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血液型性格診断が嫌いだった話 ~及び偏見についての随想~

前置き

 2021年5月27日時点で6000文字程度を書き終え、それからずっと放置していた下書きに本日、書き足しを行い完結させた記事です。個人の思考体験をまとめたエッセイとなっており、ほとんどクオリティーにこだわっていない、言ってしまえば駄文です。物好きな方だけどうぞ。
 また当記事には、血液型性格診断の類がお好きな方/信じている方、あるいは、アンチの方にとっても不快に感じられるかもしれない表現が含まれます。そちらも事前にご了承をお願いします。

序章

 小学生の頃から "偏見の類" が嫌いだった。話す前に自分のことを決めつけられるのが不快で仕方がなかった。そういう意識が培われた土壌として、私自身が元々コミュニケーション能力の高い方ではなく、さらに生家が転勤族だったことがあるように推察している。

 物心ついた頃から複数回転居を経験したが、人間関係がリセットされる度に「自分のことを知ろうともしない人に、自分のことを知ったかのような言動を取られる」経験を繰り返した。それがとても不快で、そこから "偏見の類" が嫌いになったように振り返る。

1.血液型性格診断の類

 いつ血液型性格診断の類に遭遇したのかは覚えていない。しかし、かなり昔から大嫌いだったことは覚えている。理由は明らかで、そこに確固たる「偏見」の匂いを嗅ぎ取っていたからだ。何が面白いのか分からないし、乏しい(と噂の)根拠で他人のことを決めつけていくノリがひたすら不快だった。強い嫌悪感を持っていた。

2.血液型性格診断の類とアンチ

 しかし、表立ってアンチにはなれなかった。何故かと言えば、血液型性格診断の類は "アンチも目立つホビージャンル" であり、ゆえに血液型性格診断の類の話題があるところ、あちこちでアンチの方々の言論も目撃できたのだが、彼等の言動を格好いいとは思えなかったからだ。

 むしろ、過激な雰囲気のアンチの方々が、嫌悪感を前面に出し、時に嘲笑と侮蔑を交え、如何に血液型性格診断の類に根拠がないか、血液型性格診断の類を信じることが愚かしいかを捲し立てる姿は、正直なところ「みっともない」と感じられるほどであった。

 しかも、それで他人の意識を変革できているのなら、見るべきところもあろうが、少なくとも私の記憶にある限り、そういった「説得の成功例」はほとんど観測できなかった。アンチの人が、どんなにご自身が信用する根拠を上げ、熱を込めて「血液型性格診断の類の愚かさ」を説明しても、血液型性格診断の類が好きな人や、血液型性格診断の類に抵抗がない人の意識が変わることはほぼないようであった。

 それどころか、血液型性格診断の類への嫌悪感を憚ることもなく熱烈に露にするその言動は、時に集団の和を乱し、周りの人から煙たがられているように見えた。こうなってしまうと、最早、彼等の理論は彼等の為だけにあるもののようにさえ見えてしまった。どんなに「正しい」はずのことを言っても、元から賛同してくれる人以外には通じないようなのだ。

 私は血液型性格診断の類が本心ではとても嫌いだったが、こういった現実を前にし「この嫌悪感は表に出しても場の空気を悪くしてしまうだけなのだろう」「血液型性格診断の類が場の話題にのぼってしまったら、上手いことかわしていくしかないのだろうな」と解釈して、実際にその通りに過ごすことにしたのだった。

3.煮えたぎるマグマ

 しかし、嫌悪感は消えることなくずっと胸にあった。それこそ滑稽な話だろうが、嫌悪感のあまり、かえって他の人の血液型を気にしてしまうほどであった。自分から尋ねることはないが、誰かが何型だと聞けば、それを半ば無意識の内に記憶してしまい、その人の言動を血液型性格診断の類の信奉者が語るステレオタイプとこっそり照らし合わせ「ほら見ろ、やっぱり当てはまっていないところが沢山あるじゃないか」と内心で不満を抱くようなことが幾度もあったのである。

 どんなに世の中に血液型性格診断の類が好きだったり、血液型性格診断の類を信じ、それに託つけて他人を分析したりする人がいようと、私の「あんなものにはろくに根拠がない。馬鹿馬鹿しい」という気持ちも変わらなかったのだ。

4.疲れる

 その結果、私は精神的に疲労した。一々そんなことを考えて過ごすのは疲れる。加えて、観察した人の言動が血液型性格診断の類のステレオタイプに一致している場合はどう捉えるのか。敗北なのだろうか。

 あるいは、一致している事例があれば「個人単位では当てはまることもあるが、傾向としては根拠がない」とでも言うのか。なら「傾向としては根拠がない」と断言できるほどのサンプルを得たのか。いや、そういった研究は既に他の人がやっていて、だからそれで根拠がないという話になっているんだよな。だけれど、それは他の人に言っても仕方なくて……なら、私は一体何を気にしている?当てはまることばかりじゃないと、身近な事例を引いて即座に言い返そうとでもしているのか?でもそれなら、同様に身近で「当たっている」事例を引かれたら相殺されてしまうのでは ……いやいや、疲れる(二回目)

 そのうちに私は「どうして、自分はこんなに血液型性格診断の類が嫌いなのか」を意識せざる得なくなったが、答えは「自分でも分からない」ままであった。

 決めつけが不快、根拠がない、そんなものを皆が信じていることが馬鹿馬鹿しく見える、偏見が嫌い、表面的な理由は無数に浮かんでくるが「決めつけられたらどうして不快なのか」「根拠がないことを何故そんなに許せないのか」「気にしないで楽しんでいる人もいるのに、自分はどうしてそうできないのか」「そもそも偏見とは何で、どうしてそれが悪いのか」、考えるほどに迷子になってしまう。

 嫌悪感は確かにそこにあり、捨てられない。沸き立つような不快感が胸にある。平気な人からすれば、かえって理解不能なんじゃないかと思える感情を抱いている。その理由を説明できず、同時にそこまで嫌いだからこそ、血液型性格診断の類に無関心を貫けず、振り回されている。ひたすらジレンマだった。

5.出口

 心の底の一隅に悶々としたものを抱えたまま、過ごしていたある日のこと。10代も後半になった私は学校で講義を受けていた。科目は生理学、先生は白衣の似合う初老の女性で、普段から尊敬し、慕っている人だった。

 その日の講義内で、血液型がどうやって決定されるか、という解説があったのである。先生はスライドに写した画像を指し示し、生理学の観点から「赤血球表面の糖鎖やタンパク質の違いによって血液型が分類される」といった話をして下さったのだが、その解説の後、後半部は少し茶目っ気を加えて、次のように仰った。

「この糖鎖の違いで、ABO式の血液型が決まり、さらにはこの違いによって、性格も決まるという話もあるんだけれど……さぁ、どうなんだろうね。あるかもしれないし、ないかもしれないよね」

………………。

………………………………。

…………………………………………………。

………………………………………………………………そうか。

そうなのか、"あるかもしれないし、ないかもしれない"のか。

 たったそれだけの話だったのだが、この話を聞いた途端、確かに価値観が転換した。この話を他の人が聞いて、同じように感じるかは全く自信がない。しかし、私は妙に納得したのだ。ずっともやもやしていた事柄に、欲しかった回答を得たようであった。

 そうだよな、根拠がないと言ったって、仮にそれが本当でも、それさえ "現在" の話に過ぎない。今後も絶対に「『血液型で性格傾向に違いが生じる』という話にエビデンスが出ない」との保証はどこにあるのだろうか。私は今まで "あるかもしれないし、ないかもしれない"、ただそれだけの物事を否定しようとどれだけ躍起になっていたんだ、それこそ馬鹿馬鹿しい、と思った。

 その先生を元から尊敬していた、というのも納得に一役買ったのかもしれないが、とにかく血液型性格診断の類のアンチは、ことに「正しさ」にこだわり「根拠がない」と強弁し「だから、これを信じるのは愚かしい」と説く。だけれど、少なくとも私の中でこのロジックは力を失い、"あるかもしれないし、ないかもしれない"、それについて躍起になるのは馬鹿馬鹿しい、と認識が変わったのである。

6.残る疑問

 思いがけず「正しさ」にこだわる必要性は感じられなくなった。それだけで幾分、心が軽くなったのだが、続いて残った疑問として「私はどうして "偏見" が嫌いだったのか」というものがある。

 絶対的に間違いと言い切れない以上、躍起となって否定するのは馬鹿馬鹿しい、もしかしたら、今、私が「偏見」だと思っていることも未来には「事実」として証明される日がくるのかもしれない。では、私が嫌ってきた「偏見」とは何だったのか。個人的に得た結論を書いてしまうと、それは順番が逆であることと、可能性を封じるような言い回しだ。


7.そもそも「偏見」や「先入観」とは

 偏見とは、そのまま文字の通り「偏った見方」のことである。ご参考までにWikipediaの「偏見」の項の概要欄には、以下のように記載されている。

人間は、ある対象の性質や優位性の有無などを判断するにおいて、対象に関する見かけや所属といった断片的な知識や情報、自らの属する社会、宗教、文化などが有する価値観、あるいは個人の経験則を判断基準として用いる場合がある。これらを実際の性質や実態を無視し、主観的・恣意的に選択された比較的単純な判断基準として用いることで生み出される事実上の根拠がない思考が偏見である。

また、偏っていない中立的・客観的な見方の対義語という意味ではなく、実際において主観的か、意図的か、対象の実態に沿っているか否かに関わらず、単に多様な視点に欠ける一方的・単純なものの見方に立脚した思想、態度に対して用いられることもある。

新しい証拠にもとづき自分の誤った判断を修正することが出来るなら、偏見ではなく予断に分類される。修正できないのであれば偏見である。ある偏見が矛盾を付かれる証拠があっても、進んで拒み、感情的になるのが特徴である。

( 出典:Wikipedia - 偏見 )


 根拠のない思考が偏見、これは実に一般的な見方だ。現に、私がかつて、血液型性格診断の類に「偏見」を振りまくイメージを抱いて嫌っていたのも、その「根拠」は薄弱だという定説があってだ。

 だが、ここでもう少し踏み込みたい。それでは、信頼するに足るエビデンスとは一体どういうものであり、誰が規定するのか。そして、それを出せない憶測はすべからく偏見で、良くないものなのか。

 例えばの話、夜道で刃物を持った人物に遭遇したとする。この人物が自分に危害を加えてくる可能性を考えて、怯えたりその場から逃げたりしようとすることは、果たして「偏見」ゆえの差別的な行動となるのか?

 おい、常識で考えろ、それは明らかに不審人物だろう、と思う人がいるのなら、その人にはかの有名な物理学者、アルベルト・アインシュタインが遺したという「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」(Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.)との言葉を贈りたい。

 少なくとも私は、夜道で刃物を持ち歩く人間がたまたま遭遇した人間に危害を加えてくる可能性はどれくらいであるか、統計学的な知識は持っていない。仮にそういった知識を持っており、可能性が高いことを知っていたとしても、現実に自分が遭遇した人が例外かどうかは計りようがない。
 この話がとても極端で反論の余地がある例示であることは承知だが、もしも「夜道で刃物を持った人物を危険視すること」が偏見だとの見方にも受容の余地があるのなら、偏見は必ずしも悪なのだろうか。


8.偏見が不快な理由

 一口に「偏見」と言っても、その言葉が使われるシチュエーションは多岐に渡る。そこで、当記事で言うところの「偏見」とは「人々の資質・性格・能力の傾向を示したもの」くらいに捉えてほしい。

 例えば、血液型がA型の人は真面目で神経質、B型の人はマイペースな楽天家、といったようなことである。あるいは、男女の性格傾向や『話を聞かない男、地図を読めない女』といった話、国民性、県民性の類でも構わない。

 こういうものが何故不快だったのか。仮に "正しい・正しくないの判別は基準にしない" のなら、それでも不快なのか。合っているかもしれない可能性もある、いわゆる「偏見」のデメリットとは何なのか。
 正しさの他に鍵になるものがあるとすれば、恐らくだが、それは一つに「順序」であり、次点で敬意を排したような言い方である。また、順序と関連する概念が「先入観」である。

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 まず、前提として「傾向」はあくまで「傾向」であり、絶対のものではない。ある集団内に特有の傾向が見られたとしても、その集団を構成する人数が多いほど、個人差によって傾向から逸脱する人間が出てくる。

 例えば、一般に第二次性徴を終えた男性は、同年齢の女性より身長が高い傾向にある。これは周知の事実であり、統計上もエビデンスが出ている。しかし、仮に20歳の男女をランダムで100人ずつ集めたとしよう。すると、男性の中で最も身長が低い人は、ほぼ間違いなく、女性の中で最も身長が高い人より「身長が低い」。これが「傾向<個人差」の例である。

 ここで男性の中で最も身長が低かった人、あるいは、女性の中で最も身長が高かった人に対し、性別に託つけて「○○なのに、そういう身長なんだ」と言うのが、あまり上品でないことは多くの方に理解を頂けるのではないかと思う。事実を言っただけ、と捉える人もいるだろうし、それも価値観だろう。しかし「第二次性徴を終えた男性は、同年齢の女性より身長が高い傾向にある」というのは事実だとしても、「男足るもの、女より身長が高いものだ」となると先入観を含んだ発信となり、偏見の表明となるのではないか。

 問題はそこであり、順序性物言いである。仮定の話として、それまで女性としか関わってこなかった女性がいるとする。その人がある日、初めて出会った "ごく標準的な男性" の身長の高さに驚く。そこで調べてみて「第二次性徴を終えた男性は、同年齢の女性より身長が高い傾向にある」という事実に行き着く。これだと、何の問題もない。

 個人を見て、不思議に感じた事柄について、その人が所属する属性から解釈のヒントを得る。順序が、個人→属性だと、傾向を示したデータは、むしろ、有用なのだ。データの正しさも大切なのはそうだろうが、ここで私は敢えて、個々人が個々人なりに納得することで、誰かと誰かが "上手く付き合える" のなら、その「納得の論拠」は血液型でもいいと思えるようになった。

 実際に血液型性格診断を信じる人が「あの人は○○型だから、きっとそういうところがあるのだろう」等と解釈しながら人付き合いしている様子をまま見る。

 正確でないデータを根拠にするあまり、良くない状況に陥ったり、他人に不利益を与えてしまったりしているのなら、話は別だ。しかし、世の中の人は皆、日々そこまでエビデンスにこだわっていない。一々こだわっていたら、日常も回らないため、各々が信じるところでバランスを取りながら過ごしている。その「信じるところ」の一つが「血液型」でも、上手く運用されているのなら、良いのではないか。否定的なエビデンスを出すとしたら、良くない状況に陥ったり、他人に不利益を与えてしまったりした時でいいのだ。最初から一生懸命否定する必要性はどれほどだろう。

 逆に順序性が、属性→個人になっている場合は「個人の特性を見逃した "傾向" の押し付け」「先入観ありきの人物評」が発生しがちとなるため、これは良くない「偏見」として気を付けた方がいいのではないか。

9.帰着

 ここまでの考察を以て、小学生のことから偏見の類に対し、敵意や不快感を抱き、悶々としていた自分の心はそれまでより格段に自由になった。向けられると嫌な気分になる偏見は存在するが、自分自身も多種多様な偏見を持っている。時として「そういう偏見を向けられるのは不快だ」と伝えたくなる場面もあったとしても、それが偏見だからと断罪しようとするのは行き過ぎではないか。不快を伝えた際に受け入れてもらえなかったとしても、それは価値観を違えた一例に過ぎない。
 すべての事柄にエビデンスを求めていくのは困難であるし、エビデンスを出したところで、そこから導き出されるものもあくまで "仮定" である。

 もし、何らかの偏見によって、誰かが激しく迫害を受け、あるいは死に至るようなことがあるなら、それには怒りを表明し、反論もすべきだろう。現実的な被害や不利益が生じる場合でこそ、説得のため、エビデンスを持ち出し、不当な扱いに抗議する必要はあるはずだ。他方で、日常生活において、些末な価値観の違いに目くじらを立てる必要性がどれほどあるものか。

 偏見を憎むあまり、他者に不寛容になっては元も子もないのである。以上の結論を以て、当記事における思考体験の記録を終える。

付記

※当記事のトップ画像は「いらすとや」さんから借用。


 

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