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解釈と表現

ポルノグラフィティ岡野昭仁さんのカバーしたPretenderが素敵なのでもれなく全人類聞いてほしいのですが、カバーにおける解釈と表現についていろいろ思ったので日記を書きます。先に言っとくけど上手く纏まりませんでした(放棄)
noteってhtml使えないのかな。
貼り方わかんないのでPretenderカバーのリンクだけ載せます。グッバイ!
https://youtu.be/rEpvk7DS_80



YouTubeのトレンドにも入っていたとのことで、いろんな人が聴くにつれていろんな感想が見えておもしろいなと思った。
コメント欄を見てみるとやっぱり「昭仁さんすげ〜」という感想がたくさんあって、そっすよね、いいっすよね、最高っすよね…と自分が褒められてるわけでもないのに嬉しくなったり、「髭男とはまた違う感じもいいね」という、わかる〜しか言えないものもあった。
その中で気になったのが「ただ似せて歌ってる人とは違う」「ただ上手いだけの人とは違う」「歌って自己満足してるだけの人とは違う」という感想。言われてみればカラオケの延長線上というか、そういう人もいるんだろうなと想像はつくけど、自分があまり「歌ってみた系」の動画を見ないのでピンと来なかった。

ただ似せてる人、ただ上手いだけの人、自己満足してるだけの人ってどんな人なんだろう。今回昭仁さんは自分なりの解釈をして歌の世界を表現しているとするのなら、その反対にあたる人なんだろうか。
誰かにとってそうカテゴライズされた人は自分の表現を諦めた人なんだろうか。
自分なりに解釈をして表現したつもりでも、ただ似せてる人、ただ上手いだけの人、自己満足してるだけの人と受け取られてしまった人もいるのかもしれない。

そして昭仁さんの考えていることはファンだろうがわからない。
私は昭仁さんが誠心誠意カバーする曲に向き合ってくれたと信じているが、そうでない可能性だってある。
「自分の歌いやすいように歌っちゃお、別に原曲の世界観とかどうでもいいや」と思った可能性だって0ではない。
だって人の気持ちは見えないから。

何が言いたいのかというと、「ただ似せてる人、ただ上手いだけの人、自己満足してるだけの人」とカテゴライズする怖さがあるなと思ったということ。
そして、「世界観を表現できている/できていない」を歌以外の限られた情報で私たちは判断してしまっていないかと思ったということ。

カテゴライズする怖さと書いたのは「ただ似せてる人、ただ上手いだけの人、自己満足してるだけの人」とカテゴライズした人の中には解釈と表現を放棄したわけではない人もいると思うので、そういう人を傷付けてしまう可能性も大いにあるなと思った。
勝手に批評しても、その人より上の立場になれるわけでもないのに言いたがってしまうのはなぜなんだろう。こうして話している自分を含めて。

また、「世界観を表現できている/できていない」を歌以外の限られた情報で私たちは判断してしまっていないかというのは、本当に私たちは思い込みにとらわれず歌を聞いているだろうか?という疑問。
ポルノグラフィティだから、売れてるバンドだから、プロだから世界観を表現できているわけではなく、昭仁さんが昭仁さんなりに努力していてそれが上手く表現されているからである。プロの人だろうが売れてようが世界観が表現できなかったり、上手けりゃいいんだろと表現を放棄している可能性だってある。
そして売れてない人だから、知らない人だから、ただ似せてるだけ、ただ上手いだけと捉えてしまうのも(それも無意識のうちに)また勿体ないと思う。
一億総評論家時代とはよく言ったものですね、ほんとに。自分のことです。


あと、もうひとつ。
そもそもなぜ「ただ似せてるだけ、ただ上手いだけ」の動画を見ることになってしまったんだろうか。
「あ、好きな曲をカバーしてる人がいる!聞いてみよ!」って感じで聞いてみたら、いやなんか違うわ…となってしまったのだろうか。
言い方は悪いけど、そうした「ハズレ」を引いてしまうかもしれないのにカバー動画を見てしまうのはなぜなんだろうか。
意地悪な言い方だが、ハズレを引くのが嫌なら聞かないという手もある。でもそうではないということは、やはり新しい解釈と表現に出会いたいからなんだろうと思う。
そうであれば尚のこと色眼鏡は外していったほうがいいのかもしれないと思った。

終わりです。グッバイ…

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