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牧歌的な思い出/文化浴泉

昔書いたものの転載です。銭湯に行っていないなあ、とぼんやり思っていたら思い出した記事。

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大学生の頃、付き合っていた男性の一人暮らししていた家が文化浴泉に近く、よく行った。

近いといっても徒歩で20分はかかったろうか。ひとりならきっと煩わしい距離だったが、彼のダウンコートのポケットに手を突っ込める貴重な時間だったので、ちょうどいい散歩ルートのように思っていた。

ふたりして計画的に行動できない性質で、行くのはいつも深夜。駒場から文化浴泉に向かう道にほとんど人はいなかった。大声で歌ったりおどけて踊ったり、ちょっと高くなってるブロックの上を歩いて彼の身長を抜かしたり。

家でも長風呂な人で、1Kの狭いバスタブによく嵌って本を読む姿をよく覚えている。だから女の私とそんなに入浴時間も変わらず、心地よく楽しめた(気を遣って合わせてくれていたかもしれない。そんな人だった)。だから洗い髪が芯まで冷えて石鹸がカタカタ鳴る、なんてことはなかったのだ。

私がお風呂からあがると、彼は風変わりな椅子のどれかひとつに座って謎の数学の本を読んでいた。恋人を待っている他の人たちも、フロントの雰囲気もなんだか洗練されていたような。家庭用っぽい薄型の大きなテレビが点いていて、いつも月曜から夜ふかしが流れていた気がする。月曜日によく行ってただけか。



ひとことで言うならば、コンパクトに纏められたスタイリッシュな雰囲気の銭湯。細かい炭酸の泡が湯を白濁させるナノバブルバス?シルクバスともいうのかな。それがメインで、体感、若干深い。天井からの部分照明に照らされていて、気後れするほど清潔な感じだった。えも言われぬ罪悪感と恥ずかしさで胸がいっぱいになるのと同時に、清浄な気持ちになれる。この手のお湯は実際よりも少しぬるく感じるおかげか、熱いお湯が苦手な私でも無理なく入れる。浴槽の中で身体を撫でると、てのひらと身体の間で泡が静かに破れていく。滑らかでとても気持ちがよかった。

お風呂から上がり、2人で帰る時、アイスやら缶チューハイやらがいつも片手にあった。この時間はきっとただの彼の人生のモラトリアムで、彼が大学院を卒業して現実に立った時に即座に失われるだろう、と頭の隅っこでぼんやり考えていた。私のような女に人生をめちゃくちゃにされてはいけない人だから、彼が望んだ時にはきれいに目の前から去らなければならないという使命感があった。そんなことを思うにつけて、余計に幼く振る舞ったりおどけたりしてしまったものだ。だからよく歌った。ゆるい坂道をくだっていると、なんだか摩天楼のようなタワーマンションが2つ聳えているのが見えて、「これのいちばん上の部屋買ってー」なんて言いながらいつもちょっと泣きそうだった。



文化浴泉に通わなくなったのは、別れたからではなく、彼の転居が理由だった。2023年の2月まで改装工事をしているようなので、リニューアルされたら行ってみようかな。池尻大橋で降りずにわざわざ駒場東大前で降りて、夜の学校の前をこわごわ通り、目黒川を渡って。菱田屋、美味しかったな。さみしい。



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