10月17日

われわれ(あえてね)にとってストーリー、筋書き、なんてものはどうでもいい。始まって終わりさえすれば十分である。

物語作品に対する考察はインターネットにおいてそのほとんどがストーリー上隠された秘密に対する予想である。
これは文学的な作品の理解からむしろ遠くに位置する。もしあなたがそのような考察をもって作品を理解したと思うならば、その作品は決してあなたの人生になんら影響しない。例え振り返ってみても、「面白かった」「𓏸𓏸がよかった」「泣けた」「怖かった」「主人公が好き」という、キャラクターや場面に対する一時的な感情の受け止めがかろうじて言葉になるだけだろう。

物語すなわちストーリーである。

という命題が、とんでもない誤解であることをせめてインターネットの片隅に残しておきたいのだ。

桃太郎は何の話か? と、誰に聞こうが、鬼退治の話だ。といわれて終いが関の山。桃太郎は神性へのおそれとあこがれの話である。と言える人物は心のどこかに桃太郎の物語を精神の糧として吸収している人物である。

そのような理解が必須であるとは思わない。だがあまりにも物語が一時的に消費されすぎやしないだろうか。食事の味や風景や匂いやセックスとは違う。物語は心に取り込んでわたしの一部分になれる。だから物語はあまりにも特別なのだ。わたしがいままでに辿ってきたいくつもの物語はわたしの一部となってわたしとして生きている。

ちいかわの世界ではヨロイさんがちいかわを管理して……、モモンガが入れ替わって……、そんな考察は誰でもするのに、ハチワレの認識に「他者」が存在しないことの考察は誰もしない!

そうしろとは思わない。でもかわいそうじゃないですか。

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