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ここが行き止まり

逃げろ、と全身が叫んでいる。
逃げろ、逃亡しろ、と全身全霊で警鐘を鳴らしている。何が。これまでの人生と、記憶の全てだ。どんなに惨めになっても、この後どんな泥水を啜ることになろうとも、この場から逃げ出すべきだと、焼き切れそうな脳が叫んでいる。脂汗が吹き出している。じっとりと重い、嫌な汗だ。思考と裏腹に、吹き出す汗を拭うことすらできなかった。足が震える。動けない、なぜ。
わからない。
どうして、こうなったのか。
俺には、もうわからない。
ただ、逃げ出したかった。この場から逃げ出して、強い酒を飲んで、何もかも忘れて眠りたい。こんな時に思い出すのは、あの狭い部屋の、硬いベッドだ。
失敗した。大きな失敗だ。ころころと転がっていったあのりんごと同じ。りんごが坂を転げ落ちるのと同じように、俺は地獄に叩き落とされるのだろう。
当たり屋に選んだ相手がまず悪かった。
カモれそうな優男。いつもみたいに肩を当てて、小金を稼ぐ予定だった。わざとらしく地面に尻もちをついて、睨もうとして、それで、こうなっている。
「すまない、こちらの不注意だったね」と言われた時点で、引き下がっておくべきだった。
間違っても、「骨折したかもしれない」だなんて言うべきではなかった。そうしたら、もう少し俺はこのクソみたいな人生を謳歌できているはずだったのに。
逃げ出さないと、死ぬと直感的に思った。これは死だ。目の前にいるのは、ただの人間ではない。2人組の男が、地面に這いつくばる俺を見下ろしている。
「……アップルパイはまた今度でいい?ケチがついちゃったなぁ」
「赤くて美味しそうだったのに……残念」
「代わりにスコーンでも焼こうか……クロテッドクリームの用意はあったはずだし」
「楽しみ……紅茶を淹れなきゃ。で、どうする?」
「どっちでも構わないかな、君の判断で」
「重大な決断を人任せにするのは君の悪い癖だね……」
俺の事なんて気にかけてもいないような会話。チャンスなのではないか、逃げるための、ここから逃亡して、家に帰って、それで、誰かに電話をかけるための、正真正銘最後の大博打。
少しづつ、バレないように、後ずさる。会話はまだ続いている。立ち上がって、走って、後ろを振り向かずに走って、息が切れるまで止まらなければ俺の勝ち。負ける要素なんてない。だって、まだあの二人は話を続けていて、だから、助かる……?
視線に気付く。視線。見られている、ということ。じっと、ただ、見られている。それだけのことで、動けなくなる。
「……お前。逃げようとしてるでしょう」
「はは、それは許されたことじゃないな。こっちは色々台無しにされてるわけだし……」
「大人なんだから、ケジメぐらい付けられるよね?」
喉が渇いて張り付く。
「ご、ごめんなさいッ……もう、もうしません!もうしませんからッ!許し、」
声が、本当に出ていたかはわからない。俺はそう言おうとしたし、多分言えていた。
「……"ごめんなさい"で済んだらこんなもの誰も持たないんだけどな……」
「ヒッ、あ……あんたら狂ってる!この程度のことでそんなもの、ひ、人に向けるのかよ……ッ!!」
銃を向けられたのは、多分はじめてだ。
はじめまして。こんにちは、どこの誰ですか?おれは、俺はどうしてこんな目にあってるんですか?悪いのは、悪いのは、本当に、俺ですか……
「わざと人にぶつかっておいてその言い様はないんじゃないのか?……狂ってるのはきみの方だろ」
「う、撃ったらどうなるのか、わかんねーぞ!俺の後ろに誰がいるのか知らねーのか!」
当たり屋程度で人に銃を向けている方が、絶対におかしい。おかしいのは向こうの方だ。俺ではない、絶対に、絶対に俺ではない。
「あ"ぁ!クソッッ……なんだよッ……なんなんだよ!!誰なんだよお前らは!!!」
睨む。今度こそ。顔を見る。俺に銃を向けている方の男の、長い黒髪が風に煽られて舞う。
何か言っていたが、上手く聞き取れなかった。
「さて……俺は、君の事を知っているよ。君は俺達のことを知らないみたいだけど……一方的に知られている気分はいかがかな……」
「なんだ、知り合いだったの?」
「……いいえ、ただ一方的に知ってるだけ……だって、同業者の顔と名前くらいわかるでしょう」
同業者、?
知らない。俺は知らない。でも、つまり同業者ということは、それはこの島の裏側の人間ということだ。
でも、本当に俺はこの目の前にいる弱そうな優男のことを知らない。
「誰なんだよ……ッマジで……知らねーよ俺は!」
もっと、俺なんかよりもずっと裏側の深いところにいるということなのかもしれない。と思い当たる。この場所の闇は、多分思っているよりも深く暗い。
「なんだか……疲れちゃった」
あぁ、それは俺もだ。殺すならもう、さっさと殺して欲しいとすら思う。
「クソッ……なんなんだ今日は……!……最悪だ」
改めて、顔を見る。もしかしたら殺されるかもしれない奴の顔を見るぐらい、許されるだろう……

息が、止まる。何度も息を吸い込んでいるはずなのに、苦しい。苦しくてたまらない。
息を、吸い込んでそれからどうするんだっけ。
「おいおい……大丈夫?」
「……銃なんて向けて脅かすからでしょう」
「よくこっちにきたなぁ……きみ、向いてないんじゃないか」
気付いた。気が付いてしまった。煮えたぎっていた頭が冷えていく。
「おい……わかったぞ、俺は!お前ら中央の!あのクソ忌々しい中央の奴らの犬だろッ!」
「……その解答じゃ、及第点はあげられないかな……ふふ、落第生だ」
マフィアなんて名ばかりの、中央の駒。そうに違いないと思った。
「デケー顔して勝手に仕切ってんなよ、元々俺達のシマだろうが!そ、それを勝手に、」
続けようとした言葉が詰まる。喉に、綿でも詰まってるみたいだ。
「……ジラフ様の選択にケチを付けるのはいけないな、それは俺達のボスを侮辱してる、ってこと……」
「ああ、それはいけないな。この世で一番、しちゃいけないことだ」
相手が、コイツらが俺を殺す言い訳をつらつら並べ立てる。失敗してはいけない。もうこれ以上間違える訳にはいかない。もう一度間違えたらきっと、俺は、海に捨てられる。
海に浮かぶ自分を想像する。大西洋のド真ん中に投げ出される姿がありありと想像できる。
喧嘩を売ってはいけない相手に、喧嘩を売ってしまった俺が悪いのか。
「おれが、悪いのか……?おれ、ガ、?」
「そうだよ、君が全面的に悪い……それこそ、殺されたって文句は言えないくらいにね?」
一点の曇りもない声で言われると、おれが悪いような、そんなきがしてくる。
「ころせ、はやく」
「……弾が勿体ないと思わないか?俺にはどうも、殺す価値もない気がしてきた」
「そうだね……じゃあ……このまま放っておこう。当たり屋なんてしない方がいいよ……疲れちゃったし」
それじゃあね、と聞こえた気がした。疲れたのは俺の方だ、と文句のひとつも言ってやりたい気分だが、それ以上に死ななかった安堵感でいっぱいだ。
あの2人組は、もう遠いところにいる。一瞬な気がしたのに、俺はもしかして随分長い時間ここに座り込んでいたのかもしれない。
じっとりと、掌が濡れている。まだ冷や汗が止まらない。帰って、シャワーを浴びて、テレビの音量はデカくして、あの声を脳裏から掻き消さないとどうにかなりそうだ。

…………

「ふふ、怯えてたね……」
「そもそもユークが避ければこんなことにならなかった」
「……道が狭かったのが、いけないと思わない?……外で名前呼ばないで」
「あぁ……そうだったね。そこまで神経質にならなくてもいいと思うけどなぁ」
「恨みを買ってるのは確かだから……用心する事に越したことはないよ」
「そんないらないもの買おうとするなよ。きみならできるだろ?」
「それは……恨みくらい抱かせてあげないと可哀想でしょう」
ユーク・アルヴェーンは肩で風を切るように真正面から歩いてくる男を器用に避ける。
「……避けられるんじゃないか、やっぱり」

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