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9月6日とその後のこと ②

余震が繰り返す中、私は9月7日を迎えた。
メモによると5:30には朝目が覚めた。普段は全く寝汚いのでよほど堪えたのだろう。
地震から今までが夢ではないだろうかと何度思ったことか。夢であって欲しかったし、夢なら早く覚めて欲しかった。

学校からお借りしているラジオからニュースが流れてくるのでそれを聴いた。
電気の復旧は少しずつ進んでいるらしかった。

やはりやることがない為、校舎内で歩いて回れるところを見せてもらうことにした。
生徒たちが書いた習字の作品や絵が展示されている。描かれるモチーフは昔も今もあまり変わらないのだなぁと思った。

ほどなくして家庭科室に戻った。
あまりにやること、出来ることがなさすぎて私は「人間に対して最も効果的な拷問は"何もさせない、仕事を与えない"こと」というのを思い出していた。全くその通りだ。
ぼんやりしていたら校長先生からコーヒーをいただいた。お鍋で温めたもので、校長先生と少しお話もした。今回開封したビスケットは、学校が再開したら生徒たちにも配ってみようと思う、と仰っていた。どんな時も熱心な方ですごい方だ。

7:30頃、いちど家に戻る。
ここで父から連絡があり、家の外壁の様子や、あれば壊れた箇所を撮って送るように言われた。
連絡をくれた父の部屋の照明だけが壊れていた。
家に戻ったついでに私は3度目となる近所の様子見をしてみた。
住宅地ながらも交通量は多少ある近所は、その時はシンとして静まり返っていた。動物の鳴き声さえ聞こえない。
地震発生後に訪れた2件のコンビニは、もうどちらも完全に閉店していて誰の気配もなかった。

当時私は転職をしたばかりで、現在の店舗でアルバイトをしていた。
街の中を自転車に乗り回っていると、社員からアルバイトまで入っているLINEのグループトークに社員宛の連絡があった。余震に気を付けつつ、店舗にとりあえず出てこいとのこと。
未だにこれだけは呆れる。またいつ大きな地震が来るかもわからずに、生活もままならないのに仕事に来いとはどういうことなんだ。危険に身を晒してまで行かなければいけない場所って何の価値があるんだ。未だに理解できない。
私ともう1人のアルバイトやパートタイムの人は14日まで自宅待機となった。

家に戻り、風呂に入った。
あれだけ大きく揺れても、大変幸いなことに私の住むエリアの水道は無事だったのだ。本当にありがたいことだった。
冷たい水を浴びて震えつつも、1日ぶりに入った風呂はやはり気持ちが良かった。
ついでに枕や歯ブラシの替え、タオルを持ち出した。

避難所に戻ると、妹は出勤すると言って入れ替わりになった。職場の人が車で迎えに来るらしいのだが、本当にちょっと狂っていると思った。
みんなそんなに働くことの方が大事なのか?
見送った直後にも余震は繰り返した。

避難所で知り合った方から"解放されている音楽室なら少し携帯の電波の入りが良くなる"と聞いて、さっそく音楽室へ向かった。
毎日続けていたFGOのログインも無事にでき、ログインボーナスを途切れさせないように必死になった。私はこんな時でもゲームの心配をする。
厳しい現実を見つめるのは大事だけど、だからといって悲観してばかりなのもつまらないのだ。
Twitterも確認した。iPhoneは3G回線でもなんとかネットが繋がるらしかった。

昼にはカレーと茹でとうきびをご馳走になった。
ご近所の方が差し入れてくれたのだった。
カレーが泣くほど美味かった。とうきびは歯ごたえからして少し古かったようだが美味かった。

誰かが新聞の号外を持ってきた。
北海道全体の被害状況や時系列で起きた被害の内容が書かれていた。

▲当時の新聞記事

ぼんやりと、起きているらしいことを読む。
本当に本当に、これがもう数キロも車で走れば着く地域で起きたことなんだろうか。
新聞に載っていたのは、土砂崩れを起こして、剥き出しになった地面の土の色。
恐ろしくなって、新聞はそれ以降読めなかった。

この頃になるとLINEがごくたまに繋がるようになった。同時に、震災時にはかならず起こるといってもいいデマ情報の交錯が始まっていた。
マジでやめろ。
夜には普段通りとまではいかないがそれなりにネットが使えるようになった。ほんのわずかながら、希望を感じたのをよく覚えている。
それと同時に、一体いつまでこの状況が続くのか、終わりが見えないことにやはり不安は残った。新聞にはすべての停電したエリアが通電するまで1週間程度かかるとあり、果たして自分の住むエリアはいつ通電するのかと考えて、気が遠くなった。

当時のメモはここで終わっている。

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