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野生の知恵と「間合い」の極意(ふみまろの因数分解)『暇』2024年3月号

 間合いをやる。間合い、平易な言葉で表現するならば空気感という単語が当てはまるでしょうなぁ。人と人が相対して会話している最中、どうあがいても間合いはそこに存在し続ける。というか既にあるでしょう。空気感からさらに深掘りするならば、心の距離と言えますね。自分以外の人間は家族であっても他人(他者)であり、心が一致した存在ではありません。他者と心が〝完全に〟一致するのはありえない。他者からの評価を無視して機嫌よく生活するために、自他との境界線を明確に線引して個人を捉える必要があります。それ故に心の距離というものが絶対的に存在します。その心の距離が間合いであり、人と接していく上で常に存在しているものです。
 例えば、自分が好きな映画の感想を一人の友人に話したとして。友人から「あぁ〜〜…(やや長い沈黙)」という言葉が発せられた場合。その後に友人から追加で何か発言がない場合は、自分側としては共感が得られなかったと心は感じるでしょう。特に友人から明確な意見が出てこない「…」を含む感嘆詞のみの返答が帰ってきたということは、深い感情が湧いてこなかった可能性が高い。したがって、話をした自分としては共感が得られていないだろうと推測するわけです。この推測のベースとなっているのは、紛れもなく友人側が発した「あぁ〜〜…」です。二人っきりでこの会話が繰り広げられたとして、両者とも次にどのように言葉を出そうか、とやや迷うことになるのは想像に容易いでしょう。
 こういった空気感、瞬間的に離れた心の距離は互いの間合いを把握していれば認識しやすくなるものです。離れた距離をガンガン詰めて埋めることも出来ますし、ふんわりと話したままにすることも出来るでしょう。どうするかは、会話している人間との関係性や信頼関係なども考慮して考えて感覚的に分かっていく(経験則的に)ことでしょう。ただ、間合いというものを認識していなければ、どうするかの答えを明確に出して自分の行動に移すことは出来ません。間合いとは、対人関係における一種のスキルとも言えるでしょう。スキルと言いましたが、このスキルが他の追随を許さないほど抜きん出ているのが芸人の方々に当たると思います。お笑いをするためには心の距離、間合いを理解していることが絶対的に必要なのだろうなあと、有名な芸人のライブ映像を見て思っている次第です。

「山賊ふみまろナイト」(東高円寺・たまりBAR、2024年1月10日)

 間合いを把握する上で、責任の所在地を間合いを理解している人間の場所に留めておくというのも必要なことでしょう。複数人で会話していて、誰かがとんでもないスベりをかました場合があるとして。スベった本人がその後の対処に困っていて、すぐに助け舟を出せる人は間合いを分かっておく必要があるということです。ベストな選択としてはスベッた本人が上手くさばくことでしょう。何か一発芸を強要されてやったとして、スベッた後に数秒間を置いて「…帰るね?」と言ったり、「おい〜おい〜おい〜!」とパワーで押し切ったりとか。なんとも言い難い沈黙の中で、各々が「この空気どうすんの?」って思っている最中にその空気をガラリと変える発言をする。上記のどの対処法も、責任を持つ人間はスベッた後に発言した者です。誰しも不用意な発言をして場の空気を悪くしたくないのです。であるならば、場の空気そのものでもある間合いを認識することが出来る人間が処理を行うべきでしょう。
 この処理を行う際には、場に対する責任というのが伴うものです。誰だって責任を負いたくないだけですから、「いけんちゃうん!?」と思った時に間合いを管理すりゃあいいんです。誰かが間合いを把握しないとより良い空間づくりというものが出来ませんから。
 面白い間合いの例として、「いただきますですねぇ〜」もあります。この言葉は二人で外食をしている最中、片方の食事が先に出てきたシチュエーションで発せられるものです。先に食事が来た人が先に食べるのは当然の権利ですが、相手より先に食べてしまうのはやや申し訳ないという気持ちにもなります。アメリカの感覚からすれば理解されないようですが、日本人的感覚が強い人ならひとまず理解は出来ると思います。ちなみにアメリカ的感覚のソースは忘れました(笑)。しかし、申し訳ないからといって二人の料理が来るまで待つのは、それはそれで相手に気を遣わせてしまいます。こうした状況を踏まえて、先に食事することをやや申し訳なく思っていますが、気を遣わせるのもどうかと思うのでお先に頂きます、という旨を相手に伝えたいものです。とは言ったものの、ストレートに全部これを言ったらただの変な人になるでしょうね(笑)。面倒な人でしかないですから。思ったことを100%出して会話し続けるのは正常な会話とは言えないです。深層心理まで話すことになりますので。これを回避するために、独り言や同調を誘う投げかけとも受け取れる「いただきますですねぇ〜」という言葉が生まれるわけです。
 間合いは人と接していく上で存在しているものですし、間合いを管理すれば円滑に人とコミュニケーションを交わしていけます。加えて、心の距離を把握出来るわけですから、距離を詰めるのも離すのもある程度自分の意志で調整出来ます。人と接していてストレスを感じにくくなるでしょう。理由としては、自分が嫌だと感じたら心の距離を離せるからです。また、仲良くなりたい人とはガンガン距離を詰めることも出来ます。この距離の詰めを多くの人と出来るようになれば、いろんな人と接することが出来るので一人で困ることが減るでしょう。多くの人と出会い仲良くなり、有意義な会話を経て増やしていける仲間の数。これを増やす打率を自分の意志で上げられます。間合いを管理する効用はこういった具合です。間合いは対人関係論的要素を含んでるとも言えますね。
 冒頭で個人に関する記述をしましたが、ストレス社会と呼ばれる時代において、この個人の捉え方が曖昧になっている人が増えているように感じます。いろんなところで人と接してそう思います。平易に言えば自意識が曖昧という表現になりますが、これこそが私が考える社会問題です。
 間合いは人間関係の潤滑油です。自分が気に入る人間とたくさん出会い、深い孤独を消し去って生きていこうや。そう思います。


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