「...っ!」
勢いよく顔を上げると、蓮が和真を見ていた。
「...っ、れ...ん...?」
「か、ずま」
以前の蓮とは似ても似つかないほどに弱々しく、吹けば消し飛びそうな小さな声。だが、紛れもなく蓮の口から発せられたものだった。
「しに、たい」
「...え?」
蓮の一言は、立ち上がり駆け寄ろうとする和真を凍りつかせるのに十分だった。
「しに、たい。かず、ま。し、にた、い...」
「なっ...!!」
あまりの言葉に絶句した。
「かず...ま...」
感情の宿らない瞳から、ツッ...と涙が一雫零れ、頬に細い跡をつけていく。
「な...なあ、蓮...。嘘、だよな...?」
ガタガタと震える手を蓮の方へ伸ばす。
「やだ...やだ...しに、た...」
頭を抱えてイヤイヤするように左右に振る。
「せ、先生...。蓮は...」
縋るような目で細野先生を見る。
先生は静かに目を臥せると、こう言った。
「一度、先程の部屋に戻りましょう」
こくりと頷き、和真の腕を掴むと蓮の病室から引っ張り出した。和真は大人しくついてきてくれているがらさっきまでとはまるで別人のようになってしまった。心なしか身体が一回り小さくなったようにさえ思える。
面談室に戻りさっきと同じ場所に腰を降ろすと、細野先生は重たい口を開いた。
「...今まで、私たちにもあのような態度は見せなかったので、意思の疎通が難しいと思っておりました。ですが、パートナーである犬飼さんのことは理解している様子でした」
言葉を選びながら淡々と話す。すらりと伸びる白い指を組み、思案しながら続けた。
「もしかしたら、自宅療養が一番良いのかもしれません。しかし...犬飼さんは、どう思いますか」
話を振られ、ピクッと反応する。
「俺...俺は...。...どうしたらいいか、分かりません」
震える声でそう答えると、泣き出しそうな顔をしながら細野先生を見た。
「だって...蓮は、死にたいって。俺は、そんなの嫌だ。だけど...蓮はもう、生きるのも、嫌になっちゃったのかな...」
ポタ、ポタタ。
涙が拳に巻いてある包帯の上に落ちる。昨日、清水を殴った時にできた傷の処置をした箇所だ。涙は包帯に染み込み、薄く色づいていく。
「俺...分かんないんです...っ」
和真の慟哭が、室内に虚しく響いた。

***

ビュウウウーッ。強い風が耳元を掠めていく。
あの日から一月ほど経った。和真は最初こそ取り乱していたものの、たくさん泣いた後に落ち着いて先のことを考えてくれた。
「蓮は望まないかもしれないけれど、それでも俺は一緒に生きたい」
蓮のことを支え続けると決心し、自宅療養を決めた。
だが、現実はそう甘くはなかった。
帰ってきて一週間ほど過ぎても、蓮はうわ言のように「かずま」「しにたい」としか繰り返さなかった。時折フラッシュバックするのか、昼夜問わず奇声を上げ布団の中で震えているなんてこともあった。何とかして食事を取らせようとするも叶わず、飲まず食わずが続いた。病院に相談し点滴で補ってはいるが、蓮はついに自力では立ち上がれないほどに衰弱していった。和真の懸命な声掛けも虚しく、緩慢な死を選ぶ蓮の姿に、和真の心は折れてしまった。
「キョウ、ありがとな」
和真はにこりと微笑んだ。この一週間、見られなかった表情をまさかこんなタイミングで見られるとは思わなかった。いや、こんなタイミングだからこそなのか。
「いいよ、別に」
蓮は和真に肩を借りながらよろよろと歩いていく。一ヵ月振りの外出だ。前までとは別人のように痩せ細り、骨や血管が浮き出て見える。相変わらず無表情だが、僅かに口元が緩んでいるように感じたのは恐らく気のせいではないだろう。
時刻は深夜を回っている。流石にこの時間ともなると、人はもちろん車も少ない。季節外れのイルミネーションのような夜の街明かりが、私たちの姿を照らし出す。
蓮と和真は同じ速度で歩いていく。まるで結婚式の赤い絨毯の上を進むかのように、一歩一歩を踏みしめながら。今までの思い出を、生き方を振り返りながら。
これが最期だと、揺れる気持ちを固めるかのように。

二人が進んだ先は、地上二十七階の屋上の縁だった。
私は二人が寄り添い合う背中をただ見つめていた。私にできることは、何も無かった。
和真は選んだのだ。蓮の願いを叶えることを。
「蓮...ごめんな。もっと幸せにしてやりたかったのに。今の俺じゃ、これくらいしか出来なくてさ」
努めて明るい声を出すようにしながら、蓮に笑いかける。笑って終わりたいと言っていたのをふと思い出した。
「蓮...愛してるよ」
和真がギュッと蓮を抱きしめると、蓮は残された力を振り絞り和真を抱きしめ返した。
「かず、ま。あり、が、と...」
二人の涙がキラリと夜の灯りに照らされた気がした。
「あいしてる」
二人は抱きしめあったまま、ゆっくりと宙に身を預けた。
それが、私の見た二人の最期の姿だった。

***

陽の眩しさで目を覚ます。
昨夜遅くまで起きていたせいで、昼まで寝てしまった。
この家はこんなに静かになったんだなとふいに思う。
半分夢のような気がして、いつも通りリビングに顔を出したが、当然誰の姿も無かった。
荷物の整理もきちんとしていったので、半年前と同じように自分の持ち物だけが残っているだけであった。
思い返してみれば、悪くない毎日だったなと思った。
ほんの少し惜しみながら、昼食の準備を始めた。

『昨日の午前1時過ぎ、𓏸𓏸県𓏸𓏸市でビルの屋上階から男性2名が転落する事故が─』
パンを片手にぼんやりとテレビを見る。ニュースとは何故いつも似たような内容ばかり流すのだろうか。正直どうでもいいニュースばかりだ。流石に飽きてきたので、リモコンを手に取りテレビの電源を消した。
しんと静まり返った室内を、目を細めて見やる。
つい昨日までは三人だったのになぁと、まるで昔を懐かしむかのように思いを巡らせた。
カチャカチャと食器を洗って片付けている時、ふと引き出しの中にあるものを思い出した。自分の机に向かい、一番上の鍵付き引き出しを開ける。中にあるクリアファイルを手に取り、一番上に入れていた書類を取り出した。
「これにて契約完了─か」
この書類は、二人と同居する時に書いてもらった契約書類だ。
「『君達の行く末を見ること』だったよね、確か。思っていたよりも早いお別れになっちゃったけど…仕方ないよね。それが彼らの選んだ道なんだもの」
それなりに一緒に過ごしてきたが、悲しいとか寂しいとか、そういった感情は全く浮かばなかった。
思うのは、そう。今まで遊んできた玩具が壊れたから捨てた、くらいのものだった。
自分は冷たい人間なんだろうな、と思った。自分と二人を結びつけた知人─冨樫にも以前「キョウの血って絶対赤じゃないよね。なんつーか、青っぽい気がする」と言われたことがあるくらいだり
冷血人間って訳じゃないと思うんだけどな、と一人納得のいかない表情を浮かべる。
冷たいというか、人と距離を置きたい。ただそれだけなのだが。
「晴れてお役御免、ってことだね」
契約書を台所に持っていき、コンロに火をつける。上に紙をかざすと、じわじわと燃え広がっていった。
「さて、これから私は…いや、僕は何をしようかな」
黒焦げの紙切れをシンクにぽいと放る。ニィッと冷たい笑みを浮かべ、次の玩具探しを楽しみにした。

僕の名前は狭間キョウ。一応成人しているのだが何故か学生に見られることが多い。特に何の取り柄もなく、夢も野望もなくただフラフラと生きる普通の人間だ。

ただ一点を除いては。

──続く──

***

〈エンドストーリー/ある日の会話〉

「ねえ、キョウちゃんはさ、恋人とかいないの?」
あまりにも唐突に聞かれたため、思わず口にしたコーヒーを吹き出すところだった。
「いないけど…どうしたの、急に」
苦笑いで返すと、蓮がずいと身を乗り出して近づいてくる。
「だってさぁ、キョウちゃん優しいじゃん。僕らのことを受け入れてくれるような広い心を持っているんだよ。普通ヤじゃない?見ず知らずな上にゲイカップと同居だなんて」
僕だったら無理かな、と眉をギュッと寄せて難しい顔をしながら蓮は言った。
「まあ、そりゃ最初はびっくりしたよ?」
同居初日の衝撃的な出来事は今でも忘れられない。
「冨樫からの紹介じゃなきゃ断っていたと思う。知り合いならまだしも完全にハジメマシテの相手だったし。冨樫が私に回すくらいだから、何か訳ありなんだろうなーとは思ったんだけどさ」
そっちの意味の訳ありだったかぁと呟くと、「え?他にどんな訳ありがあるの?」と目をまん丸にして聞き返されてしまった。
「あー、いや。普通に家出とか?」
犯罪者を匿う系かな、などとは流石に言えなかった。いや、匿わないけどさ。
「ああ、なるほど」
蓮はポンと手を叩き、納得した様子だ。
「でも、僕と和真は家出人間に近いかもね」
悲しげに揺れる目を見て、いつもは聞かないようにしていたことを、思い切って訊ねてみた。
「蓮、ご両親とは確か…」
「うん。絶縁状態」
「和真も?」
「そう、そんな感じ」
はあっ、とため息をつくと、蓮は自分の身の上話を訥々と喋ってくれた。
「昔はさ、女の子が好きだったんだよ。初恋の相手は幼稚園の先生だったんだ。可愛いでしょ?で、小学校に上がってからさ、上級生の女の子に言われたんだ。『ねえねえ、そこのお姉さん』って。まー確かにあの頃はちょっと髪長かったし、見た目が女子っぽかったんだよね。だけど、流石にショックでさ。それ以来、何ていうか、女の子を好きになれなくなっちゃって」
ポリポリと頭をかきながら続けた。
「でも、そん時はまだ、男を恋愛対象になんてちらりとも考えたことはなかった。ただ、女って苦手だなってくらいでさ。そしたら、中学で和真に出会って」
出会いの時を思い出したのか、蓮はクックッと笑った。
「同じクラスでさ、家も割と近かったからたまに一緒に帰ってたんだよ。あの日もいつもと同じように、じゃーまたなーって手を振って家に帰ろうとしたら、突然腕を掴まれて。『俺、お前のことが好きだ』なんて言い出したんだよ。僕らそんなに仲良かったっけ?とか考えていたら、『好きって、友達としてって意味じゃないぞ。付き合いたいって意味だ』ってすごい真剣な表情で言うものだから、戸惑っちゃって。なのに何でか『じゃあ、試しに付き合ってみようか』って言っちゃったんだよね。自分にびっくりしたよ。何であんなこと言ったんだろうって後悔したりもした。でも、今はそれが正解だったなって思ってる」
幸せそうに頬を緩ませる姿に、見ている私の胸まで温かくなってきた。
「親にはね、そりゃあボロクソ言われたよ。しんどかった。家に居場所はないって思ったし、自分の味方なんて誰一人いない。全部自分が悪いんだ、って。親には親の意見もあるのは分かってるんだけどさ。それでもやっぱり…キツかったよ」
そっと目を伏せる。今にも泣き出してしまうんじゃないかと、内心ハラハラした。
「でも、それでも。僕は和真と出会えて良かったと思っているよ」
顔をあげ、ニコリと笑う。決然とした、強い意志の宿る言葉に、私もコクンと頷いた。
ハッと我に返り、和真には内緒だよ、と顔を赤くしながらそっぽを向く姿は、やっぱりいつもの蓮だと思った。

いただいたサポートは本の購入費として使わせていただきます!また、note収益金の内、10%を子ども達に絵本をお届けする活動の支援金として使わせていただきます。