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なぜエッセーを書きたいと思えないのかということについての

いきなりこんな捻くれたことをタイトルにしてしまった自分のキモさに引いている。
つれづれなるままに、自分の身の周りの些細なことにも目を向けて、自分なりの視点を他人に共有して、たまにクスッと笑わせられるようなブログを書く人は、わりと憧れかもしれない。
わりと若い時(中学生後半)から、ネットで人のブログや記事を読むのは好きな方だった気がする。でも、

  • えがけるほど自分の生活が輝いていない

  • 自分の生活の解像度が低い

  • 自分の生活を知らない人に共有したいと思わない

  • 振り返ってる余裕がない

  • 文章にしてアウトプットする力量がない。時間がない。精神的余裕がない。

こんな理由が私をエッセー(≒ブログだと思っている)を書くことから遠ざけているようだ。

自分で今書き出してみても、しょうもない言い訳だなと思った。
どれも慣れでなんとかなりそうだ。
しかも私が読者だったら読みたいのは、どーでもいい生活かもしれない。
でもそこにその人なりの視点や考え方は、散りばめられていてほしいかもしれないな。
いや、カリスマ性がある人ならまだしも、ほんとに一般人の戯言だ。

いやしかしまあ、文章を書くことも仕事の一つになってくるわけだし、あまり逃げてもいられないので、練習はしたほうがいい気がする。
それにさっき箇条書きして気づいたけど、なにか一つを切り取ってそれについて書くのはありかもしれない。日記みたいにその日のことを書くよりは。

ゴミ出しについて、ハンドクリームについて、皿洗いをはじめとした家事について、家族というものについて、幼い頃の習い事について、あがり症についてそんなことについてなら、少しは筆も進むかもしれない。

きっと身の周りの事象に少し目をやって、時間をとって文章(ともいえないような文字の羅列)にすることが、自分にとって負担だから、というのがタイトルへの答えなのだろう。これが克服できればもう少し自分を大切にできるかもしれない。
今年のテーマは「染出」だしな。


証明写真を撮るのが好きだ。まあまあ値が張るのに、履歴書などを書くタイミングがあるごとに撮ってしまう。その時の自分の姿がオフィシャルの形として残るというのが、自分の存在を証明しているようで自己肯定感に作用しているのだろう。5年くらい前の証明写真から残っているので今並べてみると、自分の顔つきや雰囲気が変わっている様が一目瞭然であることの面白さに気づいてしまったというところも大きい。鮮やかすぎる水色の背景にぼんやりした自分が浮かび上がっている絵面はふざけた感じもして面白い。
証明写真ボックスも、ただ1人が写真を撮るためだけの空間として存在していることに意義深さを感じる。私の肌を照らすためだけに照明は煌々と輝き、硬くて小さい椅子は回転する。私の存在を残すための明るい部屋。
街角にぽつんと佇んでいたり、コンビニや薬局の入り口(から少し離れたところ)にボックスがある。ボックスが透明になれば、ある人間が座って真面目な顔をしているだけになるのも面白い。都会のど真ん中の割と高い位置に温泉があって、そこに裸の人たちがうろうろしているという滑稽さに似ている。(ラクーアのこと)
カーテン一枚で仕切られただけの半個室にいるだけなのに、中にいる人はけっこう無防備に自分のポートレートを残すことに集中している。そんなカーテンをいきなり開けたらどうなるだろう、という想像はたまにする。自分がやられたら、本当に悲しくなると思う。自分と向き合っている時間を他人に、悪意をもって邪魔されるのは、耐え難いことだから。


1000字を超えるためにしょうもないことで埋めようと思ったら、意外と良いものが書けてしまった気がする。
メディアやイメージについてだんだんうまく書けるようになってきたら万々歳だな。
アディオス!

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