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【全テキスト15万字】『つばめ落語全集』(大正5年刊)

本テキストは、大正5年(1916年)発行の『つばめ落語全集』(三芳屋書店刊)を底本とした復刻テキストです。旧字旧かなは原則として現代表記に改め、会話文の終わりを示す読点を受けのかぎ括弧に改めました。また、特に必要と思われる箇所には注を加えました。

【二代目柳家つばめ】
明治9年(1876年)2月11日、芝金杉に生まれる。本名は浦出祭次郎。明治32年頃、四代目麗々亭柳橋に入門。柳橋の没後、三代目小さん門下で小きんとなった。その後小さんの娘と結婚、明治38年に四代目小三治となる。明治44年に真打。大正2年に二代目つばめを襲名した。音曲を得意とし、当時の落語界きっての博識でも知られた。昭和2年(1927年)5月31日、52歳の若さで死去。

富八

 商売は道によって賢こしとか言いますが、なんでもこれが易しいという商売もございますまいが、紙屑買いというあれがなかなか呼吸ものだそうで、ただの屑ばかり買っていては、とても商売にならんものでございます、デ大きな声で「屑やさん屑やさん」と呼ぶ家には決して堀り出し物はないそうで、長屋のかみさん達が五厘一銭で談判をされた日には、到底屑屋は、そう旨い酒は呑めませんが、これが近所をかねて、屑屋さんと小声で呼ぶほどの家には、バカな堀り出しものがあるそうでそういう場合には、こっちも気を利かして、小声で挨拶をしろと、新参の屑屋先生が、古参の仲間に注意されました、どこかで小声で呼ばれたい、堀り出し物がしたいと、一生懸命、裏なんぞを選んで歩いています。

「屑ィ、屑はござい、何ぞお払い物はございませんか、まだお払いはございませんか、屑屋でござい、屑はござい……」
(小声で)女の声「屑やさァん……屑やさァん……」
「来たな……しめしめ、小声と来れば掘り出し物があるんだ……エエお呼びなさいましたのは、どちらでございますね」
(小声)女「屑屋さァん、屑屋さァん、ここですよ……」
「ハテな、ここですよとはたしかに聞こえたが、あんまり小声すぎるんで見当が付かない、……声はすれども姿は見えずと……臭いな、これは三匹立ちの総厠(そうごうか)だ、まさか雪隠(せっちん)[^1]じゃあるめえな」
(小声)女「肩屋さァん、済みませんが、白い紙があったら一枚下さい……」

 何にもなりゃァしません、甚だ尾籠(びろう)千万ですが、屑屋が白紙を一枚損をしたという、昔話があります。デ落語というものは、すべてこういうところが眼目になっているか知れませんが、富の話をよくしますが、これは当時は断然禁止されてございませんので、詳しいことは分かりませんが、もちろんよろしくないもので、台湾の彩票だとか[^2]、馬券問題とか[^3]、兎角あぶく銭を儲けたがる人がかえって損をします、僅かの金で、そううまく濡手で粟の掴みどりというわけには参りません、天保年間までこれが許されてあったそうで、時の奉行、水野越前守という人が、社会の秩序を紊(みだ)すものだというんで、差し止めてしまったということです、[^4]その頃の一分(ぶ)で札を買いましてうまく大富に当たれば千両とれたそうですが、昔の千両、今の何万円に向かいますが、一夜でにわか富限(ぶげん)、またその富の札を買ったために、なけ無しの物までもなくしてしまうというようなものが、下等社会には随分ありました。

女房「いけませんよ……何をいってるんだね、今日はお前いつだと思ってるんだえ、馬鹿馬鹿しい本当にさ、十二月二十八日ですよ、世間を御覧なさい、チャンと正月の支度ができてるじゃありませんか、家じゃァ晴着もないし、お餅(かちん)も搗(つ)けやしないよ、お金なんぞは一文もありませんよ、現在お前米びつにお米がきれて、炭がきれて、薪がきれて、砂糖がきれて、醤油がきれて、酢がきれて、お香物(こうこう)がきれて……」
「待て、やかましい奴だな、また万遍なく、親切によく切れやがァったな、中には何か、切れない物もあるだろう」
「菜切包丁が切れないよ」
「そんな物は切れる方がいいや、ぐずぐず言わねえで貸しなよ、その半てんをよ、今言う通りだァな、夢見がバカにいいんだからよ、今度はキット当たるんだ、当たればおめえ千両とれるじゃねえか、このくらいな物はいくらでも買えらァ」
「何を言ってるんだえ、千両が聞いて凄まじいやね本当に、今まで当たったことでもあるかえ、ふざけちゃいけないよ、困るよ、本当にさ、夢見夢見って何が夢見だえ、ゆめみなんか行かないよ」
「洒落るな畜生め、貸しねえよ、いいじゃァねえか、そんな物は当たれば二枚や三枚は買ってやるじゃねえか」
「御免被ろうよ、馬鹿馬鹿しい、本当に、半てん半てんといったって、粗末におしでないよ本当にさ私のこれァ一張羅じやないか、おまけにこれァ大切な物なんだよ、おっかさんのかたみに貰ったんだよ、お前、そんなに富が買いたいのなら、私に暇をおくれ、離縁をしておくれ、馬鹿馬鹿しい、富と夫婦になるがいいや」
「ぐずぐずいうな、こン畜生め、おふくろの遺品だって、着ていればてめえのもんじゃァねえか、女房の物は亭主の物亭主の物は亭主の物だ」
「じゃァ女房の物がないじゃァないか」
「無くたっていいよ」
「いけないよ、貸せないというのに……」 

 かみさんの着ているベンベラ物の半てんを、引っ剥ぐようにして質屋へ持って行きました。番頭を一時(とき)も口説いてようやく一分と二百借りまして、ふところへ捻じ込むと札場へ駆け出した。 

「オオ、札をくんねえ札を」
「いらっしゃいまし、よくお天気が続きます、マァお掛け下さいまし、なんでございますか、番号にお好みでもございますか」
「ヘイ、お好みが大ありなんでございます、モウ今度のこの湯島の富は、誰が何といってもあっしが当たっちまったから、どうもありがとうございます」
「イエ、まだ始まりませんから分かりませんがな、どなたさまも当たるつもりでいらっしゃるんでございますが、番号はどういうお好みでございます」
「どういうお好みッたってね、ゆうべ素晴しい夢を見ちまったんだ、よく正夢なんていいますがね、階子(はしご)の上へ鶴がとまっていたんだ、どうだい、良い夢じゃございませんかね、鶴は千年といいましょう、はしごというんだからね、鶴の千、はしごで八四五と来たんで、どうですえ、当たるだろうね、オイ、その札をくんねえ」
「ヘイ、お静かに願います、私の方では札を売って割を貰うのが商売でございますから、モウございますればキット売らないとは申しません、今度この湯島の富はバカに景気がいいもんですからな、必ずあるとお受け合いはできません、当日ではございまするし、モウ残りの札はたんとございませんのですから、ただ今調べますから……エエ何番でございましたな……鶴の千八百四十五番……ハテ左様ですか、ちょっとお待ち下さい……エエ鶴の千八百四十五……鶴の千八百四十五……オヤ、これァどうもお気の毒さまですな、気が付きませんでしたが、今売れましたマァどうもたった一足違いでございました」
「アッ、それァいけねえ、それァ狡いよ、それァ狡いよ、何だって売っちまったんで」
「何だって売ったと仰っても、買いに来たから売ったんでございます」
「買いに来たから売ったんだって、それァ仕様がねえじゃねえか、私が買おうと思う札を……ねえ、オイ、モウ一枚その札を売ってくれ……」
「そうは参りませんですよ、番号札で、その札は一枚しか無いんでございますからハイ……両袖が空いてございますが、いかがでございますね、千八百四十四番と、千八百四十六番と、それじゃいけませんか」
「それやァケントク[^5]にならねえじゃねえか、全体どこの何という奴が買って行ったんで」
「エエお所は、馬道八丁目でございます、家主は権兵衛(ごんべえ)さん、ご当人は太郎兵衛(たろべえ)さんというんでございます」
「アア畜生め、権兵衛太郎兵衛(ごんべたろべえ)め、ひどいことをしやァがったな、畜生め、その野郎もあっしと同じ夢を見たのかね」
「どうだか分かりません」
「弱ったなァこれァどうも、そういえばね、今朝水口が開いてましたがね、野郎昨夜ソット来やァがって、あっしの夢を立ち聞きしやァしねえかね」
「夢の立ち聞きてえのはありますまい、何と仰っても無いものは仕方がございませんがね、他のじゃいけませんか」
「他のじゃいけない、しかしキッと当たるのがあるかえ」
「そりゃ分かりません」
「じゃ仕様がねえやな、どうにかなりませんかね」
「どうにも仕様がありませんですな、どうもお気の毒さまでございましたね……」
「アア嫌だ嫌だ、一足違いが千両損をした、嬶め、俺に一足早く半てんを出せば間に合った、また質屋の番頭も因業だ、あん畜生、とてもこの品じゃァ一分は貸せねえといやァがって、とうとう付けやナがったじゃねえか、どうせ付けてくれるならば、モウちっと早く俺に銭を出してくれれば間に合っちまったんだ、情けないな、この暮れはモウいよいよやりきれねえぞ、どこもかしこも借金だらけだ、首をくくるか、身を投げるかだな、どっちが死ぬのに楽だろうな……」

 独りごとを言いながら通りがかりますると、熊ヶ谷先生辻売卜者(つじうらない)と言いまして扇子でもって通行の人を呼びとめておりますから、それで熊ヶ谷先生と申します。

易者「ケンゲンコーリティケンゲンコーリティ、堯舜周公文王孔子五聖人願わくば吉凶禍難を知らしめたまえ、ケンゲンコーリティケンゲンコーリティ……サァお立ち合い、手相だけはただでで見てあげるよ……」
「エエ易者(うらない)先生こんちは、少し見てもらいたいんですがね」
「アア、こっちへお入り……縁談か、金談か、又は失(う)せ物判断か身の上判断……」
「マァ少し待っておくんなさい、そんな変な声をしねえで……ゆうべあっしは夢を見たんだがね」
「ハァ、夢判断だか、黙っておいでよ」
「オッ、えらいもんだな、易者なんてえものは、何かえ、黙っていて分かるかえ」
「左様、一遍は聞いてみる、その次は黙っていても分かる」
「何をいやァがるんだいふざけなさんな、一遍聞きゃァ大概分からァ……」
「ナニね、ホラよく正夢なんてえますが、あっしも見ちまったんで、階子の上に鶴がとまっていたんだ、鶴は千年ていいましょう、階子というんだからね、どうしたってお前さん、鶴の千、階子の八百四十五番とくれば、ケントクで当たるだろうねえ先生、オイ、オイッ」
「何だえ、静かにしておくれ、見てあげるよ……なるほど、夢をケントクにして札を買うと……お前さんは何だね富か何かに凝ってるんだね、つまらないことをなさるな、イヤさ、それァムダだよ、買うのは一分で、千両儲けようというのは、間違った考えだ、非望の欲[^6]というんだから、これァ当たるわけがない、人間は何でも真面目がいい、一生懸命に稼ぎなさい、つまらないからよしなよしな、当たらないことを私が受け合う、判を押して受け合う」
「何をいやァがるんだい、そんなことを受け合うな、畜生め、ナニね、そのあっしはね、今札場へ行って買おうと思ったんで、するとお前さん一足違いでもって売れてしまったんで、仕様がねえじゃねえか、サァどうかしておくんなさい、こうなればお前さんも関係者(かかりあい)だ」
「冗談いっちゃァいけない、私は別に関係(かかりあい)のことはない、マァマァ見てあげるよ、なるほど、ウム、階子に鶴でもって千八百四十五番か、ハハァ、マァ素人考えは大概そこらだ、マァマァ静かにおし、見てあげるから、売れてしまった物は仕方がないからな、デお前さんの前だがね、階子というものは、下から上に昇るものか、上から下に降るものか御存じかえ」
「何を言やァがるんだ、クダらねえことをいうな、上から下へ降ったり、下から上へ昇ったりするから階子じゃねえか」
「それァそうだがさ、昇るのに肝腎な道具か、降る方に余計入用(いりよう)のものか理屈が分かるかえ」
「何をいってるんだ篦棒(べらぼう)め、昇るから降るんで、降るから昇るんだ、一つことは同じことで、同じことは一つことだ」
「マァマァ静かにおし、お前さんには分からないな、仮に例えを引いて話をしようなれば、お前さんが二階へ上るとするんだ」
「俺の所にやァ二階はねえや」
「マァマァあるとするんだよ、下に急の大事ができて、すぐに降りなくちゃならない場合に、もし階子がなかったらお前さんはどうするえ」
「どうするもこうするもねえや、階子なんかなくったって驚くんじゃねえ、身の軽いのは自慢だ、二階から下へポンと飛び下りちまうよ」
「なるほど、身が軽ければ飛び下りられもするが、そうすればマァ階子はなくても間に合うが、もしそれが反対に、お前さんが下にいるんだ、いいかえ、にわかに二階に大事ができて、すぐに昇らなければならない場合に、同じく階子がなかったらお前さんどうするえ」
「どうするもこうするもねえ、篦棒めえ、身の軽いのが自慢だ、下から二階へポンと飛び上が……」
「れるかえ」
「ウ、ウーン、だからよ」
「どうするえ」
「ウ、ウン、ごめんねえ」
「謝まらなくってもいい、下から二階へ飛び上れるかえ」
「冗談いっちゃいけねえや、そりゃァお前さん飛び上がれるわけがねえじゃねえか」
「飛び上がれるわけがなかろう、そこだ、つまりこの階子というものは、下から上へ昇るのに必要な道具だ、だからね、鶴の千八百四十五番なんというのはいかぬ、鶴の千と置いて、階子は下から上へ持って行くんだ、いいかえ、逆にするんだ、はしごと、鶴の千五百四十八番を買わなければ当たらない、それが本当の夢判断のケントクだ、よくお前さん考えて御覧なさい」
「なるほど、うめえことを言やァがったな、そうかえ、ヘェー、鶴の千五百四十八番か、下から上へ持って行く……商売商売だなァ、面(つら)はまずいが言うことはうめえや、コン畜生、そうかえどうもありがとう、さようなら」
「オイオイ、見料見料」
「何を言やァがるんだ、今は銭はねえや、見料は後払いだ……サァ札をくんねえ、札を……」
「オイオイ、また来たよ、さっきの変な人が、どうも歳暮(くれ)は時々変な人が来るね、あれも富に凝ってる狂人(きちがい)なんだぜ……エエ何ですか、あなた何かお忘れ物でもございますかね」
「何をいやァがるんだ、忘れ物じゃねえや、階子というものは、上から昇るものか、下から降るものか御存じか」
「オッ、こりゃァいよいよ本物だよ、まさにキ印だな……左様でございますね、マァ下から上へ昇り、上から下へ降ったりするから階下というんでござんしょう」
「何を言やァがるんだ、素人め上から下へは飛び降りられるが、下から上へ飛び上がれるか飛び上がれないかどうだ、考えてみろ」
「冗談いっちゃァいけませんよ、そりゃァ飛び上がれるわけはありません」
「ざまァみやァがれ間抜けめ、だからの、鶴の千八百四十五番じゃァケントクにならねえんだ、鶴の千と置いて、八四五を逆に持って行くんだ、鶴の千五百四十八番とな……サァサァサァ札をくんねえ札をくんねえ」
「お静かに願いますよ、私の方はこの札を売って手数を貰うのが商売でございます、先程も申しました通りでありますればキット売りますから、ヘイ何番です……鶴の千五百四十八番……アア左様ですか、分かりました、ただ今調べますからチョット待って下さい……エエ鶴の千五百四十八番、鶴の千五百四十八番と……ヤァこれァいい塩梅だ、あなたの念が届きました、さっきとは反対に、両袖はありませんがね、その鶴の千五百四十八番はあります」
「エッ、あります、しめたな、サァくんねえ、千両の札だ」
「お静かに願います、あったからご安心なさいまし、あなたのお住まいはどちらです、お所は……神田三河町、お家主は弥兵衛(やへえ)さん……へイへイ、あなたは家根(やね)職の八五郎さん、アア左様ですか、モウソロソロ札場は始まりましょう、ちょうどようこざいましょう、参って御覧なさいましょ」

 富の札を懐中して湯島天神の境内、寺社奉行が出役で、万事を警戒するというので、我も人もみな千両取ろうという、欲の皮のつっぱった連中ばかりの寄り合いで、ワーワッという騒ぎ、そのうちに大般若の読経というのが始まるんでございます、読経半ばに一声「御富(おんとみ)つきまァす」という声がかかる、そうでなんのためか、御富といいます、お経がおわると、また一声「御富つきまァす」というのを合図に、真ん中に出ている札箱、小さい長持のような形をしております、正面に四角な穴があいています、中に札が入っている、その箱の左右に紐を持って、世話人がガランガラン振り廻します、ピタリもとの所へ置きますが、人気でひとりでに中で札が動いたと言いますが、それほどでもございますまい、とにかく札があるものに違いございません、かたわらに水行から上ったばかりの坊さん、墨染の法衣に縄の腹巻縄のたすき、厳めしい姿、暮れの二十八日の事ですから、モウ法衣が凍っています、白布でピッタリ目隠しをしたまま、酒屋で使う三ッ目みたような物を持って、前ヘツカツカと出ます、デ目隠しをしたままで、ポンポンその札を突くんだそうでございます、口富(くちとみ)から中富(なかとみ)、だんだん突いて参りましたがいよいよ最後の突き止め[^7]というんですから、今までザワザワしておったものが、まるで水を打ったように、シーンとなりました、デこの番号を小坊主が読み上げます、子供の声が一番通りがよいとかいうので、いよいよ最後の突き止め。

小坊主「突き止めは鶴の千五百四十八番……、突き止めは鶴の千五百四十八番……鶴の千五百四十八番……」
「あた、あた、当たった、当たった……」
「オイオイ、何をするんだ畜生め、物騒な野郎じゃねえか、人の股倉へ首を突っ込みやァがって、何だよ」
「あたあた」
「ナニ、当たった、大富のなにか鶴の千五百四十八番にか、おめえが当たったのか、へ……ウーン運のいい人だなァそれァどうも、帳場へ早く行きねえ早く行きねえ……何を、腰がぬけちまったんだ、それァ無理はねえ……どうですえ、この暮れに千両当たったというんだ、運がいいじゃァございませんか、この人にあやかるように、一つ帳場へ担ぎ込んでやろうじゃございませんか、手を貸してやっておくんなさい、手を……俺が何だ足を持つから、おめえは胴の方を持って……」

 大騒ぎ、親切な野次馬が、寄ってたかって、手取り足取どり帳場へ担ぎ込みました。 

「オイオイ、連れて来たんだ当たり主を、札を持って腰を抜かしちまったんだから皆さんの手をかりて……」
「アア左様ですか、それはどうも恐れいりましたな、ヘイ、とんだ手数をかけてすみませんでございました、アア左様ですか、ヘイヘイ、皆さんどうも御苦労さまでございました、御親切さまにどうもありがとう存じます……エエ、あなたでございますかねお当たり主は……どうぞこちらへお上りを願います」
「当たった、当たったからおくんねえ千両……」
「当たったら上げますよ、当たり主にキッと差し上げるんですがね、そこではお話ができませんから、どうぞこちらへお上りを……アアそうそう、何だ例の早腰だ、手を持ってこちらへお上げ申しな……誰か水を汲んでおいで湯呑みへ……どうぞこちらへ、イエ決してご無理じゃございません、ごもっともでげす……サァお冷水(ひや)を召し上がれ、水を一ぱい呑むと気が落ち付きますから……ヘイ、ところでな、かねてご承知でもございましょうが、今日お取りになりますと、二割引けになります、明年の二月にお取りになれば、千両全取りでございますが、僅か二月で二割は大きゅうございますが、いかがでございましょう、それまでお待ちになっては」
「ヘイ、なんだか私はそんなことは知らねえんだ、生まれて初めて当たったんだからね、二割引けということはどういうことになるんですね」
「エエ、チリ金をいたしまして、二百両引けますんですがね」
「 二百両……そんなに引けちまっちゃァ、あとに残りはないんでしょう」
「エエ御勘定がお分かりになりませんか、千両から二百両引けましたところで、残り金は八百両ございます」
「エッ、八百両、八百両ならおくんねえ、八百両というと、なんでしょう、五十両よりも多いんでしょう」
「左様でございますよ、多うございます、五十両が十六ございます」
「早くくんねえ早くくんねえ」
「差し上げますのは間違いはございませんからご安心なさいまし、あなたがご本人の八五郎さんで……アア左様ですかところでな、私の方でも、お上げ申せばいというわけでもございません、失礼ながらお連れ様もないようでございまするし、もしまたお帰り道に間違いでも万一あるというと、寝ざめがよくございませんがね、一旦お宅へお帰りになりまして町内の頭(かしら)でも頼んで、景気よく取りにおいでなさるということに……」
「冗談いっちゃいけませんよ、とんでもねえことだ、家でもってかみさんが怒っている、富を買うんなら離縁してくれ、暇をくれとまでいわれているんだから、早く持って行って驚かしてやるんだ、それで悪ければ、モウ二割引いてもいい」
「そんなに引きはしません、それをご承知なればそれで宜しいんでございますからどうかこちらへお入りなすって、お気の毒さまでございますがね、当日でございますから、お持ちにくうございましょうが、五十両包みの中に、二十五両包(きりもち)[^8]が六ッばかり交りますからお検(あら)ためを願います、もしまたこの中に悪いのがあったら、後ではいけませんが、お取り替え申します、お検めを願いとうございます」
「ヘェー、八百両というと、そんなにあるんですかえ、これァみんな私に当たったんでございますね」
「あなたがお当てになったんでございますよ」
「ヘェー、私が当たった、ありがとうがす」
「エエあなた、あなた、腹掛けが大層ふくらみましたな、ようございますか、御如才もございますまいがね、途中をお心をつけなさいまし」
「ヘイ、どうもいろいろありがとうございます、左様なら……オイおみつ、大変だよ」
女房「エッ、何だねえみっともないよ、大きな声を出してさ、どうしたんですね……アレ、土間へ座っちまう奴があるかえ、こっちへお上がりよ」
「上がれねえ、とても上がれねえ、アア俺の体じゃァねえ」
「何を言ってるんだね、こっちへお上がりというんですよ」
「手を持って上げてくんねえ」
「どうしたんだね、サァこっちへお上がんなさいッ……」
「ヤケに引っぱるない、こん畜生め、身体が毀(こわ)れちまう……表を閉めな表を……雨戸を閉めなよ、変な奴が家の中を覗いてらァ」
「何だねえ、どうしたんだよ……」
「アア、しみじみ見ればきたねえ家だなァ、俺ァこんな家に住まっていたんだなァ」
「何をいってるんだえ、お前顔の色が悪いよ、眼も血走って、涙ぐんでるよ、またお前さん何だね、一分取られちまったんだろう、当たるわけがないんだよ本当にマァ仕様がないね、無理に半てんを持って行ってしまって、あれァモウ一生涯出やァしないよ、サァ、八さん、私は出て行きますよ……イエ、何をいっても暇を貰うよ、黄泉(あのよ)へ行って、おっかさんに申し訳がないよ、とても見込みがないから、出て行きますよ、離縁をおしよ、富と夫婦になるがいいや、私は出て行くよ」
「何だコン畜生、静かにしろい、マァ待ちなよ、相談ずくなら切れもするよ、せかずと様子を聞かしゃんせ、てえんだ、コン畜生め、サァ、モウ少し前へ出ろ、前へ出ろよ、てめえは富を買うんなら暇をくれ、離縁をしろと、生意気なことをいやァがったなコン畜生、サァ胆を潰すな、どうだ、これが二十五両包というんだ、知ってるかえ、見たことがあるかえ、篦棒め、それも一ッやニッじゃねえんだ、ウン、金のねえ国へ行ってみてえくれえなもんだ、サァ見てくれ、どうだ」
「オイオイ、何だえお前さん、こんなにお金を腹掛けから出して、どうしたんだよ」
「どうしたんじゃねえや、突き止め鶴の千五百四十八番……ポーッと来たんだ」
「なんだよ、突き止め……じゃなにかえ、大富の千両にお前さんが当たったのかえ、本当に……」
「シッカリしろシッカリしろ、無理じゃねえ、水を呑め水を呑め」
「チョイと八さん、私をつねっておくれ、ぶってみておくれ、喰い付いてみておくれ、お前さん夢じゃないか」
「夢じゃねえよ、当たったんだよ、どうだえマァ、八百両てえんだ、世の中に俺くれえな金持ちはあるめえ」
「マァ本当かね、私は夢のような心持ちがするよ、アア嬉しいじゃないかね、本当にマァ、だからそういうんだよ、ねえ、こういうこともあるから、チョイチョイ富を買えって……」
「嘘をつけ、何をいやァがるんだ、富を買うんなら暇をくれ、離縁をしてくれといったじゃねえか 」
「それァ昔のことさ、いいお正月ができるね、八百両といえば大金だよ、お金持ちだね、だけれども八さん、不断から気になってるんだよ大家さんさ、店賃がたまってるんだよ」
「何月(いくつ)たまってるんだ」
「六月」
「ヘン店賃の六ッや七ッ何だい篦棒め、俺がこれから行って払って来らァ、なァ、十年分ばかり先払いにする」
「そんなに払わなくってもいいやね、貧乏もするからこんな家に住まっているんじゃないか、何だお前さんが行ってお詫び申して来ておくれよ、店賃の勘定をして来るのはいいけれども、お前さんだって買いたいものがあるだろう」
「そりゃァそうよ、富が当たったら富が当たったらとふだんから考えていたんだ、今日は二十八日だな、九三十三十一と来れば、モウあくる日は元日だ、俺ァ一ッ何だ、毎年お店の番頭さんのお供で、革羽織を着て、首から文庫をブラ下げるのも、楽な役じゃァねえんだが、一ッかみしもを着けて歩きてえと思ってたんだ」
「いいともね、そのぐらいなことは何でもないからおやりよ、大家さんの家で用をすましたら、その足でもって、すぐに何がいいだろう、市ヶ谷のあまざけ[^9]か、市ヶ谷のあまざけやといえば、江戸一番の古着屋だね、あすこへ行けばどんなものでも揃ってるから、裃に下着をつけて、長襦袢、帯も足袋も見繕ってね、それから脇差しと……」
「いいってえことよ、知ってるよ……エエ、コーッと、いくらぐれえ持って行ったらいいだろうな」
「解らないね、そんな物は初めて買うんだから」
「マァいいや、五十両も持って行こう……サァ大変だ」
「どうしたえ」
「金の置き場がねえや、仕様がねえな、金なんてえものは、なくても困るが、あんまりあるとなお厄介なもんだねどうしよう、仕方がねえ、この布団の下へ入れて置くから、その上に座っていねえ、いいかえ、なんだぜ、小便に行っちゃァいけねえせ、人間を見たら泥棒と思っちまえ」
「大丈夫ですよ、心配しないで、ユックリ行っておいで」
「頼むぜ……ヘイこんちは、大家さん今日は」
家主「誰だえ……アア八公じゃァねえか、また言い訳に来やァがったな、ノメノメしてやァがる本当に、何だよ俺ァモウ勘弁しねえよ、とても勘弁ができないよ、金が出来なければ店立てだ、すまねえけれどもそういつまでも待てねえんだから……」
「なにをいってるんだえ、冗談いっちゃァいけねえよ、誰が店賃を待ってくれと言ったへえ」
「これから言うんだろう」
「何を言ってるんだえ、サァ三月分ばかり取ってくんねえ、サァこんなにやるから取ってくんねえ……」
「なんだえこりゃァ、切餅で五十両包み、大変なものを持って来やァがったな、なんだえこりゃァ、どうしたんだえ」
「どうしたっていいじゃァねえかヘン、当たったんだよ」
「何が」
「湯島の富が当たったんだ、突き止め鶴の千五百四十八番……と来れば、ポーッと来るだろう」
「ナニッ、てめえが大富に当たったのか」
「シッカリしろシッカリしろ、無理はねえ、水を呑め水を……」
「水なんぞ呑まなくってもいいがな、ヘェー、マァどうも大層なことをしちまったな……お婆さんやお婆さん……地震じゃねえよ、何を……いえさ、裏の八公がな何だ、大富に当たったというんだ、俺ァマァ当たったという人に出会ったのが初めてだ、話には聞いてるがな、大層なことをしたな、万人に一人というが運がいいんだな、そうか、ナニ、俺の所の店賃なんざァいくらでもありゃァしねえ、おめえ封を切んな……ハハハハ、封が切れないな、よしよし、俺が封を切ってやる……これで一両あるんだ、これで剰銭(つり)になる……」
「大家さん、冗談じゃない、モッと取っておくれ」
「これで余るんだ」
「そうかえ、何だ、それっぱかりの店賃を、ぐずぐずいうにゃァ当たらねえじゃねえか……お婆さんどうもいつも厄介になってすみませんね、コリゃァホンの少しばかりだが、お前さんの春の小遣い……」
「オイオイ、冗談しなさんなよ……そうかえ、どうもすまねえな、こりゃァ婆さん大当たりだ、春の小遣いどころじゃない、死に金だな、しかし何だせマァ八公、八百両といえば大金持ちだなァ、つまりお前がマァ人間が正直で、前の世にいいことをしたからこういうことがあるんだがの、いいことは続くもんだ、そのつもりで一生懸命におやりよ」
「へェ、分かってます、これから一生懸命にやります」
「マァマァ結構だな、めでたくいい春ができるな」
「ところでお前さん、今もかみさんと相談したんだがね、年始に歩くのに一ッかみしもをつけて歩きたいんだがどうでしょうね」
「アア、いくらでも立派にやんなさい」
「ところが年始に歩くのに、まさか黙って歩くわけにもいかねえ、何とか口上がありますね」
「アア年始の口上か、大概紋切形だ、まず新年明けましておめでとう存じます、昨年中はいろいろ御厚情を蒙りました、本年も相変らずとな……」
「そんなに長い文句は分かりません」
「冗談いっちゃいけないよ、これはギリギリのところだ」
「ヘェー、私はどうも口無調法でございますからね、モッと何ですね、安直な文句はありませんかね」
「安直と……そうだな、マァ明けましておめでとうぐらいにするかね」
「そんなつまらねえ文句でなく、かみしもを着けて脇差を差して歩くんだから、モッと短くって、こう立派な奴はありませんかえ、世間のやつらを驚かすような」
「難しい注文だな、短くて、立派で……そうだな、待ちなよ、どうだえ、御慶(ぎょけい)というのは、長松が親の名で来る御慶かな[^10]、どこへ行ってもお前のように当たった人には、おめでとうといって声をかける、そうしたら御慶というんだ、新年のお喜びという心持ちがあって、たった一言でもって分かってるんだよすると、マァお上がんなさいという、そうしたら、永日(えいじつ)[^11]、とこういうんだ、いいか分かったかえ、これだけなら言えるだろう」
「アアなるほど、これならわけなしだ」
「やれるかえ」
「やれます、御慶、永日でございますね、ありがとうございます、じゃァマァいずれ永日でございますからおやかましゅうございました」
「マァマァ、何だ、立派に年始に歩きなよ」
「さようなら……」

 これから甘酒屋で支度万端をスッカリ整えまして、大晦日の晩にかみしもを着て、踏台に腰を掛けたっきり、夜の明けるのを待ち兼ねておりました、烏がカァというと飛び出した。

「元日の畜生め、とうとう来やァがったエエと表へ飛び出してはみたが、さて困ったな、年始に行くところがねえや、どこへ行こうな、まずコーッと、いの一番に大家さんだ……エエお婆さんお早うございます」
「イョー、大層立派になったな、これァ恐れ入ったな、御光がさしているようだせ、マァマァおめでとう」
「へヘ、御慶……」
「ハハハハできましたねマァ、こっちへお上りよ」
「永日ッ、篦棒め」
「何だえ、篦棒めというのは……」
「ハッハハ大家め驚いてやァがる……アアむこうから熊の野郎が来やァがった……オーッ、熊公やィ」
「イヨ八公か、大層どうも立派だせ、マァ何だ、おめでとう」
「エエ御慶ッ」
「脅かしちゃァいけねえや」
「脅かしゃァしねえや、年始の口上だ、サァ、後をやってくれ」
「何だ、後をやれというのは」
「決まってるじゃねえか、マァお上がんなさいというんだ」
「お上がんなさいって、ここは往来じゃねえか、上がりようがねえや」
「だけれどもよ、マァ懇意の間柄だ、やってくんねえな」
「そうか、じゃァマァこっちへ上がんねえ」
「永日ッ、コン泥棒……」
「何をいやァがるんだ……」
「ハハハハ友達が面喰ってやァがる、コーッと、これからどこへ行こうな……辰ンベイの所へ行ってやろう……オヤ、辰公の家じゃァ閉まってやァがる、馬鹿だな、元日だというのに、どうしやァがったんだ、オーッ、辰ンベイ、起きろ起きろ、元日だよオイ辰ンベイ……」
「モシモシどなたですか……アラ何ですねマァお見違い申してしまった、八さんじゃございませんか、大層お立派ですこと……イエ何ですよ辰さんは今朝早くお出かけになりました、やはりお仲間らしい方と、四五人で……サァどこへいらっしったんだか分かりませんが」
「イヤどうもおかみさんですかえ、一ッね、おめでとうとやっておくんなさい」
「どうも申し後れてすみません、マァ明けましておめでとうございます」
「御慶ッ」
「アアビックリした、大層またお堅いんですね」
「おかみさん、後をやっておくんなさい、その言葉の続きを、あっしが御慶といったら、マァお上がんなさいとね」
「どうも恐れ入りましたね、イエ何です、ゆうべおそかったので、取り散らしてありましてね、お上げ申すわけになりません」
「上がらなくったっていいんだ、やっておくんなさいな、やってくれないと、引っ込みがつかなくなるんですよ」
「左様ですか、じゃァマァこっちへお上がんなさい」
「永日ッ畜生めッ……ハハハハ、面白いな、どうも世間の奴は、驚いてやがるね、どうも……、アア来やァがった来やァがった、辰ンベイに政公に、鉄公に、為ッコと、大きな繭玉(まゆだま)を担いで来やァがったな、畜生……ヤイヤイ」
「オオ見ねえよ、むこうから来やァがったのは、当たり矢じゃねえか、どうだえマァかみしもだな、いやにシャチコばってやァがる……ヤイヤイ、当たり矢、マァおめでとう」
「御慶ッ」
「何をッ」
「御慶ッ」
「大変な声を出しやァがったな、鶏が締め殺される時のような、何てったんだよ」
「分からねえ奴だな、ぎょけいったんだ」
「アアそうか、恵方参りよ[^12]

[^1]: 雪隠 ……せっちん。便所のこと。
[^2]: 台湾の彩票 ……一九〇六年(明治三九年)から翌一九〇七年にかけて、財政補填を目的に台湾総督府が発売した富くじ。
[^3]: 馬券問題 ……台湾で彩票が発売された明治三九年は、東京競馬会の発足の年にあたる。
[^4]: 天保年間まで是が許されてあったそうで ……江戸幕府は当初、富くじを寺社の修復費調達を目的とする興行としてのみ許可しており、谷中・感応寺が初の幕府公認となった。以降、目黒・滝泉寺、湯島天神の富くじを許可し「江戸の三富」と言われたが、一八四二年(天保一三年)に天保の改革の一環として、風紀取り締まりのため、富くじ全面禁止の措置が取られた。
[^5]: ケントク ……見徳。富くじの当たりを察する前兆、縁起のこと。
[^6]: 非望の欲 ……分不相応の欲望のこと。
[^7]: 突き止め ……江戸時代の富くじは「富突」とも言われるように、箱の中に番号の付いた木札を入れ、箱の側部に開いた穴から錐のような棒で木札を突き刺して抽選を行った。千両の当選金が支払われる最終の抽選を「突き止め」といった。
[^8]: 二十五両包 ……金座で封をした紙包みの小判を「包み金」といい、なかでも二十五両相当のものを「切餅」といった。
[^9]: あまざけ屋 ……呉服老舗の福永屋のこと。来店客に甘酒を振る舞っていたことから「あまざけ屋」の通称が定着した。
[^10]: 長松が親の名で来る御慶かな ……長松と呼ばれていた小僧が親の名を継いで年始のあいさつに来た時の、そのぎこちなさを微笑ましく思う心情を詠んだ江戸時代初期の俳人、志太野坡の句。
[^11]: 永日 …… 別れのあいさつとして「日が永く感じられる春の日にでもまたゆっくり会いましょう」という意味を込めた言い方。
[^12]: アアそうか、恵方参りよ ……「御慶(と)言ったんだ」を「どこへ行ったんだ」と聞き間違えたというサゲ。「恵方参り」はその年の干支から吉とされる方角に位置する神社にお参りをすること。

骨違い

 七人の子はなすとも、女に肌を許すな[^13]ということを申しますが、世の中に御婦人ぐらい始末の悪いものはございません、叱言(こごと)をいえばつら}を膨らせる、殴ればメソメソ泣く、殺せば化けて出る……何もそんなに悪くいうこともございますまい、既に欧米では御婦人に参政権を与えるという議論もあるそうで、日本ではまだ進まないから、堂々とした婦人教育をなさる方がべからず主義で圧迫しようというのですから、お気の毒さまながら目下のところ謹しんで御婦人の為におくやみを申し上げねばなりません、とりわけて嫉妬偏執の心は男子に一歩も譲らないそうでございます、よく継子(ままこ)いじめという事を申しますが、これはどうも御婦人の方に多いようで。

みつ「源ちゃん、何をしておいでだ……オャほころびをお縫いかえ、マァ器用だねえ男の癖に、私が縫ってあげるからいつでも家へ持っておいでよ」
「おばさん有り難う、ナーニ自分でもやりつけたから、この頃はわけなくやれるよ」
「可哀想にねえ、おっかさんは、ナニ……楽寝をして居る……呆れちまうねえ、何だ棟梁がお人善しだって大概にするが宜いや馬鹿馬鹿しい、死んだおかみさんは好い人だったねえ、私達にさえやさしかったが、今度のはねえ……さぞ源ちゃん、お前が辛かろうと思うとつくづく察しるよ」
「おばさんそんなことをいっておくれでないよ、私はモウ死んだ気になっているんだから、ぶたれたって、つねられたって、何とも思いやァしない、それでも時々知れきった無理なことをいわれると、口惜しくって口惜しくって……」
「お泣きでないよ、お前だってモウ十七にもなるんじゃァないか、あんまりおとなしくしているから、なお増長するんだァねえ、たまには剣呑(けんのみ)[^14]の一ッも食わしておやりよ」

 慰さめるんだか焚き付けるんだか分からない、これを聞いていたおかみさん、般若のような顔をして奥から飛び出しました。

「また始めやァがったこの餓鬼は、嫌な真似をするない、人が針の持ちようを知らねえと思ってあてこすりに男の癖にほころびなんぞ縫う奴があるもんか、出来ねえッたって女だ、どうにかしてやらァ、ふざけやァがって畜生めッ」

 いきなり持っていた長煙管(ながぎせる)で横ッ面をピシャリ。

「何をするんだ、乱暴なことをするない、自分で自分の綻を縫っていたんだ、別に不思議はねえや」
「何だと、生意気なことをいやァがってこの餓鬼は……」
「マァマァ、おかみさんお待ちよ源ちゃんも源ちゃんだね、おっかさんに向かって唾を返すということはないよこれからねほころびが切れたらおっかさんに縫ってお貰いよ、糊付けかなんかにすらァね、マァマァ家へおいで」

 引き分けて自分の家へ連れて来て、

「マァ酷いことをするじゃァないか、いまいましいッたらありゃァしない、マァ顔をお見せ、酷いあざになったよ、源ちゃん痛いだろう」
「おばさん、おいらは今夜家へ帰らないよ、お父さんは邸(やしき)の祝いできっと帰らないから、またどんな目に遭うか知れやァしねえ、家へ泊めておくれな」
「アア宣いともね、家のも今夜帰るまいから泊っておいでよ」
「アア快(い)い心持ちだ、ナニ七人の子はなすとも女に肌を許すな、なんて、吉の野郎め悧巧(りこう)ぶりやァがって、生意気な事をぬかしやァがる篦棒め棟梁のとこのおかみさんなら知らねえこと、家の奴に限って、そんな馬鹿なことがあるもんか、ヘン面白くもねえ、兎角仲が好(よ)すぎると妬むやつさ、叩き大工の共稼ぎ……」

 鼻唄交じりで帰って来て入ろうとすると、家で男と女のヒソヒソ話し、一杯機嫌でムラムラとしたから堪りません、前後の考えもなく、傍にあった薪雑棒(まきざっぽう)[^15]をとるより早く、戸を蹴放して、

「コン畜生ッ」

 と源次郎のうしろから力任せに殴った、ハズミというものは恐しいもので、たった一打ちでバッタリと倒れた、驚いたのはおかみさん。

「マァ、何にをするんだねこの人はとんでもないことをしてさ、これァ棟梁ンとこの源ちゃんだよ」
「何を、ふざけたことをいうない、うぬァ俺の留守に情夫(まおとこ)なんぞを引き摺り込みやァがって、太え女(あま)だ、ただは置かねえからそう思え……」
「アレ危ない、マァお待ちッてえのに、気を落ち付けてよく御覧よ、源ちゃんじゃないか」

 言われてヒョイと気が付いて死骸を見るとまさしく棟梁の伜の源次郎でございますから、熊五郎驚いたの驚かないのじゃありません、酒の酔いも何にも醒めちまって、ブルブル震え出した。かみさんもいろいろと介抱をしてみたが、モウ生きかえる見込みがございません。

「お前さんマァどうするつもりだえ、幾らお酒の上だって、とんでもないことをして、一体どういう料簡で源ちゃんをぶち殺したんだえ」
「どういうわけも、こういうわけもありゃァしねえ、何だと思うからやっちまったんだ」
「何だと思ったんだえ」
「その、何よ」
み「何だよ、ハッキリお言いな」
「だから、その、何だ、七人の子は生(な)すとも女に肌を許すなって、吉の野郎がそういったんだァな」
「それが、どうしたんだえ」
「だからよ、 おめえも気を付けねえッて……」
「何を気を付けるんだえ」
「だからよ、その情夫でもこしらえるといけねえからって……」
「誰れが情夫をこしらえたんだえ」
「だから、その俺がそう云ったんじゃねえやな、吉の野郎がそういったんだな」
「ヘン、馬鹿にしてやァがらァ、吉さんも吉さんだが、お前さんもお前さんだ、私が間男をするかしないか、大概つもりにも知れてるじゃァないか、それを余計なことをいってシャクリやァがって」
「だから俺もそういったんだ、家のかみさんに限って、そんなことはありませんて」
み「それほど承知していながら、真に受ける奴もないもんだ、お前さんも随分のろまだね」
「全くだ」
「何をいってるんだんだえ、だから私が源ちゃんだ源ちゃんだって言ったじゃァないか」
「やらねえうちにそう言えば宜いんだ」
み「そんなクダらないことをいってる場合じゃないよ、お前さんどうするつもりだい」
「どうして宜いか俺にゃァ分からねえ、棟梁ンとこへ行って聞いて来ようか」
「馬鹿なことをお言いでない、お前さん、シッカリおしよ」
「ウッカリしてらァ」
「冗談じゃないよこの人は、差し詰めこの死骸をどうにかしなくちゃァならないよ」
「お寺へ持って行くのか」
み「そんなことが出来るものかね、もしこれがお上に知れりゃァ、お前さんの首がなくなっちまうよ」
「それァ困るな、首がねえと、歩くのに方角が分からねえ」
「じれったい、どうにも仕様がない、私しも手伝ってやるから風呂敷かなんかへ包んで、ソッと知れないように、大川へ持って行って捨てて来るんだよ」
「ウム、そうすれば分からねえな」
「それよりほかに仕様がないじゃァないか、サァお前さん手をお貸しよ」
「ウム、俺もこんなことは初めてだから、サッパリ様子が分からねえ」
「おふざけでないよ、誰だってこんなことは初めてだァね……」 

 熊さんは半分気抜けがして、ボンヤリしているのを、かみさんがなかなかシッカリ者で、 亭主を叱りながら、どうにかこうにか始末をして、夜の九ッ頃[^16]本所達摩横町[^17]の長家を出て、厩河岸へ行こうと天秤で差し担いにして二丁ばかりも参りますと出っくわしたのが友達の吉五郎。

「熊兄いじゃねえか、今時分妙なものを担いでどこへ行くんだえ」
「ウム、ナニ、その何だ、今、何が何したもんだから、何するんだ……」
「誰だえ……オャ吉さんかえ、ナーニ、それァ何だよ今ね、あの町内の赤犬があんまり悪ふざけをしやァがるからうちの人がちょっとぶったんだがね、ぶちどころが悪いと見えて、死んでしまったんだよ、夜が明けてからじゃァ近所の人がまた騒くだろうと思って、それで今川へ持って行こうというんだよ」
「おみつさん、隠したっていけねえよ、出ているなァ犬の足じゃァねえ、夜目にもチャンと知れてらァ、夜夜中こんなものを持って歩くのは物騒だ、マァマァ兎も角も俺ンとこへ来ねえ」

 と夫婦の者を連れて来て、

「サァ俺ン所はひとりものだ、宜い塩梅に両隣りは空家だから、ちっとも差し合いはありゃァしねえ、サァ熊兄ィ、本当の事を話してくんねえ、俺も今夜はスッカリ取られちまって、かたが付かねえんだ、金儲けなら半口乗せてくんねえな、なァ兄い、余程の仕事だろう」
「フン、こんな仕事はまだ俺もした事がねえ」
「兄い、おめえは見かけによらねえ荒(あれ)え仕事をするなァ、金は余程あったのか」
「金なんざァ一文もありやァしねえ」
「吉さん、そんな太い仕事じゃァないんだよ、風呂敷をまくって御覧、これァ棟梁んとこの源ちゃんだよ」
「ナニ、棟梁んとこの源ちゃんだ……」 

 風呂敷をまくって見て驚ろいた。

「兄い、何んだってこんなことをしたんだ」
「ナーニ今日お前と呑みながらそういったろう、七人の子はなすとも、女に肌を許すなって家のおみつに限ってそんな事はねえと思って帰って来ると、家の中で男の声がするんだ、俺ァムラムラとしたから、いきなりぶっちまったんだ、全体お前があんなことをいうから悪いんだ、俺ァお前のことをそう言ったら、おみつに大変叱られたぜ」
「吉さん、お前さんもお前さんじゃないか、何を証拠に私が間男をしたなんてお言いだい、サァそのわけを聞こうじゃないか」
「姐(あね)さん、そう怒っちゃいけない、何もそう言ったわけじゃァねえ、ほんの浮世話に、世間にやァそんな女も随分あるといっただけのことさ、そう居直られちゃァ豪勢間が悪いが、しかし殺しちまったものは仕方がねえが、兄い、これをこのまま大川へほうり込むなァ危ねえぜ、直ぐ足が付きゃァおめえの首が飛んじまわァ」
「だから俺ァ歩くのに方角が知れねえと思って大変心配してるんだ」
「よし、俺が引き受けた、兄いも姐さんも心配しなさんな、しかしこのままじゃァいけねえ、モッと死骸をこなして、渋ッ紙かなんかへ包んで、幸い隣りの空店の床下を掘って埋(い)けちまう」
「大丈夫かい」
「大丈夫だよ、兄い手を貸してくんねえ」

 とこれからこわばっている死骸の節々を折って隣の空店の床下を深く掘って埋めてしまいました。

「兄い、もしヒョットばれた時にゃァ強情に知らねえ覚えはねえといってしまいねえ、俺がどこまでも引き受けて言い開きをしてやるから決して心配しなさんな」
「どうもいろいろ有難う、おめえはこういうことにゃァ馴れてるなァ」
「冗談いっちゃァいけねえや……」

 まず安心と夫婦の者は自分の家へ帰りましたが凡夫盛んに神祟りなし[^18]とか申しまして、人間間の好い時には不思議なもので、その内に棟梁のかみさんは情夫をこしらえて逃げてしまった、跡に残った棟梁は伜のゆくえが分からず、女房には逃げられた、それやこれやを気病(きやみ)にしてとうとう病死をいたしましたが、人間は少しおめでたいが、兄弟子ではあり、仕事も確かだから、熊兄いがよかろうと、弟子共の相談で、ソックリ熊五郎が棟梁の跡釜を引き受けましたが、咽喉元すぐれば熱さを忘るるで、金廻りの良いに従って、ソロソロ女狂いを始める、家へもろくろく寄り付かない始末、果てはお約束の夫婦喧嘩。

「出て行きやァがれ」
「出て行かなくってどうするもんかうぬァ一昨年の暮れのことを忘れやァがったか」
「何をッ」
「何も糞もあるもんかえ、私の口一つで、歩くのに方角を分からなくしてやるんだ、棟梁んとこの源ちゃんを薪雑棒でぶち殺しやァがって……」
「ヤイヤイ静かにしろい」
「静かにゃァできないよ、モッと大きな声をしてやるんだ」 

 だんだん声高になります、所へ通り掛かったのが八丁堀与力[^19]、手先をつれて様子を聞いておりましたが、ソレッというと、バラバラバラバラと駈け込みまして、

「御用だ、神妙にしろ」
「エッ、わっしァ何もお縄を頂くような覚えはございません」

 といったがモウ追っ付かない、一応自身番[^20]で下調べの上、改めてお白洲[^21]へお呼び出しになりましたが、熊五郎は知らない、覚えはないの一点張り、くわしいことは弟弟子の吉五郎がよく存じておりますから、お呼び出しの上お調べを願いますという、早速吉五郎へお差し紙[^22]が付きました。

「本所中の郷家主吉兵衛店大工渡世吉五郎」
「ヘイ」
「そのほうはこれに居る熊五郎と兄弟弟子の趣きじゃが左様か」
「ヘイ、左様でございます」
「一昨年十二月二十日の夜棟梁政五郎の伜源次郎と申する者を熊五郎が殺害に及んだ由、女房みつの申し立てで明白である、しかるに彼は陳じ偽りくわしき事はそのほうが存じていると申すがどうじゃ、それに相違なかろうな」
「どういたしまして、なかなか熊五郎は人殺しをするような、そんなシッカリした人間じゃァございません、あれは全く近所に赤という悪い犬がございまして、あんまり悪さをいたしますから、打ち殺して隣りの空店の床下へ埋めましたに相違ございません、もし何なら床下を掘ってみりゃァ直ぐに分かります」
「何じゃ、犬の死骸じゃ」

 そこで直ぐに役人が出張をして掘り返してみますと、犬の死骸に相違ない、これは全く女房おみつが痴話喧嘩の腹立ち紛れに偽りを申し立ったに違いないときまりましてかばかりのことでお上へお手数をかけるは不都合である、またたとえ犬の死骸たりとも床下へ埋め置くはけしからんことじゃ、このたびは差し許す以後は相成らんぞ、一同立てッ、ゾロゾロ奉行所をさがりましたが、ホッと息をついたのは熊五郎。

「オイ吉、俺ァどうなることかと思ってヒヤヒヤした」
「だからこういうことはよく気を付けけなくっちゃァいけねえッてんだ、大きな声じゃァ言われねえが、後で俺ァどうも危ねえと思ったから知れねえように犬の死骸と取り替えて本物は大川へ捨てて来たんだ、七人の子はなすとも、女に肌を許すなってえことはどうだ分かったろう」
「ウム、何しろどこかで一ぺえやろう」

 と話しながら参ります足許へ、いきなり大きな尨犬(むくいぬ)が、ワンワンワンワン。

「シッ、畜生ッ、てめえも人間にされやァがるな」

[^13]: 七人の子は生すとも、女に肌を許すな ……七人の子をもうけるほど長年連れ添った妻にも、重大な秘密に関しては打ち明けてはならないということ。
[^14]: 剣呑の一ッも食くわして ……厳しく拒否すること。「剣突を食わす」とも。
[^15]: 薪雑棒 ……まきざっぽう。薪にするために適当な長さに切ったり割ったりした木の棒。
[^16]: 夜の九ッ頃 ……十二時辰による時刻表示で、現在の午前〇時を示す。
[^17]: 本所達摩横町 ……現在の墨田区吾妻橋一丁目あたり。
[^18]: 凡夫盛んに神祟りなし ……平凡なつまらない人間であっても、勢いに乗っている時期は何事も順調にいく場合があるということ。
[^19]: 与力 ……奉行所の配下に属し、行政・司法の事務処理を補佐する機関。
[^20]: 自身番 ……町々に配置された自警・消防のための詰所。
[^21]: お白洲 ……犯罪被疑者の取調べと訴訟の審理を行う機関。
[^22]: お差し紙 ……訴訟などに関する、奉行所からの出頭命令の通達のこと。

花見扇

 酒なくて、何の己れが桜かな、と、旨いことをいったもので、素面(しらふ)ばかりのお花見というやつはあんまり景気のいいものじゃありません、俗にいう花時にはご婦人が酔っていてもみにくくないと言いますがあんまり宜いものではございません、チョイト凸山さん、こちらへいらっしゃいよ……、ぶち壊れたハイカラあたまでキイキイいっているのも感心しません、酔ッ払いにいろいろ種類がありますが、罪のないのは花時分にチョイチョイあります。

「酔ってらァ篦棒め、誰だと思ってやがるんだえ、俺を知らねえかえ、八丁堀の熊兄いだ、矢でも鉄砲でも持って来い、逃げ出すから」 

 逃げるんなら威張らない方が宜い、だんだん酔いが廻るに従ってクダラないことをいって人を嫌がらせるという、管巻上戸(くだまきじょうご)、搦(から)み上戸なんというのが宜しくございません。

「オイオイ 、廻しねえな少しは」
「何を廻すんだえ、ただ廻せじゃ分らねえや、目でも廻せてえのか」
「何をいやがるんでえ、盃を廻すんだよ」
「ナニ、盃を廻せ……串戯(じょうだん)いうない、俺ァまだ丸一[^23]の弟子になったことはねえやい、盃が廻せるか篦棒め、おまけに酒が一杯ついであるよ、これを廻しちゃァ酒が零れるぜ」
「そうじゃねえやい馬鹿、酒を呑んで猪口(ちょく)を廻せというんだよ、三人の頭に猪口が一ッしきゃァねえんじゃねえか」
「アッ、そうか呑んで廻せてえのか、成程、分かったよ、マァ宜い」
「ナニ」
「マァマァ宣いよ」
「宣かァねえや、早く廻せ」
「何を言やがるんでえ、大きにお世話だ、篦棒め、俺ァモウ何だ、今日は癪(しゃく)に触って癪に触って堪らねえんだ、ふざけやァがって畜生め、飛鳥山へ来やがって、みんな何だい威張ってやァがら、ほうぼうの奴が高慢な面をしやァがって、篦棒め、好い服装(なり)をしやァがって……また今ここんとこへ来やァがった若僧は何だい、あん畜生男の癖にお召めし縮緬(ちりめん)[^24]なんぞを着やがってキザな野郎じゃねえか、ナァ、威張ったって何でえ、あんなものは大方なんだろう、白木屋か松坂屋の見切り物[^25]の中から、汗だらけになりやァがって探して来やがったんだろう、こちとらはな、服装は悪いけれども見切り物じゃねえやい、この品限りお取り替え申さず候とな、大きな判の押してある品物とは違わァ、めくら縞[^26]の股引腹掛というんだ、しかも別あつらえだい……もっとも俺は丈(なり)が小せえから出来じゃ間に合わねえけれども……癪に触らァ、この向こうに女をつれて馬鹿にしやがって年増に新造に女の子を、その中に男がまた交ってやがらァ男と女とまめいりだい、それも宜いけれども、呑んだり食ったり三味線弾いたり、唄ったり踊ったり跳ねたりしやァがらァ畜生め……、世辞でまるめて浮気でこねて小町桜の眺めにゃ飽かぬ……」
「何をいやがるんでえ篦棒め、また何だ、三味線を弾いてる女は垢抜けたいい女だから癪に触らずにいられるかい……」
「何をいうんだよ見ッともねえ、大きな声をしやがって馬鹿ッ、ありゃァな、下町の踊りの師匠だ、おさらいを持ち込んでのお花見だ、三味線弾いたり唄ったりするのはあたりまえじゃねえか見ッともねえから静かにしろよ」
「何を言やがるんでえ癪に触らいそれも好いけれどもふんだんに物を食ってやァがらァ向うじゃァ馬鹿にしやァがって、俺ァさっき小便(ちょうず)に行く時に通ってスッカリ検査をして来た、煮染を食って、それも宜いけれども、旨煮に蓮にハンペンだけにして置け、竹輪だけ余計だい畜生め、かまぼこを食ったりまた玉子焼を食ったりしてやァがらァ……こっちはあんまり食い物がなさすぎらァ、かまぼこに玉子焼はあるけれどもよ、このこっちのかまぼこは中からこう苦水が出てきやァがらァ……アハハハ玉子焼もそうだい、食うとバリバリ音がしやがる玉子焼と見せたのは真赤の偽りだ、まことはたくあんの香物(こうこう)じぁァねえか、だからバリバリ食うと音がすらァ、たくあんはおやかましゅうござんすてえのは是れから初まった……」
「何をいうんだよ馬鹿、仕様がねえなコン畜生、また始めやァがって、チャント前から相談をして来たんじゃねえか、男ッきれの花見だ、万事嫌味なしでやろうてえんだ、エエ、また花見の場所でクダラねえ物を食ったって仕様がねえからといってまさかえんどう豆でも酒も呑めず、安上がりで人を馬鹿にしようというんで、たくあんと大根の香物でもって趣向をして来たんじゃねえか、てめえは何か物が食いてえというのか食わしてやるよ、静かにおしよ見ッともねえ、仕様がねえやこんな野郎は……ママ待ちなよ、姐さん姐さん、すまねえがな、刺身を二人ぶり持って来て貰いてえんだが、早場に頼むよ……静かにしろッてえんだよ食わしてやるから」
「何をいやがるだい、大きなことを言やァがるな、食わしてやる食わしてやるッて馬鹿にするねえ、何もてめえに食わして貰うんじゃねえや、物を食えばってもよ、酒を一杯呑もうといっても皆な割前[^27]じゃねえか」
「馬鹿ッ、大きな声をするない、多勢人が立って笑っているよ」
「何を笑うんだい、笑うない畜生め、何んでえ今のは違ってるぞ割前じゃねえ出しッこだい」
「おんなじこったい馬鹿、文句をいうない……アア姐さん、こっちおくれ、サァサァ刺身が来た刺身が来た、食いなよ」
「何にをいやがるんだい俺ァ食いたくも何んともねえんだい」
「食いなてえんだよ」
「マァ宜いよ、何んでえ、俺の勝手だい、どうでも仕やァがれ篦棒め」
「何だ」
「嫌な真似をしやがるない畜生め」
「何が嫌な真似だよ、汝が食いてえというから俺が取ってやったんじゃねえか、サッサと食いねえ」
「何でえ篦棒め、{此様|こん}な刺身が食えるかえ」
「早く食えよ」
「鮪(きす)や鯛(たい)の刺身なら食うがな、麻裏草履の刺身は食えねえや、食えるんなら食って見ろい」
「馬鹿にするない畜生め、何を変なことをいやがるんでえ、麻裏草履の刺身てえのがあるわけはねえじゃねえか……オャ、刺身の上へ草履が載っかってらァ……」
「サァ食って見ろい」
「草履の刺身を、俺には食えねえや」
「静かにしろよ、汝は黙ってろい……どこの奴だいこんな嫌な真似をしやがったのは、遺恨があるんならな、ここへ出て来て文句を言え、どこのどいつだいこんな真似をしやがったのは、刺身の中へ草履を叩ッ込んだのは何処の何奴だい」
「そうだそうだ、篦棒め、どこの野郎だい草履の中へ刺身を叩ッ込んだのは……」
「馬鹿ッ、違ってらァい」
「アアそうだ、違ってらァ堪忍しろい」
「謝まる奴があるかえ馬鹿、黙ってろよ汝は……サァ、俺が対手(あいて)だここへ出て来て文句を言え、どこの野郎だい……」 

 我慢強い人が怒ったんですから大層な権幕、この中へその粗忽(そそう)は私でございますとわざわざ来る者もなさそうなものですが、そこが商人気質と見えまして、年の頃は五十五六、人品の好い旦那、それへ出て参りまして、 

「イヤ、どうも何とも申し上げようがございません、エエ実はその粗忽を致しましたのは、手前どもの小僧でございまして、何で意趣や遺恨のある訳はこざいません、ほんの出合いがしらの粗忽でございます、折角好い心持ちにお遊びのところを、こんな真似を致しまして、何とも申し訳のしようもございません、小僧の粗忽は主人の粗忽、定めし御立腹でもございましょうが、この通り七重の膝を八重に折ってお詫びを致しますゆえ、どうぞ一ッ抂(ま)げて御勘弁に預かりとう存じます」
「マァ旦那、どうぞお手をお引きなすって下さいまし、こりゃどうもすみませんね、わざわざそういってお出でなされた日には私の方はモウ却って極まりが悪いぐらいなもんだ、何ね、愚図愚図いったところで仕様がありません、マァしかしね、訳も分からず刺身へ草履がバッタリ載ってしまってるんだ、ツイ癪に触ったもんだからね、見ッともねえとは思いながら、我れ知らず大きな声を出しましたんで、小僧の粗忽は主人の粗忽とまで仰られりゃァ、私しの方も実に好い心持ちで、どうぞお手をお退きなすっておくんなさい」
「デは御勘弁を……」
「エエエエモウ御勘弁もあかんべんもありゃしねえ、話さえ分かってりゃァ私の方は何にも苦情はねえんでげすから」
「嫌だ嫌だ、何を言やァがるんだ、俺が勘弁しねえやい、何だ癪に触る爺が出て来やァがって、禿頭、逆蛍、豆腐の銅杓子(かたびしゃく)め嫌だい、俺が勘弁出来ねえ……」
「また出やァがらァコン畜生、引ッ込んでろてえんだよ、俺が勘弁するというんだから宜いじゃねえか」
「何を言やァがるんだい、癪に触らァ篦棒め、てめえが勘弁するって俺が勘弁できねえんだい」
「何を言やァがるんだい」
「そうじゃねえか、第一な、この爺のいうことが俺は癪に触らァ、いう通りにして見せてくれ、そうすりゃァ俺が勘弁して帰すから」
「ナニを……」
「何をじゃねえ、七重の膝を八重に折るって言やがったな、サァ折って貰おうじゃねえか、大概人間の膝てえものはな、折ったところで二つだ篦棒め、七重の膝てえのを見せて貰おうじゃねえか、折ってくれ……」
「馬鹿ッ、余計なことをいうない、笑われるから間抜め、物を知らなけりゃァ黙ってろよ、七重の膝を八重に折るというのはな、本来なれば袴(はかま)でも穿いてお詫びに出なくちゃァ済まねえというんだ、大概文句はきまってらァ」
「だからよ、七重の膝を八重に折れてえんだ」
「馬鹿ッ、引ッ込んでろい」
「嫌だ、引ッ込まねえ、何をいやァがるんだ、サァこうなりゃァ俺が対手だ、勘弁出来ねえ畜生め……」
「そんな事を言わねえで勘弁しなよ」
「嫌だよ」
「じゃ何か、てめえ、どうしても勘弁できねえというのか」
「あたりめえだい、しねえったらしねえやい」
「どうしてもか」
「クドイやい」
「じゃァ勘弁するなよ、てめえが勘弁するてえと俺ァ承知しねえぞ、コン畜生め」
「何をクダラねえことをいってやがる」

 ポカリ……。

「ア痛ッ……何をしやァがるんだい」
「何をも糞もあるかえ、巫山戯やァがって、てめえの守(もり)に来たんじゃねえやい、恥をかくのが辛いから我慢をしてお守をしているんだい、ふざけやがって、サ、いつまでも勘弁すると承知しねえぞ」
「ア痛ててて……オイオイ、何をするんだえ……オーイ、そう咽喉を絞めちゃァいけねえ、マァ待ってくれ待ってくれ……」
「勘弁しねえんだろう」
「アァ待ってくれよオーイ、緩めてくれ緩めてくれ、オイ、咽喉の仏様が潰れちまうよ、勘弁する、勘弁する……」
「何を……」
「勘弁するよ」
「汝勘弁しねえといったじゃねえか」
「アアするするする、勘弁するから勘弁してくれ、するする、まさに勘弁致しました……」
「何をいやァがるんだい、ざまァ見やがれ弱虫め……」
「ア痛い、何を言やがるんだい、俺が弱いんじゃねえやい、てめえの方が強過ぎるんだ、アア痛かった……」
「何卒お手荒なことはお止し遊ばして、どうもお気の毒様で、あなた様こそお痛うございましたろう」
「何をいやァがるんだい、吊詞(おくやみ)には及ばねえやい、やられて見やァがれ、堪らねえや」
「エエ、どうも、しかし早速御勘弁で有難うございます、就きまして何かお詫びの印、と申すわけではございませんが、 こんな不潔なものが入りましてはとても召し上り物にもなりません、エエ甚だ失礼でございまするがな、この刺身をソックリ器ごと手前の方へ頂戴を致しまして更に器を取り替え、品物を殖やして参りましたらば御意にも叶いましょうと存じますのでこの器ごとソックリ手前の方へ……」
「オイオイ、オーイ、チョイト待ってくんねえ旦那、爺さん、何を……モウ一遍言って御覧なさい、私の方がね、勘弁しねえといってるんならばどんな嫌なことでも言いなさい、勘弁するッてえんだよねえ、お前の方は有難うござんすといって引ッ込みやァ宜いじゃねえか、何をいやァがるんだ、ふざけやァがって、さらじゃねえか篦棒めえ、こちとらァな、服装(なり)は汚ねえが乞食じゃねえやい、素堅気の職人だ、品物を殖やしてくれとは何てえ言い草だ、柄(え)のねえところへ柄をすげて酒を呑もうてえんじゃねえやい、こうなったら俺が対手だ、勘弁しねえ、見ている前でな、この刺身が新しくなったら勘弁してやる、左もなけりゃァ勘弁できねえ……」
「そうだそうだ、篦棒め、ざまァ見やがれ馬鹿爺め、コン畜生め、又そうじゃねえか、なァ、品物を殖やしてくれるというような親切があったらばな、黙って殖して持って来い、余計な事をいうないコン畜生勘弁できねえ……」

 まわりへたかった見物は、声も出しませんでこの権幕を見ております、老人の方も手持ち無沙汰、何という挨拶をしていいか分かりません、ところへ群集の中から人を押し分けて、年頃二十二三、扮装万端申し分のない、俳優にしても宜いというぐらいの商人体(あきんどてい)の若旦那。

「エエモシ、甚だ失礼でございまするが、ちょっと私にお任せ下さいますよう……エエ只今な、手前は通りかかりの者でございまするが、様子は逐一拝見しておりますので、モウ手前のような若年者が差し出口を致す場合ではないのでござりまするが、この混雑の中でございまして、はなはだ失礼ではございまするが、イエ、モウ、決してあなた方の御立腹の筋は御無理ではございませんで、ヘイ、しかしこの御老人のマァ仰りようが悪かったのでございますが、それも、何も心があって仰ったというわけでもございますまい、謂わば、ホンの物の間違いで、手前どものような者にお任せ下さるということはできますまいでございましょうか、この御老人に代って私がお詫びを致します、どうか一ッ今日のところは……エエ仲人は時の氏神ということもございますから、お任せにくうはございましょうが、どうぞ一ッ御勘弁を願いとう存じまするが……」
「これはどうも恐れいりましたね、ヘイ、エエ様子は残らず御承知と仰ったから、改めて申し上げることもございませんけれども、私の方でもね、大きな声はしたかァねえんでござんす、しかし品物を殖やして持って来ると、こういわれたんでね、ツイマァムラムラッと疳(かん)が起こったというわけでござんす、こちとらとあなた方とは身分違えで、わざわざどうもこうやって口を利いて下さるんだ、モウそれで充分でございます、私の方もこのね、年寄を対手に殴ったところで仕様がねえんだ、ツイ振り上げた拳固の納まりがつかねえで、自分ながら、困っておりましたんでございます、ヘイ、エエ万事若旦那、貴郎にお任せ申しますから、決して何で、御心配にゃ及びませんで……」
「嫌だい嫌だい畜生め、どこから出て来やがったんだ若僧め、アアコン畜生さっきのお召めし縮緬見切物野郎|め、男の癖にしやァがって、好いなりをしやァがって嫌な野郎だえコン畜生め、俺ァ勘弁出来ねえ……」
「また出しゃばりやァがる、まだ懲りねえのか、勘弁しねえのか」
「アアするするするッ、勘弁する……」
「引ッ込んでろいコン畜生……エエ何卒お構いなく、お引き取りを願いとう存じます」
「左様でげすか、御承知で有難う存じます、エエ、では何卒、ハイ、はなはだ失礼ですが、これで御免を蒙ります」
「エエ、また御縁があったらお目にかかりますで、じゃ御免下さいまし……」 

 変な花見があるもんだ。

「オイ、姐さん姐さん、どうも騒がしてすまねえな、何しろ何だな、ドサクサ紛れでもって、酒も何も醒めちゃった後でみな勘定をするが、モウ刺身も変だ、何んかこう浜鍋か焼魚てえなものを持って来てくんねえ、出来るんなら三人前ばかり、酒もまだこっちにもあるんだがな、何だか持って来た酒は呑みたくなくなっちゃった、そっちのな、正宗を二本ばかり、 都合で早場に頼むぜ」
「オイオイ、兄哥(あにい)、またそんなにあつらえてどうするんでえ、勘定をお前誰が出す」
「いいじゃァねえか、大きにお世話だよ」
「お世話じゃねえやい、オイオイ、これはみんな割前だろう……」
「何を言やがるんでえ、黙ってろよ、汝には一文も出させやしねえ、安心をしろいコン畜生め、みんな俺が払わァ」
「エーッ、みんな俺が払う……ヤッ、偉い……」
「何をいやァがるんだい……」
「イヤ、どうもどちらの若旦那でござりまするか、何とも御礼の申し上げようもございませんで、面目次第もないのでございまして、本来はあなた方のお間違いのあった場合に手前が口でも利きますのが物の順なのでげす、ところがそれがあべこべになりまして、イヤどうも面目次第もございません、どういたそうかと思いましたところ、いろいろまたご心配下さいまして有難う存じます、どうも本当に救けの神でございます、何とも御礼の致しようもございませんで……」
「エエ、どうもお言葉では痛み入ります、手前如き者がな、口出しをいたす場合ではないと承知は致しておりますのですが、誰も仲裁に入るでもございませんし、余りのご迷惑をお察し申しましたものですから、見るに見かねまして生意気に口を出しましたところ、あちらの方も左程物の分からないものでもございませんと見えまして、マァ無事に納まりまして、こんな結構なことはございません」
「何とも恐れ入りました、お礼の申しようもございませんで……コレ娘、この若旦那にちょっとお礼を申しなさい……婆や、黙ってちゃいけません」
「どうもどちらの若旦那でいらっしゃいますか、何とも相すみません、どうしようかと存じまして心配をしておりました、マァほんとうに有難う存じました……モシお嬢さん、何でござんすね顔ばかり赤く遊ばして、黙っていらっしゃるもんじゃございませんよ、貴女はさっき何と仰いました、アァいうお方と一遍でも口が利いてみたいと仰ったじゃありませんか、何とか仰いよ、仰られないんですか……いろいろどうも今日は有難う存じます、改ためてこれはお嬢様の代理で……」
「余計なことをいうなおしゃべり、……就きまして、私ははなはだ失礼ですがこれでお別れ申しますのは誠に残念でげしてな、お手間は取らせませんが、ちょっと山を下りまして扇屋までおつきあいを願いたいのですがいかがでございましょうか」
「ヘイ、折角でございまして、思し召しは有難う存じますがな、少々今日は時間が遅くなりましたので、定めし両親も心配をしておろうと存じますから、エエお言葉を背いてはなはだ失礼でございますが、またお目にかかることもございましょう、今日は是れでお別れを……」
「ヘイヘイ、左様でげすか、エエお急ぎとあったら仕方がない、又御両親が御心配では恐れ入ります、手前宅(うち)はな、麹町でござりまするがな、是非最寄りへお出でになりましたら、お立ち寄りを願いまするでへイ、デははなはだ何でげすが是れでお別れを、誠に失礼を……御免下さい……サ、何だ急いで家へ帰りましょう」
「コレ定吉、お前だろう草履をほうり込んだのはエエ、何であんな真似をするんだよ」
「ヘイ、御免下さい」
「御免下さいじゃありません、私があんな所へ入って口が出せるわけはないじゃないか、お前の草履に違いないと私には分かっているし、また向こうの麹町の旦那が御自分のところの小僧さんのせいだと思ってお詫びしていらっしゃったじゃないか、それを見捨てて黙ってるわけにはいかないじゃないか、何であんなもの投げたんです」
「あんなものをッたって、偶然の出来事なんで……」
「何が偶然だい」
「ナニ、何ですよ若旦那、こうほうぼうの小僧が四五人寄っちゃったんです、旦那は旦那、小僧は小僧だから何かして遊ぼう、小僧は小僧だけの権利を主張しよう……」
「何をいってるんだい」
「草履投げがよかろうというんで、みんなでやったんでござんす、そうしたら私の草履が、一番威勢よく、バーッと飛んで行って、御免なさいとも何とも言わず、刺身の上へ、無事に着陸をしたんで……」
「何をいってるんだ、馬鹿、これからもあることだけれども、そんないたずらをするとモウ何ですよ、承知しませんよ」
「ハイ、御免下さい、以来必ず注意いたします、どうか家へ帰っても黙っていて頂だきたいんですが……今ね若旦那、あの方は急いで参りましたけれどもね、あの何ですね、お連れのお嬢さんはいい女ですね」
「嫌な事をいうな小僧の癖に、そんなことはどうでもいい」
「どうでも構わなかァありませんよ、小僧だっていいものはいいじゃありませんか、天然の美はおえども能(あた)わず……」
「生意気な事をいうな」
「若旦那若旦那、あのお嬢さんはね、あなたにラブしていますよ……」
「なぜそんな生意気なことをいうんだ馬鹿」
「馬鹿だって仕様がありませんよ、確かな証拠があるんですよ」
「何だ証拠というのは……何だよ証拠というのは……」
「マァお待ちなさいましょ、アノ子、今別れてこっちへ来たらば、婆やが後から駈けて来たんですよ、それでね、私の袂(たもと)の中へこのお扇子を入れて行ったんでございます、後で若旦那様へ、お嬢様からといってお渡し申して下さいって……ご覧なさい」
「なぜそんな物を無闇に受け取るんです、仕様のない奴だなほんとうに、見せな……エエ、アア、こりゃいい扇だ、金地銀地の黒骨の京扇、紅筆(べにふで)で書いてあるんだな」
「赤く書いてありますね、そりゃァインキじゃありますまいねえ」
「黙っておいで……瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……ハテな、瀬をはやみ岩にせかるる滝川のというのは何にかの歌の上の句だなこりゃ……アアそうだ、百人一首にあったな崇徳院様の歌だ、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……下の句か、われても末にあはんとぞ思ふ[^28]、そうだ、われても末に……ハテな、この歌の心といい、あの娘のそぶりといい、これにはもしや……」
「ヒャヒャ、評判評判評判ッ」
「大きな声をするな」
「ホラご覧なさい、若旦那、こんな有力なる証拠物件があるんですもの白状なさいよ、小石川の七人殺しはあなたでしょう」
「何をいうんだ……」

 この扇子が仲立ちで、末は一対の夫婦になるというお話。

 人は病いの器とか申しまして、どんなじょうぶな人でも多少の病いのないものはございません、そのまた病いにもいろいろございます、色気のある病気があり、色気のない病気があります、色気のある病いというのもおかしな話でございますが、しかし恋煩いなんと来ると、誠に色気たッぷりでございます、勿論当今では、人の気が短くなっておりますから、なかなか煩らうまで待っておりません、とりわけ御婦人の方が勇気がありますから、この男と思うと、直接談判の方が早いというので。

女学生「チョイト山本さん、露骨に申し上げますがね、わたしは精神的貴君にラブしているのよ、私御同情がありますなら、直ぐに華燭(かしょく)の典[^29]をあげたい望みなんですがね……ハァそう、いけませんの、それじゃ他を聞いてみましょう……」

 空店(あきだな)でも探す気になっています、これが当今の新しい女の心意気だそうでございますな……。

旦那「アア久兵衛さん御苦労さま、どうもお前を使っては済まないがね、小僧や若い者じゃらちが明かないので、わざわざお前に行って貰ったんだけれども、先生にお目にかかったかい……アアそれはよかった、忰の病名は判りましたかね」
「ヘイ、先生も多年の御経験によって、いろいろお考えになりましたが、どうにも若旦那の御病気は、ハッキリしないと仰るので……イエ、全然分らかんというわけでもございません、もしやそうではないかというのが、丁度手前の考えと符合して居ります、というのはちと申し上げにくうございますが、若旦那の御病気はことによったら恋煩いではあるまいかとこういうお見立てでございます」
「オイオイ久兵衛さん、冗談いっちゃァいけないよ、何年お前さんは家にいるんだえ、私よりお前のほうがよく忰の気心を知ってるじゃないか、忰がそんな病気を起こすほどなら、私達も心配しやァしない、女と口を利いた事もなし、茶屋酒一つ飲んだこともない、この間もお前わきへ使いにやったら、昼過ぎになったんで、腹がへってしようがないというんで、蕎麦屋の前へ立ったが、入ることが出来ないで、とうとう半日蕎麦屋の前に立っていたという、そんな男が恋煩いなんて、冗談いっちゃァいけないよ久兵衛さん」
「イエ、ごもっともでございますが、しかしこの道ばかりは別のもので、色は思案の外などと申しましてな」
「ハァ、成程そういうものかね、で、相手は誰だね」
「左様でございますな、アアいうなみ外れたおとなしい若旦那をたぶらかすほどの代物でございますから、ひとかたならない怪物と考えますね」
「ハァ怪物というとみせものに出る蛇使いの娘とでもいうのかね」
「イエ、左様なものではございません、まずこれは泥水へ片足突ッ込んだ化物だろうと私は考えます」
「ハァ、大分難しくなってきた、待ちなさいよ、泥水へ片足突ッ込んだ化物というと、何か家鴨(あひる)の化けたのかね」
「左様なものではございません、俗に申します芸者娼妓(しょうぎ)のたぐい、すべて色を売る稼業のもので」
「ハァ成程、お前さんはなかなか苦労人だね、そうかい、それは何とも言えないが、兎に角一つお前さん訊いてみておくれな、家風には合わなくとも、一粒だねの忰には換えられないから、芸者でも女郎でも、またこの節の高等淫売でも構いません、当人の気に入ったものなら持たしてやりましょう……何だ定吉、誰が来た……ナニ金造が来たと、困るなァ、俺はあいつが大嫌いだ、どうも口を利かれてもゾクゾクするよ、人間の声じゃないからな、まるで何かいわれると、ブリキを爪で引ッかくような心持ちで、歯が浮いていけない、久兵衛さん、お前宜いようにあしらって帰しておくれ私は奥に引ッ込んでるから、いないつもりでね……」
「ヘイ、今日は……イヤこれはどうも久兵衛さん、存外御無沙汰を致しました、エエ御客さまのお供でな、東北漫遊というと、チト大袈裟でございますが、日光から塩原、仙台、松島の方まで行って参りました、それが為め御無沙つかまつりましたような次第で……エエ今日は、大旦那さまはいらっしゃいませんか」
「大旦那はいらっしゃるような、いらっしゃらないようなわけで、その歯が浮いていけないと仰ってな」
「ヘエー、さてはやはり陽気の加減で」
「イエ、そうじゃありませんが、ブリキを爪で引ッ掻くんで……」
「ハァ成程、御近所に御普請でもございますか……エエちょいと只今お店で伺いましたが、若旦那が、御病気だそうで、ちっとも存じませんでございましたが、どういう御病気でございますか、胃病とか腸加答兒(かたる)[^30]とか、脳病とか、神経痛とか、あるいはリウマチス、脚気……」
「イヤ金さん、そんな御病気なら、御名医もあれば、また良薬もあるから、どうにでも手当てが届くんですがな」
「ヘエ」
「ちっと若旦那の御病気が世間に類のない病いで」
「ハァ、ちょいとお待ち下さいよ、当てて見せましょうか……それは恋煩いでございましょう……」
「フーム、成程、さすがは金さん、その通りですよ」
「恐れ入りましたね、この進んだ世の中に恋煩いとは、しかしそれが当時非常に流行っておりましてな」
「ヘエー、左様でございますか、私も日々新聞を見ておりますが、一向気が付かずにおりました……イヤちょいとお待ち下さい……エエ大旦那様恐れ入りますが、一寸お顔を拝借……金さんが見えましてな、就きまして少々御相談が……」
「御相談も何もないじゃないか、いないというのに仕様のない男だ……エエ……アアそうかい、今行きますよ……オヤこれは金さん、よくおいで、何だったそうだね、日光の方へ見物に……それは結構だった、お客のお供で、成程儲けかたがた、イヤ若い人はすかさないね、どうも恐れ入りました、早速また忰の病気を御案じ下すって、有難うございます、マァこっちへお入り、何か今久兵衛の話に、忰の病気が流行病(はやりやまい)だってね、流行病とは気が付かなかったが、全くですかえ金さん」
「へエ非常に流行しております、現在私の伯父などもこい煩いでございまして……」
「へエー、お前さんの伯父さんが……もっともマァ世間には歳の下の伯父さんもあるが、いくつだねお前さんの伯父さんは」
「エエ六十八でございます」
「六十八で恋煩い、どんな女を想ってね」
「イエ痢病(りびょう)で雪隠(せっちん)[^31]へ通いまして」
「冗談いっちゃいけない、それは下(しも)の肥(こい)煩い、家の忰は色気の恋煩いだよ」
「へヘー、ですがな、こいに上下の隔てはございません」
「馬鹿馬鹿しいあんまり隔てが無さすぎる……何だい久兵衛さん……ウムウム、成程、それは巧いところへ気が付いたね、ようがしょう、お礼は私の方から幾らでも出すから、お前さんよく金さんにお頼み申しておくれ」
「ヘエかしこまりました……さて金さん、ほかじゃァありませんがね、若旦那の病気について、大旦那も、おかみさんもひどい御心配で、いよいよそう事がきまれば、家風に合わないでも、一粒種の忰には換えられないから、芸者娼妓はいうに及ばず、淫売でも子守でも、乳母(おんば)さんでも、おさんどん[^32]でも、若旦那の気に入った者なら何でも貰ってやると、こう仰るので、 ところが若旦那の気性では、なかなか私が伺ってもこうこうとは仰るまいと思うので、そこを一ッお前さんのお口前で若旦那の想う相手を聞いて頂きたいのでそれが分かればお礼はいかようにも致しますが」
「エエよろしい、御心配御無用、手前が伺えば速かに仰います、たって仰らなければ背中を截ち割って……鉛の熱湯をつぎ込んでも言わさにゃ置かねえ……」
「冗談いっちゃいけない、そんな真似をしたら、若旦那は死んでしまいます」
「アハハハ、大丈夫、キット私なら直ぐに仰るに違いない、どこに御寝(およ)っておいで……」
「二階に御寝っていますから、そのおつもりでどうかお頼う申しますよ」
「コレコレ定吉や、あの二階の金造のところへお茶を持ってってやんな、何か菓子を付けて……アア貰い物の羊かんがあった、あの一番古いのを持って行きな……ナニ、堅くって包丁が入らない、傍に玄翁(げんのう)を付けて置いてやれ、壊しながら食うだろう、早く持って行きなよ……」
「オヤ、これは若旦那、どうもおやつれですな、ちょいとお目にかからないうちに……手前はちょいとお客のお供で日光から塩原、仙台、松島の方を見物いたして参ったので存外御無沙汰をいたしました、只今お父さんにも久兵衛さんにもお目にかかりましてお見舞い且つはお使者の役廻りをというのでございまして、マァそのままそのままイヤこれは定吉さん恐れ入りました、お心入れのお茶とお菓子……エエ定吉さん、ちょいと伺いますがね、羊かんの傍に玄翁が付いているのはどういうわけで」
「へエ、堅いから破(こわ)して食べるように付けてあるので」
「ハァ成程、岩羊かんは恐れ入りましたな、就いて若旦那、貴君の御病症はね、あの恋煩らいですってね……マァ顔をお出しなさい、もぐっちゃいけませんよ、ナーニ結構です、相手は人間でしょう、ようございます、人間同志ならどうにでも話がつきます、大旦那もおかみさんも非常に御心配で、いよいよそれと事が決まれば家風には合わないけれども、一粒種の忰には替えられないから、芸者娼妓はいうに及ばず、淫売でも女按摩でも瞽女(ごぜ)[^33]でも神子(みこ)でも巫子(いちこ)でも貰ってやるというお許しなんでねえ若旦那、貴君が一言仰れば、三方がいいんでございます、第一に貴君の願いが叶いましょう、第二におとっさんおっかさんのご安心はどのぐらいだか知れません、第三には私がお礼がウンと頂けます、マァお礼などはどうでもようございますが、くださる物は遠慮なく頂だきますよ、誰だか相手を仰い、若旦那、貴君が恋煩いなどをするところはないじゃございませんか、男の資格は十分に備わっているので、男がよくて年が若くて、財産がウンとあって、人間が悧巧(りこう)で、学問が出来て、交際が広くって、電車の飛び乗り飛び降りが巧くって、乗り換え切符をごまかすこと……なんざァ巧くない方がようございますけれど……ねえ若旦那、いいじゃありませんか、仰いよ、勿論貴君としては仰れないのは無理もない、口に出して言うぐらいなら煩やァしないと仰られば、それまででございますが、一言もいわれませんかね、じゃこうしましょう、入札をしましょう、予選投票をしましょう、この町内にはまた候補者が多いようですから……そうですね、貴君が煩らうほど惚れた娘さんというと……アア分かった、お向こうの呉服屋の美(みい)ちゃん……アアあれは去年お婿さんが来て、モウ赤ン坊ができた、けしからんもんで、私に断わりなしに……もっとも私に断る訳もないけれども、でなければと……アア小間物屋のおとめさん、あれは許嫁(いいなずけ)があるんだな、お婿さんは漬物屋の息子さんだから、これァいいなづけに違いない、それでなければ糸屋のふうちゃん、あれァまだ四才でしたね、向こう裏の産(とりあげ婆さんは七十二だし……アア分かった、いつでしたね、貴君のお供をして、上野の文展へ行きまして、スッカリ絵を見て、気に入った絵がないので、買いませんでしたけれども、山下で御飯を食べようと、袴(はかま)越しへ来た時に、すれ違った婦人がありましたねえ、あなたはアアいう方面にはさらに御注文はあるまいと思ったら、やはり人間の子ですねえ、木や竹から生まれたんじゃない、金さんちょいと御覧よと仰るから、ショイと私が振り返って見た時にゃァ実に私はその美を打たれましたね、思わずブルブルと震えました、三日間震え通しというのは、伊太利(いたり)の地震か、桜島の噴火ですがね、あの切り髪の被布ごしらえ、いい御婦人でしたね、年は二十五六でしょうか、何ともいえない愛嬌があって、凜としていて高尚で、あのお附きの女中ッたらなかった、万歳面(づら)お月見面、なぜ万歳面だというと、両方の頬ぺたに年が年中昼夜不断に国旗を出しております、真の日本人に違いないというところを証明している面で、またお月見面というのは、目がクリクリしていて顔中に白痃(いぼ)があって、鼻がお団子で、髪の毛が薄(すすき)と来ていましょう、ソレご覧なさい、十五夜のお月見面じゃァありませんか、あの後家さまなら私がすぐに探しますよ、黙って探しても分かりませんから、こちらにゴケのあきはありませんか……」
「何をいってるんだよ金さん、そんな者じゃないんだよ」
「エエ有難い、そんな者じゃァないと来れば正に恋煩いだ、英訳即ちラブシック、こうなればいよいよその相手を伺わなければなりません、若旦那宜いじゃありませんか、仰いよ、仰らなければ私はX光線や千里眼じゃないけれども、貴君の胸はらを透視して見せますよ、驚いちゃいけませんよ、あなたのスイートハートなる者は、横丁の師匠でしょう、清元(きよもと)の延幸(のぶこう)さん、あれは近所で評判ですよ、女がよくって芸がよくって朝寝で、親孝行で、少しシミッタレだがつきあいはよくするし、申し分のない婦人で、あの師匠ならむこうでも願ったり叶ったり転んだり滑ったり、直ぐきまりますよ、談判たちまち成立、日支交渉よりは余程早うございますが[^34]、只おふくろに困りましたなァ、こっちにはれっきとした親父さんおっかさんがあるから、また師匠のおふくろを引き取るとなると、親が三人でオヤオヤオヤといったところが押っ付かない、ようがす、私が引き取りましょう、月に十円か何かのまかない料を若旦那から送って下さいな、儲かりゃしませんよ十円じゃ、諸式が高うございますからね、しかし長い事じゃありませんよ、モウ直きにおめでたくなっちまいます、いよいよ死ななけりゃァふん縛って、私が電車の線路に置いて来まさァ……」
「何をいってるんだよ金さん、そんなものじゃァない、違ってるよ、お前お帰りよ、騒々しいね」
「これは恐れ入りましたな、お帰りよは情けない、私は何も虫のせいや疳(かん)のせいでしゃべってる訳ではないので、不断お世話になってりますから、お店のお為めを思って、親父さんや久兵衛さんから頼まれて伺ってるんじゃありませんか、それを帰れなんて仰れば、私は怒りますよ……ハハハナニ怒りゃァしません、怒りませんから言って下さい、ねえ若旦那、どうしても貴君が仰らないで、私が顔を潰されても別に大した損じゃァない、おしゃべり損のくたびれ儲けぐらいでございますが、おとっさんにおっかさんの心配はどのぐらいだか分かりません、焼野の雉子(きぎす)夜の鶴[^35]、御飯も碌々食(あが)らずに案じておいでなさるのは誰でございます、あなたのせいじゃァありませんか、ねえ若旦那、あなたはここにお寝(よ)っていて、何も御存じありますまいが、知らず識らず親不孝をしておいでなさるんで、終いに貴君の為に御両親がお煩いになります、それでもあなたようごさいますか」
「金さん、そんなにお前酷く言わないでもいい、しかし言われてみればそれに違いないねえ、私は気が付かなかった、そうだろう、定めし親父さんおふくろさんが心配なすっていらっしゃるだろう……アア勿体ない、実はね金さん、私は死んでも言うまいと思っていたけれども、お前に親不孝といわれて言わない訳にいかない、じゃァ思いきって言うよ」
「仰い仰い、サァ早く仰い」
「そんなに怖い顔をしないでもいいじゃないか、私は言うけれどもね、言ったら金さんお前笑うだろう」
「ナーニ、笑やァしませんとも、怒っています」
「怒らないでもいいけれどもキット笑っちゃ不可ないよ」
「エエ笑いませんよ」
「そんなら言うけれども、何だかお前笑いそうな顔だ」
「これは心細いなァ、笑いそうな顔などはだらしがないねえ、ようございます、鉄の振子(しんし)をかって、顔の皮を突っ張ってる、これなら笑われません」
「そんな顔をしちゃァなおいえない」
「どうすりやァ宜いんです、サァ仰い」
「実は金さん、私がね、死ぬほど想ってるというのは、面目ないがこれなんだよ」
「オヤオヤこのお扇子……へエー、これにあなたは恋煩い、アハハハハ、イエ笑やァしませんよ、アハハハハ若旦那、どこで……エ、上野のお花見で……へエー、する事が時代だねえ、お扇子のとりかわせなんぞは、二番目の筋にもあんまりありませんよ、拝見しましょう、これは良い扇子だ、金地銀地に黒骨女持ちの京扇子、何か書いてあるのは、御本人の御直筆で、成程紅筆ですな、お花見にインキは携帯しないね、いいお手だ、紅筆というものは、あんまり書きよいものでないが、鍾堂(しょうどう)をこれだけ書くのは、親御の御教育お察しが出来ますね、女の子はやはり昔の教育の方がよろしゅうございますね、あのハイカラのキイキイ声で、フリートレスとなって、芸術の犠牲たらん事を希望しますという、女優ばかりは惚れちゃァいけませんよ、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……ハテな、瀬をはやみ岩にせかるる滝川のと、私はこういう事はよく分かりませんが、歌の上の句のようで……」
「そうだよ」
「ハテどこかで聞いたような心持ちがするが、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……アアこれは百人首の崇徳院様のお歌ですね」
「そうだよ」
「下の句は何といったっけ、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、われても岩にせかるる滝川のわれても末にあはんどぞ思ふ……弱ったな若旦那、貴君は情けない方だ、破れても末にあはんどぞ思ふ、何もあなたばかりが惚れてんじゃないじゃァありませんか、合い惚れと来ているのに、これを持って寝ている者がありますか、大正五年ですよ[^36]、おとなしいにも程がありますぜ、しかしこのぐあいで見ると、あなたどころじゃァない、この婦人の方がどのぐらい煩ってるか知れませんよ、これは捨て置かれませんや、大きく言えば人類問題だ、人の命にかかわる、今度大門から増上寺をぬけて赤羽へ出る近道が出来たのは神明だな、一体その所はどこで」
「麹町なんだよ」
「麹町、宜しい、何丁目でございます」
「そんなことは知れやァしない」
「オヤオヤオヤ、麹町という町名だけでも十三丁目あるんですよ、物が皮肉だなァ、先きの家の名は」
「そんな事は知れやァしない」
「御商売は」
「そんな事は知れやァしない」
「御本人の名は」
「そんな事は知れやァしない」
「オヤオヤ、麹町というだけで何丁目だか知れない、名前が知れない、商売が知れない、お前はよッぽど気が知れない、知れないづくしだ、しかし当日の模様を伺いましょう、お嬢さん一人じゃありますまい、……親父さんが、付いて乳母(ばあや)と小僧を連れて、なるほどさては商人の大家に違いない、ようございます、私がキット探し当てて御覧に入れますが、今日から三日間御猶予を願います、三日のうちに私が首尾よく尋ね当てたらばですねえ若旦那、私に御褒美を下さい、御礼は親父さんから頂きますがあなたからもコンミッション[^36]を下さいましょうな、下さるとしたらいつか召していらした本琉球の下着を襲(かさ)ねて古渡り唐桟[^37]の胡麻柄の、あんな良いのはモウありませんからね、あの召し物をソックリ下さいな」
「いいともね、あんな物でよければ上げるとも」
「有難いな、そうなると若旦那帯がいりますねえ、あの白木屋でお取りになった本筑前の紺献上[^38]の十八円五十銭のあれを下さいな」
「いいともね、那んな物でよければ……」
「有難いな、そうなると若旦那、羽織がなくちゃァいけません、いつか召していらした、結城紬(つむぎ)の赤大名[^39]、裏に翁格子の甲斐絹(かいき)の[^40]付いている、あの羽織を紐ぐるみ下さいな」
若「いいともね、あんなものでよければあげるよ」
「有難いな、然うなると若旦那、懐中物[^41]が入りますよ、あの丸嘉(まるか)で買っていらした三巻、八円五十銭の、あれを下さいな」
「あんなものでよければあげるともさ」
「有難いな、しかし中が空ッぽうではいけませんが、お金を五十円ばかり入れて頂きたい」
「欲張ってるねえこの人は」
「ヘエマァ宜しゅうございます、三日の間にキッと探し当てて参ります」

 と約束をして、扇子を懐中いたし、そのまま飛び出したが雲を掴むような尋ね物で、まさか町を一軒一軒聞いて歩く訳にもいきません、いろいろ考えてこういう事は得て、湯屋髪結床の噂になるものだから、これを調べてみようと、翌朝は小早く起きて麹町の湯屋と髪結床をジッと歩いて様子を探っていたが分かりません、いよいよ三日目、約束の期限だから、夜の明けるのを待ち兼ねて、麹町へ来て、湯屋へ飛び込み、髪結床へ入り、また湯屋髪結床を掛け持ちを致し、この間に湯に入ること百八十度(たび)、髪結床へ行くこと六十九度、のぼせ上って眼も何も血走ってしまい、魂の抜けがら同様、往来をフワフワ飛んで歩いている。

「今日は」
「ヘイ」
「こちらは床屋さんですな」
「またおいでなさったな、どうも珍しい方だ、今日これで十四五度おいでなさった、サァすぐにようございます」
「モシモシ親方待って下さいよ、髯(ひげ)を剃るだけの鳥目[^42]を置きますから、どうか助けると思って、体へ触らずに置いて下さいな」
「どうも商売だからただ代を頂く訳には行きません、ちょいとでも剃刀を当てますよ」
「オヤオヤ」
「何しろあなた、どうもちっと危のうございますよ、日の暮れ方は表がゴタゴタしているから、少しここで休んでお出でなさい、三十分ばかり気をおちつけてお帰んなすったらようございましょう、丁度今店が空いてますから、奴(やっこ)奴、奥へ行ってな、褞袍(どてら)と枕を持って来て上げな……サァ少しおやすみなさい、其の褞袍をフワリとかけてあげろ、オオ奴々この頃は世間が大分物騒で、いろいろ捜し物があるんだ、警察の旦那かも知れねえから、あんまり無闇のことをここでしゃべんなさんな、かかりあいになるといけねえから、オイオイ頭々、素通りはいけないよ、お寄んなさいな、どうしました頭」
「どうもすまねえ、ナニ別にどうした訳じゃァねえけれども、何しろ取り込みがあって来られねえんだ」
「恐ろしくまた髪を延ばして、そんなに忙しいのかね」
「ナニ自分の事じゃァねえが、お店に取り込みが出来たんで、病人なんだが今日か明日かという病人は幾らもあるが、モウ今か今かというんで、親御を初め親類方が枕許に揃って息を引き取るのを待っているという大病人なんで」
「へエー、お店にそんな病人があるたァちっとも知らなかった、どなたなんで……」
「お嬢さんだよ」
「頭、串戯(じょうだん)いっちやァいけない、あんな美(い)い娘(こ)が煩らうものかね」
「ふざけちゃいけない、美いったって醜(わる)いったって、煩らうよ」
「そうかねえ、ずうずうしいもんだねえ」
「何がずうずうしいんだ」
「全体病気は何なんで……」
「病気の質(たち)が分からねえんだ」
「ヘエ」
「金に糸目は付けねえで、名医という名医に残らず診て貰ったが、どうしても分からねえ、加持に祈祷と手を尽しても効験(ききめ)がねえんで、可哀想におふくろさんは自分の寿命をを縮めても、モウ一遍娘を助けてやりたいと、目を泣きはらしているんだ」
「成程」
「ところが今になつて漸々(ようよう)手掛りがあったんだ」
「ヘエ」
「間抜けの乳母(ばあや)ァじゃァねえか、実は何なんだそうだ、お嬢さんが死んでも言っちゃァいけないと、口留めをされてたんだそうだが、内所で言やァいいものを、正直に黙っていたんで、かえって悪かったんだ、罪もねえが間抜けじゃァねえか」
「成程」
「ようやくその乳母ァの口から洩れたのでお嬢さんの病気が恋煩いと知れた」
「ヘエー恋煩い、やはり相手は男で」
「あたりめえだ」
「ヘエーそうですかね」
「世の中にはいい月日の下で生まれた奴があるもんだ、麹町の今小町[^43]という評判の娘さんに死ぬ程惚れられるというなァ」
「そうですねえ、相手はどこの何という野郎で……」
「それが分かりゃァ心配ねえが肝腎の相手が分からねえんだ」
「オイ頭、お店のお嬢さんは私を見た事があるかね」
「なぜ」
「私に恋煩いをしているんじゃァねえか」
「ふざけちゃァいけねえ、商売物|しょうべえもん}の鏡を見ねえな、しかし微かな証拠があるんだ」
「ヘエー」
「上野へこの春花見に往った時に、お嬢さんが見そめて自分の持っていた金地銀地の黒骨の女持ちの京扇子へ紅筆で、歌の上の句だけを書いてむこうへ渡した、その男がどこの誰という者だか分からねえ、何でもその扇子を持っている当人を探し出せばお嬢さんの命が助かるんだから、東京中は愚かの事、日本中でも世界中でも手を分けて探せというんだ」
「オイオイ頭々、そんな遠くまで往かないでもいいよ、その扇子ならここにあるここにある、……モシ若旦那ァ、知れましたよ、アア有難い有難い、モウこうなれば琉球の下着に古渡り唐桟、本筑前献上の帯、結城紬の羽織に三巻の紙入れ、お金が五十円……オイオイ頭々、お前が捜してるのはこれだよ、金地銀地の黒骨の京扇子、しかも紅筆で書いてあるよ、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……下の句が、われても末にあはんぞ思ふ、アノモウ目が見えぬ」
「何にをいやァがる狂人(きちげえ)め、ここを放せ」
「ウーン放すんじゃァねえ、合わせて貰うんだ」

[^23]: 丸一 ……太神楽曲芸の一門、丸一仙翁社中のこと。
[^24]: お召縮緬 ……強撚糸を用いた波をうつような細かい皺(しぼ)が特徴の縮緬の最高級品。十六世紀後半に中国の織物職人が堺を訪れ、その生産技術を伝えたとされる。徳川家斉が好んで愛用したことから、徳川家の御召料として用いられた。
[^25]: 見切り物 ……値下げ品のこと。
[^26]: 盲縞 ……紺無地の綿織物。縞目が分からないぐらい縞が細いため、盲縞と呼ばれた。
[^27]: 割前 ……割前勘定。割勘のこと。
[^28]: 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……われても末にあはんぞ思ふ ……「岩にせき止められ、二つに分かれた川の急流がまた合流して一つになるように、私たちの関係もきっと後に結ばれるものと思います」という意味の崇徳院(一一一九―一一六四)作の和歌。
[^29]: 華燭の典 ……華やかな結婚式のこと。
[^30]: 腸加答兒 ……腸カタル。粘液の流出を伴う腸炎のこと。
[^31]: 雪隠 ……せっちん。便所のこと。
[^32]: おさんどん ……女中のこと。
[^33]: 瞽女 ……三味線を携え、全国各地を唄い歩く盲目の女性旅芸人のこと。盲御前(めくらごぜん)とも言われた。
[^34]: 日支交渉よりは余程早うございますが ……第一次世界大戦のさなか日本政府と中華民国政府との間で外交交渉が行われたが、政府の予想に反し、交渉は難航を極めた。
[^35]: 焼野の雉子夜の鶴 ……住み処のある野を焼かれた雉子(きじ)が子を救おうとする姿、また、寒い夜に鶴は自らの羽根で子を暖める姿から、親の情の深さを強調するときに使う表現。
[^36]: コンミッション ……コミッション、手数料のこと。
[^37]: 唐桟 ……インドのサントメからもたらされた渡来品の縞織物、唐桟留(とうざんどめ)のこと。
[^38]: **本筑前の紺献上** ……博多織の伝統的な模様の帯で、筑前福岡藩初代藩主の黒田長政が徳川将軍家に献上したことで知られた。
[^39]: 結城紬の赤大名 ……結城地方を主産地とする細かい縞が特徴の最高級絹織物。
[^40]: 翁格子の甲斐絹 ……翁格子は、太い線と細い線を格子状に交錯させた柄を指す。太い線が翁を表し、細い線が孫を表しているとされる。また、甲斐絹(かいき)とは、南蛮貿易でもたらされた絹で作られた織物で、甲斐を主産地とした。
[^41]: 懐中物 ……懐に入れて使う財布や紙入れなどのこと。
[^42]: 鳥目 ……金銭のこと。和同開珎や富本銭など、円形で中央に正方形の穴を開けた古銭の形状が鳥の目に似ていたことから。
[^43]: 今小町 ……今の時代の小野小町だと思わせるような美人を指して言う表現。

京見物

 旅は憂いもの辛いものとか言いますが、可愛い子には旅をさせろ、百聞は一見にしかずで、このくらい結構なものはございません、しかし昔の人は、歌人は居ながらにして名所を知るなんといって知らずに居たものですが、この頃は学校の夏期休暇を利用して、学生さん方が修学旅行なんというわけでげすが、鉄道院[^44]の方でも団体を歓迎して、どこそこの遊覧だの、あるいは参拝だのと、随分お安く行けるようになりました、申すまでもなく交通機関が発達をしておりますから、マァどこへ行くにも足を使わずに参られます、世界中五十幾日間で一周が出来るなんという、従って人間も段々増長して参りまするので、イギリス、フランス、アメリカなどは、モウ隣りへ往くように思っております。 

「花ちゃん、どこへいらっしゃるの、手拭いをさげて」
「ハア、チョイト、ニウヨークまで……」

 お湯に往くのになんぼ入浴でも紐育(ニウヨーク)までは往かれません、デ、便利には弊害というものが免がれぬとか言いまするが、文明と危険とは伴って進行するという、つまらない物が伴ってくれます、汽車汽船はいうに及ばず、すべて速い物には間違いが出来るもので、マァ飛行機なども世界中で千人たらずも死んでいるそうでございます、自動車なんというものは、乗っていらっしゃる方は愉快か知れませんが、徒歩の人にはあんまり嬉しくない、風が吹けば盛んに埃を浴びせて往きまするし、雨が降っていれば、遠慮なく泥をはねかして往く、ある人が、あれは、はねかし自動車だろう、なんと言いましたが、まったくそう思われます、電車というものが、一方では人を運搬して、一方では事故をするようなもので、新聞などを見ると、毎日電車事故が絶えた事がございません、とりわけて間違いの出来易いのが、飛び乗り飛び降りというやつで、あれはどう考えてもお止しなさる方がよろしいようで、随分知名の方がそれが為めに命を落しています、命がけで飛び降りる必要はございません、もっとも本人もそんな間違いをするつもりで飛び降りるのもありますまいけれども、車掌君もそれぞれ注意をします、何も好んでけが人をこしらえたくはないので、

車掌「モシモシあなた、飛び降りはお危のうございます、モウすぐ止まります、停留所は直きそこです」
「知ってらァい間抜けめ、何をいやァがるんだ、初めて電車へ乗るんじゃねえや、日のうちに五度も十度も乗る江戸ッ子だ、余計な事をいうな、初めて飛び降りるんじゃねえや……」

 大変啖呵(たんか)を切った人がありましたが、そこまでは至極よかったんですが、手を放して、ポンと降りるはずみにひっくりかえった。

「アッ言わないことじゃない、引ッ繰り返った」
「何を言やァがるんだい、初めて引ッ繰り返るんじゃねえや……」

 随分負け惜しみの強い人があります。
 江戸ッ子が三人、どうも汽車や汽船に乗るのはおかしくないから、膝栗毛の向こうを張って京大阪の見物をしよう、無尽[^45]でとった二百円の金を、遺い果たして二分も残さんというので、テクテク歩きののんき連中、日を重ねて京都の街へ入りましたが、江戸ッ子先生、あんまり口ほどに足は達者じゃございません。

「半ちゃん半ちゃん」
「エエ」
「シッカリ歩きなよ」
「ハハハ、ウッカリ歩いてらァな」
「ウッカリじゃねえよ、シッカリ歩けというんだよ、なぜ足を引き摺るんだよ」
「なぜ引き摺るったって仕様がねえじゃねえか、俺が引き摺ろうと思ってるわけじゃねえんだ、足の方で勝手に引き摺っているんだ」
「何を言やァがるんだ、みっともねえよ」
「みっともねえったって仕様がねえじゃねえか、足へ*マメ*を踏み出しちまったよ」
「鈍智(どじ)だな、マメなんぞ踏み潰しちまえよ」
「オッ、冗談いうない{他|ひと}のマメだと思って粗末にするな、大きなマメだぞ」
「大きなマメなら皮を剥いて食っちまえ」
「ふざけるな、富貴(ふっき)豆じゃねえや、自分の足へ出来たマメだから、我が子も同様だ」
「何をいやァがるんだ、御覧よ、むこうから来る人がおめえの姿(なり)を見て笑ってらァ」
「そりゃ笑うだろうよ、自分で考えたっておかしいくらいなもんだ、いわんや赤の他人に於いてをや」
「馬鹿ッ笑われて喜んでやがる、仮にも江戸ッ子じゃねえか、知らねえ土地へ来たんだ、威張ってやれ威張ってやれ、エエ、贅六(ぜいろく)[^46]笑われちゃァ気がきかねえや、文句を言ってやれ」
「言ってやれッたって仕様がねえや、むこうはむこうで勝手に笑ってるんだ、あえて人の自由を束縛するわけに行かねえと……」
「変な事をいうない、怒ってやれ怒ってやれ」
「怒れねえよ」
「怒れねえじゃねえ、怒ってやれ怒ってやれ」
「よし、サァ怒るぞ……」
「断わるには及ばねえや」
「ハハハ、ドーレそろそろ怒ろうかい」
「馬鹿ッ、威勢よく怒れ」
「怒った怒った、大変に怒ってるぞ、サァこの野郎、なんで笑ってやァがる……アハハハ、こいつは愛嬌者だ」
「愛嬌者じゃねえや、お前のなりがおかしいから笑うんだよ」
「アア成程、言われて見ればもっともだ」
「感心するんじゃねえや」
「分ったよ、文句をいうなよ……ヤイ贅六めコン畜生怒ってるぞ、大変に怒ってるぞ、そんなに親切に笑うな」
「世の中に親切に笑う奴があるかい」
「アアそうだ……そんなに足を引き摺るな……」
「お前のほうが引き摺ってるんだ」
「アアそうそう、間違っていた、失敬ィ……」
「謝まる奴があるかい、威勢よく文句をいうんだよ」
「いうよ」
「言って貰いてえや」
「何だぞ篦棒め、こう見えたって江戸ッ子だぞ」
「うめえうめえ」
「てめえ達に笑われて堪るもんか、けれどもこっちがおかしいんだからな……」
「アレッ、だんだん悪くしちまやがる」
「オイオイ文(ぶん)ちゃん文ちゃん逃げて行こうか」
「何を、今更どうにも仕様がねえや、こいつを一人置いて行く訳にもいかねえ……だからさ、こんなどじな兄弟分を持ったのが因果と諦めらちまいねえ……こりゃモウ京都の街だよ」
「何だ何だ、これが京都の街か」
「ウム、京都へ入れば嬉しい事があるんだ」
「ヘェー、何んかくれるかい」
「欲張った事を言いなさんな、別に何んにもくれるわけじゃないが、京都は昔から女の名物だ」
「エエ」
「女が沢山いるんだよ」
「アアそうか、そりゃァありがてえ……」
「馬鹿、地べたへ座るな、 膝の泥でも払いな」
×「東男に京女というが、こっちは女の本場だな」
「ヨーヨー占めたな、東男に京女、忘れちゃァ先祖の助六にすまねえや、東男というから男は東がいいんだ、知らねえかい」
「何にを威張ってやがるんだ、ハハハ、ソロソロ京女に出っくわしてえんだろう」
「ウム、早く出くわして、東男を見せてやりてえな」
「オイオイ来た来た、噂をすれば何とかだ、むこうから京女が来やァがった」
「来た……オヤオイ汚ねえ京女が来やがったな、オイオイ、あれは何かい、京女かい」
「どうか分からねえや」
「そうか……オイオイ、待ちねえ、聞いてみよう」
×「オイおよしよ、むこうは女が一人じゃねえか、こっちは男が三人だ、きまりを悪がらァ」
「何を言やァがるんだい、旅の恥はかき捨てだ、余計な事をいうな……ヘイ姐さんこんちは、少し物をお聞き申しますが」
「ハァ、何どすえ……」
「アア胆を潰した、有難うござんす、モウようございます」
「何で呼びとめたんだ」
「モウ用がすんじまった、ハァ何どすえといったぜ……ハハハ、しかし随分汚ねえ、京女だな」
「そりゃ仕方がねえや、大方下積みだろう」
「ありゃ下積みかい、心細いねどうも、いの一番から下積みにお目に掛かったのは嫌になっちまうな、デ何かい、どうして京都は女がいいときまってるんだい、同じ日本の内でありながら」
「そりゃァ京都は水が良いんだよ、加茂川晒しということをいう、日本で一等水の良いところだ」
「何をいやァがるんだい篦棒め、京都の水は良いか知らねえが、東京にだって良い水が沢山あるぞ、こちとらァ玉川浄水の水道の水で産湯を使ったんだ、何をぬかしやァがる篦棒め、嫌に手前は京都の肩を持ちやァがって、察するところ手前は京探(きょうたん)だな、国賊野郎め」
「何を言やァがるんだ、何が京探だ」
「京都の肩を持つから京探だ、そういえば手前の面はキョウタン面だ」
「馬鹿だなこいつは、土地によって得手得手があるんだよ、水壬生菜(みぶな)女染物針扇お寺豆腐に鰻(うなぎ)松茸(まつたけ)といってな、日本中で京都は水が一番良いんだよ」
「ハハアそうかね、そんなに水が良いならば、男も女も奇麗になりそうなもんじゃねえか、それをどういう訳で女だけ奇麗にするんだ、面白くもねえ、サァ加茂川の水という奴めふざけるな、ヤイ加茂川の畜生め、サァ加茂川俺が相手になる、加茂川と談判しよう」
「馬鹿ッ、大きな声をするな、嫌でも応でも三條通りへ出れば加茂川に出会すんだ、どこも同じ事だが女というものは男と違って、湯にも長く入って洗うだろう、それで男と女で奇麗さが違うんだ」
△「そりゃァマァそうだね、どうだい、そう事がきまったら、湯に入ろうじゃねえか、エエ一つ 東男の磨き立てを京女に御覧に入れようじゃねえかいどうだい」
「ハハハ、京女も大体肝を潰すだろう汚ねえんで……」
×「時間も丁度いいや、湯に入れば、宿屋へ着くのに日の暮れになるからな」
「俺も入りてえが、一体湯屋はどこだな」
×「湯屋はどこだか分からねえが、聞きゃいいじゃねえか、江戸ッ子は肝心の場合に口が足りねえから分からねえんだ……ソレむこうからおかみさんが来たから聞いてみや」
「おかみさん……」
「おかみさんじゃ分からねえ」
「何というんだ」
「こっちじゃ、お家はんというんだ」
「ハハァ、あれァおいえさんというのか、名前じゃねえやな」
「おかみさんのことをお家さんというんだよ、所変れば品代る、称え方が違うんだよ、娘のことはいとはんよ、息子はボンチ、男はボンボンというんだ」
「ヘェー、男のボンボンなざァ振るってるな、男がボンボンなら、女はドロップか」
「何をいやァがるんだ、小僧が丁稚(でっち)というんだよ」
「小僧の丁稚は分かってらァ丁稚の長松なんてえからな、番頭は何てえんだ」
「ウム、番頭は……バーントウーてえんだろう」
「何をいってるんだい、節を付けるない……エエお家はんだな」
「そうだよ」
「今日は、モシ、少々物を伺いますが」
「ハァー、なんどすえ」
「オッ、また来た、エエ少々伺いますが、この辺に湯屋はございませんかね」
「ハァ湯屋とはどないなものどすえ」
「ヘェー、そりゃマァ御立腹はごもっともですが」
「謝まってらァ、馬鹿だな、謝まるには及ばねえじゃねえか、湯屋が分からねえんだよ」
「オイオイ心細いね、京都もやはり日本のうちかい」
「何をいってやがるんだ、湯屋のわけをよく説明してやんねえ」
「心細いなどうも……モシおかみさん、じゃなかったお家はん、こっちは水がようございますね、それを桶へためて火を燃やすと煙が出ますね、それからお湯になりますね、そこへお銭(あし)を払ってね、着物を脱いで裸になって、ほうぼう洗って、いい心持ちになってまた体を手拭でふいて、着物を着て帰って来ようというので、そんな家はこちらにはございませんかね」
「ホホ、何いうてやはる、そりゃあんたがた風呂屋どすがなァ、湯屋というては分からン」
「左様か」
「馬鹿、物を聞いて真似をする奴があるかい」
「真似をしたわけじゃねえや、ウッカリ釣り込まれちまったんだ、むこうで分からンというから、左様かといいたくなるじゃねえか……ハハァ成程、風呂屋でございますか、風呂屋がほんとうでございますね、蒸し風呂、据え風呂、塩風呂、いろいろ言いますからね、その風呂屋はお家はんどちらでございますか」
「サ、風呂屋なら西へ行きやはって、みんなみに行きやはって、石垣先斗町(ぽんとちょう)[^47]二軒目の角どすえ」
「オッ、大変だ、逃げろ逃げろ」
「何だ何だ」
「石垣から泥亀(すっぽん)が出て天上するとよ、喰い付かれるといけねえから逃げろ逃げろ」
「馬鹿ッ、てめえのいうことは全然違ってらァ間抜けめ、泥亀なんぞが出るかい、石垣の先斗町といったんじゃねえか、土地の名だよ」
「アアそうか、泥亀じゃねえのか、ハハハハ、大笑いだ」
「馬鹿、あわてるない」
「皆んな安心しねえ、土地の名なら喰い付かねえや」
「あたりめえだ、湯屋はどうするんだよ」
「今分からァ……ァァ先方から今度は本当の京女が来た、どうだいこいつは丸髷だ、二十五六かね、透き通るようだね、成程、奇麗だこりゃァどうもいいおかみさんだな……エエ今日は、モシお家はん少々物をお聞き申しますがね」
「ハァ、何どすえ」
「オ、また来た、これで三度目だ……大丈夫だよ……お家はん、あなたは、ハハハ、大層お美しゅうございますね、モウお髪のぐあいでは定めし御亭主さんがあるんでござんしょう」
「余計な事をいうな、真赤になって横町へ飛び込んじまったじゃねえか、どうするんだ、ひやかすなよ」
「アハハ、アノいい女だ」
「何をいってるんだ、湯屋はどうするんだ」
「待っておいでよ、日も永いから、そんなに急くには及ばねえや……ヘイ今日は、モシおじさん、少し物をお聞き申しますがね」
「ハァ何どす」
「太い声だな、エエこの辺に湯屋はありませんかよ」
「アア、かな、なら向こうの八百屋におんしょ」
「八百屋……オオ顔を貸してくれ、物が分からなくなって来た、湯なら八百屋にあるとよ、八百屋に湯があるてえのは聞いたことがねえやい」
×「あるともあるとも、どこだったっけな、道中で焼芋屋でお湯屋の家があったじゃねえか」
「アア成程、してみりゃァ八百屋に湯がねえとは限らねえ、表が八百屋で奥が湯屋か何かだろう」
「そうか……ヘイヘイ、どうも相すみません、有難うございました、向こうの八百屋といってたな……ここだここだ、オオみんな、入んねえ安心をして、ここに違えねえ、婆さんが後ろ向きで奥の方に仕事をしてらァ、これもやッぱり、京女だろうな」
×「そうよ」
「やッぱり京女でも婆ァになりゃ汚ねえや」
×「あたりめえよ、何をいってるんだ」
「お婆さん今日は、御無沙汰……」
「何をいってやァがるんだえ、生まれて初めて来て御無沙汰ってえことがあるかえ」
「いいよ、生まれて以来御無沙汰じゃァねえか、余計なことをいうない……お婆さん家には湯がありますかね」
「ハハハかなァ、ゥならおんまァすゥ」
「オイオイ、ゆうならおんますとさ、上方者は言いようがやさしいってえが、全くそうだな、おの字をつけて言やァがるぜ、丁寧に……」
×「そうじゃねえや、ここの家におますさんてえ娘がいるんだよ、大きくなったかどうだか聞いてみや」
「そうか……お婆さんおますさんは大きくなったかえ」
「ハァ……」
×「違ってらァ馬鹿、余計なことをいうな、きまりが悪いじゃねえか」
「てめえがそんなことを知ってるわけがねえと思ったんだ……婆さんオオ、お婆さん、アノ湯はどこですね」
「九十に五十に三十だがなァ」
「ヘェー、上中下と分かっているのかえ、シミタレな京都には似合わねえ贅沢だなァ、三人とも江戸ッ子だよ、みんな上等の九十に限るんだ」
「アア左様か、今それへ出します」
「オイオイ、大変だぜ、今それへ出しますとよ、ここんところへ湯がプタプタ出て来るわけじゃなかろうな」
「何をいってやがるんだえ、考えて御覧よ、九十といやァ贅沢じゃねえや、なんぼ安いところでも、道中で一番湯の安かったのが浜松の一銭だ、夫れに比べたって安いもんだ[^48]、贅沢は言えねえや、蒸風呂か据風呂をここへ車仕掛で押し出すってえんだ」
「オヤオヤ、そいつは珍らしいな……マァ入り直しゃァいいんだ……婆さん早くしておくれ江戸ッ子は気が短えんだから、サァサァ裸になんな裸に……エエ、何を……どうせ裸になるんじゃねえか、モウちっとこっちへ入ってよ、そこにある野菜物の籠を借りるんだ、その中へ着物を入れるように出来てるんだろう」
×「ヘェー、万事旨く出来てるな」
「サァサァ裸になれ裸になれ婆さん、湯はどこだね」
「ホウ、あんたがた……」
「何をガタガタだ何がガタガタなんだい」
「あなたがた、阿呆らしい」
「何をいやがるんでえ、こっちが阿呆らしいやい篦棒め、湯てえなどこなんだよ」
「あなたがた、今というたら、これじゃがなァ……」
「オヤ……オイオイ、大変な事が出来たよ、をつまんで持って来たぜ……こりゃ柚子(ゆず)だ、ふざけちゃいけねえぜ本当に、湯じゃねえや馬鹿馬鹿しい、婆さん、三人とも裸になっちまっているんだよ、こちとらは湯の中へ入って温まろうってえんだ」
「ホウ、あなたがた、この中へ入るか」
「冗談いうない、拳固も入りやしねえや、仕方がねえ、着物を着ろい着物を着ろい、俺達のいうのはな、着物を脱いで裸になって、中へ入って温まってよ、体をほうぼう洗って、それから出ようてえんだ」
「ハハハ、身体洗うて垢をとるんなら、そりゃあなたがた、風呂屋どすえな、湯も風呂も分からんというたら、関東のヘゲタレ[^49]や……」
「オヤオヤ、馬鹿にしやァがるない、關東のヘゲタレまで聞きゃァ世話はねえや……」

 よんどころなく柚子を買って宿屋へ着きました、毎日毎日こんな問違いだらけ、滑稽づくしで道中をする、しかし江戸ッ子はどこまでも負け惜みが強うございますから、分からない事や癪に障る事は無闇に理屈をいっている、京都の名所古蹟を片ッ端からけなして歩く、けなすどころじゃありません、京都ぐらいいいところはない、東は円山祇園清水智恩院、金閣寺銀閣寺、嵐山、洛中洛外どこへ行っても結構だらけでげす、それを悪口(あっこう)をいって歩くといふようなわけで、大阪三郷へ行きましてもその通り、ポンポンポンポンといって歩く、案内の者も癪に障るから、今日は一ッ江戸ッ子三人を驚かしてやろうというんで、堺へ連れて参りました。

案内者「サァサァモシひんがしのお方こっちゃへどすえこっちゃへどすえ」
「オオみんな、こっちだとよ」
「どこだどこだ」
×「オオみんな聞いたか、今日はな、この人がこちとら三人を驚かしてやろうてえんだ」
「驚かして貰おうじゃねえか、こっちへ来てからまるで驚いた事がねえんだからな……オオ番頭どん」
「ハァ、サァサァ此所どすえ、這入ったり這入ったり」
「何だえその驚かしてやるてえのは」
「サァ、あなたがたこりゃどうです、えらいもんですやろ、いくら関東のお方がえらそうにポンポン言やはったかて、こないなものはおまへんやろな」
×「オオ、こりゃ驚いたなどうも、見ろ見ろ、どうだい、でけえもんだなこりゃ」
「アハハハ大層なもんだなどうも」
「豪気なもんだなこりゃァ」
×「結構なもんだね」
「エエ、驚いたね……」
「どうどすえ」
「そりゃ全く驚いたどうも、オイ番頭さん、だがこりゃ何だい」
「何って、こりゃあなたがた、有名な堺の妙国寺の蘇鉄(そてつ)[^50]どすがな」
△「蘇鉄……そんなら驚きゃしねえや、おらァまた山葵(わさび)かと思った……」

[^44]: 鉄道院 ……明治三九年(一九〇六年)の鉄道国有化後、第二次桂太郎内閣発足の明治四一年に内閣の直属機関として設置、国鉄運営の監督を担った。
[^45]: 無尽 ……庶民が自発的に資金を拠出し合って積み立てを行い、抽選などによって給付を行う相互扶助を目的とする金融手法。頼母子講(たのもしこう)ともいう。
[^46]: 贅六 …………江戸っ子が上方の人をののしっていう言い方。
[^47]: 石垣先斗町 …………祇園に並ぶ京都の代表的な花街。天正年間(一六世紀後半)にこの付近に南蛮寺が存在したことから、町名の先斗(ぽんと)は、「先端」を表すポルトガル語の「ponta」に由来するとされる。
[^48]: 一番湯の安かったのが浜松の一銭だ …………つばめの口演が行われた大正四~五年頃の東京の公衆浴場料金は四銭前後。「九十といやァ贅沢じゃねえや」の九十は「九十厘」のこととみられる。
[^49]: ヘゲタレ ……人のことをののしって言う京ことば。馬鹿野郎のこと。「へげる」は「折れる」「つぶれる」の意。
[^50]: 堺の妙国寺の蘇鉄 ……永禄五年(一五六二年)に建立された妙国寺の本堂奥にある大蘇鉄は、大正一三年に国の天然記念物に指定された。

高砂や

 エエ相変らず我々どものような人物を引き合いにいだします落語(おはなし)で、ガラッ熊にガラッ八と申すのですから、余り結構な動物ではありません、只今はそんな人物はありますまいが、その昔は、職人の中なぞには己れのなまえも知らないというような輩があったと言います。 

「エエ少々物を伺いますがな、この辺に大工の喜三郎さんてえのはございませんかね」
「何を、大工の喜三郎……聞いたはねえね、違やァしねえかえ」
「エ、確かにこの裏と聞いて参ったんでございますが」
「大工の喜三郎と……待ちな待ちな、今聞いてみてやるから、隣が大工だからな……オイオイ喜三(きさ)ッペイ喜三ッペイ」
喜三郎「オーイ」
「何か、大工の喜三郎てえのはねえかな」
「大工の喜三郎……聞いたことはねえね、待ちなよ、大工の喜三郎と……アア俺だ」 

 ようやく思い出しました。 

「アア驚いたな、民(たみ)さんじゃないか」
「ヘイ、民さんでございます、アア肝を潰した」
「お前より私の方がよッぽど驚いたよ、何だえだしぬけに人の家へ飛び込んで」
「ナーニ、お前さん、今入ろうとするとね、角の家に大きな犬が寝てやァがったんで、慄(ふる)え上がっちまったんだ」
「ふざけちゃいけねえよ、お前が犬を見て怖がる方かえ、犬の方でお前を見て恐がりそうだ」
「それがね、どうも私は犬てえ奴は、虫が好かねえもんですからね」
「マァこっちへおいでよ、何か御用かえ」
「そりゃあたりめえでござんさァね、この忙しいのに、用がなくって来るわけがございませんよ」
「喧嘩腰だね、何だえその用てえのは」
「だからその用なんでござんす」
「何の御用なんだよ」
「何の御用ッたってすぐに分かりそうなもんじゃござんせんか」
「私には分からないね」
「私にも分からねえ……」
「何だ、どうしたんだえ」
「待っておくんなさいよ……アアそうでございます、私はね、お前さんとこへ用があって来たってえ事ことね、今考えて見たところがね、モウ用を忘れてたということを今思い出したんでございます」
「手数のかかる人だねどうも、どうすればいいんだえ」
「だからその用をお前さん考えてみてくんねえな」
「お前の用が私に分かる道理がないじゃないか」
「それがその、私にも分からないんでございます、忘れちまったんでござんすからね」
「ハハア、自分で自分の用を忘れるというのは随分お前さんはそそっかしい人間だね」
「エエ、そりゃモウね、あたりめえで、お前さんに言われるまでのことはねえんでございます、エエ世の中にね、私ぐらいそそっかしい奴はなかろうとこう思ってるんで、そこだけは自分から安心をしていますんでござんす」
「そんなことを安心をする奴があるかい」
「聞いておくんなせえ、マァこの間なんぞ自分で呆れちまったんですがね、エエ、ナニお前さん、葉書をね、山下の郵便箱まで入れに行ったんでござんす、するとお前さん、郵便箱がアニイオイデーとこういうじゃございませんか、私も不思議だと思ったんだ、さては郵便箱が化けたのかと思ってね、瞳を定めてよく見ると、ボストじゃなかったんでございます、東京見物の百姓がね、赤毛布(あかげっとう)[^51]を着て突立ってあくびをしていたんだ、その口の中へ私しが葉書を押し込もうとしたんだからね」
「ふざけちゃいけないよ、なんぼそそっかしいったって、人間と郵便箱と間違いる奴があるかえ」
「それが全くなんでございます、そのぐらいそそっかしいんだからね、自分で自分の用を忘れるなんというのは、こりゃマァあたりめえでござんすね」
「そんなことを威張ってる奴があるかい、マァしかし、人間というものは、どんな頭のしっかりした人でも、たまには胴忘れ[^52]ということはありますからね、何かマァ浮世話をしているうちには思い出せることもあらうよ」
「アッ、思い出した……」
「また脅かすかい、忘れるのも早いが、思い出すのも安直でいいね、何だいその改めて用ッてえのは」
「ことは突飛ですがお前さん、私の用を聞いて笑っちゃいけませんよ」
「そりゃァどうも困ったね、ひとの話を聞いて無闇に笑うというのは失礼だが、私も活きてる人間だからね、喜怒哀楽の情という奴がある、哀しければ泣きもするし、腹が立ては怒りもする、またおかしければ、その時は笑うね」
「それがね、お前さんも知ってる通りだがね、私はモウ生まれつき気が早いんだからね、もしお前さんが私の用を聞いて笑うというと、だしぬけに向う臑(ずね)を掻(か)ッ払うよ……」
「険呑(けんのん)だなァこりゃァ、そんな危ねえのは御免を蒙ろうよ」
「マァ御免を蒙らずに聞いておくんなせえ、おかしいじゃございませんか、私はこんどある所の仲人(ちゅうにん)を受け合っちまったんですがね」
「ハハァ、またどっかに喧嘩でもあったのかい」
「喧嘩じゃァねえやね、婚礼の仲人だァね」
「婚礼を仲人(ちゅうにん)という奴があるかい、文字に書いては同じだがね、あれは仲人(なこうど)というんだ、堅ッ苦しく言えば媒妁人、結構じゃないか、ねえ、お前の体に信用があるから媒妁人(なこうど)の一ッも頼まれるんだ、よく昔から言う、人間は一生に三度媒妁人をすれば前世の罪障(つみ)が滅しるなんということをいうじゃないか」
「エエ、そりゃァモウね、私も聞いて知ってるんでござんす、人間は一生に一遍ずつは媒妁人と湯灌(ゆかん)[^53]なんざァするもんだってねえ」
「湯灌と一緒にする奴があるかえ」
「だけれどもさ、マァ、功徳になりましょう」
「湯灌の方は功徳といってもいいが、媒妁人を功徳というのはおかしい、どこの婚礼だい、長屋うちかえ」
「ナニ、そうじゃありません、伊勢屋でござんすよ」
「ハハァ、伊勢屋さんというと何かえ、アノ莨(たばこ)や何か売っている……」
「違いますよ、酒屋の伊勢屋でござんす、お前さん知らないかい」
「知らないどころじやない、この辺で伊勢屋といえば大尽だ、こりゃ少しおかしいねことが、あんな身代の家だよ、定めし相当につきあってる人もあれば、また立派な親類の家もあるだろうに、お前さんは出入りの魚屋さんじゃないかい、身分が違うね、これをお前さんが頼まれるてえのは、何か何だね、事故があるね」
「ヘイ、どうもよくありますね、何しろ何だからね、毎日毎日新聞に絶えたことがねえってからね、またよく間違いのあるのが飛び乗り飛び降りでございますね」
「何の話をしているんだい」
「だからその、事故ってえから電車のことでございましょう」
「電車の事故の話じゃないよ、お前が媒妁人を頼まれるというに就いては、何か訳があるだろうというんだ」
「そりゃありますとも、お前さんも知ってましょう、あすこに一人息子でもって伊三郎さんというのがありますが」
「ハハァ、ついぞなまえは聞いたことはないが、大層おとなしい御子息さんだそうだね」
「何だい御規則さんてえのは」
「御規則じゃないよ、男の子だから御子息さ」
「ハハァ成程、女の子なればゴフコクでござんすか」
ゴフコクというのはないよ、その息子さんがどうかなすったのかえ」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、勘当をされちまったんでございますからね」
「ハハァ、さては若気の至りで何かお道楽でもなすったのかえ」
「ウニャ、豈(あに)はからんや」
「豈はからんやとは変な言葉を使うね、お前は何かえ、そのことばの心持ちを知っておいでかえ」
「知らねえんでございます、知らねえッたってお前さん使ってみてえじゃございませんか、失礼ながらね、豈はからんやぐらいこの間からどこかで用いようと思っていたんで、今初めてやってみたんだ……アアいい心持ちだ……」
「何だい、わけも分からねえ癖に、そ様な漢語なんか使う奴があるかい、どうなすったんだい」
「ナニ、若旦那がね、この頃その芸事が流行るてえんでヤレ仲間の宴会だとか、何とかでもってマァお茶屋へ行くてえんだ、てんでに隠し芸の一ッもやる、中には調子ッぱずれの都々逸を唄う奴もある、ドタンバタンとはねる奴もあるてえんだといって流行唄でもあるめえというんでね、横町の師匠のところへ若旦那がね、清元を稽古に行ったんでございますよ、サァお前さん、これが大旦那に知れてね、真赤になって怒っちまったんでございます、けしからんことだてえんだ、商人の忰にあるまじきこと、稽古場通いなぞをしやァがって、店に多勢奉公人も使ってるてえんだ、ねえ、若い者の見せしめにならねえ、店の者だからいけねえ、家の息子だから構わねえというわけにはいかねえというんだ、勘当だッ、というんでございますよ、若旦那はまた人なみ外れておとなしいもんですから、アッというと度を失なったんでござんすねえ、おもてへ飛び出したところが、私にバッタリ出くわしたんで、わけを聞くてえとこれこれしかじかというからね、馬鹿にするないてえんだ、ねえ、芸事の道楽ぐらい結構なことはねえてんだ、今の時世にそんな分からねえことをいやァがって、そんな親父なら勘当をしちまいてえんだ……」
「親を勘当する奴があるかえ」
「勘当が出来なけりゃ売っちまう方がいいてえんだ、あんな頑固な爺は……」
「へェー、爺さんを買うところがあるかえ」
「往来へ来るじゃありませんか、親頑固(おやがんこ)のお払いはござァい……」
「何をいってるんだい」
「マァ兎に角私どもへお出でなさいというんでね、私の家の二階にお世話申していたんでございますがね、その時は……すると私どもの直ぐ向こうに大工の吉五郎てえのがあるんだ、私とはマァチクワの友達なんでございますよ」
「何だえチクワの友達というのは」
「お前さんも分からねえね、子供の時分からの古いなじみなんでございますよ、これ即ちチクワの友よ……」
「みんな違ってる、チクワの友というのはない、子供の時分からの友達で、竹馬に乗って遊んだというので、竹馬(ちくば)の友というんだね」
「アアそうか、何でも私はハンペンかチクワの筋だと思ったんですよ、するとね、そこの娘にお花坊というのがあるんだ、早いもんじゃございませんか、この間まで、ピィピィ泣いてたと思ったらモウ十八の娘盛りでございます、それで近所でも評判者でございます、第一女がいいんだ、人間は悧巧でね、おとなしくって奇麗好きで、朝起きで、働き者で、裁縫(しごと)ができて、芸事ができてさ、その上ならず親孝行だというんだ、また太え事にはお前さん、学問までできるてえんだから、どこまで図々しい女だか分かりませんねえ……」
「言葉の使いどころがみんな違っている、結構な娘さんじゃないか、私もね聞いているよ」
「そのお花坊をね、若旦那が見そめてしまったんです、どうも職人の娘には似合わねえというんだ、褄端(つまはず)れ[^54]から優(しとや)かで、一生に一遍のかみさんだが、どうかしてあのお花さんを貰ってくれまいかとこういうんでございます、エエ、ようがすとも、私が行きゃァモウ何だ、一ッ返事だというんだ……」
「オイオイ、一ッ返事というのは何だい」
「一ッ返事なんで……」
「一ッ返事なんというのはないよ、二ッ返事というのだよ」
「二ッ返事なんというのはいけねえよ、ハイハイとかヘイヘイとかいうんでしょう、癪に障らァね、むこうでハイッと言えば一ッ返事で ござんしょう……」
「ハハァ成程」
「それで私はね、吉五郎のところへ掛け合いに行くというと、この吉てえ野郎が少し人間が悧巧なんでございますからね、そりゃマァどうせ女の事だ、ひとにやるんだ、くれろというのならやらねえわけでもねえけれども、てめえよく物を考えてみろというんだ、若旦那は今勘当中だってことじゃァねえか、ことはクダらなくっても何でも、その最中(さなか)へおかみさんを貰うというなァ穏やかであるまえというんだ、てめえも中へ入っている者だから、若旦那のお詫びをしろというんだ、元の鞘(さや)に納まったらこっちも職人ながら立派に支度をしてやろうとこういうんでござんす、それからマァ私はいろいろ若旦那と相談をしてね、お店の喜兵衛さんに話をしましてね、万事マァ話も届いちまったんだ、大旦那も待ちかねて居るところさ、たちまち事は円(まる)く納まってね、お花坊をいよいよ嫁(かた)づけることになったんだ、ゴッタクッサいってねえで至急でござんすからね、デお前さん今日が婚礼の当日なんだ、どうでえ、めでたいじゃございませんか」
「そりゃァ結構な話だね、聞いてもいい心持ちだ、人間一生に一遍の大礼、早く身が固まればおとっさんおっかさんもご安心ができ、自分も早く楽ができるからね」
「めでとうござんしょう」
「めでたいといっているよ」
「これをもしお前さんがめでたくないという料簡ならば、私はもう生涯お前さんとはつきあわねえから……」
「めでたいといってるじゃァないか」
「マァそんなら勘弁するがね」
「勘弁しなくってもいいよ」
「ところがね、今しがたねお店の小僧さんが迎いに来たのでござんす、行ってみると番頭さんと大旦那がそう言っているんだ、さて民さん、いろいろご苦労様、この度は忰が厄介になったり大骨を折らせたりしてすみません、その御礼やら忰の食いぶちやら上げなくっちゃならないけれども、お前さんも江戸ッ子気性だ、そんなものは取るまいと、番頭とも相談をしましたが、どうせ世話になるついでだから、媒妁人をして貰いたいとこういうんでございます、そうすれば親類にもなれるから、忰も一生涯お前さんにお世話になったことを忘れもしますまい、またもし悪い事があったらばお助け合いもできましょうとこういうんだ、エエ、分からねえもんだね、明日ッから私はあんな大家(たいけ)と親類づきあいになれるんですもの、デお前さん、私はよんどころなく媒妁人を受け合っちまったんだ」
「アア成程、それであらかた様子が分かったよ、つまり何だね、お前さんに運が向いて来たんだね、大家とつきあっていれば悪い事はない、結構なこったよ、めでたいね」
「それがね、お前さんの前だがあんまり結構でないんだ、私はナニ、受け合って来なけりゃよかったんだけれども、うちへ帰って嬶にその話をするというと驚いちまったんだ、民さん冗談じゃねえてえんだ、これが長屋の婚礼とは違うというんだ、さきはこの町内きっての大家、その大きな婚礼の媒妁人が、お前さんに立派に勤まりますかとこう聞かれちまったんだ、私は弱ったね、今更断わる事もできねえじゃございませんか……モウ進退ここに谷(きわ)まっちまったんでござんす」
「進退谷まることはないじゃァないか」
「だけれどもね、どうも弱っちまったんだ、デマァ嬶ァのいうにゃァ、こういう時には横町のデコボコがよかろうというんだ、マァ立派そうな、変にひねくれて嫌な爺だけれど、生意気にそんなことを知ってるからマァ我慢してあいつのところへ行って物を聞いたらよからうと、今日は出掛けてここのうちへ来たんです……」
「誰のことだい横町の凸凹というのは、エエひねくれた爺というのは誰のことだよ」
「アアそうでございますハハハハこんちは……」
「何がこんちはだ、人の前でそんな変なことをいうなよ」
「そうでござんすとも、マァ宜しくねえや……」
「馬鹿にしやァがって、しかしマァそんなことはとがめるほどじゃないがね、お前さんの心配することもないじゃないか、つまり伊勢屋さんの方じゃァお前さんを困らせるというわけではないんだろう、親類にもなろうし、今までの恩返しもしようというのだから、お前さんは心配をする必要はない、その席へ出てればいいんだよ、むこうにはモウ一人ぐらい媒妁人もあります、アアいう大家だから万事行き届いているだろう、ことに依れば礼式の先生という者が指図役に来ているかも知れないからね、お前さんはそんな深いところへは立ち寄るには及ばないが、といって全然知らなくってもいけない、 式の順序ぐらいは心得ていなければ困るね」
「何です式の順序というのは」
「まず三々九度と盃に始まって、床盃に終るというやつだね」
「何だい三々九度の盃というのは」
「これは婚礼に限る盃だ、嫁入りなれば嫁から初まって嫁へ納まる、婿入りなれば婿から初まって婿へ納まる、夫婦に媒妁人、この三人だけが三杯ずつ盃を三度重ねるので三々九度の盃とこういうんだよ」
「アアなるほど、三人が三杯ずつ三度重ねるから三三が九で三々九度でございますね」
「そうさ」
「じゃァもし間違えて四度ずつやればヨイヨイクドかえ……」
「ヨイヨイクドというのはない、それから床盃の済むまでは、媒妁人はなかなか気骨(きぼね)の折れる役廻りだが、そんなところまで立ち廻るにも及ぶまいが、兎も角も媒妁人という名前がついている以上はお前がやらなくっちゃならないものがあるね」
「何でござんす、私がやらなくっちゃならねえというのは」
「御祝儀に謡曲(うたい)というものを唄うがな」
「ハテね、分からねえもんだな、何かえ御祝儀にヌタを食うんでございますか」
「ヌタじゃァない、謡曲を唄うんだよ」
「アア、謡曲か……」
「御存じかえ」
「ウニャ、知らねえ……」
「知らなくって感心した顔をする奴があるか」
「そうそう、時々お前さんが変な声でもって唸ってらァ、まるでこう狼の遠吠えみてえな、あれが謡(うてえ)てえんでございますか、随分まずい声でござんすね、あんな声からやッぱり何だろうペストの黴菌(ばいきん)なんざァ湧くんだろう……」
「冗談いっちゃいけない、人間の声からペストの黴菌なんぞは湧きやしねえ」
「あれは何でござんすかね、面白いもんでございますかね」
「マァ人は知らないが、あのぐらいいいものはないね、ことわざに言はァ、熊野(ゆや)松風に米の飯[^55]なんてえ結構なもんだよ」
「へェーあれは昔流行ってたんでございましょう」
「ところが大違い、今は昔に返って謡曲やら能やら狂言やら芝居やらが、大層はやりますよ」
「そうでござんすかね、じゃァマァこの頃にゆっくり聞かしてくんねえ、デ御就儀ではどんなものをやるんですね」
「御祝儀と来れば大概きまっている、高砂の中のところだ、高砂の尾上(おのえ)の松も年古(ふ)りてという……あすこをやるんだそうだがね、それから後が四海波(かいなみ)、乱酒色直しと来るんだが、世間ついとおり、高砂や、この浦船に帆を上げてという[^56]、待ち唄い、あそこをやるように思っている、あそこは本来がね、お嫁さんの輿(こし)入れの時式台でもって唄ったんだそうだが、文句は通っているしね、大概はお前がやらなくってもすむんだから、そこを教えて上げるがね、断って置くが、本当に私のは形ばっかり、下手の横好きというやつで、あんまり旨くはないんだからね」
「エエエエ、そりゃモウそうでござんしょうけれど……」
「何だえそうでござんしょうとは、人に物を聞くんじゃないか、義理にもいうんだ、どう致しましてとか何とか」
「どういたしまして……冗談いっちゃいけねえよ、人は見掛けによるもんだてえじゃございませんか」
「見掛けによるてえのがあるかえ、それは人は見掛けによらねえものだというんだ」
「知ってるよ、お前さんも随分ズウズウしいね、そりゃァチョイト見るとまずそうな顔をしているんだ、やってみると旨いから見掛けによらねえともいうんでござんしょう、お前さんなんかどうひいき目に見てもまずそうな面じゃござんせんか、デ自分からまずいというのだから、そら御覧なせえ、人は見掛けに即わちよるものだ」
「何が即ちだえ、それからね、モウ一ッ言って置くがね、当日は忌み言葉というものがある、これを気をつけなくっちゃァないよ、仮にも帰る、引く、きる、出るなんということばは使っちゃいけないよ」
「そりゃァ困るね、だってお前さん、モウ遅いから帰るという事はどういうんだい」
「その時にはね、式のことばというものがある、帰るとは言わんで、おめでたくお開きに致しましょうとこういうんだ」
「アッ成程、こりゃ旨いね、帰ることをお開きは旨かったねえ、門や戸が開かなけりゃ帰れませんからね、閉めッぱなしじゃァ出られねえよ、帰ることがお開きでは何でござんすかい、モウ少しいようてえ時にはおめでたくおつぼみ致しましょうとか何とか……」
おつぼみというのはないよ、デその高砂やの文句がね、ちょっと変えて唄わなくっちゃならねえところがあるんだ〽高砂や、この浦船に帆を上げて……月諸共に入り潮の、波の淡路の島影や、近く鳴尾の沖越えて、早住の江に着きにけり、と是れだけやるんだ」
「それを誰がやるんでござんす」
「お前がやるのさ」
「一人でかえ」
「そうさ」
「冗談いっちゃいけねえよ、そりゃァお前さんペテンだ、詐偽(さぎ)だ、ふざけちゃァいけねえよ、そんな長え文句が覚えられるもんけえ、今夜の仕事じゃござんせんか、また何だからね、世の中に私ぐらい覚えの悪い人間はねえんだからね、横町の師匠のところへ清元を習いに行ってるけれども、三年行っても一段が語れねえんだもの、終(しめ)えの方を覚える時分には好い塩梅(あんべえ)に前の方を忘れちもうんだからね、固まりッこねえんだ、他の唄じゃいけませんかね」
「何だえ他の唄というのは」
「今朝の別れという歌を知っているんだがね」
「婚礼の席で今朝の別れなんてえ歌を唄う奴があるか」
「そうかね、弱ったねこりゃァ、都々逸じゃァいけませんかね、都々逸なれば旨え文句があるんだけれどね、〽高砂やー四海波はと唄わぬ内はサ私しのものとは……エーイ、定まらぬ、とくらァ……」
「オーイオイオーイオイ、よさないかよ、変な声を出して、じゃこうしな、この頃ね、今もいう通り謡(うた)いがとりわけて流行るからね、定めし御親類の中には天狗の方も沢山いるだろう、お前は魚屋の民さんだ、謡いを知らなくっても別に恥というわけでもないから、媒妁役はね、高砂や、此の浦船に帆を上げてとこれだけやんな、後はね、ワッといって御親類方につけて貰いねえ」
「アッ成程、じゃァ私しは何でござんすね、高砂やの音頭取りでござんすね」
「音頭取りてえのもおかしい、高砂と来ると{強吟|つよぎん}もの[^57]だ、下ッ腹に力を入れてな、この腹から声が出るんだよ」
「腹から声が出るんだ……というと何かえ、この臍(へそ)の穴から声が出るんですか」
「臍の穴から声が出るかえ、腹から出て、咽喉(のど)へ響けるからほんとうの声だ、扇子(おうぎ)を持ってキチンと座れ、高砂やー、此の浦船に帆を上げてーとな、こういうぐあいにな」
「どこを押しやァそんな間抜けな声が出るんだい」
「間抜けな声てえのがあるかえ、サァ扇子を貸すからやって見ろ」
「そんな変なものをやるのかえ、驚いたねえどうも」
「オイオイ、キチント座りなよ、仮にも御祝儀をつけるんじゃないか、体(たい)をきめなよ、エエ、体をきめるんだよ」
「エエこんちは不漁(しけ)で鯛(たい)がねえんでござんす、エエ鰹(かつお)なら良いのがありますがね、それに小鮪(こめじ)のうめえのと……」
「オイオイ、魚の事を聞いてるんじゃないよ、体(からだ)を定めるんだよ、向こうを目八分に御覧よ、エエ、向こうを目八分に見るんだよ」
「モウ腹が満(くち)いんでござんす」
「何だ……」
「向こうの飯櫃(おはち)を見ろてえんでござんしょう」
「飯櫃を見るんじゃないよ、目八分だよ、鴨居の見当を見るのが目八分だ」
「アッなるほどそんなら知ってまさァ、鴨居の見当を見るのが目八分でござんしょう、デ天井の見当を見るのが目九分だ、ねえ、目十分と来りゃァ少し反り身になるんだ」
「そんな余計なことを言わなくってもいいよ、サァやって御覧」
「やるよ………タ………ター、タァー」
「変な声が出るね、オイオイ、マァマァお待ちよ、籔から棒じゃァ旨くはいかねえや、 謡いというやつは、なみの音曲とは調子の出どころが違うからね、こうッと、何かいい目やすがありそうなもんだな、謡いに似たものが……アアいい手本がある、横町の豆腐屋さんね、あそこの親方の売り声だよ、私はふだんから気になっているんだがとーふーィ、とーふーィて奴がね、謡いの声にソックリなんだからね、あの売り声の真似ができるかい」
「できますとも、あれなら訳はねえや、あの丈の低い久公(きゅうこう)でござんしょう。下ッ調子で変な声を出して来る、とーふーィあれでござんしょう」
「アアそうそうそれでやって御覧」
「これなら訳はねえじゃありませんか、何も気を揉むことはねえや、とーふーィ、とーふーィ、とーふーィ」
「オイオイ、いつまで豆腐ィをやって居るんだよ、高砂やと唄うんだよ……その調子で」
「分かってますよ、今お前さん地ならし中じゃござんせんか、初めから巧くはいかねえやね……とーふーィ……たかふーィ……」
「高ふィてえのはないよ」
「追い追い巧くなるんだよ、とーふーィ……たかーさーごやーでござい」
「オイオイ、高砂やを売りに来ちゃいけないよ」
「売りに来るわけじゃないよ、待っておくんねえ……とーふーィ……たかーさーごやー……」
「旨いな……」
「待っておくれよ……とーふーィ、このーうらふねにー、とーふーィ、アゲーがんもどき……」
「がんもどきといっちゃァいけないよ」
「いりたてー豆腐……」
「何を言ってるんだよ」
「焼豆腐に水豆腐……」
「よしなよ」
「エエ今日は午(うま)の日」
「馬鹿だなァ、いつまで変なことをいっているんだ、その調子ならどうにかお茶も濁せるだろう、マァマァ気を付けて巧くやって来なよ」
「エエどうも有難うござんす、左様なら……」
「オイオイ、後を閉めないかよ」
「ヘン、糞でも喰らえ……」

 奴さん、穿きつけない袴を引き摺って先方へ参りましたが、先方では待ちかねております。

「オイオイ民さん、何をしているんだなァ、モウスッカリお揃いになっているんじゃないか、気を揉んじまった、松さん一人で来ているじゃないか、夫婦揃って来るんだよ」
「冗談いっちゃァいけねえやね、あんなお前さん、クダラねえ嬶ァと一緒に歩かれるもんか、どこへ行くんだ」
「こっちへこっちへ、こっちへ来るんだよ、モウお前が来ないので弱っちまったんだ、それに大旦那が気を揉んでるからね、万事気を付けるんだよ」
「大丈夫だよ、心配しなくってもようござんすよ、心得ているんですから、何だ、とーふーィと来らァ……」
「変なことをまた言っちゃァいけないよ」
「大丈夫でござんすよ、素人に分かるもんか、どこへ行くんでござんす」
「サァサァ、こっちこっち……」
「エエ御一同様へ申し上げます、媒妁人民五郎と申しまして、この度はいろいろ尽力を致してくれました」
「どうぞ幾久しく御別懇に願いとう存じます」
「これはこれは、どうも申し遅れましたが、お媒妁人(なこうど)様でげすか、どうぞこちらへ、そこでは何でどうぞこちらへ」
「アア左様でげすか、デは高上りではなはだ恐れ入ります」
「エエ今晩はお日柄も宜しく、御当家の儀に就きまして、おめでとう存じます、手前は田中吉兵衛と申す不調法者で、幾久しく御別懇に願いとう存じまして……」
◎「オイオイ、民さん、御親類が御挨拶だよ、エエ御親類が御挨拶だよ」
「エエ御挨拶……」
「早くおやりよ」
「やるからようがすよ……エエ今晩はどうも皆さん、今晩は御遠方のところを有難う存じます」
「オイオイ、何をいってるんだよ」
「いいじゃありませんかお前さん、この中には御遠方の方もありまさァね黙っておいでなさい……エエ、何でござんす、承って驚き入りましてございます」
「オイオイ、驚きを入れちゃいけないよ」
「アアそうか……左様でござんす、マァ承りますれば、エエ御挨拶でござんすとね、マァその御挨拶であってみれば、確かに御挨拶だろうと、マァこちら様でもね、今晩はおめでとうござんして、誰が何といってもおめでたいとこういってるんでござんす、ヘイもしこれをめでたくねえという奴があるなれば、あっしは喧嘩をしようと思うんで」
「オイオイ、そんなことをいっちゃいけないよ」
「エエ就きましては、私が指図がましゅうございまするが、お見えを幸いに、時間の都合等もございましょうで、この辺でおめでたくお盃御祝儀という御趣向にはいかがでございましょうか」
「ヘイ、恐れ入りました……民さん、お盃になるんだ、御祝儀はいいかい」
「エエ」
「お前の役だけれども、御祝儀はいいかというんだよ」
「御祝儀、アア少し心得てますよ、何でござんしょう、即ち豆腐屋の一件でござんしょう」
「何だえ豆腐屋の一件というのは」
「いいよ、黙っておいでなさいよ……エエ宜しいのなればおッ初めますで、始めても宜しいんでござんすか、切ッ掛けが分かりませんから、こっちも別に何でござんすね、苦情はござんせんね……アア左様でげすか、ウーム、とーふーィ……とーふーィ……」
「これはどうも飛んだお戯れで……」
「冗談いっちゃいけねえ、お戯れどころじゃござんせん、生まれて初めての仕事でござんすから、チョイト今咽喉の工合を試したんでござんす、大概これなら巧くいくでござんしょう、高砂やー、此の浦船に帆を上げてー……どうでござんす」
「これはどうも恐れ入りました、お謡いは御堪能でいらっしゃいますな、お構いなくそのお先を願いたいものでございます」
「何でござんす、お先はね、この頃謡いが流行りますからね、私がこれだけ媒妁人役にやれば、後は御親類方がワッといってみなさんにつけて下さるとこういう寸法でござんす」
「ヘイヘイこれは恐れ入りました、親類ども一統が謡いは不調法でございまして、恐れ入りまするがお媒妁人様に皆願いとう存じまして」
「じゃァみんな不調法だ、そりゃァ弱ったねえどうも、そんな約束じゃなかったんだが、仕様がねえね、じゃァマァソックリやりますがね、……困ったねえ……高砂やー此の浦船に帆を上げてー、高砂や……」
「オヤオヤ同じところでげすな、そのお先を願いますでな」
「エエ分かってますよ……高砂やー此の浦船にー、エエ帆を下げてー」
「下げちゃいけません、帆を上げてと願います」
「今やりますよ、高砂やー、此の浦船に……帆を上げて下げてまた上げて」
「だんだんお早くなりますな、モソット節をおつけ下さいますように」
「今つけますよ、今節をつけるよ……ターカーサーゴーヤー、コーノーウーラーフーネーニーホーヲーアーゲーテー……」

 と言うと親類一同が「婚礼に御容捨……[^58]」

[^51]: 赤毛布 ……都会見物に上京してきた地方出身者たちが外套の代わりに赤い毛布をまとっていた姿を「あかげっとう」と言い、それが転じて田舎者を意味する言葉になった。
[^52]: 胴忘れ ……「度忘れ」のこと。
[^53]: 湯灌 ……葬儀に際して、納棺前に遺体を洗い清めること。
[^54]: 褄端れ ……着物の褄のさばき方のこと。転じて人の所作、身のこなし方全般を指して言う。
[^55]: 熊野松風に米の飯 ……米の飯のように好まれ人気がある謡曲の「熊野」「松風」を指した言い方。
[^56]: 高砂や、此の浦船に帆を上げて ……高砂は能の祝言曲として室町時代から人気があったが「高砂や、此の浦船に帆を上げて」のくだりが一般化し、婚礼の席で謡われる定番となった。
[^57]: 強吟 ……力を込めて厳粛に謡う能の謡いの歌唱法のこと。
[^58]: 婚礼に御容捨 ……節が巡礼歌のようになってしまったことから「巡礼にご報謝」とかかっている。

無精床

 こんにちはすべてのことが昔とはガラリガラリと変って参りました、東京が江戸といった時代の名物に、火事というものがございます、あんまり結構な名物じゃない『武士鰹大名小路広小路茶店紫色紙錦絵』などという、これらがみんななくなりまして、号外の方が残っております『火事に喧嘩に中ッ腹[^59]、伊勢屋稲荷に犬の糞』あんまり嬉しい物は残ってやァしません、そのうちに火事がだんだんなくなりました、これはなくなる方が結構で、消防の機関がだんだん完全して来まして、ジャンと来れば直ぐにボンブが駈け出す、水道の消火栓がある、大概な火事は未成品で消えてしまう、もっとも火事などは未成品の方がようございます、デ驚いたのは火事の仲間ですな、こうどうも消防の機関に跋扈されては到底火事の発展が出来ないというんで、何か善後策を講じようというので、ある所へ火事が秘密の集会をしました。 

火事「アア時に火事諸君、我々の営業状態に就いて……」 

 と会議を開いて、いろいろ議論を闘かわして、つまりはとても東京では営業を持続する見込みがないから他の土地へ行って運動しようというので、一時火事全体が東京を解散と決定しました。 

火事「どうしたえ、お前さん」
火事の亭主「驚いたなァどうも、いよいよ今日の寄り合いでもって、火事の仲間は解散だよ」
「何だえ解散というのは」
「東京じゃァとても飯が食えないから、残らず田舎へ行こうというんだ」
「田舎へ」
「ウム、どうも仕方がねえ、だいぶ北海道が景気がいいというから、一ッあっちへ行って厄介になろうというんだ」
「嫌ですよ、馬鹿馬鹿しい、冗談いっちゃァ困りますよ、子供まである仲じゃァないか、今更知らない他国に行って苦労するのはいやだよ、私は御免蒙るよ、家は家柄がいいんだよ、御先祖様は本郷の丸山火事[^60]じゃないか、およしよ」
「何をいやァがるんだえ、ぐずぐずいう場合じゃねえよ、そんなことをいってりゃァ顎(あご)が乾上がっちまうじゃないか、サァサァ何だ、早く支度をしろ、荷物を片付けろ」

 火事の夫婦が大きな包みを引ッちょって表へ出ようとすると、後から 

火事の子供「おとっさん、ボヤも行くんだ」 

 大変な話があります。 

 デ商売も昔とはさまざま変わってる中に、この床屋さんだそうでございますな、昔はどういうわけですが、髪結いさんのことを一銭職とか申しまして、社会から軽蔑をされました、我々の社会(なかま)も昔は寄席芸人だ、今は教育芸術家……それほどでもございませんけれども、昨今ではどんな場末へ行きましても、不潔な床屋さんというものはなくなってしまいました、名称も理髪師と変わった、高等理髪館、理髪学校というのが今日はございまするし、カイゼルひげのモーニングと来れば、床屋の親方だか、田舎の議員さんだか分からないというくらい、設備も充分に整っていますが、価(あたい)もかなり高く取ります、チョット頭髪(あたま)を刈って、ひげを剃るのに三十銭あるいは五十銭、東京一番だなんという葭町の平床(へいどこ)、本町の荘司川名、下谷の小阪なんという、いい心持ちにその代わりしてくれます、しかしお差し合い[^61]があったらお詫びをしますが、職人には上等の家でもちょっと怪しいのがあるそうですな、やはり高いからいいだろうと思って行く、ところが中にはできないのに出会う、今更どうも仕方がないというのがないでもありません、先達である所に居残りの辰という職人がありました、居残りという名があるんですから、大方吉原へでも行って、居残るんだと思うとそうじゃない、どんなに丁寧にひげを剃(あた)っても、キット居残りをするんだそうですな、ひげの居残りなんぞはあんまり有難くございませんが、ある所に軍人の虎さんというのがある、軍人というんですから、大方日露の戦争に出征でもしたんだろうと思うと大違い、どんな客でもこの虎さんに出会わせば、キット一ケ所や二ケ所は負傷するんですから、つまり村正みたような剃刀を持っているんで、そうなるとウッカリ床屋へ入れない、あらかじめその覚悟をして参りませんければなりません。 

女房「あなたどちらへいらっしゃるんでございます」
亭主「ウム、大分ひげがのびましたから、床屋へ行って参りますよ」
「あのまた軍人(いくさにん)の所でございますか、およし遊ばせよ、ようやく先だっての傷が治ったばがりじゃございませんか、どこか他へいらっしゃいまし」
「そうはいきませんよ、 町内のつきあいですもの、行って来ますよ」
「じゃァどうしてもいっしゃるんですか、 仕方がございません、デハマァ随分ともに御無事にて……」
「そちも健固で……」

 水盃をしなけりゃァ床屋へ行かれなくなってしまいますな、旧幕時代にはいろいろな床屋さんがあったそうですな、けんつく床屋、イタ床、無精床なんて、親方は年百年中暇があってもなくっても、ひげばかり抜いているというんで、客の顔色を見て、気にいらなければひげは剃ってやらないなんという乱暴な床屋さんがありました、ふりのお客というのはチョイチョイとそんな所へ引ッ掛っちゃァ酷い目に会います。 

「今日は……親方今日は、いい塩梅にお天気になりましたね」
「何だいオイ、 いやな目付きをしてやァがるな、キョロキョロ覗きやァがって、下駄を持って行っちゃァいけねえよ」
「下駄泥棒じゃァございませんよ、頭をやっておもらい申してえんだがね」
「ハァその頭をどこへ持って行こうというんで、自分の首に載ってるんだから、自分で配ったらいいだろう」
「頭をやるッたって、配るんじゃございませんよ、頭をこしらえるんですよ」
「俺ン所は人形屋じゃねえやね、頭はできねえよ」
「そうじゃねえんですよ、いい男にして貰いたいんで」
「ハア、ズウズウしい野郎が来やァがったな、オイ、世の中にね、鏡というものがあるんだよ、不思議なもんだ、自分のつらを自分で見られるんだ、お前さん見せてあげようかね、何だねお前さんのつらなんざァ自分シミジミとまずい面だね、とても生まれ変ってきてもいい男にはならねえぜ」
「親方、冗談言っちゃァいけないよ、そんな棚卸しをしなくってもようございまさァね、ナニね、ひげを剃って、頭を結い直して貰いたいんですがね」
「ハァ、ひげは剃れるが、頭は結い直せやしねえよ」
「これァ驚いたなァ、それじゃァ髪の毛の髷(まげ)を結い直して貰いたいんで」
「アアそうか、 それなら結い直してやらァ」
「オヤオヤ、恐ろしい手数が掛るね、エエできますか」
「ナニ」
「髪の結い直しができますか」
「できますかじゃねえ、この腰障子に書いてある印が分からねえのか、構わずこっち入んねえ」
「親方、直ぐやれましょうかね」
「大概見たら分かりそうなものだ、誰も待っている人はいねえんだから、否でも応でもお前さんの頭に取りかかるんだ、私も商売だからね、お客さまを置いて遊んでいるわけにもいかねえんだからね」
「親方、そんな乱暴なことをいわねえでもいいじゃァねえか、俺も早い方がいいんだけれども、番をおうという理屈もあるから聞いてみたんじゃねえか、それじゃァお頼う申す、親方、頭を切っておくんなさい」
「頭を切ると血が出るよ」
「エッ、頭の地を切られちゃァ大変だよ、髷を切っておくんなさい」
「ウム、お前さん坊主になるのかえ」
「坊主になりゃァしませんよ、髷ッぷしの元結いを切って貰うんでさァね」
「今見たところが、お前さん手があるようだね、右と左の両方とも使えねえのかえ」
「手ン坊じゃねえ」
「イえさ、手が利くんなら使ったらよかろう、片ッ方の手で髷ッぶしを押えて、グイと引ッ張れば、大概な元結いはハジケちまうからね、それとも何かえ、お前さんの髷は針金で縛ってあるのかえ」
「冗談いっちゃァいけねえよ、タワシじゃあるめえし、針金で縛る奴があるかえ、分かってますよ、自分でもやれらァね、どこへ行ったって、床屋さんは、親方がパチンと切ってくれる、あれが愛嬌だっていうじゃねえか、いけなければ自分でやるよ、親方、お湯はありませんかえ」
「ハァお前さん何かへ、弁当でも使うのか」
「そうじゃありませんよ、頭や顔をしめさなければならねえんだ」
「頭をしめすのなら、水でおやんなさい、いい若い者じゃァありませんか、頭寒足熱ということを知らねえかえ」
「ヘエー医者の叱言みたようだな、湯がなけりゃァ水でようございますがね親方、水はどこにあるえ」
「その醤油樽が眼に入らないかえ」
「醤油樽、オヤ、これですかえ、ハハハ、こりゃァ驚いたなァ……オヤッ、親方、この水は青苔が生えていらァ、随分古そうだな」
「ウム、かなり古いがね、まだボウフリは湧かないよ」
「冗談いっちゃァいけねえよ、顔をしめす水の中にボウフリなんかわいていて堪るものかね、こんな汚ねえ水で顔はしめせやァしねえや、小僧さん小僧さん、すまねえがね、ちょっと綺麗な水を汲んで来てくんねえか……」
「ヤイヤイ奴(やっこ)、何をしてやァがるんだ馬鹿め……オイオイお客さん、冗談いっちゃァいけ ねえよ、私ン所の小僧は、客人の水を汲むために置いてあるんじゃァございませんから、それほど新しい水が欲しければ、自分で行って汲んでおいで、井戸はこれから左へ曲って、一町ばかり行くんだ、突き当りに車井戸で、いい水があるからね、手桶を両方へ持っておいで、どうせついでだから、台所へ五六杯汲み込んで……」
「冗談いっちゃァいけねえや、あっしだって床屋へ水を汲みに来たわけじゃねえや」
「ぐずぐずいうならその水でやっておしまいなさいよ」
「驚いたねどうも、今更散らし髪になっちまって表へも飛び出せねえや、我慢をしてやっちまいますがね、このボウフリが湧いてますがね、こりゃァどうにかなりませんかね」
「人間というものはな、出せば智恵というものが出るもんでございます、そばに棒がありましょう、それでもって、トンと椽(ふち)を叩けば、ボウフリは驚いて引っ込んじまう、その間にチョイチョイとしめしてしまいなさいよ」
「ヘェー、驚いたねどうも、ヘェー、この棒で椽を叩くんでございますか……なるほど、ポンと叩けば……ハハハ、巧えもんだな、こりゃァ工夫があるもんだ、ボウフリは残らず引っ込んじまったね、つまり何ですね、この棒はボウフリ脅かしの棒というんですね……親方、ボウフリがまた出て来ましたよ」
「お前さん、面白がって見ていちゃァいけねえよ、サァサァ早くやっておいで」
「ヘイヘイ……親方驚いたねどうも、ボウフリが二三匹くッついて来ました」
「心配するなよ、ボウフリは喰い付きゃァしねえや」
「そりゃァそうだがね、こいつァ驚いたなァ、ゆうべの夢見が悪かったから……お頼うします」
「奴々、また居眠りをしてやァがる間抜けめ、毎日毎日な、焙烙(ほうろく)の尻(けつ)を削ってるのが能じゃねえや、たまには生きた人間の頭にぶっつかってみろ、大ぶりだから稽古頭には持って来いというんだ」
「稽古頭……冗談いっちゃァいけねえよ、親方、私は銭を払うんだよ」
「ぐずぐずいうことはねえや、やってみろやってみろ」
「だってそりゃァ酷いなァ親方、それも親方が忙がしいから小僧さんにやらせるというのなら分かってるが、お前さん手が明いてるんじゃござんせんかえ……そうかえ、じゃァどうしてもこの小僧さんにやらせるのかえ、オヤオヤどうも仕方がねえや、これも因縁と諦らめよう……いくつだお前は……何を、九才(ここのつ)だ……オヤオヤ、どうかヤワヤワ頼むよ、チット毛が硬(こわ)い質(たち)だからね……ウム暇がかかっても仕方がないよ……アアなるほど、親方こりゃァ馬鹿にできねえや、軀(なり)は小せえけれども、さすがにやかましいだけあらァ、筋がいいんだね、こりゃァ見込みがありますぜ、親方、チットモ痛くねえや……何を、まだやらねえ……アアそうか、それじゃァ痛くねえのがあたりまえだ……アイタッ、アイタタタ、マァマァ待っておくれ、こりゃ痛い……」
「ヤイヤイ奴、震えるな震えるな、人間の頭と思うから震えるんだ、間抜けめ、度胸をすえろ度胸をすえろ、やっぱりな、炮烙の尻だと思って引ッこすってしめえよ」
「戯談(じょうだん)いっちゃァいけねえや、炮烙と俺の頭と一緒にされて堪るものか」
「アレ、まだ震えてやァがる、間抜けめ、サァどけどけ、俺のやるのを見ていろ……馬鹿ッ、こんなもので人間の頭がやれるか、何で飯を食おうと思うんだ、分からねえトンチキだなァ本当に、これは何だよ、上がり剃刀じゃねえか、てめえさっき見ていたら、これで下駄の歯を削っていたじゃァねえか」
「オヤオヤ、下駄の歯を削った剃刀で頭をやられたのか、乱暴だなァ、俺の頭も下落したなァ、下駄の歯と一緒に取り扱われちゃァ大変だ」
「奴々、早くそっちのを持って来い、切れやァしねえや……よしよし、これで沢山だ……サァサァ見ていろ、こんな客はな、モウ来るんじゃねえんだ、いっそ来ねえんならコリコリさしてやるんだ、いいかてめえに教えてやる、なぐり仕事というのを、よく見ていろ、早ければいいんだ、ちっとぐれえ残っても構わねえんだから、さか剃(ず)りでやっちまうから、ホラ見ていろ」 

 ツー 

「ホラ」 

 ツー、ツーッ 

「アイタ、イタイ、親方、待ってくんねえ、情けねえことになるもんだなどうも、私は人間でござんすかね」
「何を」
「わざわざなぐり仕事にしなくってもいいじゃござんせんか、モウちっとヤワヤワ願いたい……」
「ヤイヤイ、ぐずぐずいうことはねえ、こっちへ任した頭じゃねえかどうしようとこっちの勝手だァな、仕方がねえや、戦争になれば鉄砲にあたって死ぬ人もあるんだ」
「戯談いっちゃいけねえ、戦争と一つにされて堪るものか、どうか一つお慈悲を以ってお手柔かに願いとう存じますね」
「ヤイ奴、こっちを見ていろ、手許をよ、こっちを見ろてえんだよ、間抜けめ、手許を見ろてえんだよ、居眠りばかりしてやァがる、商売が覚えられるんだ、馬鹿め……」
「オイ親方、ちょっと待ってくんねえ、叱言は小僧さんに言ったんで、叩くのは私の頭じゃございませんかえ」
「ハハハハそうそう、実は何だよ、あすこまで手が届かなかったもんだから、お前さんの頭で間に合わせたんだよ」
「つまらねえものを間に合わせッこなしだよ、戯談じゃねえ本当に、是れじゃァ堪らねえ」
「黙っておいでよ……サァ奴、手許を見ろ、どうすりゃそう居眠りができるんだ、宜いか、上の方をフンワリを持つんだぞ、堅く持つから剃刀が自由に動かねえんだ、ソッとこっちを持つんだ……ヤイヤイ、どうすりゃそう居眠りができるんだよ、こっちを見ていろというんだよ、こっちだよ……アレッ、眼を開け畜生め、居眠りをしねえでこっちを見ていろ……」
「親方、待っておくんなせえパラパラ長い毛が落っこちて来るが、お前さんどこをやってるんだえ」
「どこを……アッ、しまった」
「どうかしやァしませんか」
「ナーニね、あんまり奴の方へ気をとられちまったんで、片鬢(かたびん)落としちまった」
「仕様がねえなァ親方、どうなりますね片鬢でもって、とても表は歩かれません」
「ナーニ心配することはねえよ、生え揃うまで片側町[^62]を歩きねえ」

[^59]: 中ッ腹 ……ちゅうっぱら。威勢が良い男の気風のこと。任侠肌。
[^60]: 丸山火事 ……「明暦の大火」のこと。1657(明暦3)年3月2日から4日にかけて江戸の大部分を焼失させた日本史上最大の大火災。本郷丸山の本妙寺から出火したことから「丸山火事」とも呼ばれた。
[^61]: お差し合い ……差しつかえ、さしさわりのこと。
[^62]: 片側町 ……通りの片側にのみ発展した町。

宿屋の讐討

 当節でもまだ其の習慣が残って居りますが、昔お商人(あきんど)方のお家ではお夷(えびす)講、甲子(きのえね)待ち[^63]などということを盛んにいたしましたものでございます、馬喰町に大黒屋金兵衛という宿屋がございまして、|ここの主人(あるじ)が名前からして大黒屋というくらい、大黒天を神棚へ祀りまして、大層信仰をいたしております、されば年に一回ずつ甲子待ちということを致します、これは一晩賑やかに話し明かすという、マァ通夜をするのでございます、全体心得違いの話で、信心をする人間は一晩寝ずにいようと、半日さかさになっていようと、どういう苦しみを致しても、利益(りやく)は自分が独り占めにするのだから、それでよろしゅうございますが、甲子待ちの当日は朝から料理だ、菓子だという支度をいたして、親類知己近所の者を呼び集めまして、一晩夜明かしをいたしますので人おのおの稼業がある、その稼業を休まなければなりませんから、随分迷惑をする人もございます、けれどもまた中には面白半分、大黒屋で甲子待ちだから行こうじゃないかと、嬉しがって、食い倒し、飲み倒しに来る人もあるが、過半は迷惑の人ばかり、主人はほうぼうへ使いを出し、手紙を出し、夕方からゾロゾロやって参りました。

「ヘイ今日は……どうも少しおそくなりました」
「アア熊さんか、大変に来ようがおそいから、また来ないかと大きに心配していた、モウ皆さんがお集まりでさっきからお待ち兼ねだ、モウとうに来るわけなんだが、いつも早い人がどうしたんだろうと今話をしていたところだ、サァお上がりお上がり」
「ヘイ、御免なさいまし……みんなこっちへ入んねえ……モウちっと大勢連れて来ようと思いました、ところが、ツイねえ、お前は義理があるだろうが、俺はあんな家に……ナニそうじゃァねえ、その何でございます、マァ知らねえ家だから、お気の毒だからという奴がありまして、ヘイ、それからマァ二人ばかり連れて来ました」
「こないだもお前に遇った時頼んで置いた通り、どうも一時陰気になっていけねえ、それゆえなるたけ陽気な、マァ何をいっても人が笑うというような面白い人の来るように、お前に頼んで置いた、どうぞお連れの方、御遠慮なく……かえって御遠慮があってはいけないもので、今晩はいろいろな身分のお方も来ていなさるが、あすこに誰かいるから足を出しては悪かろうの、寝転んでは悪かろうのと、そんなことはない、ご自由にいて、飲もうと食おうと勝手次第、その代りこちらもお構い申さないから、酒がなくなったら遠慮なく酒といえば、女が大勢いますから……今日は商売休みで、女達もほかの用がないから、酒を持って来い、茶を持って来いというようなぐあいにしてね……サァ奥へおいでなさい、熊さん、お前は勝手を知ってるんだから、皆さんをお連れ申して、奥へ通しておくれ」
「それじゃァ御免を被むって、みんなこっちへ来ねえ……ヘイ今晩は、皆さんお揃いで……オヤ先生今晩は」
先生「イヤこれはこれはようこそおいでなすった、あなたがおいでがないので、何だか一座が淋しくっていけないという話をしておったところだ、サァこれへ……」
「へエ、こないだこちらの旦那にねえ、お目に掛かったところがね」
「ホホー、ハァ、ウムなるほど、しかるに……」
「イエ何でございます、賑やかなものを二三人連れて来てくれッて……」
「勿論、賑やかでなければいかん、ウムなるほど、しかるに……」
「先生、少し黙っていておくんなさい、あっしどもは口がよく利けねえんだから、お前さんのようにいろいろ催促をされると何でございますから……そこでマァ友達と二人ばかり連れて参りました……こっちへ入んねえ、この野郎は泥棒源次、こちらが向こう見ずの八公というんでございます、どうぞこれを御縁にお心やすく……皆んな遠慮はいらねえ、横丁の剣術(やっとう)の先生だ、おめえたちも知ってるだろう」
「知ってるとも、エエ先生、{何分|なにぶん}お心やすく」
「先生、何分お心やすく……」
「何でございます、二人ながらもモウからきしガサツの人間でございますから、どうか失礼のことがあっても御勘弁を願います」
「先生、私どもはいつでも先生ンとこの道場の窓へ立って見ているんだが、どうも剣術てえものは、町人だって覚えていいもんですね、巧くなると、人の頭をぶン殴って、銭が儲かって、こんないい商売はねえ」
「馬鹿ッ、余計なことをいうない」
「けれども暑い時分は随分骨が折れましょうね、冬でもポッポと煙(けむ)を出して、土左衛門の手みたような太い物をはめて、刺しッ子みたようなものに、鉄(かね)の出格子のある物を被って、建仁寺の垣根みたようなものを身体に巻き着けて……」
「何だなァこいつらァ、口が悪くっていけねえ、先生、気にかけねえでおくんなさいまし、エエ上総屋(かずさや)の旦那……」
「マァマァ御挨拶はよしにしよう、何も知らない顔じゃァないねえ、熊さん、みんなお馴染だ、町内で始終お目に掛ってる方だ、一々御挨拶なしにして、どうぞこちらへ…… 」
「方丈様、あれッきりお目に掛かりませんでいつもお達者ですねえ、こうお揃いのところでねえ、先生、何か一ッ面白い話をソロソロ始めようじゃございませんか」
「イヤそれについておのおのに少し相談をしたい」
「ハイ」
「ここであらかた評議は一決したが、今では余り行われないが、昔はよくあったもので、大名方の遊び事で、百物語といって、一間に百本の灯心(とうしん)へ油をしめし、それへ灯火(あかり)を点ける、百本といってはなかなか明るいものだ、夫れを大広間というようなところに、人間百人いれば一人ずつ話をして、一本ずつ灯心を消していく、怖い話のほかはいけないので、九十九人やるとつまり後が一本灯心になる、最後の百人目には話が済むと、灯火をフッと吹き消して、言うまでもなくまっくら」
「ヘェー」
「そうすると、百度怖い話を聞いているから各自の頭に怖い怖いという考えがあるので、思い思いに怖い形を見るとか凄い姿の者を見るとかいって、随分騒いだものだ、それを百物語というんだ」
「ヘェー」
「それに基づいて百本の灯心を点けて、一本ずつ消して行かんでもいい、灯火はこのままでいいが、兎角この夜明かしをするには、眠くなって、あっちの隅で一かたまり 、こっちの隅で一かたまりというようになると、話をしていてもゴチャゴチャして誠にいかんもので、聞いている方でもコクリコクリ、話をしている方でも実が入らないから、途中で話が立ち消えになり遂にはみんな寝てしまうようなことになると、主人の志を無にしなければならん、そこでこれだけ人が集まったのだから、グルリ一かたまりになって、順繰りに一人ずつ行って、若い時分に斯ういう凄い話があったとか、怖い話があったとか、どんなことでもいい、怖かったとか、驚いたとかいう話なればなおさら、自分が出合った事を話をし合うというのは、どうだ」
「エー、どうも面白うございますな、全く一さかりは食う奴は食ってしまい、飲む奴は飲んでしまうと眠くなるもので、怖い話というものは、一番体が締まるかと思う、これはなるほど先生の仰る百物語というのは面白うございましょう、なァ泥棒」
「イヤこれがいかんな、どうだろうと相談するのはいいが、どうも泥棒というのははなはだ聞き苦しい、 お友達だからどうでもよいが、ここへ一座いたしておるお方に泥棒などというのは甚だ善くない 」
「イヤ先生その泥棒をとがめられちゃァ困ります、何も人の物を盗んだというわけじゃないのでこの野郎は泥棒源次という名前でげすが、マァおかしいッたって馬鹿馬鹿しいんでございます、弱い癖に喧嘩ッ早くって、この間も喧嘩をして殴られて、口惜しがって泥だらけの棒を振り廻していたんで、泥の棒を振り廻したというところから、マァこいつの事を泥棒の源次というようになったので……」
「なるほど、これは面白い、名前を聞いたばかりでもお話が定めし面白かろう、そっちにいるお方は向こう見ずの八とか言いなすったな」
「左様で、こいつは何も向こう見ずに乱暴するからというわけでもないので、大食らいの奴で、一膳飯を食べても飯を大盛りにして、茶碗を抱え込んで飯を食う時に定めしむこうが見えなかろうというところから、向こう見ずの八蔵」
「これはどうも実に面白い、いよいよいいときまったら、わしが指図がましいようではあるが、一同並んで、女はマァ聴き人(て)の方だ、順繰りに一人ずつ進んでやるということにしよう」
八「じゃァわっチが申し上げちゃァ失礼だが、先生から一ッやって頂きましょう、お前さんからやって、 そっちへ行くとちょうどいい、こっちに廻ると泥棒廻りになるから」
「なかなかずるいね、泥棒廻りと名をつけて、こっちから廻っていくと、お前さんのところへ行く時分には、モウ夜の明け方になってのがれようというような塩梅」
「そんなわけじゃァございませんけれども、マァそうすりゃいいじゃございませんか、鬮(くじ)を引くといったってこれだけの人間が鬮を引くのは大騒ぎでげすから、先生から一つお願い申します」
「それでは拙者がお見出しに預かったものだ、誰彼というのも面倒臭い、若い時分の話を一ッしようかな」
「へエ、どうかおっかねえ奴を一ッやってお貰い申しとうございます」
「よろしい、やりましょう」
「おっかねえ話でございましょうね」
「左様さ、まずこれらはさのみ[^64]怖いという方でもないが、あなた方に聞かして、ただその時にはさぞ凄かったろうというくらいなものだ」
「ヘエなるほど」
「私が二十二三の頃であったかな、武芸修行に諸国を遍歴して、他流試合をしなければ、勿論腕は上達しないものだ」
「ヘェー、へんれけ
「黙っていろよ、口を利きなさんなてえことよ、へんれけてえ奴があるかえ、ほうぼうを歩くことをいうんだ」
「ヘェー、ほうぼう歩くのがへんれけか」
「黙ってろよ、よく講釈か何か聞きますが、随分この武者修行という奴は辛い思いをするそうでげすね」
「辛い事は勿論、修行だから夫れはどこまでも我慢をする、夏の旅で東海道毬子[^65]の宿へ参ったのがモウ夕間暮れ、一丁場伸そうと思ったが、イヤそうでない、大分疲れもあるからと、宿へ着いたのが、まだ灯火のつきぎわだ」
「ヘェー」
「女に言い付けて、今夜はすぐに寝て、明日七ッ立ちをするから、早く起こしてくれ、日中は暑さが厳しいので、道がはかどらないからと、女に言い付けて、食事を済ませると、すぐに枕についた、旅の疲れかグッスリ寝込んで起こされてみると、別段他に早立ちの人もないようだ、まだお茶はできませんがというから、ナニ湯漬けで沢山だと湯漬けを食べてその宿を出て、宇都の谷[^66]へ掛かったが、山路は取りわけて暗い」
「ヘェー」
「勿論木蔭で山路は別段に暗いものだ、モウじきに夜も明けるだろうと思うから灯火の支度もせずに来たが、右へ行っていいか、左へ行っていいか分|からんというような真暗がり、どう踏み迷ったかだんだん道が細くなって来た、さては横道に入ったのか、それともこれが本街道であるかと、初めての旅で様子が分からんが、踏み迷ってそうでもない、獣のために怪我でもしてはならんと心得、探って見ると木の根がある、いかさま、木をきり出したものか、ちょっと腰かけに手頃の切り口がある、それへ腰をかけ、擦り火うちを出して、パクリパクリと喫(の)んでいると、奇態なもので、暫く経つとあたりが、ここに大きな木があるとか、ここに石があるとかいうことが見えて来る」
「ヘェー、夜が明けて来ましたか」
「イヤ、女が寝ぼけて時を違えて起こされたものか、まだこれまで来て夜が明けないが一つにところにあってこれを見ていると、訝しなもので、暫く経つとそこがこう見えて来るものだ」
「ヘーエ、おかしなことがあるもので、暗いところはいつまでも暗そうなものだが、だんだんと見えて来るというのは不思議じゃァございませんか」
「ナニそういうことはある」
「何をいやァがるんだ、何でもてめえ口を出しやァがる、そういうことがあるんだって、てめえ武者修行に出て、山の中へ入ったことがあるのか」
「イヤ武者修行にゃァ出ねえが、他に覚えがある」
「どうしたんだ」
「{夜這いに行った」
「何だ、クダらねえことをいうな……先生、気にかけねえようにしておくんなさい、この野郎は始終クダらねえことばかり言やァがるんだから……何でございますか、あたりが見えて来ましたか」
「むこうの小高いところを見ると、破れてはいるが辻堂があった」
「ヘェー、辻堂がございましたか、大概付き物だからね」
「また口を出しやァがる、黙ってろというのに」
「けれども、あるよ、武者修行に辻堂などというものはやはり縁日の葡萄餅みたようなもので、付き物だからね、草双紙でも、芝居でも、大概きまっている、大方辻堂の中からやはり天狗の面か何か被った奴が出ようてんで」
「余計なことをいうな……先生、その辻堂でどうかいたしましたか」
「ここで夜露を凌ごうと、辻堂へ来てみると、一ぱいの蜘蛛の巣、刀の鞘で蜘蛛の巣を払ったが、下はもとより埃だらけ、座るわけには行かん、柱により掛かって、刀を杖にトロトロと寝入った」
「へェー、 どうも恐れ入りましたな、わっしどもじゃァ寝てくれッたって、そんなところへ寝られるものじゃァねえ、どんなものが出て来るか分からねえところで寝るというのは、実に豪儀なものだ、腕に覚えがあるから出来るんだね」
「全くそうだ、盗人(ぬすっと)猛々しいとはよく言ったもんだ」
「馬鹿ッ、何をいやァがるんだ、盗人猛々しいというのは、そんなところへ使う文句じゃねえや、先生、一々こういう奴が二人揃ってガヤガヤつまらねえことを言やァがるんでさぞお話がしにくうございましょうが、どうぞ御勘弁なすっておくんなさい、それからどういたしました」
「何やら人声がする、それで目が覚めて、格子から覗いて見ると、 大の男がふたり、いかさま山賊だな、どこから参ったものか、一人は官位を取りに行く盲人であるが、然るべきところの忰と見え、ついて来たのは幇間(たいこもち)体(てい)の男だ」
「ヘェー」
「前に立った彼の山賊が、大手をひろげて、命が惜くば金を置いて行けという脅し文句だ」
「お約束だ、按摩は慄(ふる)えましたろうね」
「ところがなかなか気丈の接摩で、命を捨ててもこの金ばかりはやることはできないと武者ぶりついた」
「恐ろしい強い奴でげすね、どうしました」
「すると右の手を伸して山賊が按摩の襟首をとると、さながら猫の子を釣るしたごとくだ、ヤッと石へ打ち付けたな」
「へェー、恐ろしい力ですね、それからどういたしました」
「物をもいわず、むこうへなげると、もんどり打って飛んで行った」
「ヘェー」
「可哀想に按摩が岩角へあたると、微塵になってしまった」
「オヤオヤ、酷いことをしやァがったね」
「幇間体のものが、主の敵(かたき)と、道中差し[^67]を引き抜いて切ってかかった」
「皆さん、ここからが聞きどころだ、私は講釈が好きだけれども、その場で敵を討つというのは滅多にねえ、それからどういたしました」
「かたかたの山賊が、右の手を伸して幇間の利き手を一つポンと打つと、ポロリと得物(えもの)[^68]を取りおとしてしまった」
「何だ景気ばかりで意気地がねえんですね」
「これまた襟首をとったと思うと、いきなり小脇に引ッ抱え、幇間をちぎって下にあるざとうを付けて食ってしまった」
「ヘェー、幇間を千切って、ざとうを付けて喰ってしまった、何でげすえ」
「落とし語だ」
「そりゃァいけねえや、幇間をちぎって、ざとうを付けて喰ってしまったなんて、そんな話をしちゃァ仕様がねえ」
「どうも俺も変だと思った」
「変だと思ったら早くいえ……どうも先生、あなたから嘘を話しちゃいけません、どうか真面目におっかねえ話をして聞かしておくんなさい……今度は方丈さま、あんたの番でございます、どうか一つやっておくんなさいまし」
「イヤ先生、どうも恐れ入りました、どうも幇間をちぎって、座頭をつけて……イヤどうもこれは見事……」
「ほめちゃァいけない、こっちが初めっから落語だと思って聞いてりゃァいいが、ほんとうの話だと思って、今に何か怖いものが出るか、どうなるかと、真面目に聞いていたもんだから、スッカリ馬鹿にされちまった」
「方丈さま、貴僧なんぞにゃァ随分怖い話がいくらもありましょうね、お寺のことで、いわば幽霊の問屋といってもいいぐらいだから……お前さんは和尚のことだから、何も人に怨みを受けるようなこともなかろうけれども、それでもまたちょっと幽霊に行って来るから、留守をお頼う申しますとか何とかいって、お前さんとこへ幽霊が頼みに来たり何かすることがありましょう」
「下らねえことをいうな、お出家の前で……」
「何もありませんが、どうもお約束で、順が来ればやるものになってるが、只今の先生のようなことはとてもわしには……」
「それはいけねえ、本当のことを一つお頼う申します」
「そういう望みならば、愚僧が差し代わって一つやろうかな」
「どうかお願い申します、なんかおっかねえ奴を……」
「この怖いと凄いということは、同じことのようだけれども、大きに違いのあるものだ」
「ヘェー、そうでがすかな」
「形は見えないが、往来をしていて、何だか後から来るような心持ちがして身の毛のよだつようなことがあるものだな」
「うめえや、今度のは聞きものだ、みなさんモウ少し前へおいでなさい、どうしても真打は違う、何か凄いことがありましたかい」
「ツイこの年の四月頃だ」
「ヘェー」
「まだ桜もいくらか残ってる時分だが、ある晩南風がふいて、どうも頭が(や)めて、床に入っても眠られん」
「ありますねえ、茶に浮かされて……」
「よしねえよ、むこうが話をしているのに、こっちで余計なことをいうな、ズンズンどうかおやんなすって……」
「どうもなにぶん眠ることができない、随分これも苦しいものだ、一つ庭内でも歩こうと思って、夜中ではあるが、庭下駄をはいて出た、朧(おぼろ)夜で殊更に凄いものだ、ふと思い当たった新仏の忌日に当たるのがあるから、墓場へ参って、経(きょう)の一巻もあげてやったら功徳になろうと、ブラブラと墓場へ参って見ると、あたりはシンシンとしている、もはや丑満(うしみつ)木茅も眠るというが全くだ、どうも誠に静かだな」
「どうも恐れいったね、商売商売とは言いながら、ナァ兄い、こちとらなどは昼間でも何だかいい心持ちはしねえ、それを真夜中に墓場へ行くというなァ驚いたね」
「墓場に向かって、愚僧が経文を唱えていると、後ろで、坊主、と哀れな声で呼んだものがある」
「ヘェー、何が呼んだんで」
「後ろをふり向いて見ると、朧夜でハッキリと分からんが、何がいるか、影も形も見えない」
「何だろう」
「呼ぶには確かに呼んだ」
「不思議だなァ」
「ナニ、 そういうことはよくある」
「また始めやァがった、何がある」
「声はすれども姿は見えず、ホンにお前は屁のようだという都々逸がある」
「馬鹿ッ クダらねえことをいうな……方丈さま、気にかけねえで、どうかお願い申します」
「愚僧は別に心にも留めず、またぞろ経文を唱えていると、坊主と再び呼んだ、何者かいるに相違ないと、声を便りにそば近く進んで見ると、ゾッとしたな」
「何でございます」
「そこに山の芋があった」
「何だ」
「坊主坊主の山の芋……」
「これァいけねえや、先生のよりも悪いや、あっしゃァまた新仏だというから、そこへ幽霊か何か出て、和尚さんの引導の渡し方が悪かったと、苦情でもいうのかと思ったら、坊主坊主の山の芋なんざァ怖くも何ともねえ、皆さん嬉しがってちゃァいけねえ、最初の約束だから本当におっかねえ話をしてくれなくっちゃァいけません……今度はあの御親類の旦那、どうぞ一つあなたお願い申します、お聞きの通り、先生が幇間に座頭の一件で、また今度が方丈さまの山の芋、どっちもいけません、あなたから新規まき直し、本当に田舎であったことで、私どもの耳に聞かしていいだろうということを一つお頼う申します」
旦那「ではマァ一つ私しも仲間に入って、ありのままのお話を一つやりましょうかね」
「ヘエ、今度こそは聞きものだ、旦那、モットこっちへおいでなすってやって下さいまし」
「マァ今せいぜい考えてこれを話したら江戸の人の耳に珍しかんべいと思ったことが一つあるでがすな……」
「なるほど、どうかなるたけ分かりよくやっておくんなさい」
「私の村内におなべちゅう女があるでがす、年は十七でがすが、えかく親孝行ものでがしてな」
「ヘェー、親孝行の話しは後廻しにしてどうか怖い話を一つ……」
「イヤ、これが怖い話でがす、親父に垢(あか)のついたものを着せては毒だんべいという考えで、寝衣(ねまき)でがすの、襦袢(じゅばん)このようなものを洗濯に持って、山家(やまが)のことでがすから、谷川でもって洗うでがす、マァ白い物など綺麗になりますよ、水が良いから」
「ヘェー」
「ボチャッカ洗濯しておりますと、後ろへ来て、何だか撫でる奴がある」
「何を撫でましたね」
「尻を撫でました」
「助兵衛の奴だな、女の尻を撫でるなんて……」
「おなべ女(じょ)も、何だか障ったものがあると思ったから、後ろを振り向いて見ると、影も形もねえ」
「ヘェー、やっぱり山の芋かね」
「黙ってろい、折角の話を打ちこわしちまわァ……旦那、かまわずやっておくんなせえ」
「山の芋ではないけれども、確かに障ったに違えねえがと、どこを見廻しても何もいねえ、今度悪さをしたら取っ捕まえてくれべいと思って待っていると、ハァ、また手を出して撫でたでがす、その手をひっ捕まえて、いきなり肩へ手をかけて、大力(だいりき)の女(あま)ッ子だから、大地へバッタリ叩き付けました、するとキャッといって死んでしまった」
「ハァ、何んでございます」
「それが身の丈三尺もあろうという貉(むじな)[^69]でがす」
「ヘェー」
「それからマァ洗濯ものと一緒に縄でひッ縛って、ズルズル引き摺って帰って来ました、すると村の者がこれを見付けて、追い追い集まって来たが、時々おなべ女が力業を出して、騒動が起こるので、ちょっと若え者が戯談でもいうとはり倒して、顔が半分歪んでしまったり何かすることが、今まで幾らもある、また今度も力を出して貉を殺して来たというわけで、よくよく見ると、これがハァ士地にクギ山という山がある、椚(くぬぎ)がえらくあるので、椚山というだけれども、俗にクギ山チウでがす、その山に、大きなハァ年古く棲(すま)っている貉だ、それは大変なことをした、定めし孫曾孫玄孫も沢山いるに違えねえ、それがハァじいさんの敵だ、大じいさんの敵だと、田畑でも荒されるようなことがあっては、水呑み百姓が水も呑まれねえようなことが出来するが、どうしたらよかんべい何しろ貴様大変なことをしたというわけで、総寄り合いをぶつべいと、山の中段の長禄寺という寺で早鐘をつき竹法螺をふき、板木を叩くという騒ぎで、何か椿事が出来したに違えねえというので、ゾロゾロ集まって来て、本堂の真ん中へ座ったのがマァ三十六人、ここで相談ぶったところが、どうしたもんだんべえ、どうしたもんだんべいと、誰もハァどうしたもんだで、果てしが付かねえ、誰でもいいから、こうしたらよかんべえと、自分の思っただけのことをいったがいいとなったが、誰も物を言わねえ、そのうちに源左衛門という、これはこの中でも一番年かさだが、私はハァ隠居の身体で、本来口出しするところでねえからってたが、いかにもみんなのいう通り、田畑を荒されるに違えねえ、これを防ぐにはきゃつらの怒りをやすめるに限る、そうするには、この打ち殺した貉を神に祀って、貉神社とか何とかいう祠(ほこら)を建ってやったらよかんべいと思うがどうだというと、居合わせた三十五人の者から、それはいかねえといって出る者が一人もねえ、デは誰も不服はねえようだから、神に祀るべえということになると末座の方にいた花之丞という者でがす」
「花之丞、ヘェー、役者ですかい」
「役者ではねえけれども、マァこれが村一番の学者で恐れいったことには、いろはなんぞそらで書きます」
「ウフッ……」
「どうして年は若えがなかなか人に用いられている、その花之丞のいうことだから、まんざら不理屈でもなかろうと、聞いてみると、貉を神に祀ることに私は異存ねえが、肝心の殺した本人がこの席におらねえ、殺した者がここにいたらば、その当人の考えもあるべいし、また後々こんなことをしてはいけねえくらいのこともいって戒める、また当人の心持ちになったら、俺に一応の相談もかけねえというは不服だというと、女子(あまっこ)とは言いながら、古貉を張り殺すほどのおなべだから、何をするか知れねえ、兎も角も呼びにやって話ぶつがよかんべえというと、一同なるほどそれに違えねえとなって、直ぐに村へ呼びにやったから、おなべ女が早速やって来やした、相談かけて見ると、この野郎ども大勢集まって、何をそんなにおっかながる、貉の一匹や二匹殺したって、何でもねえことだ、神になんぞ祀ってどうなるか、おなごの尻など撫でるような助兵衛な神様ができて何の願えごとが叶うだ、恐れる事も何にもねえから、味噌汁にして食ってしめえと、一同の留めるのもきかねえで、貉汁をこしらえてあまッ子一人で食っちまった」
「ヘェー大変な女があったもんですね」
「サァこれが評判になって、御地頭の耳へ入ると、殿様から、妾にしてえという御沙汰[^70]があった」
「じゃァ大方女がいいんで……」
「ところが不緻縹(ぶきりょう)だ」
「ヘェー、何でそれを妾になんぞしようてえんで……」
「そこは武士の目の付けどころが違っていたものだ、そんな勇気のある女の腹に出来た子供では定めし英雄になるだろう、偉い子供さえ出来れば、容貌のいいわるいに拘わらねえというので、とうとうお妾になって、親父どんは今ではハァ米の飯を食ってるような身分になりました、左うちわというわけで、時々村へ来るにゃァ鋲(びょう)打ちの乗り物[^71]に乗って来るような身分になりました」
「ヘェー、偉いことになりましたな」
「マァ仕合わせの女があるもんで、世の中のたとえにもあるだが、女貉食って玉の輿に乗る……」
「旦那、冗談じゃァねえ、お前さんまでがそんな話をするってえことがありますかい」
「ソレ見ねえ兄い、お前さっきから口出しをするなの、黙っていろのって、俺っちに叱言をいって、こんな田舎者に馬鹿にされて、これでも江戸のチャキチャキ兄いだと巾を利かせる料簡か……」
「ウム、皆さん少しどいておくんなさい、サァ少しどきねえ、私が新規蒔|き直し、今までの三人は取り潰しだ、河内屋の旦那、皆さんの番を越して済まないが、私しがやりますからようげすかえ」
「どうぞお頼う申す」
「サァ兄いシッカリやってくれ」
「てめえ達またまぜッ返すな、俺ァなァみんなのような落語なんぞじゃねえ、本当にあったことだ、マァ人というものは四十五十と年をとって来ると、若い時分に無法のことをしたことを思い出してもゾッとするようなことがあります、とりわけてわっちどもは随分乱暴もしたが、苦労もした、恥を話さなけりゃァ分からないが、わっちは町内で生まれてこの町内で育った人間だが、両親に早く別れて、人手に養われ、夫れでもどうやら町内で熊五郎といわれるようになりましたが、小博奕が好きで悪さばかりしているうちに、二十何年かあと、私ちが丁度二十一二の頃だ、よせばよかったが、コケ博奕に手を出して、そいつが半間に行ってスッカリ、取られ、近所へ借金だらけ、どうにもこうにも仕様がねえんで、土地をうりたかァねえんだけど、中仙道熊ヶ谷の宿[^72]に、少しばかりの親戚があるからそこをたよって少しの間辛抱をして、幾らか稼ぎ貯めて、帰って来て、義理の悪い所へは詫びて歩いたらもとの体になるだろうと、思い切って江戸を飛び出して、夏のことで日は長いが、早く経ってドンドン歩いて十六里、熊ヶ谷の堤へ来たのが晩方だ、夏の天気によくある奴で、ギクギクしていた空がにわかに曇って、ドンドン雨が降って来る、雨具はなし単衣一貫、山道の手拭いを被り、着物が濡れるので心持ちが悪いから、雨に会うと駆け出すようなものだが、それさえ構わなけりゃァ寒い時分じゃなし、涼しくっていいぐらいなものだ、雨に当たりながら堤をブラブラ歩いて来ると、堤の片ッ端に七十をいくつか越したというぐらいな、爺さんが病いが起こったと見えて、胸を押えてしきりに苦しんでいるから、爺さんどうしたえ、可愛想にどこか痛い所でもあるようだが、せめて水でも呑ましてやろうと、堤を下へ降りて、手拭をしめして爺さんの口へ当てがって搾り込んでやったが、歯をくいしばって水も思うように咽喉へ通らない様子、何しろ年寄りの一人旅、持病の疝癪とか何とかいうんだろうが、何か合い薬があるかも知れねえ、ふところへ手を入れて見ると、内ぶところに蛇が蛙を呑んだように胴巻が四角にふくれていやァがる、こいつが手先に当たったのが、こっちの因果、先方の因縁か……マァ皆さんしゃべっちゃいけませんよ、私ちは本当の話をするんだから聞いておくんなさい、懺悔をすれば罪が滅するというから、こういう時を幸いにお話しをするんだが、もとよりこっちは人を殺そうの、金を取ろうのなどという了簡はねえ、病いに苦しんでいる爺さんが可哀想だから、介抱をしてやるつもり、懐中へ入れた手に当たったのが、その金だ、アアあるところにはあるもんだ、こんな爺さんの懐中に、こんなに金があるものかと思ったら、何だかいやァな心持ちになった、フラフラと悪心が起こって、俺がここを通り合わさなけりゃァ、一人旅のこの爺さん、熊ヶ谷の堤で死んでしまうんだ、介抱してもことによりゃ六ヶ敷(むつかし)い[^73]命、どっちにしても助からねえ爺さんだ、サァ今楽にしてやるからと、手拭いのしめっているのを幸いに、忘れもしねえ山道の印の付いた手拭いをグルグルと咽喉へ巻いて……」
「オイ兄い、よしねえよ、つまらねえことをいって……」
「いいやな、モウ古いこった、おっかねえ話だから皆さん聞いておくんなさい、ギューッと締めると、グウもスウもねえ、ドダリぶッ倒れてしまった、胴巻をズルズルと引き摺り出して見ると、紫ちりめんの胴巻、隅のところに白い絹糸で、山形に二の字が縫ってあった、金は取り交ぜて百両……百両という金があれば江戸へ帰って兄いとか、何とか人に立てられるんだ、草深い所へ行って、くすぶるにゃァ及ばねえと、直ぐにとって返して鴻ノ巣の宿へ来たのが夜中だ、そのうちには夜も明けるだろうが、なまじい懐中に金が入ってみると、何だか心持ちが悪くって、夜旅は出来ねえ、たった一軒宿屋の行灯(あんどん)がボンヤリついている、汚ならしい家だが、どうせいい宿屋は起きちゃァくれめえ、ホンの足を休めるだけだと起こしてみると、寝ぼけまなこで女中が起きて来たから、気の毒だが泊めてくれろというと、お入んなさいまし、湯がねえから水で足を洗い、手拭いで体を拭いたまま、こっちへというから行ってみると、汚ならしい、陰気な座敷だ、そこへ床を敷かして、蚊帳(かや)を釣ってくれたから、その中へ入ったが、どうも寝られねえ、雪隠(せっちん)へ行きたくなったから、女に聞いて廊下を行って見ると、便所(ちょうずば)の中へ入ってしゃがんだが、むこうの高いところに夜通し点いている灯火、ボンヤリしていたが、急にパッと明るくなったから、胆を潰して見ているうちに、また暗くなった」
「モウいいやな」
「何をいってやァがるんだ、俺が本当に怖い話をするんだ……どこから風が来たか、また明るくなった途端にその灯火がパッと消えたまま真暗がりだ、見るともなく前を見ると、前の壁に明るいうちは見えなかったが、そこへヌーッと人の顔が現われた」
「兄い、モウ話はよそうじゃねえか」
「うるせいやな……皆さん懺悔話だからどうか聞いておくんなさい、額のところから血が流れて、口惜しまぎれに、唇をかんだものと見えて、口からダラダラと血が流れている、どうも壁の中に人の姿が見えるわけがねえ、気を落ち付けて見ると、その姿が見えなくなった、アア自分の気で気を病むというのはこれだと、驚きもしねえで、ひらきをあけて手を洗おうと思って、手洗鉢の中を見ると、さっきの爺の顔がアリアリと映っているんだ」
「ヘェー、いやだぜいやだぜ」
「イヤ黙って聞け……俺のつらを見やァがってニヤニヤと笑った……」
「アッ、何をするんだ、人の面をなでて胆を潰したぜ」
「俺もその時には本当に怖かった、サァそれからというものは、何を見ても、その爺のつらに見えるんだ」
「モウよしねえよ、俺は変な心持ちになって来た」
「これが本当に怖い話しだ、まだまだこれからだ……」

 ボンボンボン。

「オヤお手が鳴るぜ、どうしたんだ、今日はお客さまは一切しない筈だが……」
「エエツイ取り込んでいて旦那へ申し上げませんでございましたがお馴染のお客さまがおいでになりましたから、今晩はこれこれでございますからとお断りしたんでございますが、泊りつけない宿屋へ行くのは嫌だし、わしも話は好きだから仔細ないと仰るもんでございますから、お一人だけお泊め申しました」
「どうもそれはいけない、お馴染のお客さまなら尚更疎忽(そそう)でもあっては申し訳がない、せめてモット遠いお座敷へ御案内すればいいに、どうもお客様を置きッぱなしにしてお前達が話で夢中になってちゃァ困る、仕方がないから私が行ってお詫びをして来よう……エエ今晩は、御免下さいまし」
「アア大分お忙しいようで……」
「ヘイ、只今下で叱言を申しましたが、今晩は毎年例になっておりまして、お馴染のお客さまでも、一切お泊め申さないことに致しておりますので……」
「アアその話も聞いたが、どうも馴染みの家でないと、道中のつかれが休まらんで一晩眠れんというようなことがあるんで、無理にお頼み申して泊ったところが、いろいろの話の中に、熊五郎という人の話が聞こえたが、あの熊五郎という人はいくつぐらいの方ですな」
「左様、モウ四十を少し越しておりましょうか、至ってガサツ者で、何かあなたに対して失礼のことでも……」
「イヤナニ失礼も無礼もないが、その男が二十何年前熊ヶ谷の堤において、七十に余る爺(おやじ)をしめ殺して、百両という金を奪いとったということが、確かに私の耳に入ったが、山道の手拭いといい、紫ちりめんの胴巻に白い絹糸で、山形に二の字の印、すべてガッチリ合ったが、シテお前さんは当家のお手代[^74]か」
「イエ、金兵衛にございます」
「御主人なれば大事を明かすが、どうか他言は無用に願いたい、実は私は敵を尋ねる身の上……」
「ヘェー、しかしあの男はなかなかそういう人間ではございません、ガサツ者ではありますが、人を殺すなどということは決してございません」
「イヤ、お前が何も言うところはない、山道の手拭いといい、胴巻といい、本人の言葉といい、確かな証拠で、お前に別段相談をする必要はない、今飛び出して一打ちとは思ったが、それを留まりお前を呼んだのは、お前の家はかねて馴染みでもあり、ほかに客のある所へ不意に躍り出して、他人に怪我でもさせてはならんと、心を沈めてやんだわけだが、そこが相談だ、お前の迷惑にもならず、又来合わした人々の迷惑にもならんという法は、明日の朝、夜が明けたら、お前の家のしきいをまたいで、名乗りかけて敵を討とうという私の心持ち、もしもこの事が洩れて、敵が逃げるというようなことがあると、もはや外に致し方がない、どうぞその敵を逃さんように、お前がシッカリと預かってくれることはできないか」
「へェ、そう願われますれば、誠に結構で、手前方でもお客商売でございますから、大黒屋に讐(かたき)討ちがあったということになると、商売にも障りますが、閾の外で名乗りかけて敵をお討ちなすって下されば、有難いことで、どうぞこれは私にお任せ下さいまし、決して逃すようなことは致しません」
「それでは確かにお預け申した、もし取り逃すようなことがあれば、お前を敵と相手取り……」
「どういたしまして、 必ず逃しは致しません、いずれ明朝お目に懸ります」

 と主人は慄えて降りて参りまして、奉公人を集めて相談。

「何しろ逃がした日にはこっちが敵と見做されなけりゃァならないから、今のうちに、気の毒ではあるが熊さんを縛ってしまおう、何も知らないでしゃべってるところをだしぬけに縛るのが一番だ、お前達無暗にぶって怪我をさせるといけないから、棒なんぞを持つな、縄だけ持って行きゃァいい」

 スッカリ話をきめて置いて、不意に熊さんの背後から大勢おどり掛かって縄をかけた。

「やァ何をするんだ、今のは本当の話じゃねえ、いい加減のことをいったんだ」

 と頻りに言い訳をしたが、 

「何をいやァがる、てめえゆえに迷惑が掛かっちゃァ大変だ」

 と高手小手にいましめて、声を出すから猿ぐつわをはめて、台所の柱へ結びつけて、奉公人一同、てんでに得物を持って、逃げないように見張っております、そのうちに来合わした人々が、だんだん聞いてみると、敵討ちだというんで、シラケ渡って百物語どころではない、ここにいると面倒だから、家へ帰って寝て、明日の朝、早く来たら敵討ちが見られるだろうと、一人減り二人減り、残らず帰ってしまった、宿屋でも女中などは隣の家を頼んで逃げ込み、働きの女などは戸棚の中へ隠れて、夜具の間へ入って寝たふりをしている、男ばかり熊さんのまわりを取り巻いて番をしている中に、間もなく夜が明けました、二階の客人は顔を洗い、茶を持って行くと悠々と茶をのみ、給仕をすると、飯を食い、何の変わりもなく勘定をして、 

「これは少ないがお茶代、いろいろ厄介になった帰りにはまた御厄介になります、今度はどうしても二日ぐらい泊らなければなるまい、誠にお世話さまになりました」

 様子を聞いておりました金兵衛それへ出でまして、

「エエ旦那さまお立ちになりますか、昨晩のお預りものを……」
「ハァ、預りもの……何も預けた覚えはないが、私は時々物忘れをする、忘れたところでお前さんの家なら仔細ないが、何を……」
「エエ昨晩の敵討ちの一件でございます」
「敵討ち……アアそうそう、敵討ち……」
「実は昨晩、逃すようなことがあると、貴様を敵と相手取るからと、厳しい仰せ渡しでございましたから、それゆえいろいろ奉公人とも相談をして、熊五郎という者を、高手小手に縛しめて、台所の柱へくくし付けて置きました、身体中紫色になって、口には猿ぐつわをはましてございます」
「それは大変なことをしたものだ、そんなにしなくてもよかったに」
「イエ、貴様の所のしきいをまたぐと名乗りかけて、敵を討つというお話でございますから、当人を逃がさないようにと存じまして……」
「イヤ、どうも困ったな、モウ敵討ちは止めた、あの男は逃してもいい」
「ヘェー、どういう訳で」
「実は敵討ちは嘘なんだ」
「エッ」
「嘘なんだよ」
「何ですって、敵討ちは嘘です、何でそんな嘘をおつきなさる」
「あのぐらいに言わないと、騒々しくって寝られない……」

[^63]: 甲子待(きのえねまち) ……60を1周期とする十干十二支の一番初めの組み合わせである甲子の日は、ものごとの始まりとして縁起が良い日とされ、人びとが集まって子の刻(午後11時~午前1時)まで大黒天を祀り、飲み食いしながら夜を明かした。「待」は「祭」の意。
[^64]: さのみ怖いという方でもない ……「さのみ」は「それほど」の意。「さのみ~ない」として、打ち消しを伴う形で用いられる。
[^65]: 東海道毬子の宿 ……東海道五十三次の日本橋から20番目の宿場。「丸子(まりこ)宿」とも言った。現在の静岡県静岡市駿河区丸子にあたる。
[^66]: 宇都の谷 ……現在の静岡市駿河区と藤枝市の境にある宇津ノ谷峠のこと。江戸時代以降、東海道整備の過程で宇津ノ谷峠の周辺に鞠子宿、岡部宿が設置された。
[^67]: 道中差し ……旅の道中の護身用に武士以外でも帯刀が許された刃渡り2尺3寸(約73センチ)までの小刀のこと。
[^68]: 得物 ……えもの。使い慣れた武器のこと。
[^69]:  ……貉(ムジナ)は一般にニホンアナグマを指す呼称とされるが、地域によってタヌキと区別されない場合もある。
[^70]: 御沙汰 ……権力者から発せられた指令のこと。
[^71]: 鋲打ちの乗り物 ……大名の奥方など身分の高い女性が乗った豪華な駕籠のこと。
[^72]: 中仙道熊ヶ谷の宿 ……中山道六十九次の日本橋から8番目の宿場。現在の埼玉県熊谷市にあたる。中山道は江戸前期には「中仙道」と表記されていたが、享保元年(1716年)に中山道と改められた。
[^73]: 六ヶ敷しい ……難しい(むつかしい、むずかしい)の当て字。
[^74]: 手代 ……江戸時代の商家では丁稚と番頭の中間に存在した身分。番頭の指揮下で営業や経理にまつわる実務をこなした。

三枚起請

 蒸し籠にふける息子を餅に搗(つ)きという、古い川柳がありますが、お若いうちはとりわけて マァ間違いがチョイチョイ出来ますもので、全体女郎買いの話というものは、私は初めっから気を入れませんでして、なるべくやるまいやるまいと思っておりました、勿論宜しくない、ただでさいお若い方々が、機会があれば出掛けるという、しかし中には何分か風刺的の話もないでもない、三枚起請という落語、つまり振られ話という、女郎買いというものはこういうものである、決して行くものではないという落語とはいい状|、一面から言えば立派な通俗教育談といっても差し支えない、それ程大げさなものでもございませんが、しかし御婦人方には誠にお気の毒様で、女は女郎買いというものをした事がないから、聞いても何にもならないと仰られると一言もございませんが、よく噛みしめてお味わいになれば、嫉妬の材料ぐらいには確かになります。 

「若旦那、どこへいらっしゃるんですえ、エエ、湯に行くんだ、冗談言っちゃァいけませんよ、あなた足袋を穿き替えたじゃァござんせんか、たもとへ夕刊を入れましたぜ、そんな湯屋はありますめえ、マァ後で一緒に行きますからお座んなさい……奴、お茶を入れ替えて持って来な、少し濃くするんだぞ、そこへ置いて行け、そっちへ行ってろ行ってろ、後をピッタリ閉るんだ……マァお茶を上がんなさい、冗談じゃァござんせんぜ、あっしはね、あなたをつかまえて高慢な顔をして御意見をするんじゃァござんせんがね、それじゃァ困るてえんだよ、さっきも大旦那に横町でお目にかかったんだ、棟梁棟梁、忰は辛棒かい、ドーンと来るねえ、おとっさんは何も御承知でござんす、エエ、あなたも御勘当中じゃァござんせんか、憎くって勘当するんじゃァござんせんぜ、店に大勢奉公人を使っているんだ、若え者の見せしめにならねえから、可愛いから勘当もするんじゃァござんせんか、少しは料簡が直ったかと、今日は何とかいって来るかとか、首を長くして待っておいでなさるんだ、そりゃァ行くなじゃァございません、行くなには違いないが、つきあいなれば女郎もお買いなさい、芸妓買いもおしなさい、芝居でも相撲でも、寄席なんか毎晚行っても構わねえ一番安心の道楽だから、そうのべつじゃァ困るてえんだよ若旦那、私も世話がいがねえてえお話じゃァござんせんか、一体マァあなたはどうなさる思し召しなんです」
若「棟梁、どうも弱ったねえ、お前にそうやって正面から意見をされるというと、私も一言もないんだけれどもね、どうも今度という今度は仕様がないんだ、全体寿命ものなんだからね、何しろお前何だもの、私の顔を一日見なけば御飯が食べられないというんだろう、二日見なけりゃ気がふさぐというんだ、三日会わなけりゃァヒステリイが起るというんだろう、うッちゃって置きゃァ人命に関わるじゃァないか、大きく言えば国家問題だろう……」
「呆れ返ったなァほんとうに、そんな事をいってね、みんなだまされてるんだよ」
「ヘン、御冗談でしょう、そりゃァね、女郎はお客をだますぐらい知ってますよ、あれに限ってはね、棟梁の前ではなはだ失敬だけれどもね、そんなはん……冗談でしょう、確かな証拠があるんだからね」
「何です確かな証拠てえのは」
「書いたものがありますよ」
「書いたものってえと起請てえやつかい、こりゃァ不思議なもんだねえ、今時女郎の起請なんてえのは珍らしいね、お見せなさいな」
「こりゃァ見せられないよ、嫌だよ」
「こっちが嫌だ、誰もいねえんだからお見せなさいよ、若旦那」
「そうかえ、それほど御執心なれば御覧に入れるけどもね、棟梁、お前大切に読んでおくれ」
「フン、有難くと来てやがらァ……これですかい、謹しんで拝見をしますよ、なるほど、一起請文のことと、大層古風の文句でござんすね、妾(わたし)事御前様と夫婦の約束致し候上は……フン、アア若旦那、この田中やすてえ女はこりゃァ京二の一力楼の源氏名春駒てえんじゃァござんせんか、ここにほくろのある、品川からいつか住み替えた、そうでしょう、ヘエヘエ、マァチョイト少し待ってくんねえ……やァこりゃァ驚いたねどうも、マァどうも呆れて物が言えねえね、馬鹿馬鹿しいったって今嬶がいねえからようがすけれどね、この女は若旦那、私の方が先口なんだよ、この頃チョイト足を抜いてますがね、品川にいる時分からせっせと通って嬶ァともさんざっぱら喧嘩もしましたが、驚いたねどうも私しの馴染みがあなたの方へ廻っているとは思わなかったね、サァ御覧なさい、これでござんす」
「エッ、お前もあの女にこの起請……アアア、おんなじもの、こりゃァ驚いたねどうも」
「あなたより私の方がどのくらい驚いたか知れませんよ、面目次第もねえくらいだ、穴がありゃァ入りてえんだ」
「何だね棟梁、考えてみるとこの女にだまされていたんだ」
「考えてみなくってもだまされていたんだ、あなたばかりじゃございません、私の方が一足お先にだまされていたんだ」
「畜生畜生、そんなわけはないんだ、畜生アア口惜しいね棟梁、口惜しい……」
「オイオイ若旦那、何です見っともねえ、泣いたって仕様がねえや、アア、静かにおしなさいよ………ヘイ、どなたです………アア、凸山さんか、マァお上がんなさい、差し合いじゃァございませんよ、伊勢六の若旦那の猪さんきりだ、マァお上がんなさい」
「ヤァ、こりゃァ伊勢六の若御主人ですが、アア何か珍談でもあるですか」
「珍談じゃァねえよ先生、耳だよ、大分出掛けるてえじゃァござんせんか」
「ハァどこへですか」
「トボケちゃァいけねえ、吉原へさ」
「アアこりゃどうもこりゃァ恐縮だね、ハハハナニね、風評ほどでもないですがね、アア縁というものは不思議なもんでね、アア回顧すれば去年の四月でした、しかも第四の日曜ですがね、僕と山田と小島と三名で初めて上がったのが縁になって、以来毎月三回ずつは必ず行くですね、イヤどうもあれとは非常に情意投合したですね、デ来年の三月は年が明けるから、その時には僕と同棲して円満なるホームを造るのを楽しんでいるですが、そりゃァまだ僕は国もとの親父にも言わんのさ」
「オヤオヤ、若旦那、殖えましたよ、一人患者が、陽気が悪いからね、先生、冗談じゃござんせんぜ、そんなことは甘え文句だ、エエ版摺(かんぱん)の台詞でござんすで、紋切形だ、古すぎますよ、年が明けたらお前の所へキット行く、断わりの口というんじゃァござんせんか」
「イヤそりゃァ大丈夫さ、そりゃァそりゃァそれには確乎不抜なるところの契約書が取り交してありますからね」
「ヘェー、契約書、やかましいことになったね、マァ仮名で書きゃァ起請てえやつですね、ヘヘー、なるほどな……若旦那、妙なぐあいだね……先生、その起請てえのを一ッ見せておくんねえな」
「ヤ、こりゃァ見せられんさ、これはね、アア余人に見せべき性質のものではないですからね、公衆の面前で公開すべきものではないですから……」
「オーヤオヤ、演説が初まったよ、何だか知らねえ、先生見せておくんねえ、誰もいねえんだよ、若旦那きりなんだから心配はねえ、それに就いて心当たりもあるんでさァ、マァ見せなさいよ先生」
「そうですか、アアでは御参考のために御覧に入れますがねこれですがね、これはその制規の印紙は貼用してありませんが、法律上正に有効なるものですからな」
「へエへエ、左様でござんすかね、大層やかましいことになったね……若旦那、御覧なさい、参考に見せると仰るんだ、なるほどこりゃァ驚いた、若旦那御覧なさいよ、やッぱりレコ[^75]だよ、呆れたもんだねどうもあの女は、何てえ奴でしょう、図々しい畜生があるもんだね……先生、しっかりおしなさいよ、エエ、嬉しがってこんなものを持っていちゃァ困るぜ、御入用ならまだ何枚でもあるんだから……サァ御覧なさい、この一枚、こりゃァ伊勢六の若旦那猪さんが貰ったんだ、まだあるんだ、これは甚だ面目ねえが私しが貰っているんだ、チョイト近え町内に三枚あるんだがね、この調子じゃァ調べたら東京中にはモウよッぽど出ているね」
「これは一体どこから出るです」
「お札じゃァねえよ水天宮様の、エエ、モウやられているんだ、情けねえもんだねえ先生、エエ、御覧なさい、三枚ながら差し出し人は一ッだ、同文電報だ、よく先生御覧なさい、御参考に御覧なさいというんだよ」
「こりゃァ同文ですな、こりゃァけしからんねどうもこりゃァ、彼女はそもそも僕に惚れていらん」
「あたりめえだ、これに懲りてモウよしっこだね先生、馬鹿馬鹿しいね」
「ヤ、どうも実に心外ですなどうも、けしからんですねどうも、実にどうも、僕はこれから直ちに彼女に面会をして激烈なる談判を試みるです……」
「先生、マァお待ちなさいよ、其様な談判なんかしたって仕様がねえじゃァねえか……何を、ふざけちゃァいけねえよ、先生はだますのが商売なんだよ、キャーキャァ騒ぎゃァ恥の上塗りじゃァござんせんか」
「ヤ、実にけしからんです、僕は到底うち捨て置かれんねどうも、何か手段はないかね、復讐手段は……」
「マァ待っておくんねえ先生、そんなにお前さんアフアフ鼻の穴を大きくしたって仕様がねえや、これは殴りゃァが傷がつくんだ、殺しゃァ化けて出るんだ、恥をかいた上に銭を遣わなくっちゃァならねえ……マア静かにおしなさいよ、私もね、まんざら口惜しくねえこともねえんだ、若旦那も左のごとくなんだ」
「そうだね、何かうめえ工夫はねえかね……」
「こうしましょう今夜ね、三人が出掛けましょう、エエ、御兄弟としてさ」
「同窓会で、不思議な御縁だねこれも」
「デ私はね、一番先に上がります、今から行きゃァ本店だ、私が部屋へ通りますからね、あなた方は後から別々にお上がんなさい、デ私の部屋にね、女がいねえと見たらソーッとおいでなさい、あなた方二人どっか部屋の中へ隠して置こうというんだ、デこんど女が部屋へ入って来たらば、そこで私は、てめえ品川にいる時分にアアいうものを書いて渡してあるけれども、ありゃァよもや反古じゃァあるめえなと一本釘を刺すからね、途端にお前方二人が出て来るんだ、三人で首ねっこをギューッと取っつらめえりゃァどんな不実な女でも少しは驚くだろうと思うんだがね、そんなこって溜飲を下げようというんだ、どうです先生」
「イヤ、こりゃァ面白いね、なるほど、兎に角ァ、うまいですなこりゃァ、つまり皮肉的復讐手段ですな、ヤ、しかしね、彼女はなかなか弁口が巧いからね曲弁[^76]もするじゃろうもしその場合には我が輩もね容赦せんからね、鉄拳を振るって……」
「モシ、先生冗談いっちゃァいけねえ、そんな物を振るっちゃァ困るよ、どんなことがあっても乱暴はしっこなしだ、ようがすかい、じゃァ凸山さん今夜だからね、日が暮れたら直ぐ出掛けます、若旦那もようがすかい」

 三人相談の上で出掛けましたが、こうなるとモウ万事がシミッタレ、二度と再び行くまいという料簡でげすから、なるたけ銭も遣うまいという算段、中継ぎというやつでウンと腹もこしらえる、大門際で車を返すのも二三が六十銭の祝儀を倹約しようというシミッタレ料簡、棟梁が一番先に時間を見計らって、格子先へ立ちました。

若衆「オヤ、棟梁じゃァござんせんかい、どうも久し振りでげすな、ひどいもんでげすな、スッカリお見限りは……エエ、先日からね、花魁が大変に御心配で……」
「嘘をつけ、何をいやァがるんだい、ふざけるない」
若衆「ちょうど部屋は明いておりますから」
やりて「お客様、おあがんなさいよ……」

 送り上げの声と諸共に二階へ通る、一枚一本か何んかでチビリチビリやっているところへ、階子段がトントントン。

女将「アラ若旦那いらっしゃい……エエ、花顔(おいらん)ちょっとお顔を……」 

 と来れば大概寸法はきまっております。

「さては 伊勢六の若大将登ったな……」

 三度目は階子段の通り板を、ドーン、ドーン、ドーン。

「アラ、凸山さんいらっしゃい、サァこちらへ、マァどうもあなたひどいじゃァありませんか、こないだ何と仰ったの、次の日曜日には僕はきっと来ると仰って、影も容(かたち)も見せないじゃァござんせんか、ほんとうにひどいって花魁が怒ってましたよ、あなたはこの間、乱暴をなさいましたよ、覚えていらっしゃいますか、ビイルの中へウイスキーを混ぜちゃァガブガブ召し上がって、僕が剣舞をどうとかこうとか、ステッキを振り廻して鞭声(べんせい)チクチクもないもんです、電気の球を二ッ壊しちまいました、玉無しにしちまったらお部屋から大目玉じゃありませんか……エエ、今晚はね、あいにく今になって落ち合っちまったんですよ、モウ暇なんですけれどね、花魁だけが景気がいいもんですわ、ねえ、誠にすみませんが名代で御辛棒を願います、何を召し上がりますか、何か美味しい物を……」
「何でも持って来い、台屋総じまいで持って来い、僕は銭は払わんぞ」
「オホホ、大変な騒ぎですねマァどうも……」
「何て声を出しやァがるんだ……」
「棟梁、入ってもいいのかい……棟梁かい」
「若旦那ですかい、ようがすよ、早く早く」
「何だい棟梁、表の二階の騒ぎは、驚いたね、台屋総じまいにして持って来い、僕は銭を払わんぞというんだね、いい料簡の野郎だ、障子がビリビリッてましたよ」
「若旦那、すみませんがね、この空床の中へ入っておくんなさい、モウ直ぐに来ますから……何を、暑いたってちょっとの間じゃァありませんか、ここでもって我慢して下さいよ、サア早く早く、ドジを踏んじゃァいけねえってえんだ、枕しちゃァ困るよ、ようがすかベッタンコに、静かに静かに」
「アア入ってもいいですか都合はどうですか」
「凸山さんかい、都合はお誂いだ、早く入んなさい」
「イヤ伊勢六の若主人はどうしましたか、若旦那はモウこの床の中へ入ってるんでござんすか」
「エエ今晩は、先刻はどうもいろいろ失礼をいたしました、ちょっと一足お先へだいぶ今晚はお暖かでげす」
「ハハァ、空床の中へ、旨いですなこりゃァ、こりゃァ気付かんねえ、どうも何ですか、僕もその中へ入るですか」
「冗談いっちゃァいけねえよ、空床の中へ二人入れやしねえよ、先生はねこの屏風の後ろ、こっちの方が役がいいや……早く早く、草履の音がしますからさ、動かしちゃァいけねえぜ……マァ先生しゃがんでしゃがんで……」
「僕はモウしゃがんでいる」
「恐ろしい大高(のっぽ)だね、お前さんは頭を引き込ましてくれねえじゃァいけませんよ、巻きたばこを喫(す)っちゃァいけねえよ……シッ……」
女郎「アラ、棟梁すみません、まだお前起きてたの……」
「何をいやァがるんだえ、寝なきゃァてえげえ起きているんだ、眼を明いて座ってるんだ、起きてるか寝てるか死んでるか活きてるか分からねえかい……何を、俺ァ気まずいよ、何をいやァがるんだい、今始まったんじゃァねえやい、気まずいついでに、おらァ嫌なことをお前に聞くんだがな、お前品川にいる時分に俺に書えて渡したものがあるな、俺はあれを有難がって持っていたがな、ありゃァお前よもや反古じゃあるめえな」
「何をいってるんだよ本当にさ、どうかしているね、お前さん、冗談も大概におしよ、あんなものがね、洒落や道楽に書けるかよ、ふざけちゃァ困るよ、しっかりおしよ」
「フン、俺もマァ自分じゃァ随分しっかりしているつもりなんだがな、それじゃァお前に聞くんだがな、俺ァ起請てえものは昔しから大概一枚ときまっているもんだと思ったがな、この頃吉原へ流行るもんか何かでもって、毎晩お客に一枚ずつ書いて渡すかい、広告がわりか何かになるから、いうんだい、篦棒め、てめえなんだろう、伊勢六ってえ呉服屋の息子猪さんてえ人に書いて渡したろう」
「棟梁、何をいうんだね、マァ静かにしておくれよ、今夜猪公が来ているんだよ、さしになっているんだァね、書いたっていいじゃァないかあんなものを、嫌だよ本当にさ、ナニねえ、いくらかレコ(銭)が廻ると思うからあんなものをやってつって置くんだよ、御勘当もないもんだね馬鹿野郎、本当にさ、あいつはよっぽどおめでたいね、エエ、甘太郎だよ、サッカリン野郎、単舎利別[^77]が聞いて呆れらァね、白くふくれてやァがるんだ、フン、水瓶のおまんまッ粒だねえ、御免蒙るよ」
「オイ、若旦那、寝ている場合じゃァねえや、甘太郎、お目出度えと、サッカリン野郎、単舎利別、水瓶のお飯まッ粒って言われて、お起きなさい」
「ヤイ畜生、誰のことをいやァがるんだ、サッカリンだの単舎利別だの、水瓶のおまんまッ粒とは誰のことをいうんだ……」
「アラッ、チョイト若旦那来てたの……」
「静かにしろい間抜けめ、若旦那だけは満更でもねえ、ふざけやァがるない篦棒め、まだあるんだ、凸山てえひげのはいた書生にも渡したろう」
「何だねえ、オイ、野中の一軒家じゃァないよ、静かにおしよ、書いたっていいじゃァないかあんなものをさ、玉帳汚しだよ、鎹(かすがい)にやってあるんだァね、商売冥利でもってね、あんな嫌な奴のところへも勤めに出るんだよ、何だ、凸山ってアン畜生、人間じゃァありゃァしないわ、いつ来ても乱暴ばかりしやァがって、うるさいたってしつこいったって、 寸伸び野郎、日蔭の桃の木、半鐘泥棒、電信柱、十二階、甘酒野郎てえんだ、名を聞いてもゾット身震いが出るんだよ……」
「こりゃァけしからんねどうもこりゃ、こりゃァけしからんねどうも、かりそめにも凸山政勝を捉らえて日蔭の桃の木、半鐘泥棒、電信柱十二階甘酒野郎とは何か、コリャ寸伸び野郎とは何か、コリャ……」
「オイオイ先生、静かにおしなさいよ……何をッ、あんまり侮辱されたから名誉毀損の告訴を起こす、冗談いっちゃァいけねえよ、告訴なんてえ場合じゃァないよ……マァ若旦那も静かになさいてえば……オイ、モウ少し前へ出や悪い洒落だよ、馬鹿馬鹿しいぜ、なァ、他のものとは違うよ、起請なんてえものを無闇に書いて渡しゃァ若え者はみんなほんとうにするじゃァないか、フン、俺もほんとうにしたけれどもな、罪だよ、嫌で起請を書く時にゃ、熊野で烏が三羽死ぬという……」
「何を言ってやがるんだ、三羽どころじゃァないよ、世界中の烏をみんな殺しちまうんだよ」
「ナニ、世界中の烏をみんな、そんなに殺してどうするんでえ……」
「勤めの身だから朝寝がしたいんだよ……」

[^75]: レコ ……「これ」を逆から読んだ逆さ言葉だが、この場合「金銭」を指す。
[^76]: 曲弁 ……極論を言うこと。
[^77]: 単舎利別 ……甘みを付けるシロップのこと。

かわり目

 酒は飲むべし飲むべからずとか申しまして、飲んで悪いこともあれば、また飲まなければいけない時もございます、とりわけふだんおとなしい人でも酔うと暴れたり何かします、一番始末にいけないのは、御馳走酒に酔って、家へ帰って来て、妻君をつかまえてダダをこねるというので。

女房「それだけ飲んでりゃァ沢山じゃないか、何にが不足でぐずぐず言いなさるんだえ、早く寝ておしまいよ、この人はどうしたというんだえ、早く寝ておしまいよ」
亭主「寝てしまえというのは誰にいうんだい、イヤさ、寝てしまえという台詞が気に入らねえや、かりそめにも一軒のたにしに……ナニ戸主(こしゅ)と間違ったんだ、そういう口の利き方をするから人様に笑われるんだ、お前の神さんは亭主を尻に敷くが、亭主野郎もそうだ、嬶に甘いようじゃ、あんまりろくな奴じゃァなかろうと、てめえのお蔭で人にまで馬鹿にされらァ、それも世間にないじゃァない、随分亭主を亭主と思いなさらないかみさんはよくある、あるが、口も八丁、手も八丁、男まさりとか、亭主まさりとかいう神さんならば、また勘弁のしようもあろうけれども、てめえのは何だえ、優るにも劣るにも、尋常(あたりめえ)女だけのことはできねえじゃァねえか、貧乏人の嬶ァにゃァ、てめえぐれえ不経済の嬶ァはねえぞ、飯を炊かせりゃァ焦がしやがるし、汁物(つゆもの)をこしらえりゃァ辛いといっちゃァ湯を淹(さ)し、甘いといっちゃァ醤油(したじ)をさし、二人で吸うのに大鍋に一ぺえこしらえちまやァがる、捨てるわけにいかねえから、この二三日汁ばかり吸ってるじゃァねえか、歩くたんびに腹の中で波を打ってらァ、職人だから丁寧なことはいらねえが、本来ならば俺が帰って来たら、玄関まで出迎えるというまでの騒ぎはいらねえが、迎えにでも出て来て、さてお帰んなさいまし、あなたも大分御酒を召し上がっていらっしゃるから、このままおやすみになるか、それともまた召し上がっておやすみになりますかと、一応はお上(かみ)の方に問い合わすべきが本来だろう、それに何ぞや、帰って来早々寝ておしまいと言われて、俺がそうでございますか、それじゃァおかみさんお先へ御免を被むりますと、まさか亭主がいえるかえ、このオタンチンめ、おまけ裁縫(しごと)は形(かた)なしで、糠袋を縫うのでさえも人頼み、裁縫のことなんぞ言い出すというと、縫う品物も宛がわないから縫えませんと、こう口の減らねえことを言やァがる、もとよりてめえの縫えねえのを知ってるから宛がわねえんだと、そんなら宛がって御覧とぬかしやァがった、よく言った宛がって御覧なさいというなら宛がってやろう、といって良い物を宛がっても、滅茶滅茶にされてしまうから、稽古のために安い反物はなかろうかと考えたら、丁度玉ころがしで当たった反物があったから、これなら二十六銭の反物だから、どっちに間違っても構わねえと思うから、サァこれを単衣(ひとえもの)にまとめてくれろ、どうせ今年の夏は着られめえから、来年の夏までに纏めて置いてくれというと、単衣一枚に半年も一年もかかりゃァしません、お前さんが湯に行って帰って来るまでに、チャンと縫って置きますといやァがった、篦棒め、湯に行くにもいろいろあらァ、向こう横丁の湯に行くのも湯に行くんだ、箱根や伊香保へ行くのも湯に行くんだ、遠方の湯にでも行って帰った時かというのかというと、そうじゃございません、向こう横丁の湯から帰って来るまでに、キッとまとめて置きますと言うから、まとめて置かねえと勘弁しねえぞと、言いッ放して湯へ行ったんだ、去年のことだから忘れやァしめえ、男の湯てえものは早いもんだ、汗を流してすぐに帰って来ようと思ったが、イヤイヤそうでねえ、みすみす縫えねえのは知れているのに、今俺が帰ったら、マゴマゴしやァがるだろうせめて片袖でもまとまった時分に帰ってやりてえもんだと思ったが、時間延ばしをする所がねえ、日中ノソノソ往来を歩いてるわけにも行かず、友達の所へ寄って、将棋を二三番さして、二三時間暇をつぶして、ノッソリ帰って来てやったてえのは、お上にも幾分のお慈悲てえものがあるからだ、帰って来て見りゃァてめえは澄まして煙草をふかしていたろう、それから俺が、サァどうだ、縫えたのか、縫えねえのか、よもや縫えなかろう縫えなけりゃァ縫えねえでいいから、両手を突いて詫(あや)まれ、過(あや)まって改むるにはばかることなかれてえことがあるから、勘弁してやるから、サァ詫まれ、というと、てめえ嫌に澄ましてやァがって、そこに圧(お)しがかかってるから、着て御覧なさいてえから、見るとなるほど圧しがかかってる、その時にゃァさしもの俺も驚いた、アア遅かった、これだけ針仕事ができるんなら、いちいち今まで仕事を外に出すんじゃァなかった、これまでのところは悪かった、勘弁してくんねえ、こういって詫まろうかと思ったが、イヤ待てしばし金火箸と考えた、あんまり新しい洒落じゃァねえが、言葉のついでだから、チョイト洒落るというんだ、圧しを取りのけて、どんな着物が出来たかと、広げて見ると驚いた、単衣にあらずして、真ッ四角な風呂敷が出来上がっていた、おまけに真ん中に丸い穴があいている、これァ全体どうするんだてえと、その穴に頭をはめるんでございますといやァがった、篦棒め、着るから着物てえんだ、これじゃァはめものじゃァねえか、しかし折角できたもんだから、はめなけりゃァ悪かろうと思って、その風呂敷をはめてよ、帯を締めたら手が出ねえや、帯を解いてしまえば観音様の四万六千日で売ってるセンナリ鬼灯(ほおずき)の化け物みたような形になっちまった、あんまり馬鹿気てるから、プっと俺が笑ったら、てめえその時に何てやがった、仕立ておろしを着たと思って、大分御機嫌だてやがったな、あんまり馬鹿馬鹿しいから笑ったんだといったら、お前さんは日本人の着物ばかり見てるからおかしいんだ、仏蘭西(ふらんす)人の寝衣(ねまき)はみんなこんなだてえから、馬鹿にするな、毛唐の寝衣姿なんぞを見たことがあるかてえと、浅草の活動写真でチョイチョイ見るてやァがった、ヘン人を馬鹿にしやァがって、その時にモウ俺は離縁をしちまおうと思ってたんだ、けれども一旦縁あって来たもんじゃあるし、チョイチョイ嬶を取り換えるのも見得(みえ)じゃァなしよ、また女も亭主をチョイチョイ取り換えるのも気の利いたもんじゃねえ、マァマァ俺さえ我慢をすりゃァ落ち付いて行くんだど、三度に一度は文句の一つも言いてえけれども、御近所の御厄介になるのも嫌だと思うから黙ってるんだ、それを付け上がりゃァがって、亭主を亭主と思やァがらねえで、今のような悪態(あくてえ)を言やァがる、亭主を尻に敷くてえのは、はたから見ても見難いし、聞き辛いもんだ、行いを正しくして、言葉を丁寧に遣って、人様が笑うかえ、どんな貧乏暮しをしていてもな、せめて言葉だけでも丁寧にやってみろ、世間の人は知らねえから、以前はどんなくらしをした人かと思わァ、なァ、それをてめえなんざァ、できるッたけ悪くしてやァがる、ウニャ、叱言(こごと)じゃねえや、少しは教育になることを言ってやるんだ、てめえばかりじゃねえや、隣の嬶もよく聞け……何だ、何が悪いんだ、篦棒、大きな声は地声だ、フン面白くもねえ、悪いから悪いてえんだ……エーイ、オイ、お多福、酒がねえや、後を燗(つ)けて来い……ナニお燗がつかねえ、なぜ火を消しちまうんだ、灰をかけて鉄瓶を載せて置きゃァ、いつでも燗が出来るじゃねえか、長家步きばかりしてやァがるから火が消えちまうんだ、冷やでもいいから持って来い……肴(さかな)も何かあるだろう……ナニ、何にもねえ、京都から貰った鷺(さぎ)知らずがあったろうあれを持って来い……ナニ、結構だからあたしが頂戴しちまった……またか、これだからうちにゃァ何にも置けやァしねえ、少し珍しいものがありゃァ、みんなパクパクやっちまって、取って置きやァ悪くなるから頂だいちまったてえやァがる、寒中物が悪くなるんか、こないだしるこやの前を通ったら、悪くなるといけませんからおしるこを一ぱい頂戴しようかしらと言やァがった、あれァ商売だ、誰が悪くするものか……ヤイ、物置へ行って漬物でも出して来い……アレ、何でもハイハイって、重ね返事をしやァがる、素人のかみさんが重ね返事をする奴があるかえ早く行って来い……叱言をいやァ怒るし、ぶン殴りゃァメソメソ泣き出す、あの塩梅(あんべえ)じゃァ、ぶち殺すときっと化けて出るだろう、女子と小人は養い難しと言うがあんまり分からなすぎらァ……」

(表に蕎麦屋の声)

そばや「そばーウィ……」
「ヘン、丁度いいところへうどん屋が来やァがった、オイ、うどんや……うどんやァ……」
「ヘイ、お呼びなすったのはこちらでございますか」
「呼んだから来たんだろう」
「聞えたから参りましたんで」
「オヤッ、生意気なことを言うね、まるで懸け合いだ……こっちへ入んねえ」
「ヘイ、何を差し上げます」
「無闇に差し上げちゃァいけねえよ、引ッ繰り返すといけねえかな……すまねえがな、この徳利をチョイとお前の、その湯の中へ突ッ込んでくんねえ、ごく熱くしてな……」
「ヘェー」
「どうだえ、そばやさん、商売は繁昌するかえ」
「お蔭さまで繁昌します」
「ナニ」
「お蔭さまで繁昌します」
「お世辞をいうない、お蔭さまったって、何も俺が毎日{総仕舞いにしてやるわけでもねえや」
「ヘヘヘどうも恐れ入りましたな」
「恐れ入ることはねえや……オット、ありがとう、モウ燗がついたのかい、いずれまた何か貰わァ、そこを閉めて行ってくんなよ」
「エエ、親方」
「何だえ」
「何か一つお召しなすって」
「いいよ、今晩はいいんだよ、何にも食いたかァねえから、明日の晩買うよ」
「御冗談仰っちゃいけません、どうか、そんなことを言わずに、何か一つ召して下さいな」
「押し売りは禁止だよ」
「イエ、押し売りというわけじゃァござんせんよ、お呼びなさるから寄ったんで、燗をしろと仰るから、何か召して下さるだろうと思ってお燗をしてあげたんで、私は何も夜夜中道楽で燗をして歩くんじゃございません」
「オヤ、うどんやさん、オツなことをいうね、誰が夜夜中道楽に燗をして歩くといったえ、嫌なことをいうね、今夜買わねえからって、明日の晩買ってやるといやァ分かってるじゃねえか、見りゃァ当たり屋という看板がついてるが、おめえのうどんだってたまには買ってやったこともある、いやに恩にきせるない、ぐずぐずいうところはねえや大きく見りゃァ四海皆同胞お前だって俺だって兄弟(きょうでえ)じゃねえか、兄弟なら、お燗の一本ぐれえ頼んだって、何もぐずぐずいうな、物騒な野郎だ……」
「何が物騒で」
「何が物騒だって、夜夜中、火を担いで歩きゃァこのくれえな物騒なことはねえや、この節火事がチョイチョイあるが、さてはてめえが放火(ひつけ)をして歩くんだろう、ぐずぐずしやァがると向こう脛(ずね)を掻っ払うぞ」
「オッ、これァ狂人(きちげえ)だ 」
「何をいやァがる……」
「そばーウィ」
「ヘン、とうとう怒って帰りやァがった、考えてみりゃァ俺が悪いんだ、からかってから買おうと思うと、怒って行っちまやァがった、短気は損気とよくいった……オャ、嬶ァめ、今時分になって帰って来やァがった……ヤイヤイ、何をしてやァがったんだ」
「オヤオヤ、おかしいね」
「何がおかしい」
「徳利から湯気が出ているね」
「あたりめえよ、温まってりゃァ湯気だって出らァ」
「だって、火もなけりゃァ湯もないんだのに、どうして温めたんだい」
「ヘン、それだからてめえは嫌になっちまわァ、家に火がなくったって、俺なんざァひとりでにチャンと燗のつけられるようなことを知ってるんだ」
「おかしいね、一体どうしたんだえ」
「ヘヘ、実はの、今表へそばやが来たんだ、それから呼び込んで、チョイと温めてもらったのよ」
「アラ、そりゃァいいところへ気が付いたね、じゃァ何かえ、うどんの一つも取ってやって……」
「ウンニャ、何にも取らねえよ」
「だって、酒の燗をつけてもらって、何にも取らないというのはひどいじゃないか」
「ひどくったって、何にもとらねえんだから仕方がねえや」
「よくそれで黙って帰ったねえ」
「よくも帰らねえやぐずぐずいっていたよ」
「冗談じゃないよ、それがお前さんいけないんだよ、夜商人(よあきんど)をいじめたって仕方がないじゃないか、あたしが買ってやるよ」
「止せよ止せよ、コン畜生め、この間から処置ぶりがおかしいと思ったら、嫌にうどんやの肩を持って、てめえあのうどんやとおかしぞ」
「馬鹿なことをお言いでないよ、どこへ行ったろうね……アアあすこへ行く……オーイ、うどんやさん、うどんやさん……」
往来の人「オイうどんや、向こうの材木の立ってる家で呼んでるせ」
「有難うございます……、エ、ナニ、あすこの家へは行かれません」
往来の人「なぜ」
「へェ、ちょうど今頃はお銚子のかわり目でございます」

山崎屋

 『青楼に耽ける息子を餅に搗(つ)き』という川柳がございますが、お若い方は兎角間違いができやすいもので、毎度申し上げる遊びの模様も、当時は大分変わって参りました。大火以来の吉原はほとんど西洋造りになったというので、誰かの悪口に、亜米利加(あめりか)の貧民窟へ行ったようになったということを申しましたが、しかし物はだんだん手ッ取り早くなってきました、当時は某(なにがし)楼という大店で二円とか二円五十銭とかで切符を売り出しまして、まず受け付けへ通ると、遊興費前払いときて「サァこちらへ」西洋館の引き付けへ通る、焼きのりに塩辛いお吸い物か何かで、正宗の二合瓶が付く「サァこちらへ」すぐお引けというのですから、面白みも何もありゃァしません、昔は入山形に二ッ星[^78]、本格の花魁買いとくるとなかなか入費もかかれば気骨も折れたものだそうですが、遊びに行って銭を使って気苦労をしちゃァこんな合わない話はありませんが、それが通人の遊びだそうで、その時分の多くの娼妓の中で花魁と言われるぐらいのものになると……今でも随分えらい娼妓さんもありましょうけれども、なかなかいろいろなものを知っていたそうでございます、活(い)け花、茶の湯はいうに及ばず盆画、盆石、詩歌雑俳、一通りの心得がなければ花魁とは言われなかったそうででございます、誰が工夫をしましたか、廓(くるわ)言葉というものは誠にいい思いつきでございます、国言葉を隠すがためだそうでございます、越後の小千谷、丹波の屁ッ転(ころ)谷辺りから出てきた娼妓は、生国(しょうこく)の言葉をむきだしではちとぐあいが悪いかも知れません。 

「モシイ、セーブラネーカヨー」
「エエ」
「セーブラネーカッタラヨー」
「溝(どぶ)をさらいますかな」
「アレー、分かんねえ人だね、寝ねえかヨンたら寝ねえかヨーン……」

 これじゃァどうもたまりません、その頃の花魁買いは、昼夜で三分の玉(ぎょく)を出しますと、花魁に新造(しんぞ)が付いたとか言います、俗にこれは中三とか称えます。 

若旦那「オイちょいと久兵衛さん」
「何か御用ですか」
「すまないが少しばかり金を貸してもらいたいんだがね」
「またお金ですか、どうも困りましたな、何ほどばかり」
「ナニ大してでもない一寸三十両ばかり……」
「どうもいけませんな、少しばかりと仰いますから、三両か五両のことと思いましたら、三十両というと大金でげすから、ちと手前の懐ではお間に合わせかねますが」
「何をいってるんだよ、お前の懐で間に合わしてくれというのじゃァないよ、ちょいと帳場の金を廻してくれろというんだよ、そろばんを一桁ごまかしゃァそれで済むんじゃァないか、お前だって初めてごまかすのじゃァないんだから」
「何ですって、けしからんことを仰いますね、イエ、次第に依っては聞き捨てになりません、初めてごまかすのじゃァかなかろうとは誰に仰るんです、申し上げては恐れ入りますが、御縁あって御当家へ参って、三十六年も勤続しておりますが、ただ今まで何一ッしくじったことのない番頭でげす、実に山崎屋の久兵衛は堅い番頭で、大黒柱だ、焼き冷ましの餅より堅いといわれている私です、石の橋で転べばガーンと音のする番頭です、とんでもないことを仰います」
「何だよ久兵衛どん、お前そんな野暮なことをお言いでない」
「野暮は持ち前です、ヘェ商人の番頭はまた野暮でも勤まりますのですから」
「オイオイ、大きな声をおしでないよ」
「大きな声は地声です、まだせり上げます」
「せり上げないでもいいよ、そんなことを……なるほどお前は堅い番頭だ、私が悪かったから勘忍しておくれよ、そんなに真っ赤になって怒らないでも主が家来に手をついて……と、投げ節[^79]の文句じゃァないけれども、詫まるんだから勘弁しておくれよ、なるほどお前は堅い番頭だ、ダガ久兵衛どん、人間てえものはあんまり奇麗な口は利けないものだよ、ことわざにいうが、新しい畳でも叩けばほこりが出るというが、全くそうだね、これァお前のことじゃァないけれども、不思議なことがあるんだよ、聞いておくれよ四五日前さ、お約束通り寝坊をしてしまったんで、またおとっさんの叱言を聞くのも気が利かないと思ったから手拭いを提げてブラリッと朝湯……というのもチト面目ないが、正午(おひる)すぎては橘町まで行くとお前(今日休み)と来たのさ、だれたね、どこか湯屋があるだろうと思ってブラブラ馬喰町の通りをまっすぐにちょいと小ぎれいな湯屋があった、男湯にも女湯にも俺一人ぎりだ、鼻唄混じりでせいぜい磨き込んでいるとね、女湯の格子がガラガラと開いたんだ、人情でお前見るじゃァないか、ヒョイと振り返ってみると、ぞっとするようないい女だったね、その女はいい女だけに、若く見えるが、あれでも二十七八かね、おまえ丸髷御召の二枚物か何かで寸分隙がないんだ、ハテな芸者という柄じゃァなし、といって無論堅気の気遣いはなし、確かにここらのお囲いに違いない、こんないい女を妾にして置く奴はどこの何という奴だろうと思ってね、私も物好きだね、待ち合してその女の後をつけて行ったとお思いよ、スルと駕籠屋新道に入りました、右側から来て右側の三軒目か四軒目を入った突き当り、江一格子に御神灯、蝉桐に三ッ瓢簞清元延某という師匠なんだそれじゃァ一ッ混ぜッ返しに飛び込んでやろうと思って、ヒョイと沓(くつ)脱ぎを見ると驚いたね、今脱いで上がった女の下駄は無論粋な下駄なんだが、そのそばにチャンと並んであったのが、イヤハヤ野暮な下駄、山桐の両刳(りょうぐり)で小人島の俎板(まないた)より大きいのに、塗革の万年鼻緒がすがっているんだよ、それもいいがありありと焼印がしてあるんだよ、その印し物がまたまずいじゃァないか、うちの印なんだよ山に崎というね、ハテな、家の久兵衛のによく似ているが……イエさ、お前は堅い番頭だもの、そんなところににいる気遣いはないが、何しろ男がいちゃァぐあいが悪いと思ってね、路次をお前出ようとすると、井戸端でおかみさんが洗濯をしていたからちょっと聞いてみた、モシかみさん、少し伺いますが、この突き当りの家はお師匠さんなんで、お弟子もお取りなさるんでと聞くと、そのおかみさんがおしゃべりで、前掛けで手を拭きながらマァお聞きなさいましよ、詳しいことは存じませんが、何でも近所の評判ではお師匠さんはつけたりで、横山町の山崎屋という鼈甲(べっこう)問屋の一番番頭のお囲い者だと近所の評判なんですよ……お前の気遣いはないよ、お前さんは堅い番頭だろう、焼き冷ましの餅より固いんだ、石の橋で転べばガーンと音がするだろう、ダカラお前さんでないことは分かっている、そこで私は考えたね、きっと近所の者でお前の名前を騙った奴があるんだね、お前があんまり堅くって評判がいいものだから嫉みを起こしてお前に瑕(きず)を付けようという奴があるんだよ、お前の身のためだ、今日はおとっさんにそういって、表向き調べてもらう方がいい、お前さんのためになりませんから、調べてみよう……おとっさん、家の久兵衛はあの駕籠屋新道に囲い者が……」
「若旦那何ですえあなた、そんな野暮なことを……」
「野暮は持ち前だよ、商人の忰はまた野暮でも勤まるんですからね」
「マァ何ですねえ、大きな声を……」
「大きな声は地声だよ、これからまだせり上げるよ」
「せり上げなくってもようがすよ若旦那、これァ困りました、どうも、イイエ、私があなたまでにちょいと申し上げて置かなかったのが久兵衛一生の不覚でございましたな、あれにはマァいろいろ理由があるんでござります、私が何で御店の御恩を忘れて身分不相応の妾狂いなどをする気遣いがないじゃァありませんか、若旦那それはお恨みでございますよ、今になって申し上げれば、何をいっても言い訳になりますが、いろいろあの女については事情があるんで、実はあれは私の家内の妹でござんして、よんどころないところから世話をしているんで」
「ダカラそれでいいじゃァないか、お前のおかみさんの妹かい、ヘェーいい女だねえ、スルと何だねえお前にも義理ある妹とかいうんだね、マァそのつもりで何とかしてね三十両お貸しよ」
「何で」
「何でたって貸せないかい、貸せなけりゃァ、貸せないでいいよ、アノおとっさん、家の久兵衛は駕籠屋新道にお妾を……」
「あなたあなた、何ですえ若旦那、困りますな、それじゃァマァお待ち遊ばせよ、それは三十両が五十両、百両が千両でもつまりあなたの御身代、それをただ私がお預かり申しているのですから、よこせと仰るなれば、差し上げないこともございませんが、そのお金をどうなさる」
「どうなさるって、何だろう、花魁から日文矢文なんだよ」
「ヘエヘエ、デ何でございましょうな、三十両のお金は今晩一晩……」
「当然じゃァないか、マァ私と一度行って御覧な、横山町さんとか、若旦那とかいわているじゃァないか、大分お茶屋などにも借りが滞っているんだし、幇間末社にも義理が悪いくらいなんだよ、三十両じゃァ足りゃァしないね」
「ヘエヘエなるほど、妙なことをお聞き申しますが、その花魁というのは何でげすか、ほんとうにあなたに惚れているんで」
「エエエー、惚れてますよ」
「惚れていますよは軽いな、シテ見ると末は御夫婦にお成り遊ばそうという、寸法なんでげしょう」
「久兵衛さん察しておくれよ、モウ花魁もそれを言い出しては泣くんだよ、どうしてあんな頑固な親父が出来たかねえ、何でもつくづく考えたがねえ、家の親父は何だよ、あたりまえの人間じゃァないんだよ、何でもこの世の中に頑固という国があって、その国から頑固広めに来たに違いないんだよ」
「へェ、どうでげす若旦那、つまりあなたの御身代になるものをですな、御自分でお使い減らしになるぐらい愚かな話はないじゃァありませんか、どうにかして、その花魁と御夫婦におさせ申そうじゃァございませんか」
「エッ、そんなことができるかい」
「素ではいけません、一狂言書くんですな 」
「一狂言書くというと、何かい、おとっさんを絞め殺す……」
「シッ、串戯(じょうだん)いっちゃァいけません、仮にもそんなことを仰っちゃァいけません、大旦那にもおかみさんにも御得心のいくよう扱うのですが、私が何とか才覚を致しまして、兎に角その花魁を親元身請けとか何とかいうことにして、身請けを致しまして、一時頭の宅(うち)へ預けて置くんですね、その花魁を」
「ヘェー」
「ソコでその月の晦日(みそか)のお掛け取りの中で丸の内の赤井様、アノお屋敷だけはどうしても手前が参らなければなりません、そこを何とかかこつけてあなたに行って頂くんでございます、金子(きんす)二百両それをあなたがお受け取りなすったらその足ですぐに頭のところへお出でなすって、財布ぐるみ金を預けて、そのまま店へお帰りになるんで、おとっさん行って参りました、大きに御苦労だった、サァお金をお出しといった時に、ちょっとあなたが身振りをなさるんで、懐や何かほうぼう探して、財布を落としたという思い入れで兎や角しているところへ頭がその財布を持って来る、只今家の表にこういう落とし物がありました、拾ってみると、かねて覚えのあるお店(たな)の財布、もしやと思って持って参りました、金が直ぐに出るんですから大旦那もご安心で、晦日のことですから大旦那に頭の所へ礼に行って頂くんでございます、そこへ花魁が高島田で堅気のなりをしてお茶のお給仕に出せば、おとっさんなかなか女に掛かったらモウこっちのものです、実は家の嬶ァの妹で小さい時からお屋敷御奉公をしていてモウ妙齢(としごろ)になりましたんで、一生奉公も可哀想、当人も、ならば町家の住居(すまい)をしたいと申しますから無理にお暇を戴いて下げたんでございます、たんともありませんが、戴き物をポツポツ貯めたのが塵積もって三百両、これを持参金として、女一通りのことはできますから、どこか相当のところがありましたら、嫁にやりたいと思います、またどうか、お宅辺りはおつきあいが広いから相応のところがあったらお世話を願います、こう頭が言えば欲に掛けてはまた目のない大旦那、それでは忰の徳の嫁にと、こうくること疑いなしじゃァございませんか」
「なるほど」
「頭の妹ではいけないから改めて浜町さんとか本町さんとか親許にして、天下晴れて高砂やと立派にご夫婦になれるじゃァございませんかこの計略はどうです若旦那」
「へェー恐れ入った、大層な智恵が出るものだね、スラスラと、けれども何かい、久兵衛どん、そううまく本読み通りに行くだろうか」
「マァマァ黙っていらっしゃいよ、細工は流々(りゅうりゅう)仕上げて御覧じろというくらいのもので……」
旦那「久兵衛さんや、お前さん丸の内のお屋敷へ行ってくれなければ困りますね、何をしているんです」
「エエ手前が参るつもりでございましたが、今日はその張り合いの面倒な口が二ツございますので、帳場を手放すわけにいかないのでございますが誰か余人をお遣わしになるわけにはなりませんか」
「冗談いっちゃァいけませんよ、どうか都合ができませんか」
「それではいかがでございましょう、手前の代わりと申し上げては恐れ入りますが、若旦那は今日別に御用もないご様子でいらっしゃいますが、若旦那に行って戴いては……」
「オイオイ、何をいってるんだよ、馬鹿野郎がそこで聞いてますよ、とんでもないことをいっちゃァいけません、この頃だいぶ猫を被っていますが、あの野郎に金なぞを取りにやった日には何をするか分かりません、仮にも二百両の掛け取りじゃァないか、エエ、油をしょって火の中へ飛び込むよりモット危ない、とんでもないことを」
「へェ、御心配の筋も一応ごもっともでございますが、お道楽ばかりは人の意見で利くものではございません、若旦那もだんだんとるお年で、今度はほんとうに御改心になったのだろうと私は考えます、兎も角も今日はお遣わしになりまして、首尾良く二百両お持ち帰りになればご安心で、よしまた二百両に目がくれてお持ち帰りにならないようなことなれば、モウかれこれというところはございません、いい加減にお諦めになったほうが宜しゅうございましょう、それァモウ一粒種の若旦那のことゆえ、ご心中お察し申し上げますが、長年ののれんに疵が付くようなことがあってはなりません、お店のためを思って私がこう申し上げるのでございます、ゆくゆくは御親類から御夫婦養子というようなことにでもただ今のうちに御決心になりませんと……マァ私は存じますな」
「ヘエヘエ、なるほどイヤお前さんのいうことはよく分かりましたよ、つまり何だ店のためを思ってくれるからそういうのだ、それは何ですよ、悪くは思いませんよ、どうも私もあのような馬鹿野郎、今の分ではとてもこの身代は護れやしないと思っているんだから、私は構わないが、また家の婆さんがイヤに愚痴ッぽいからね、けれども何だね久兵衛どん、二百両持って来てくれりゃァいいけれども、持って来ないとすると何だね、二百両が縁切り金だね、少し試し金には高いようだね」
「イエ、それが私は大丈夫だろうと思います、受け合います」
「そうかい、じゃァ遣ってみましょうか徳や、徳や」
「おとっさん行って参りましょう」
「どこへ行くんだ」
「丸の内の赤井御門守様へ、二百両のお掛け取りに」
「この野郎気味の悪い奴だな、大丈夫かい久兵衛さん……じゃァ、アノ財布と判を出してやって、知ってるかい……アアそうかじゃァ何だよ、お金を受け取ったらすぐに帰って来るんだよ、道草などを食っていちゃァいけませんよ」
「オイ頭、いるかい」
「アラ若旦那、おあがんなさいましょ、ハイおりますから」
「オオ若旦那、お出でなさい」
「どうも頭ありがとう、これなんだよ二百両入ってる財布というのは、お前何だよすぐ来てくれなければ困るよ、嘘にも二百両落としたというのだから、親父にどんなに怒られるか知れないから、待ってるからね」
「大丈夫ですよ、すぐに行きますから」
「アノおかみさん……いるかい」
「今二階で裁縫(しごと)をしていますよ」
「裁縫を、フフン、生意気だなァ、二階へ行って来ちゃァ……」
「冗談いっちゃァいけませんよ、素人くせえ、すぐ目の前にいいことが分かっているんじゃァありませんか」
「ヘイおとっさん行って参りました」
「オオ御苦労御苦労、久兵衛さん試し野郎が帰って来ましたよ、デモ人間の子だねえ、アア御苦労だった、ウンそうか、あの御用人の山田さんに御目にかかって、ウンウンそりゃァよかった、頂だいて来たお金を、そうかそれァ宜かった、早くここへお出し」
「へェ、かしこまりました、これからは私に来るがいいと仰いました、エーと……オヤッ、オヤッ」
「コレコレ、ほうぼう探してどうしたんだ、この野郎め、もしや財布を落としやァしないか」
「ヘイ、アノ、チャラーン」
「何にがチャラーンだ、この野郎め、呆れた奴だね、情けないエエ誰が来たって、何をッ、頭が来ました、今ちょっと取り込みで会っていられないから、また晩にでも来てくれろといってくんなよ」
「ヘイこんちはどうもお取り込みの中を誠にすみませんけれどもあっしの方も少々心急(せ)きのものですから、ほかじゃァありませんけれども今帳場へ出ようとすると、軒先にこんな物が落ちてました、中は改めませんけれども、重みのぐあい、二百金ぐらい確かに入っているだろうと思うんで、見覚えのあるお店の財布、もしやと思ったから参りました、お心当りはございませんか」
「二百両の財布、アアありがとう存じます、マァどうも頭ありがとうよ、御親切に、ナニね、今取り込みといったのは、その騒ぎなんだよ、店中大騒ぎのところさ、そうかい、どうもすみませんね、久兵衛さん中を検(あら))ためてみておくれよ、ナニ間違いはないと、二百両ありましたか、よかった、頭マァいいじゃないか、ナニ急ぐからって、それじゃァ改めて御礼に伺いますよ、どうもありがとうございました……馬鹿野郎、二百両の金を何だと思ってるんだ、デモマァ落としどころがよかったから出たんだぞ、頭だから持って来てくれたんだ、ほかへ落として見ろ、あの金はモウ何だとても出やァしねえ……ナニ、大丈夫だ、何が大丈夫だ馬鹿野郎……アアそうかい、アアようございますとも、礼に行って来ますよ、訳はありません、ナニ供にも何にも及びやァしません、晦日のことでお前さんは忙がしいだろうし、私はどうせ用もないのだけれども、手振らでも行けないね、オイ、誰か奥へ行ってね、羊羹(ようかん)の折を持っておいで、エエ羊羹の折じゃァいけないちと古過ぎるだろうって、そうかい、じゃァ何を持って行こうね……現金(なま)がいいって、だってお前あんまり金じゃァ失礼じゃァないか、そうかい、当世流行(はやり)かい、それじゃァいくらぐらいやったたらいいだろうね、ナニ、天下の御定法(ごじょうほう)では一割だけれども十両でいいだろうって、けれどもお前十両は少し高すぎやァしないか、ふだん世話をしているんだからね、もともとこっちの金を持って来てくれたんだから、そうかね 、なるほど、家ののれんにかかわることならあんまり少しも持っていかれまい、ナニ多分先方で受け取るまい、ふだんお世話になっていることだから受け取らないまでも一応は持って行くのが世の礼儀、また頭の方でもどこまでもそれを取らないのが世の礼儀だってなるほど、そういったようなものかね、そんなら十両包んで持って行きましょう、お前さんのいうことには違いがない、お前が受け合ってくれれば大丈夫だ……馬鹿野郎しっかりしろ、間抜け野郎……」
「頭{今日こんちは、家かね」
「何ですえ、こりゃァいけねえなァどうも、大旦那困りましたね、御用ならちょいとお使いを下さりゃァ手前から上がりましたのに、わざわざどうも大旦那に……オイオイおみつおみつ、お店の大旦那がいらっしゃったんだ」
「イヤ、お構いなすっちゃァいけませんよ、お騒がせ申しに来たんじゃァないんだから、どうかお静かに、ハイハイありがとう、さて頭、マァ何からお礼を申していいか分かりませんで、こんにちはどうもありがとうございました、ナニね心配しているところへすぐにお前さんが持って来てくれた、どんなに安心したか知れません、どうもありがたかった、時に早速御礼に行かなければならないが、まさかに手振らでも行けない、といって貰った羊羹でも、あんまり古かろうというので、やはり当世流行の現金の方が重宝でよかろうというんで、それもだね、いろいろ心配をして相場を聞き合わせてみたところが、一割が天下の御定法だというけれども、それにも及ぶまい、しかしのれんにかかわるから少なくも十両は持っていかなければならないというんで、紙へ包んで持って来ました、しかしこれとてもお前さんの頭の日頃の気性だし江戸ッ子かたぎで、ことには私のところへは永年出入りをして印物の一枚も着て、盆や師走(くれ)にはいくらか借りにも来るし、というようなわけだろう、まさかに受け取りゃァしなかろうけれども、持って行くのが浮世の義理、またお前の方でも受け取らないのが義理だから、ということで……」
「どうもこりゃァ弱ったねえ、串戯いっちゃァいけねえ、串戯いっちゃァいけませんよ、永年御恩になってるんで、もともとあなたの方でお落としになったものを私が持って行くのはあたりめえじゃァありませんか、そんな物を戴だくわけがありません……エエ何をいってやがるんだ、てめえなんか引ッ込んでろ、何ッ、余計なことをいうなよ、間抜けめ、ナニッ、そりゃァそうよ、そりゃァそれに違えねえけれども、ウム、ウム、これァもっともだ……エエ旦那、嬶ァとも今相談を致しましたが、せっかく旦那がお持ちなすった物を頂かないのもあんまり失礼だと、こう嬶ァが申しますから、このお金は戴いて置きます、どうもありがとう存じます」
「オイオイ頭、それァお前違やァしねえかい、久兵衛のいうこともちッとあてにならなかったかな……」
「オイ、お花、お茶を持って来な」
「ハイ……お茶をお上がんなはい」
「ハイハイ、これはどうもありがとう存じます、恐れ入りましたな……オイオイ頭、見馴れないお女中衆だね、どちらのお嬢さんだい」
「ヘイ、いずれお近付きに連れて上がろう上がろうと思っておりますけれども、ツイどうも手前にかまけて、出ずにおりますんで、実は嬶ァの妹でございます、モウこれッぱかしの自分から御屋敷へ御奉公に上がっておりまして、一生奉公も可哀想だ、当人もならば町家の住まいがしてみてえというんで、こないだ無理にお暇を願って親許へ下げたんでございます」
「フンフン」
「本人がけちなもんですから、戴き物をポツポツ貯めて置いたのが、塵も積もって山とかで大きなものじゃァありませんか、三百両になりました、その他手道具一通りは持っております、商人がいいというんでございますが、恐れ入りましたがお宅様なんざァおつきあいがお広いから、また相応した縁がございましたら、お口添えを願いとう存じます」
「ハァそうですかい、ちッとも知りませんでした、あれがおみつさんの妹御かい、御姉妹(ごきょうだい)だというが、失礼ながらおみつさんはあんまりいい容貌じゃァないが、イエさ、おみつさんもいい容貌だが、殊に妹御は大層美しいね、お屋敷へ御奉公していたって、何かい持参金が三百両、フーン商人がいいってどうだろう頭、あんまり籔から棒の話で、お前さん怒っちゃァいけないよ、相談だが、ちッと不足かも知れませんけれども、家の德の嫁が長し短かしで誠に困っているんだが、お前にはまた何とでも御礼はするがね、是非とも何だね、忰の嫁に……ナニお前さんこの頃はだいぶ堅くなりましたよ、あの馬鹿野郎、デモ年だね、今日丸の内のお屋敷へ掛け取りにやったところが二百両の金は……マァ落としたところはちッとまずかったけれども、兎に角持って行って来たには違いないのだ、お前さんにゃァまた何とか御礼をするから是非骨を折って忰の嫁にしてくれないか」
「それァお宅の若旦那なら、結構には違いございませんが、若旦那も、なかなか御道楽をなすった方だから、まるで小兒(ねんね)みたようなもので治まるかどうだか」
「イエ然そうでないよ、忰なんかにお前さんぐずぐずいわれて堪るものかね、親のめがねで持たせる女房だ、モシまた何だよ、忰がぐずぐずいったら私が貰ってもいい」 

 書いた狂言が思う壷に嵌まって、吉日を選んで高砂やということになりましたから、若夫婦の喜びはいうまでもなく、おとっさんおっかさんも大層気に入って喜んでおります。

「花や、マァお茶は後でもいいよ、ちょいとここへ来てくんな、ナニこないだからゴタゴタゴタしていたものだからろくろく聞きもしなかったが、頭の話じゃァお前さんはお屋敷へ奉公をしていたそうだが、どちらのお屋敷へ奉公をしていたね」
「ハイ、北国(ほっこく)ざますの」
「北国というと加賀様かい、百万石でお高頭、大大名だ、定めしお女中も多いことだろうね」
「ハイ、三千人いるの」
「ナニ、三千人、それァ大層なものだね、やはり参勤交代で道中をするんだろうね」
「ハイ、道中するんざますの」
「お駕籠でかい」
「イイエ、大門口は駕籠はならないざますの」
「フーム、女だから馬にも乗れず、結い付け草履か何かで」
「何の、三つ歯のポックリで」
「三つ歯ポックリで、加州の金沢からこの江戸までじゃァ、何だね女の足だから朝遅く立って夜早く泊まるんだね」
「イイエ、夕方に出て伊勢へ行って尾張へ行って、長門の大和の長崎へ行くの」
「何を、夕方に出て伊勢へ行って尾張へ行って、長門の大和の長崎だ、ハハァ、こりゃァ人間わざじゃァないの、ウンお前には何か魅物(つきもの)がするんだね、待ってくんなよ、諸国を歩くのが六十六部[^80]、それより早いのが飛脚に天狗、アアお前には何だね、六部に天狗が魅(つ)いたのか」
「イイエ、三分に新造が付きやんす」

[^78]: 入山形に二ッ星 ……江戸新吉原で女郎の格付けを示した符号のこと。
[^79]: 投げ節 ……女郎が謡う小唄のこと。
[^80]: 六十六部 ……日本全国の霊場66カ所を巡礼し、書き写した法華経を1部ずつ奉納して廻った行者のこと。

のめる

 無くて七癖有って四十七癖とか申しますが、余程丹念の人が調べたとみえます、けれどもなお詳しく数えたらもっとあるかと思います、というのは、手つきに癖があり、歩いても癖があります、寝るにも癖がありまして、疳性(かんしょう)[^81]で右を下にしなければどうも心持ちが悪いとか、仰向けに寝なければどうも寝つかれんというような、これも一つの癖、殊に言葉には沢山癖があります、もっとも癖も目に立つのと目立たんのと、耳立つのと耳立たんのと別はありますが、十人寄れば十人ながらみんな有るようでございまして、その中にもっとも目立つ癖があります、頭を叩かなければ口が利けないというような妙な癖がございます、人の家へ行って畳のケバをむしる癖だの、気にして鼻をほじくる穢(きた)ない癖もありますけれども、癖というのは、どんな嬉しい時でも、悲しい時でも出るものだといいます、畳のケバを挘るなどという癖は大概申し訳ないというような時によく出るようでございます。 

「マァこっちへおいでなさい」
「へえどうも御無沙汰を致しまして相すみません」
「イヤわざわざお呼び立て申すわけではないが、去年の暮れからまる一年だ、ちょうど三十日の日に来て、どうしても暮れのやりくりがつかないから助けてくれろといっておいでなすったから、快くご用立て申して書き付け一本取ったわけではない、恩に懸けるようだが、私は商売で金を貸すんでは無い、親切ずくでお前さんに御用立ったところが、それっきりおいでがない、せめてはがきの一本も下されば兎に角、まる一年というものほうってお置きなさるのは困るじゃァありませんか」
「ハイ誠にどうも申し訳がございません、全体御承知の通り吉兵衛さんと私と二人で、あれは拝借致しましたので」
「吉兵衛さんはこの頃遠方へ商売都合で行っておいでなさるということだ、二人とはいいながら連帯借用であってみれば、相手がいなくなればお前さんが返す義務がある」
「それはそうに違いありませんが、何分吉兵衛さんは遠方へおいでなさるぐらいで、ぐあいが悪し、といって私が半分持って来てお返し申すも変だから、どうかしてまとめてとこう思っておりますうちに、私の方でもいろいろ何したところから、ツイツイこういうようなわけで……」
「オイオイ、畳をそう挘ってはいけない」
「ごもっともでございますが……」
「まだ挘ってる、困ったなァ、金の方のことはいいとして、畳のケバを……」
「左様でございます」
「左様でございますったって、挘ってはいけない、おととい取り換えたての畳だ」
「アア左様でございますか、道理で挘るのに骨が折れる」
「骨を折って挘らないでもいい、困った人だ」

 これが癖だから自然に出てくる、言葉の癖というものは、おしゃべりの人ばかりにあるかと思うと無口の人にもあります。

「だいぶ景気がいいな」
「景気がいいわけじゃァねえが、酒がなかった日にゃァ往生だ、その代わり肴なんぞ何でも飲める、このあいだ薩摩芋を隣で煮てくれたけれどもちょっと飲めるねえ、あいつをまたコッテリと煮たやつはオツなものだ」
「ウフッ、つまらねえことをいう男だな、いくら何だって薩摩芋をコッテリ煮て飲める奴があるものか、お前ぐらいつまらねえことををいう人間はねえよ」
「そうでねえどうだ一つ飲もうじゃァねえか、どこかへ行こう」
「それはお前は酒が極随(ごくずい)好きで、俺はまた飲むのは呑むけれども、ホンのつきあい酒で、何か大勢ワイワイ騒いで飲めば、まあともに浮かれて飲むという話で、つまらなく二人でチビリチビリ酒を飲んで、ゴテゴテいったところがつまらねえ」
「よしなよ、さっきからおめえ一言おきにつまらねえつまらねえというが、人間という奴は、この結構な世の中に出てつまらねえことがあるもんじゃァねえ、何がつまらねえ」
「つまらねえじゃァねえか、考えれば考えるほどつまらねえ」
「およしよ」
「およしったってつまらねえ、エエ馬鹿気てらァ」
「まだあんなことをいってる、どうせこちとらは職人だ、仕事が忙しければ大名だ、心持ちよく飲む酒という奴は肴を並べられて、女の子がそばにいてもうまくねえ、ちょいとあっさりと何かで一つ飲もうじゃァねえか」
「およしよ、お前は言葉に癖があってみっともない、いちいち飲める飲めるというがお前は酒がごく好きだからいいだろうがつまらないからおよしよ」
「オイオイ、人のことをいったって、つまらねえというのが、おめえの癖だ」
「いいじゃァねえか」
「いいったって、つまらねえつまらねえというなァよくねえ癖だ」
「よくねえったらお前の方がよッぽどよくねえ、お前は酒が好きだからいいがただのめるという言葉は縁起が悪いじゃァねえか、人間のめってクタバれば往き倒れだ、身代がのめれば身代限り」
「そう悪いことに使わなけりゃァいい、つまらねえという言葉は、どう使っても陰気でいけねえ」
「何も陰気てえことはねえ、しかしマァそんなつまらねえことを争ったってつまらねえからこうしよう、二人ながら癖ということをいいッこなしにしよう」
「そいつァ面白い、じゃァこれからのめるということをいわねえと」
「俺もつまらねえってことを決して言わねえ、それはただじゃァいけねえ、どっちがいっても罰金を取りッこにしよう、お前がのめるといったら二分なら二分……五十銭お出し、俺がつまらないといやァ五十銭出す、どっちが取られるにしても、お互いにつまらねえわけだから」
「それお前いった」
「まだいかねえ、これからだ、マァいったら五十銭ずつ出しッことこうきめよう」
「なるほど、じゃァいいかえ、手拍子をうって……モウこれからどっちでもいえば罰金だよ」
「いわねえとも」
「俺だっていうものか……」
「けれどもなァ、天気がこう続いて、ちょっと肴の新しい奴か何か来た日にゃァ堪らねえな」
「まったくだ、それこそ……ウム……コウ畜生、馬鹿にするない、うっかり口が利けねえや」
「じゃァ約束したぜ、また会おう、左様なら」
「ウム、左様なら……いめいめしい野郎だ、天気が続いて肴がありそうだってえやがって、危なく俺がやるところだった、それはうっかりいわれねえ、銭はどうでもいいが先へ取られるのが癪(しゃく)に障るからな、一番ふんだくってやりてえな、何んか宜い工夫がありそうなものだ……」
「オイ民さん」
「アッ今日は、どうも久しく御無沙汰をいたしました、どうもねえ、あなた方は御隠居の身分で、 早く寝てゆっくりと起きて、朝湯でも行って来て、庭を眺めながら御茶でも飲んで、そこへ酒の支度ができる、朝から小鍋立て、烏賊(いか)に焼き豆腐とくるとちょっと飲めるなァ、お前さんの前だからいっても構わねえが……」
「何だえ、私の前だからいってもいいというのは」
「実は御隠居さんこういう話があるんで」
「何だか知らないがマァこっちへお上がり、サァお茶をお飲み」
「へエ、お茶も結構でございますが、少しお願いがございます」
「何だえ」
「私の友達に熊という男があるが御存じですかい」
「熊さんてえ方はよくは知らないが、何だえ」
「その野郎が大変に言葉に癖があるんで、何でも人の顔を見るとつまらねえつまらねえといって鬱(ふさ)いでばかりいるんで、そいつに今日会うと、またつまらねえというから手前はいいことがあってもつまらねえつまらねえという、不縁起だからよせとこういってやったんで、この前も無尽に当たった時に熊うまくやったなというとらねえといやァがるんで」
「ハハァいいことがあってもつまらない……」
「何がつまらねえと訊くと、今はいいが跡の掛金をするのがつまらねえと、こういってやがるんで」
****「なるほど」
「スルと今年の春、友達が二三十人揃ってマァ新年宴会をやったんで、その時にまだ五六人来ねえんで、待ってる間てんでんに春の事でいくらか小遣いもあるもんだから、一円ずつ出し合って取り抜け無尽をしようてえんで鬮(くじ)を拵らえました」
「なるほど」
「すると運のいい奴で、熊の野郎が当り鬮で三十円取りやァがった」
「ハハァ」
「それからうまくやりやァがったなというと、ナニつまらねえどこういうんだ、取られた方じゃァ癪に障るじゃァありませんか、癖だから仕方がねえという者もあったが、あっしァ先に立って文句をいった、取られた方がよッぽどつまらねえ、三十円もまとめて取って何でつまらねえというと、俺は取ったからいいが、取らない奴がつまらねえと、人の分までつまらながっていやァがる、何ぼ癖だってあんまり馬鹿馬鹿しいじゃァありませんか」
「ハァ、妙な癖があるもんだね」
「ところが私もこれで癖があるそうだ、飲めるというのが癖なんで、さっきもこないだ薩摩芋の煮たのを貰ったがちょいと飲めるといったんで、すると熊の野郎が、お前は何につけてものめるのめるという、みっともないとこういうんで、sこでマァお互いに癖というやつはおかしいから、いいッこなしにしよう、けれどもただじゃァとても駄目だ、欲と二人連れなら守れるだろうというんで、いった者は五十銭ずつ出すことに約束したんで」
「なるほど面白いな、それではお互いに気をつけるだろう」
「それについてね、隠居さんあなたはいろいろなことを考えるのが御上手だが、あの野郎がつまらねえつまらねえと三四度いってくれると、ちょいとここで小遣いが取れるんだが、どうか一つ工夫してお貰い申してえんで」
「ウームしかしお前お互いに友達同士で、癖がみっともないから直そうというんで約束をしたんだろう」
「それはそうでございますけれども、こいつまた欲と二人連れで、ツイ口がすべってむこうへ先に取られるのは気が利かねえから……」
「それもそうだね、私は熊さんという人を知ってるわけではないから、同じことならお前さんに取らせた方が心持ちがいい、そんな工夫は訳のないことだ、マァお待ちよ一服するうちに何とか工夫してあげよう……アアちょうどいいことがある、お前の着ているそのなりがごくいい長半てんに股引きでそれにたすき掛けになるんだ、少しばかり手の先や半てんの腰の方へ糠(ぬか)をつけて、熊さんという人の家へ飛び込んで行くんだ」
「ヘェー」
「お前笑っちゃァいけない、落ち着いてやるんだよ、お前に話のは初めてだが、練馬におばさんがあって、伯母さんのところから沢庵大根を百本貰ったが、今年は陽気のせいか大変大根がよくできたとこういうんだ」
「ヘェー」
「沢庵を漬けようと思って二階を捜してみたけれども、四斗樽がないというんだ」
「私の家には二階はねえんで」
「物置きでき何でもいい」
「物置きもありません」
「困ったなァ、家中捜したけれども、四斗樽がなくって醤油樽の古いのが一本あったが、醤油樽の中へ百本の大根が詰まるだろうかとこういうんだ」
「ヘエ」
「トントン拍子にいわないと、むこうが釣り込まれないよ」
「ヘエ」
「伯母の所から沢庵大根を百本貰ったが、醤油樽に百本詰まるだろうかと、トントンというときっという」
「どうもありがとうございます」
「大丈夫行くよ、不思議なもんで、トントンというとそれはそれは詰まらないときっと云う云う」
「どうもありがとうございます」
「大丈夫行くよ、不思議なもんで、トントントンと拍子よくやるんだ、しかし慌(あわ)をくっちゃァいけない、よく落ち着いてな」
「どうもありがとうございます」
「サァお茶をお喫(あが)り」
「ヘイ、ちょっと行ってやって来ます、うまくいったら隠居さん、お茶菓子を買って来ますよ」
「そうかえ、それはありがたいな」
「じゃァ御免なさい……」

 家へ帰ると教わった通り糠だらけになって、

「オオ熊……」
「何だ、乱暴だなァこいつ、いきなり入って来て、どうしたんだ、真っ白になって……」
「お前に話すなァ初めてだが……」
「何を」
「ウーム、お前に話すなァ初めてだが、今年は何だ」
「ナニ」
「練馬に伯母があるんだ」
「フーム」
「それで大根がある」
「練馬は大根の好く出来る所だ」
「マァ黙ってろ、トントントン」
「何だ」
「エエ練馬に伯母があって、ヒャッヒャッヒャッ百本というと随分だ」
「何をいってるんだ」
「沢庵大根を百本貰って、これから漬けようと思って……二階はなし、エエ物置はなし」
「何だ」
「トントンと、その家中捜して、醤油樽が……その四斗樽と醤油樽と……」
「何を分からねえことをいってるんだ」
「だからよ、醤油樽の方が小さいだろう」
「そうよ」
「台所の隅からマァ醤油樽を一本捜したんだ、百本大根を貰ったんだ」
「うまくやってやァがる百本の大根といっちゃァ大変だ」
「黙ってろトントンがトントンで百本の大根がどうだ醤油樽へ詰まろうか」
「フン馬鹿も休み休み言え、つもりにしても知れそうなものだ、百本といえば随分嵩(かさ)がある」
「今年は大根がよく出来てるんだが、醤油樽へ詰まろうか」
「馬鹿にするない、百本の大根が」
「兎に角も詰まろうか」
「ヤァ畜生、何をいやァがるんだ」
「だから、百本の大根が詰まろうか」
「ウーム」
「どうだ詰なろうか」
「入り切らねえ」
「何をいやァがるんだ、百本の大根が詰まろうてえんだ、解らねえなァ、トントンと、醤油樽の中へ百本の大根が詰まろうか」
「残るよ」
「残るのを無理に押し込んだら詰まろうか」
「そんな真似をすりゃァ底が抜けちまう、馬鹿こりゃァてめえの智恵じゃァねえな、誰かに入れ智恵をされて来やがった、そんないかさまを食う俺じゃァねえ、お前なんぞにからかっちゃァいられねえ、オオ羽織を出してくれ……お前帰るならそこまで一緒に行こう」
「何だめかしこんで羽織なんぞを引ッ掛けて、どこへ行くんだ」
「ナニ友達から迎いが来たんだが、酒が始まってるようだから迷惑だけれども、行かなけりゃァならねえ、ちょいと横丁まで行って来るんだ」
「フーム、うまくやってる、のめるな」
「アッ、いったな……五十銭出しねえ」
「エエッ」
「飲めるといったろう」
「アッ……」
「口を叩いたって仕様がねえ」
「アア弱ったな、今のは仕方がねえ」
「何が仕方がねえんだ、未練らしいことをいうな、約束したんだ」
「ウーム、じゃァ仕方がねえ……」
「ぐずぐずしねえで早く出しねえ……よし、五十銭たしかに受け取った、風が入っていけねえ、跡を閉めてってくれ」
「オヤ、羽織を脱いでやがる、友達のところへ行かねえのかい、オイ」
「嘘だ」
「アッ泥棒……」
「コン畜生、何が泥棒だ、大きな声を出すな間抜けめ出直して来い、風が入って仕様がねえから跡を閉めて行け」
「アアいけねえや……隠居さん」
「オオ民さんか、お茶の支度をして待っていた、羊羹屑か何か買って来たかえ」
「どういたして」
「アッ、ぼんやりしているのはやり損なったね」
「へえ、いきなり入|へい}ってくると、けんつくを食わせられたもんだから、調子が狂っちまって、あんまりトントンといかなかったんで」
「どうしたんだ」
「醤油樽と四斗樽と泡をくってどっちが大きいんだか判らなくなっちまった」
「いけないなァ」
「それからやっと、トントンと運んで、醤油樽へ百本の大根が詰まるかとこういったんで」
「ウム」
「スルと、馬鹿も休み休みいえ、百本の大根がどんなことをしたって醤油樽へといいかけて、気がつきやァがってニヤニヤ笑ってやがるから、どうだ詰まろうかというと、入り切らねえというんで、それでもまだ詰まろうかといったら、残るとこういやァがる、残るのを無理に押し込んだら詰まろうかというと、底が投けちまう、馬鹿、手前の智惠じゃァなかろう、そんないかさまに引ッ掛るような俺じゃァねえ出直して来いといろいろなことをいやァがって羽織を着て出掛けようとするから、めかし込んでどこへ行くんだと聞くと、友達のところから迎いが来たんだが、酒が始まってるだろうから、迷惑だけれども行かなければならねえ、一緒にそこまで行こうというんで、それからあっしがうまくやってる、飲めるなどいったんで、あべこべに五十銭取られた……」
「オヤオヤ、お前さんが取りに行ったんじゃァないか、こっちから進んで行って五十銭取られるというなァつまらねえ」
「アッお前さんやった、半分おくんなさい」
「私ァお前と何も約束をしないから、半分も四半分も遣るわけがないけれども、お前が取られて帰って来たと聞いて、それでいい心持ちのわけのものではない、困ったなァ、失礼ながらお前さんより、むこうの方が役者が一枚上だね」
「役者じゃァない、職人なんで」
「イヤ、お前よりむこうの方がぶッつけて言えば悧巧(りこう)だという話だ」
「オヤオヤ、この上馬鹿まで聞けば沢山だ、私はツイそそっかしいもんだから、まごついてしまうんで、モウ一つ考えておくんなさい」
「じゃァこういうことができますか、むこうに何か勝負事で、碁とか将棋とかいうもので好きなものはあるまいか」
「将棋と来た日には夢中なんで」
「それは面白いな、お前さんはお好きか」
「それがあっしは知らねえ」
「碁はどうだい」
「碁なぞは五目もやったことはねえ」
「それじゃァこの頃新聞や何かに盛んに出ているが、詰将棋というやつがある」
「ヘエ」
「あんなようなぐあいに、お前がその人の来る時刻を計って考えていたら、好きな道だから多分引ッかかるだろうと思うんだ」
「へエどうやるんで」
「駒の使い方ぐらい知ってるかえ」
「それもよく知らねえけれど少しぐらい」
「名前は」
「名前だけは知ってます」
「そういう何では定めし将棋盤もなかろう、これを持って行って、少し寒くとも門口の障子を開けて、その影で将棋を前へ据えて、他に何もいわないで、王様を真ん中へ置いて、そうさな、駒は歩三兵(ぴょう)に桂香金銀三枚というような駒を持っているんだ」
「ヘエー」
「どう考えても詰むわけがないがいくらか深くやる人だと聞くに違いないから、聞いたら何とかいい加減なことをいうんだ、来る時間を計ってやってみたらよかろう」
「エエ、野郎湯に行く時にきっと寄ります」
「それはちょうどいい、お前がしきりに考えてるところへ寄って見て、手を出す、どうせ詰む気遣いはないんだが、向こうが知ってるだけにちょっと考える、この遣り方は新聞にでもあったのか、古い詰将棋にもあんまり見たことがないというかも知れない、そうしたら、所沢の藤吉といえば名代の将棋差しだ」
「へエー」
「所沢の藤吉さんが考えた詰将棋だといって、外に何もいわないでお前一生懸命考えて、どうも俺にはうまくいかねえというようなぐあいを見せて、充分むこうで気の入ったところでどうだ、お前に詰まろうかと誘い出すんだ、口数をきくと気付かれるから、そのつもりで……解ったかえ」
「エエすっかり解りました、これで取り返さなけりゃァならねえ、ありがとうございます」

 この盤を借りて行きます、教わった通り家へ帰って障子を一枚開けてその影でやっていると、手拭をぶら下げて、

「オオ湯に行かねえか」
「やって来やがったな」
「何か夢中になってやがる、湯に行かねえか」
「ハテナ、これへ打つと……王手とやる……」
「何をいってやがるんだ……アア将棋だな、何だ相手なしじゃァねえか……アア詰将棋か、ちょいと見せな、やァこれやァ面白れえな、王様は裸か」
「ウム、寒かろうと思うんだけれど裸だ」
「何をいってるんだ、持ち駒を見せな」
「これだ」
「歩二兵、桂香金銀三枚、珍しいなこういう詰め方は見たことがねえ、違ってやしねえか」
「ううん」
「珍しいけれども新聞にでも出ていたのか、それとも古いのか」
「なァに考えたんだ」
「誰が」
「えー」
「誰が」
「隣町の米屋の大将は随分将棋が強いな」
「米屋の大将が考えたのか」
「そうじゃァねえ」
「誰だよ」
「八王子じゃァねえ何よ、青梅、飯能、中野でもねえ……ウム所沢」
「ナニ」
「所沢の十吉さんという人が考えたんだ」
「ハテな、所沢の十吉てえ人は聞かえな、藤吉じゃァねえか」
「アアそうだ藤吉、十もとうも数じゃァ同じだ」
「藤吉さんなら面白いな、待ちなよ、どうしたって桂をつけるとか香車をつけるとか……」
「まず槍で突き透して……」
「黙ってろ、何かほかに駒があるだろう」
「ウムこれだけだ、どうだ詰まろうか」
「待ちな考えてる間に味があるんだから……こっちへやればあっちへ行くと……歩三兵という奴がわからねえ」
「どうだ詰まるか」
「待ちな、そうせいてはいかない、考える間が楽しみだ、こう往くとこうと……」
「詰まるか詰まるか」
「こいつァ幾ら考えても詰まらねえ」
「しめた、アアありがてえ」
「何だ」
「云った」
「アッ、畜生、はめやがったな、しかし敵ながらあっぱれだ」
「どうだ云ったろう、さァよこせ、よこさなけりゃァ巡査を連れて来る」
「何をいってるんだ」
「さァよこさなけりゃァ承知しねえ」
「遣らねえとは云わねえ、マァ待ちなよ、手前にしちゃァ馬鹿に考えがうめえや、褒美というわけじゃァねえが、五十銭の賭けだが一円遣らァ、これからは一円の賭だぜ」
「ああありがてえ、五十銭余計取れれば飲めらァ」
「アッ、差し引いて置こう……」

[^81]: 疳性 ……神経質な性格のこと。

二十四孝

 誰やらの狂歌に、改めて孝行するも不孝なり、だいじの父母の胆や潰さん、随分皮肉なことをいってあります、当時は教育が完全にとどいておりますからそんな馬鹿者はありません、昔はどうかすると、親を親とも思わないという乱暴者がチョイチョイありましたそうで。

家主「こっちへ上がんなさい」
「ヘイ」
「ヘイじゃァない、 上がれったら上がれ」
「 ヘイ、今上がりかかってるんです」
「座んなよ」
「座ったよ」
「仕様のねえ奴だ、頭を下げねえかい」
「下げるったって上げるたっておんなじこったい」
「何をいってやァがるんだ」
「何か用ですかい」
「あたりめえよ、用があるから呼んだんだ」
「そうせろくなこっちゃァあるめえ」
「黙っていろい、おれもな、今更貴様をよんでこんな嫌な叱言は言いたかァないが」
「そりゃァそうでしょうね、私はまた今更よびつけられてそんな嫌な叱言は聴きたかァねえや、これは双方示談で引き下がりましょう」
「余計なことをいうなよ、改めていうまでじゃァない、三十六軒の長屋内だ、士農工商とはいわない、様々な家業の人がある『{壁一重子があって泣き無くて泣き』という川柳がある、随分子供が多くって困っているところもある、てめえのところは何もかも親子三人暮らしじゃァねえか、イケ図々しいッたって呆れ返ッちまう、てえげえ三日にあけず喧嘩だ」
「冗談いっちゃァ不可ねえ、ふざけなさんなままにしやァがれ」
「だって貴様は番こに喧嘩をやるじゃァないか」
「エエ、やります、けれども三日にあずときめてはねえんで、三日まで我慢をするんじゃァねえからね、毎日一遍はきっとやらかすんだからね、日に三度やってちょうどいいんでござんす、飯を食っちまってからね、喧嘩をしてちょうどいい塩梅に飯がこなれますからね、マァ私はこれから持薬に仕ようと思ってるんで」
「とんでもないことをいうな、馬鹿にしやァがって、喧嘩を胃の薬にしてやァがらァ、家内和合ということを知らねえか、イケうるせい近所へ対してもみッともないじゃァないか」
「家内和合もへッたくれもあるもんか、全体あっしだって何も疳(かん)のせいで喧嘩をするのじゃァねえけれど、どうしても喧嘩をしなけりゃならねえような場合になるんだよ、嬶と婆がいめいめしんでね、私がね死んだ親父の遺言を守っているんだ、それが気に食わねえというんだから癪にも障るじゃァねえか」
「ヘェー、柄(え)にねえことをいやァがるな、貴様が親父の遺言を守る方じゃァないが、どういうわけなんだい」
「ナニ、私は馬鹿に守っているんです、親父がね、くれぐれも言い置いて死んだんでござえます、どうもてめえは人間がお先ッぱしりで乱暴者で誠にいけねえと、親の光りは七光り、俺はどうも気が引くんで安楽に死ねめえけれども、いねえ後(のち)は万事気を付けろ、何でも人中(ひとなか)へ出たらば物事は控え目にしろと、こういって死んだんでございます」
「結構じゃァないか、控え目ぐらいいいものはない、物を八分目にするという、やかましく言えば謙譲の美徳、お互いに控え目にすれば、喧嘩口論間違い、何にもない、汝は全体どう控え目にしたんだ」
「だからね、モウ私は朝なんか起きようと思うけれど、ここが親父の遺言だから控え目にしなくっちゃァ悪かろうと、こう思ってね、なかなか起きねえんでござんす……」
「馬鹿にするないこの野郎、朝起きるのを控え目にする奴があるかい」
「マァ店賃なんかもやろうと思うけれどね、ここが親父の遺言だから控え目にしねえじゃァ悪かろうとこう思ってね、マァ、当分やらねえつもりだ」
「冗談いっちゃァいけないよ、オイ、店賃なんか控え目にされて堪るかい」
「エエ、私はね、店賃には限らねえ、借り物はズンズン控え目にしちまうんで……」
「とんでもない野郎だ、屁理屈ばかりいやァがって、全体さっきの騒ぎはありゃァ何だい」
「こうなんだ、聞いておくんねえ、私はね、今日はどうも、朝ッから気色が悪いんだ、それからマァ仕事を控え目にしちまってね、湯に行こうと思って楊子を使ってたんだ、ところへ魚屋のね、梅公が来やァがってね、どうです親方、粋(いき)ないい鰺(あじ)なんだ、買わねえかい、こんな大きいんだと聞いてね、見るとピンピンしているんだ、油は乗っているからうまそうでござんす、それから腹掛けの丼をかっさらってね二尾(ひき)買ったんだ、それを取って置いて何でさァね、湯に行っちまったんでござんす、帰って来るてえとね、チャンと水瓶(みずがめ)の蓋の上へ載せて置いたのが皿ごと見えねえじゃァありませんか魚がさ、鰺のゆくえが不明と来たね、警察へ届けなきゃァいけねえじゃァござんせんか、全体どこへ持ってったんだい……」
「どこへ持って行ったか俺は知らない」
「嬶に聞くてえとね、澄ましていやァがらァ、オヤオヤそれじゃァ気がつきませんでしたが、今猫がガタガタしていたからおおかた咥(く)えて持ってったんでござんしょうといやァがった、ムラムラッと疳(かん)が起こったね、それでお前さん、向こうの屋根を見るてえとね、猫がねお前さん、気の毒とも何とも言わねえでパクパク食ってやァがるんだ、私は飛び出したね外へ、サァ向こうの屋根の上の猫ここへ下りろい、尋常に勝負をしろって……」
「馬鹿ッ、猫が尋常に勝負をするかい」
「全体この長屋の奴らはよくないんだ、不景気で銭が取れねえとは言いながら、たまには魚ぐらい買って食えというんだ、猫をお先に使やァがって鰺なんぞさらうない、あじな真似をしやァがるなんて怒鳴ったね、するとおめえさん嬶が泣き声を出しやァがった、近所隣へみっともねえ、そんなことをいってくれるなてえんだ、何をいやァがるんだい篦棒め、全体嬶なんてえものは何のために飼って置くってえんだ、猫に魚を持って行かれて気が付かねえで、生きてるのか死んでいるのかてえんで、いきなり嬶の横ズッポ[^82]をスポンと殴ったもんだから、嬶が、ヒイヒイ泣き出しやァがるとお前さん、おせっけえに婆ァが出て来やァがって、乱暴なことをするな、今のはな、おみつが悪いんじゃないんだ、女なぞを無闇にぶつもんじゃァねえ、おみつは雪隠(はばかり)へ行っていた留守の出来事なんだから俺がここにいたんだ、ぶつなら俺を打てとおふくろが言やァがるんだ、生意気じゃァござんせんか、親風を吹かせやがってね、何をぬかしやァがるんだいクタバリ損ないめ、江戸ッ子だぞ、親だってぶたなくって、といって拳固(げんこ)を固めた……」
「何か、おふくろをぶったか」
「エエ、ぶとうと思ったけれど、どうも私も考がえたね」
「それでも感心だ、まだ人間らしいところがある、じゃァ貴様は親だと思ってぶたなかったのか」
「ぶちゃァしません、蹴飛ばしました」
「馬鹿野郎どうも言語道断な野郎だ、何とも云いようがない、おふくろを貴様は足蹴にしたのか、イヤ、貴様のような奴にはモウ口は利かない、俺の名に関わらる、人畜生(にんちくしょう)というのはてめえのことだ、人非人(にんぴにん)め、文句をいうだけ口の汚(けが)れだ、何も言わない、店(たな)を開けろ……店を開けなよ」
「何だいたなを開けろってえのは、棚には雑物が乗ってらァ」
家「何をいやァがるんだい、貴様の暮らしている家を開けるんだ、店を開けろよ」
「ホホー、いったねお前さん、詰まらねえ爺だと思ったらばチョイと睨みが利くな」
「何をいやァがるんだい、店を開けろい」
「待ってくんねえよ、私も江戸ッ子だ、お前さんにそうやって言われてね、黙って聞いちゃァ引っ込めねえや」
「何を、相手になって喧嘩でもするというのか」
「そうじゃァねえやい、謝るんだい」
「何をいやァがるんだ豪胆(しっこし)の野郎だ、まだ謝るというならしおらしい、悪いと気が付いたら心を改めろ、ここへ手をついて謝れよ」
「ヘイ謝りましたよ、モウ、これからは……必ず……」
「何をいやァがるんだふざけやァがって、チャント人間らしく物を言え」
「ウンニャ、マァ、大家さん御免ねえ」
「御免ねえという奴があるかい、ただ今までは、重々心得違いをいたしました、これから心を改めて親孝行をいたしますと人間らしく物を言え、それはおれに謝るんじゃァない、天に謝るんだ」
「アアなるほど、お前さん今日は何ですね、お太陽(てんとう)様の代理でござんすね、頭は禿げて赤く光ってるからなるほど、ちょうどいい、太陽様の代理らしいや……」
「余計なことをいうな、謝れよ」
「謝るよ……さて、ただ今までは、重々心得違いをいたしましたと、ねえ、その先はお前さんのいった通りだ」
「人ので間に合わせる奴があるか、ふざけやァがって、世の中には親不孝くらい恐ろしい罪はないぞ、三千の罪不孝より大いなるはなしというじゃァないか、また孝行てえものは真似にもしろてえぐらいなものだ、国の宝だという、といって死んでりゃァ間に合わない、孝行のしたい時分に親はなし、さりとて石に布団も着せられず、無二膏や万能膏の効きめより親孝行は何につけても……」
「ヘェー、奇態なもんですね、親孝行をすると寒肌(ひび)皹(あかぎれ)なんか癒(なお)っちまうんですか」
「膏薬じゃァないよ馬鹿……ついでだから話をするがな、昔美濃国の養老の故事てえのを貴様は知ってるか」
「ヘイ、簑(みの)来て蹌踉(よろけ)た乞食があったって」
「乞食じゃァない故事だ、小佐次という貧しい木こりがあった、両親(ふたおや)に孝行者、両親が酒が好きだがなかなかいい酒を買って飲ませることができない、ある日瀧の水を汲んでみるとそれが大層いい酒だそれを飲ました、時の帝元正天皇様が御臨幸遊ばして、養老の瀧という名前をおつけになったという、唐土(もろこし)には二十四孝という話があらァ、 知っているかい」
「エエ、二十四孝位い知ってますよ、たんとは知らねえが十種香[^83]だけ私は教わったことがある」
「義太夫じゃァない馬鹿、二十四人孝行な人を集めた話があるというんだ、中には時の帝とか天下の儒者とか偉い人もあるがそれらは分かるまい、通俗な奴を二三聞かしてやろう、その唐土の晋という国に王祥という人があった、継母(けいぼ)に従(つか)えて大の孝行だ」
「ヘェー、シミッタレな野郎でござんすね、浅漬か何か配っているんでござんしょう」
「何だ」
「だってお前さん歲暮(せいぼ)に使ったのが大根の香物(こうこう)だてえじゃァござんせんか」
「そうじゃァないよ、継母(ままはは)に仕えて大層な孝行をしたというのだ、ままははのことを継母(けいぼ)というのだよ」
「アアそうですかい、ままははが歳暮なればほんとうのおふくろは年玉かえ、伯母さんがお中元に当たりますかね」
「クダらないことをいうない、寒中のことであったがおふくろが鯉が食べたいといったんだ、片山里の奥在所、おいそれと鯉を買うことができぬのみならず貧乏人だ、一銭のたくわえもない、漁(と)りに行くと厳冬というから冬のまッただ中だ、厚氷が一面に張り詰めていた」
「ヘェーその上でスケートをしてえもんだ……[^84]
「余計なことをいうな、王祥は氷の上へまッぱだかになって寝ていた、天も心あれば母のために鯉を一尾恵み給えという、その孝心が天に知れたか、氷が解けて中から鯉が一尾(ぴき)跳ね上ったという、これをおふくろへ食べさして孝行を尽したという」
「冗談いっちゃァいけねえよ、人間はお前さん氷の上へ寝ていられるわけがねえじゃァねえか、熱病じゃァあるめえしさ、ねえ、よしや人間の温たかみで氷が解けるとしたところでね、氷の方だってこの人が親孝行だから解けてやると、そううまくいくかい、氷が解けりゃァ人間がドカンボコンと落っこっちまう、またその解けた穴からお誂い向きに鯉が跳ね上がるなんてそんなチョボイチがあるかい」
「何だいチョボイチとは、それはな、理屈から言えば氷が解けるわけもなし、お誂い向きに鯉が跳ね上がる道理もないやな、そんな不思議があったというのはつまり孝行の威徳に依って天の感ずるところだ」
「ヘェー、天が感ずるもんでござんすかね」
「あたりめえよ、天も感応する、鬼神も泣くなんてことは世の中にいくらもあることだ」
「ヘェー、そうでござんすかね、天が感ずるから癲疳だね、癲疳だから氷の上へひっくり返る……」
「余計なことをいうない……同じ晋の孟宗という人があった、これも大層な孝行者、やはり冬の日であったがおふくろが筍が食べたいといった」
「ヘェー、唐土のおふくろはみんな食い意地が張ってるんだね」
「食い意地が張っているわけじゃァねえ、雪の降っている最中だ、筍のあるはずはないけれども、おふくろのいいつけだから直ぐに鍬を担いで裏山へ行ってみた、ほうぼうを渉(あさ)って歩いてみたが筍がない、筍なくては母のこころに反くといって孟宗はしばらく籔を睨み歎息をしたという」
「へヘー、その時孟宗の目の見当が違っていましたろう」
「何で」
「籔睨みの元祖だろう」
「余計なことをいうな、さめざめと泣いていると、不思議や隅の方の雪がこんもり高くなった、何心なく鍬で払い分けるというと大きな筍が一本出たとよ、これを母に勧めて孝道をまっとうしたという」
「何をいやァがるんだい、ふざけなさんな、人が物を知らねえと思っててえげえにごまかせ、コン畜生め、雪の降ってる中へ筍が出て来てたまるかい、そうじゃァねえかまたお前さん籔を睨んだり泣いたりしたので筍がニョキニョキ出るんなれば八百屋から市場まで買いにゃァ行きませんよ、みんな連合して籔を睨めらァ……」
「何をいやァがるんだい、それはな、雪中に筍があるはずはないけれども、それがあったというのはつまり孟宗の親孝行を天の感ずるところだ」
「アッ、また感ずったね、どうも癲疳なんてえものは何ですね、大した効能のあるもんでござんすね、ヘイ、まだありますかね」
「あるとも、二十四人の中で沢山ある、呉猛という人があった」
「ヘェー、 あれは梅田が一番いいそうで、梅田といったってところの名じゃァねえそうでござんすね、こう田ん中へ梅鉢を作ってまんなかへ出た奴が一番うめえんだそうだ、あれを梅田牛蒡(ごぼう)てえんだっけ……」
「牛蒡の話をしてやァしない、呉猛、これは僅か十にもならぬ子供だが偉いものだ、父親と二人暮らし、酷暑、暑い時であったがな、蚊が出て仕様がない、貧乏人だ、蚊帳を買うことができない、吊りたいが蚊帳はない……蚊帳がないんだよ」
「何を言やァがるんだい、黙って聞いてりゃァ蚊帳がねえねえと人の面を見い見いつらあてがましいことをいうない、唐土まで行くには及ばねえんだ、この長屋にもいくらも蚊帳のねえ家があらァ」
「どこ」
「俺ンところだい」
「馬鹿ッ、どうも呆れた野郎だ、マァ蚊帳まで飲んじまやァがって、てめえ兎に角何だな、おふくろをどうするんだい、本当に仕様のねえ野郎だ、早速どうにかしなよ、呉猛は子供でも偉い者だ、いろいろ考えてな、酒屋へ行って酒を話をして、下味酒を貰って来て、まッ裸になって自分の体中へ酒を吹っかけちまってな、自分の着物は親父の上へかけて蚊も性(しょう)があるならば父の血を吸わずにわれの血を吸えといって、夜通し父の側で看護(みとり)をしてたよ」
「ヘェー、馬鹿なものだね、何でござんしょうね、その晩本所深川から蚊が総出になって呉猛も親父も蚊に喰い殺されちまったろう」
「馬鹿を言え、その晩から不思議や蚊が一匹も出なかった、父も楽々寝られて呉猛も孝養を尽したという」
「そんな分からねえ奴があるかい、裸になって酒を吹っかけりゃァどうしたって蚊が出るわけじゃァござんせんか」
「そりゃァそうだ、マァ理屈から言えば蚊が出ない道理はないけれども、それが一匹も出なかったというのは、つまり呉猛の親孝行を天の感ずるところだ」
「アッ、また感ずっちまった、どうも無性に感ずるねこりゃァどうもついででござんすからもう一ッ感ずって下さいまし」
「何だい感ずれとは……後漢に郭巨(かっきょ)という人があった」
「ヘェー、あいつはちょっとオツなもんでござんすがね、食うとどうも口が臭くなっていけませんね」
「何だ」
「辣韮(らっきょう)でござんしょう」
「辣韮じゃァないよ、郭巨というのは人の名前だ、これも大層な孝行者、ところがこの人がな、子供が多くって一人の母親に孝行を尽すことができないというものは、いうまでもなくその日暮らしの貧乏人だ」
「また貧乏人かい、どうも片ッ端から貧乏人だね、親孝行と貧乏人は付き物なんでござんすね」
「黙っていなよ、乏しい食い物だ母に勧めれば孫が可愛いから自分が食わなくっても子供にやろうとする、子供に食わしてしまえばおふくろに食わせるのが無くなってしまう、郭巨が内儀さんと相談をしてな、子には掛け替えがあるが親には掛け替えがないというところから、現在産みの子供を裏の山へ埋めに行ったという」
「乱暴なことをしやァがったな、何ですかい生き埋めにしましたかね」
「かねて覚悟の上とは言いながら、そこは恩愛の絆、一鍬(くわ)入れては涙をこぼし、二鍬入れては落涙をなし」
「三鍬入れてはくしゃみをし……」
「余計なことをいうない……だんだん堀って行くというと鍬の刃先へガッチリ当たったものがある、堀り返してみると金の釜が出た」
「ハハァなるほど、贅沢な華族かなんかが園遊会でもしやァがったんだね、甘酒に金の釜を使やァがったんだね」
「絵空事には金の釜が書いてあるがな、あれは金斧(きんぷ)といって、金の延棒の事を一カマ二カマと日本で訳したならばそうなったんだろう、天孝子郭巨に与う、他の人貪るなかれと鐫(ほ)りつけてあったがな、そりゃァマァ俗説で当てにはならねえがな、親孝行でも仕様という人だ、びっくりしてその釜を持って行って政府へ届けた、するとな、その持ち主が分からないばかりじゃァない、郭巨の親孝行類い稀な、子を埋めてまでも親孝行を仕ようというのは大層なものだというのでな、改めてお招(よ)び出しの上でその釜はいうに及ばず、永代政府(えいたいおかみ)からお扶持(ふち)を戴いて世の中を安楽に過ごしたという、それもみんな親孝行の威徳に依るところだ」
「ヘェー冗談もてえげえにして貰いたいものでござんすね、佐渡の金山(かなやま)はこの世の地獄てえじゃァござんせんか、人に頼まれて金を採(ほ)りに行ったって命懸けだってえや、それが裏山を堀り返して金がヒコロヒコロ出てたまるかい、何を言やァがるんだい、ここじゃ分からねえ表へ出ろい……」
「何をいってやァがるんだい、馬鹿、静かにしなよ、それはな、裏山を堀り返したぐらいで金の出ようはずはないけれども、それが出たというのは郭巨の親孝行を……」
「天の感ずるところだろう……ざまァみやがれ、とうとう感ずりやァがった、モウ大概ここいらが感ずるだろうと思って待っていたんだい……ウーン、 アアいい心持ちだ」
「何を言やァがるんだい馬鹿、人の話の腰を折って喜んでいる奴があるかい、分かったら親孝行をしろよ」
「ヘェー、なるほどね、聞いてみるとまんざら分からねえこともねえけれども、唐土ってえ国はいい国でござんすね、今の支那でござんすって、だいぶガタピシしているけど、昔は偉かったんだね、親孝行をすると政府(おかみ)から何かくれるんでござんすか」
「唐土には限らない、日本だって親孝行をして御褒美を戴いた者はいくらもある」
「アアそうかね、ちっとも知らなかったね、日本じゃァいくらぐれえくれるんでござんすね」
「いくらぐらいてえ奴があるかい、昔は青緡(あおざし)五貫文。白米三俵なんてえがな、今はなかなか政府でもそう余裕はない、新聞紙にも時々あるじゃァないか、県知事府知事、あるいは賞勲局から賞状に金五円なんてことが時々あるよ」
「アアそうですかね、ヘェー、親孝行して五円貰えるんですか、そいつはありがてえねどうも、わっちはちっとも知らなかった、どうですね一生懸命に親孝行をしますけれどもね、晦日に政府から五円持って来てくれますかね」
「馬鹿、何をいやァがるい、子が親孝行をするのはあたりまえだ、そりゃァどうだか分からないよ」
「どうだか分らなくっちゃァ心細いじゃァござんせんか、五円貰おうと思って一生懸命親孝行をして、デ何にもくれなけりゃァ親孝行のし損(ぞん)じゃァござんせんか……」
「呆れた奴だなこいつは、親孝行がし損て奴があるかい、物を貰うために親孝行をするんじゃァねえやい、しかしな、また貴様のやりように依っては三円や五円貸してもやる、分かったら親孝行をしろてえんだよ」
「へイへイ、そうお前さんが受け合ってくれればね、わっちも張り合いがあるからね、しかし分からねえもんでござんすね、|あんなシワクチャ婆ァ、クタバリ損ないの三文の価値(ねうち)もねえと思ったら、五両は相場がいいね、こりゃァ鼠捕りよりましだ、これからわっしは世間の婆ァを買い占めよう……」
「何をいやァがるんだい、婆ァ婆ァというない、大切のおふくろを鼠捕りと一緒にする奴があるか、どうも貴様は言葉から改めろ、婆ァなんていうことはならねえ」
「そうかね、母上はいけねえかね、じゃァどうですい御母上(おんははうえ)てえのは」
「御母上というのはないやね」
「オヤオヤ御母もいけねえのかね、じゃァいかに母上様……」
「いかに母上様というのがあるかい、丁寧も過ぎりゃァ馬鹿馬鹿しくならァ、おふくろさんならおふくろといえ」
「ヘイ、じゃァマァおふくろを大切にするんでござんすね」
「そうだな」
「そうそう古い葛籠(つづら)がありますからね、その中へこう綿を敷いておふくろをしまって置かァ……」
「馬鹿ッ葛籠の中へおふくろをしまう奴があるかい、てめえがな、仕事の出先でもっておふくろの好きそうなものがあったら、買って来て食わせるとか、天気のいい日に今日はおふくろさん遊んでおいでなさいといって小遣い銭をやるとか、機嫌を取るのが親孝行だ」
「エエ、ようござんす、わっしはモウきっと親孝行をしますよ、嘘をつかねえ証拠に家へ帰ってすぐに看板を出しましょう」
「何だい、看板てえのは」
「親孝行株式会社てえのを……」
「そんなことはいけない、よく気を付けなよ」
「ヘイ、どうもおやかましゅうござんす、さようなら……オイ」
女房「オイじゃァないどうしたんですよ、アア、何だね大家さんへ行ってお前さん叱られて来たね」
「何を云やァがるんだい余計なことをいうない……オオおみつ、時に母上はいずれにおわしますえ……」
「何をいってるんだねえ、婆ァ婆ァッてばかりいっててさ、母上なんて変なことをいうね、おわしますえだとさ、磐城桝屋なら麹町だ……」
「何をいってやァがるんだ、いずれにいる」
「何がいずれにいるんだよ、おふくろさんは屏風のところでもって寝てまさァね」
「アッなるほど、屏風の蔭の楽寝かなと、さてはシワクチャの御婆(おんば)ァ……」
「何をいってるんだねえ」
「オオ母上、母上、チョイト起きてくれろやい……」
「何だねこの人は、ヤイ母上というのはないよ」
「さて母上の前でござるが、今日から拙者(それがし)が改めて親孝行をつかまつるで、何と胆が潰れたか……」
「何をいってるんだよ、断わって親孝行をする奴があるかい」
「黙っていろよ、引ッ込んでろいうるせえ奴だな……アアいかに母上、早速でござるが鯉を食いたまへ……」
「何をいってやァがるえ馬鹿野郎……おみつ、こりゃァまた天気が変わるよ、マァこれまで煎餅の缺(かけ)一ッ食えといったことのねえ奴が私に物を食えとよ、どうかしてやァがらァ、せっかくだけれどもな、わしァ何だ生れつき川魚は嫌えだよ」
「嫌えじゃァ弱ったな、少し手都合があるんだが食ってくんねえか」
「嫌だよ」
「頼むんだから食ってくんねえな」
「鯉なんぞは御免蒙むるよ」
「オオそうだ……母上、筍を食いたまえ」
「何だ十年こっち歯なんかも一本もありゃァしないよ、筍なんか見るのも嫌だ」
「オヤオヤ仕様がねえな、こりゃァポッチリでいいんだ、どっちか食ってくんねえな」
「私は嫌だよ」
「俺がこうやって頼むんだから食ってくんねえな」
「くどいよ……」
「勝手にしやァがれ狸婆ァめ、何をぬかしやァがるんだ、頼まねえや、馬鹿め、クタバリぞこないめ、唐土のおふくろはな、品物を食ったから親孝行ができたんだ、相手がなくって親孝行ができるかえ、こうなったらな食わなくっても、食わせずには置かねえや、口を割っても食わしちまう」
「オイオイ、冗談じゃァないよみっともない、また始めたよこの人は親孝行といってる下からそんなことをいう奴があるかね、おっかさんがね、いいといったら左様でございますかというのが親孝行じゃァないか」
「何をいやァがるんだい、引ッ込んでろい、今日はな、親孝行のまだ初日だい、うまくはいかねえやい……」
八公「オオ、熊兄いは家かい」
「誰でえ八公かい、マァこっちへ入んねえ、オッウ気取ってやがるな、どこへ行くんだい」
「今日は、姐さんどうもお暑うござんす、どうもおっかさんひどうござんすね……」
「マァこっちへ上がれよどこへ行くんだい」
「ナーニ、ブラブラ遊びに行こうと思っているんだ、一緒に行かねえか」
「てめえのところは大変に仕事が忙がしいってな」
「馬鹿に急ぐんだ、この不景気の中じゃァ不思議なぐらいなもんだ、だけれどもな、あんまり今日は癪に障ったから、モウ二三日明け坊にして親父をテコズらしてやろうと思っているんだ、他じゃァねえけれどもな、俺ァどうにもこうにも無理をして働いているんだ、あんまり心持ちが悪いから一杯飲もうと思ったら親父がヤケになって怒っているんだ、飲ませねえとは言わねえから今はよせというんだ、仕事をしまってからゆっくり飲めとな、こういやァがるんだろう、篦棒め、仕事を終ってから飲むなら飲みやァしねえんだ、何にをぬかしやァがるんだって飛び出して来たんだ、分からねえ親父ッたってありゃァしねえ」
「ヤイこの野郎、もう少し前へ出ろ」
「エエ」
「もう少し前へ出ろよ……」
「前へ出てるよ」
「じゃァ後へ下がれ」
「どうするんだい」
「マァ座れ」
「座ってるよ」
「もう一遍立って座り直せ」
「何をいってるんだい変な目ッつきをして」
「この野郎もとんでもねえ野郎だ、てめえッちに口は利かねえや、店を開けろい……エエ、貴様の住まっている家を開けるんだ、店を開けろい……」
「オイ、冗談いっちゃァいけねえよ、俺ンところは借り家じゃァねえよ、親父の家だい」
「親父の家でも開けろい」
「そんな分からねえ奴があるかい、どうしたんだ」
「てめえはけしからん奴だ、悪いと気がついたら謝れ、親不孝野郎め……」
「オイ待ってくんねえ、オオ、お前がそんなことを人に云われるんだぜ、親不孝の方じゃァお前は通り者(もん)じゃァねえか」
「黙ってろよ、今日の日暮れ方から馬鹿に親孝行になっちまったんだ、孝行の……アッ、孝行のしてえ時分に親はしわくちゃよ」
「何を」
「無二膏やい」
「ナニ無二膏や、万金膏に安息香よ、どうしたんだい」
「しかも美濃国の養老の瀧を知っているかい」
「知ってるよ」
「唐土の二十四孝を御存じかい」
「二十四孝ぐらい知ってるじゃァねえか」
「知らないって云えよ」
「知ってるものは仕方がねえじゃァねえ」
「知っててもいいや、よく聞け、晋に王祥という人があったがな、おふくろが母上だ」
「どうしたんだよ」
「黙ってろよ、母親が女で母だ……」
「きまっているじゃァねえか」
「あるデントウのことであったが、鯉が食べたいといったんだ、雪の降っている中に鯉のいる道理がねえけれども、おふくろのいいつけだから仕方がねえ、裏山の籔へ行ってほうぼうを探したが、どうも鯉がいねえと……」
「あたりめえだい、藪の中に鯉がいるかい」
「余計なことをいうない……落涙に及んで嘆息を致し、しばし藪の上へ寝ているというと、不思議や雪が解けて、大きやかなるところの鯉が跳ね上ったという、これ即ち籔睨みの元祖だ、親孝行はこれでございてえんだ、分かったか」
「何だかちっとも分からねえお前のいうことは……アアなるほど、どっかで二十四孝の講釈を聞いたんだな、お前の言うのは孟宗と王祥とチャンポンだ、しかし世の中は不思議だな、俺もお前にこれまでさんざッぱら意見をしたけれども、親不孝てえものを言われたのはお前に初めてだ、考えてみると俺の方が間違っているな、年をとった親父を心配させるのも可哀想だ、俺が悪い、よそうよそう、遊びに行くのはよすよ、俺ァ家へ帰るよ……」
「どうだい畜生め、これから親不孝をするとドヤすぞ」
「マァいいや……おっかさんちっと遊びにおいでなさい、おっかさんを大切にしてやんねえよ」
「何をいってやァがるんだえ、俺の方は今親孝行の最中だい……どうでえ、エー、八公め、驚いて帰っちまやがったな、どうだい……サァおふくろ、鯉か筍かどっちか食ってやってくんねえな」
「また始めやァがった、いつまでクダらないことをいってるんだ」
「アアそうそう、まだあったっけ、鯉や筍の口は取り消しにしよう……おみつ、オイ酒を持って来な」
「お前さん今ッから飲んで晩の寝酒をどうするんだい」
「飲むんじゃァねえんだ、燗はしなくってもいいんだい、徳利ごと持って来い……」 

 何思ったか奴さん、親孝行をするのだといって二合の酒を素ッ裸になって身体中へ吹きかけてしまいました、もとより釣りたくも蚊帳がない、おふくろの側へ大の字なりで高いびき、夏の夜は明けやすい、いつか烏がカーア……。

「オイオイ熊公熊公、起きなくっちゃァ不可ないよ、今日は早出だ、仕事に行くんじゃァないか、サァサァ起きなよ熊公やい、オイオイ」
「アア……、うるせえな、起きる時には起きるよ……何をいやァがるんだいうるせえな本当に、アアア……オヤ、ゆうべはここに寝たんだろう俺ァ、どうでえ……、アハハ、ちっともアトがねえや、さては天公感ずりやァがったな、親孝行の威徳に依ってゆうべは蚊が一匹も出なかったろう」
「何をいってやァがるんだい馬鹿野郎、おいらが終夜(よっぴて)煽いでやっていたんだ」

[^82]: 横ズッポ ……横外方(よこずっぽう)。頬、横顔のこと。
[^83]: 十種香だけ私は教わったことがある ……義太夫の演目「二十四孝」の「十種香の段」を指している。
[^84]: ヘェーその上でスケートをしてえもんだ ……英国人の探検家トーマス・ブレーキストンが文久元年(1861年)に箱館(現在の函館市)を訪れた際にスケート靴を持ち込んだのが日本におけるスケートの発祥。明治10年(1877年)には札幌農学校で教鞭をとっていた米国人農学者ウィリアム・ブルックスがスケート靴を持ち込んでいたとされる。

お七

 世の中には俗に御幣(ごへい)担ぎなどといって何事にも縁起を祝う人がございます。ここに吉兵衛さんという人があります。 

「おたきや」
たき「何だえお前さん」
「今日は大変に陽気が悪いようだけれども、マァおめでたいな」
たき「また始まったよ、悪い事でも何でも、おめでたいおめでたいといって、陽気の悪いのにおめでたいてえことがあるかね」
「だけれども、マァめでたいとしておきねえな」
たき「じゃァマァおめでたいね」
「おめでたく腹が減ってきた」
たき「おかしいねえ世間の人が笑うよ、馬鹿馬鹿しいお腹が空いておめでたい奴があるかね」
「だからおめでたくお飯(まんま)を食おうと思う」
たき「御飯だって、おかずができてないんだよ」
「じゃァおめでたく茶漬けで食っておこう」
たき「それがね、ツイ気が付かなかったが御飯も少し足りないの」
「それじゃァ仕方がねえ、おめでたく食わずにいよう」

 おめでたく食わずにいるというのもおかしいが朝から晩までこんなことをいっている、スルと又世の中にはつむじの曲った人もあるもので、あいつは物を気にするから、忌なことをならべていってやったら、定めし苦い顔をするだろうと、つまらないことを面白がる人があるもので。

「おたき、嫌な奴が来た、あいつの顔を見ると、俺はぞっとするんだがな少し酔ってるようだ、ヒョロヒョロしてるから……、アア来た来た、俺はどこかへおめでたく隠れるがな、お前一つおめでたく断わってくんな」
たき「アアいいよ、留守とか何とかいって断わるからいいよ」
「じゃァおめでたく戸棚へ入ろう」
たき「お前さんおめでたくお尻が出ているよ」
「おめでたく押し込んでくんな」
たき「来たよ来たよ」
「今日は」
たき「オヤおいでなさい……、誠にお気の毒様、折角おいででございますが、良人(やど)はただ今出まして、留守でございます」
「ハテナ、留守というなァおかしいね、どうも家にいて留守というなァ、世間にあるわけのものではない、もっとも昔離魂病という病気があったそうだな、分身とかいって、魂がニッになって、外へ出た方がピンピン達者で、家にいる方が九死一生虫の息というような、妙な病気があったそうだ、今の世の中に馬鹿馬鹿しいそんな病気のあるわけのものでないと思うが、お前ンとこの吉兵衛さんが今向こうから来た時には、確かにここにいたに違いない、お前の今いるそのそばの所にいたんだ、それがここへ来る僅かの間に、いなくなっちまうというのは、どうも不思議……、アアモウお隠れになっちまったか」
「オイ、俺はそこへ出るよ……、馬鹿馬鹿しい、源兵衛さん、お前と俺とは昔からの友だちじゃァないか、何もお隠れまでは言わなくってもいい」
「あっしはぞんざいの口を利いちゃァ悪いと思うから丁寧にお隠れ……」
「それはいけないよ、そんな事に丁寧に口を利くには及ばねえ、友だちというものはそういうものじゃァなかろうと思っている」
「そういうものでなかろうというのは、俺の方でいうんだ、お前と俺とは子供の時分からの友だちだけれども、俺は年中食乏だし、お前は身上(くめん)がいい、デマァお前を頼りに思ってるんだ、なぜ頼りにするというと、町内に小兒(こども)からの友だちも七八人あったが、一人欠け二人欠け、だんだんに死んでしまって、モウお前と二人ぎりだ、其の生き残りの頼りに思うお前がわっしの姿を見て戸棚の中へ隠れるほど、人に爪はじきをされるような人間になったかと思うと、実に俺は心細くなって……」
「オイ、泣きッ面をしなさんな、アア涙をこぼしてる、いけねえなァ」
「涙もこぼれるじゃァねえか、親類より俺はお前を頼りにしている人間なればこそ、時々来るし、今日はまた心配だから俺は見舞いに来たんだ」
「ホラ始まった、それがいけねえ、病人でもありゃァしめえし、見舞いに来るというのはおかしい」
「おかしかァねえ、水が出れば水見舞い、火事があれば火事見舞い病人があれば病気見舞い、お前ンとこのかみさんがだいぶ腹が膨れている」
「ウム今月は臨月なんだ」
「ソレ見ねえ、ダカラ見舞いに来たんだ」
「けれども大変に丈夫で子供が腹の中でピンピンしている、俺にゃァ分からねえけれども、産婆さんのいうにはこういう子は大変に丈夫だそうだ」
「ナニ、そこが心配だ、家の女房(かかあ)はウジャウジャ子供を産んでるから、そのことについちゃァ詳しく知っているが、産後の肥(ひ)立ちという奴が肝腎だ、どこのかみさんは産後が悪くってアアいうことになったの、どこの赤ン坊は生れた時には大層丈夫そうだが、三日目に死んだなどということがよくある」
「アアいやだいやだ、俺のとこじゃァそんなことはねえよ」
「それァないとはいわれないよ、あッちまってから、どういってもおっつかねえから、何でも早くからあると思って心配しなくっちゃァいけねえ、よく産をする時は、早桶へ片足突ッ込んでるようなものだというが、どうして片足どころではない、両方突ッ込んで、首ッ玉へ縄を掛けて……」
「オイ、オイそれがいけねえよ、そういうことを聞くと気になってならねえから、いわねえようにしてくれ」
「イヤそうでねえ、前から心配しておくのが肝腎だ、もしものことのあった時の用心だが、まさかにお前が湯灌をするというわけにもいくまい、そうかといって、他人の長屋の者へ頼むというも気の毒のものだから、湯灌だけは俺がしてやる」
「そんなことは大丈夫だよ」
「大丈夫だけれども用心だ、湯灌はきっと俺が引き受ける」
「引き受けるには及ばないよ」
「イヤそうでない、じゃァまた湯灌でお目にかかろう、いずれその節、さようなら……」
「アア行っちまった……オイの塩の瓶を持って来て撒いてくれ、ベラベラよくしゃべりやァがるって、あいつは何でも俺の顔を見ると、キッとあんなことをいやァがる、この間も横丁で逢った、またいやなことを言うだろうと思うから、今日は一番こっちで脅かしてやろうと思って、貧乏神どこへ行くんだといったら、お前の所へ行くんだとこういやがった、気になって堪らねえから、裏通りから四ツ角へ駈け抜けて、待っていて、今度は福の神どうしたと言ったらお前の所から出て来たと言やがった、アアどうもすぐに言われるわけのものじゃァない、おそらくアのくらい口の悪い奴はいねえ」
たき「お前さんもあんまり黙ってるからいけないよ」
「黙ってるッたって、ノベツにベラベラしゃべって、しゃべりきったら帰ッちまったンだ、マァ酔ってるから仕方がねえ」
たき「仕方がないッたって口惜しいじゃァないか、ほんとうに縁起の悪いことばかりいう嫌な人だ……」

 夫婦愚痴をいってその日は済んでしまった、じきにかみさんが無事に産の紐を解いて女の子が生まれ、今日は七夜、初めての子供だから夫婦大喜びで、赤の御飯でもたいて、身分相応に祝ってる所へ例の奴さん、よせばいいのに、ふだん一合のものなら二合の酒を飲んで、{茹でだこのような顔をして、

「オオうちかえ……、オヤ閉まってるところをみると留守かな、それでなけりゃァやり切れなくって夜逃げでもしたか……」
「オイオイ、いけないよ、今日は後生だ、そんなことをいわずに帰っておくれ」
「どうしたんだ」
「今日は少しめでたい日だから何にも言わずに……」
「めでてえ日、そうか俺ァまた表が閉まってるから、死んじゃったかと思った」
「アアそれがいけねえんだよ」
「何がめでてえんだ、またクダらねえことをいってるんだろう」
「クダらなかァねえ、おっかあが身ニツになったんだ」
「エエ、それァとんだことだった、道理でこの間夜の明け方に女の声で人殺しいといったが、無闇に出て掛かり合いになると嫌だから、寝ていたが、お前ンとこのかみさんが胴切りにされたのか」
「そうじゃァねえ赤ン坊を生んだんだ」
「アア小仏か」
「小仏というなァおかしい」
「おかしいことはねえお前は善人だ、世間じゃァお前のことを善い人だ、仏様のような人だと賞(ほ)めないものはねえ、その子供なら小仏で差し支えなかろう、つまらないことを咎めなさんな、何しろ俺が折角来たものだ、お前の所でこれだけの取り込みがあるんだから、マァあがって一つ線香でも上げて……」
「オイあがっちゃァいけない、線香なんて困るよ」
「マァどこにいるんだ仏様は」
「仏様じゃァねえ、子供が出来たんだ、よく寝ているから静かにしてくれ」
「イヤまた子供のことや産婦のことについて、お前の気の付かないことを指図してやらなければならない……どうも外から入って来たせえか真っ暗だ、こう閉(た)てきっておいちゃァいけねえ、空気が通わなくって、何とな陰々として、変に抹香臭いような……」
「そんなことはないよ」
「マァササどこにいるんだい」
「そこによく寝ている」
「アアこれかえ」
「それだよ」
「大きい赤ン坊だなァ、これァ取り上げに骨が折れたろう、なるほど大きいや、モウ毛なんぞも大層延びてる、けれどもなんだなァ、艶のねえ赤ン坊だなァ、エボジリ巻きにして、鉢巻をして反歯(そっぱ)をむきだしてる」
「そりゃァおふくろだよ、こっちのが赤ン坊だ」
「アアそうか、道理で大きい」
「そうかってお前、そんな大きなものを産む奴があるか、その傍に横になってる」
「アアこれか、これはまた小せいや、何てえ小さな青ン坊だ」
「青ン坊てえのがあるか、赤ン坊だ」
「赤ン坊だけれども青いから青ン坊だ、アハハハハ動いてやがる、幾らかの虫の息がある」
「息のねえ奴があるか、起きるといかねえ、そう酷いことをしなさんな」
「どうだ泣くか」
「ウム、なかなか泣く、泣き声じゃァ大変に丈夫だってことだ」
「泣き声で丈夫なんてえことがあてになるもんか、今日で何日目(いつかめ)になる」
「何日目てえのはおかしい、丁度七夜だ」
「七日(なのか)か」
「七日ッてえんじゃァねえ、七夜だ」
「同じことじゃァねえか、七日目だから七日、初めての七日だから初七日だ」
「縁起の悪いことをいうない」
「何も縁起の悪いこたァねえ、初七日に違えねえ、何か戒名が付いたか」
「戒名……、いやになっちまうな、名前なら伯父のところへ頼んでやったら直ぐに書き付けにしてくれた、おれが名付け親だと大変に喜んでよこした、この書き付けを見ねえ」
「なるほど名目録と……、いろいろなことが書いてあるな、水性(みずしょう)の一白(いっぱく)……昔はこんなことを調べてよく名をつけたものだが、今じゃァ構ァねえ……、ナニはつと……はつてえと牝(めす)だな」
「牝ッてえのがあるか、女の子だ」
「牝だって同じことだ、ここに都々逸みたようなものが書いてある」
「都々逸だか何だか知らねえが、伯父が祝って書いてくれた」
「竹の子は生まれながらに重ね着て……、これッきりかえ」
「そうだ」
「馬鹿だなァこんなものを詠んで……狂歌にしたところが、上の句だけで下がない、幽霊狂歌胴切狂歌、上下揃わなけりゃァ歌にゃァならねえ、上の句に下の句二句合せて一首に固まるんだ、これは上だけじゃァねえか」
「いけねえかえ」
「縁起が悪いじゃァねえか、下の方がなけりゃァ幽霊だ、絵に描いてあるんでも幽霊は下の方が無い、胴切りになったかといったなァ前兆だ、この娘は今に出歯亀みたような奴に出くわすよ、幽霊狂歌じゃァ仕様がねえ、俺が下を付けてやろう」
「お前やってくれるか」
「ウム、おめでたく一ツやってやろう」
「それはありがてえ、お前の口からめでてえという言葉を聞いたことがねえ」
「竹の子や生まれながらに重ね着て、育つに連れて裸にぞなる、というなァどうだ」
「|いかねえなァそんなのは」
「何しろどうもこのつらじゃァ生涯お荷物だ、これがまた因果と育つからな」
「因果と育つ奴があるか、大切にして丈夫に育てらァ」
「大切にしたッてぞんざいにしたっていけねえ、いっそ早く片付く方がいいんだが、どうも楽にゃァ死に切れねえ、親の因果が子に報い、罪障消滅をしねえうちはとても死に切れない、罪障消滅をするように、俺が仏様へ願ってやろう」
「いけないよ、そんなケチを付けちゃァ……」
「しかしもし育った時にゃお前どうする」
「どうするったって、学校へやったり何かして、女の子は行儀が大切だから良いお屋敷か何かに奉公へやろうと思う」
「フッ、馬鹿だなァこいつァ、臭い者身知らずてえなァお前のことだ、お屋敷なぞへやったら、お嬢様とか若様とかいう者が、この餓鬼を見りゃァ目を廻してしまう、それでもまたいい塩梅にどこかの屋敷で置くとしたところで、これは駄目だ」
「なぜ」
「この娘がおはつで、向こうに徳兵衛という奴がいる」
「どこに」
「どこったって大きくなって奉公にやるとその屋敷に徳兵衛といって、こいつが馬鹿で図々しくって、助兵衛で仕様のねえ奴だが、こっちが男恋しやという年頃のところへ、向こうから水向けをされるから堪らねえ、いつか不義淫奔(いたずら)をする、昔でも、今でも屋敷じゃァ不義はやかましい、二人ながらお暇(いとま)が出る、サァそうなるとどっちも家ヘノッソリと帰ってられねえ、帰ったところでこの娘(こ)が一人娘で徳兵衛が一人息子、とても夫婦にはなれねえから、二人で相談をする、掃き溜めか雪隠(ちょうずば)の傍(わき)か何かで……」
「汚ねえなァ」
「とてもこの世では添われないから、冥途へ行って夫婦になろうと心中に出掛ける」
「ダッテまだ生まれたばかりで……」
「確かにそうなる、大丈夫そうなる、おはつ徳兵衛の心中だ、ところで心中はマァ向島とてえげえ昔から決まっている、それじゃァ徳さん向島へ行こうじゃァないかというと、さすが男は自分を知ってるから、少し考える、お前はそういうが、二人ながら向島へ心中へ行く顔じゃァない、モウ少しどこか、どぶ泥臭い所はなかろうか、新堀端……合羽橋辺りがよかろう、合羽橋辺りじゃァ浅いから死なれない、ナニ逆さまに飛び込めば死なれるというんで、とうとう二人がここで心中をする、その膨れた死骸が新堀をゴロゴロ流れて来ると家へ沙汰がある、死骸の引き取りなんてえもんは大変なもんだ、親父に代わって俺が親類になって引き取りに行ってやろう」
「そんな馬鹿なことがあるかい」
「マアサ、その節またお目に掛ることがあるかも知れない、何しろよく気を付けてお育てなさい、さようなら……」
たき「お前さん馬鹿馬鹿しいじゃァないか、私はこんな身体だから出られないが、お前さんアンなことをいわれて口惜かァないかえ、初めて出来た子供じゃァないか」
「口惜いけれどあいつがベラベラしゃべるんだから仕様がねえ」
たき「仕様がないってあんまりお前さんが人がよ過ぎるから馬鹿にされるんだよ、意趣返しをする気はないかえ」
「する気があってもとても口じゃあいつにゃァ敵わねえ」
たき「アアそうそうこの間お湯で会ったッけが、あの人のかみさんも来月か今月の末辺り生まれそうなおなかをしていたから、生まれたと聞いたら行って思うさま縁起の悪いことをいっておやりよ」
「なるほど、そいつはうめえことを考えた、よしきっと意趣返しをしてやる」

 夫婦申し合わせて待っていると、むこうでも女の子が生まれて今日は七夜ということを聞いたから喜こんで吉兵衛さん出掛けた。

「ハイ今日は……」
「ヤッ来たな」
「大層門口が散らかってるが、何か病人でもあるのかい」
「イヤ吉兵衛さん、マァおあがり家の嬶ァが小仏を産んじまった」
「エー小仏」
「小仏よ」
「ウムそうか」
「マァあがってお線香でも上げてくんねえ」
「ウムお線香……どこにいる」
「そこにいらァ、その鉢巻きをしているのはおふくろだ、その傍にシクラシクラしているのが赤ン坊だ」
「なるほど、今日で何日目だ」
「初七日だ」
「ウーム、エー何はどうした」
「戒名か、戒名はモウつけたぜ」
「そうか、何てえんだ」
「どうもウジャウジャ出来やがって、うるさくって仕様がねえ、何でも留めの名を付けると後が出来ねえというから、七人目の子供で、女(めす)だからお七という名をつけた」
「お七か、そうか……伯父さんのところから幽霊狂歌をよこしたか」
「そんなものはねえ、俺が勝手に付けたんだ」
「そうか、それから何だ……」
「何だ」
「そうすると、この子は因果と育つだろうと思う」
「そうかなァ、育った日にゃァ仕様がねえ、食わせることができねえ、といってまさか親の手でしめ殺すわけにも行かねえ、どうしてもこういうことは他人でなけりやァいかねえが、一ッ手を貸してくんねえ、頭巾か何か顔にのっけておきゃァ息が止まっちまうから……」
「オイ、よしなよ、馬鹿なことを……」
「冗談だよ、アハハハ青くなってやがる……因果とこれが育つ……」
「そうしたら何か、お前どうする」
「どうするって仕方がねえ、七ッ八ッになったら工場か何かへ売っちまうつもりだ」
「そんなことをする奴があるか、折角育ったもんだから、屋敷へ奉公に上げねえ」
「何をいってるんだ、こちとらの娘を屋敷へ上げるといったって、着物も何もねえ、{素っ裸じゃァやれねえから、屋敷奉公なんぞには出さねえ」
「けれども女の子だ、少しやァ行儀だって覚えなくちゃァならねえ」
「行儀だのへちまだのッてものはこちとらのような貧乏人の餓鬼は覚えなくってもいいんだ」
「けれどもそこを是非お屋敷へ上げねえ、着物ぐれえ俺がこしらえてやってもいいから……」
「お屋敷へ上げりゃァどうする」
「向こうに徳兵衛てえ者がいる」
「ナニ」
「それと不義をするだろう、それで何で心中だ」
「何が心中だ」
「お七徳兵衛」
「馬鹿ッ、てめえのとこの餓鬼はおはつというからおはつ徳兵衛で心中をすると、昔の話をたとえてしたんだ、お七徳兵衛てえ心中があるかい」
「これからできらァ」
「何をいやァがるんだ間抜けめえ、帰れ帰れ」

 吉兵衛さんほうほうのていで帰って来た。

たき「どうしたえ」
「どうしたってあの野郎、俺のいう事をみんないっちまやがった」
たき「戒名は」
「戒名はこういうんだ、七人目の子供でうるせえから後の出来ねえようにお七と留め名を付けたというんだ」
たき「それから何といったえ」
「奉公に出すかといったら、七ッ八ッになったら工場か何かへ売っちまうというから、そんなことをしねえで、屋敷へ上げろと掛け合った」
たき「掛け合わないでもいい、それからどうしたえ」
「向こうに徳兵衛てえ男がいてそれと不義をして心中するといったら、あいつのいうには、てめえの家の餓鬼はおはつだから、おはつ徳兵衛で心中するといったんだ、お七徳兵衛の心中てえのがあるかてえんだ、俺はよく知らねえから黙って帰って来た」
たき「マァ呆れ返っちまうね、この人は……お七ならば八百屋の娘で火あぶりになったのがあるじゃァないか」
「表の八百屋か」
たき「そうじゃァない、本郷二丁目の八百屋のお七というのが、機関(からくり)にもあるだろう、ケチをつけるには丁度いいからモウ一遍行っておいでよ」
「何というんだ」
たき「仕様がないねこの人は、こういうんだよ、てめえんとこの餓鬼はお七というのだろう、昔本郷二丁目に八百屋久四郎の、一人娘にお七というのがあった」
「なるほど」
たき「感心しちゃァいけないよ、それが本郷丸山本妙寺から出た火事で、まる焼けになっちまった」
「オヤオヤ」
たき「何だえオヤオヤって昔だよ」
「アア昔か」
たき「家が焼けたから、駒込の吉祥寺へ立ち退いた所が、そこに吉三という小姓があってお七といい仲になった」
「フーム」
たき「その中に家の普請が出来たから引き払ってしまうと、男は寺方にいるんだから、チョイチョイ出るわけにはいかない、こっちも堅気の娘で行くわけに行かず、娘心の一筋に、モウ一遍吉三に逢いたい逢いたいと思い、家が焼けたらまた吉祥寺へ立ち退かれ吉三に逢うことができるだろうと、自分の家に火をつけたのを、釜屋武兵衛に訴えられて、町奉行の手で召し捕られて、引き廻しの上鈴ヶ森で火あぶりになった、てめえの餓鬼もお七だから、火でもつけて火あぶりになるだろうと、そういっておいで」
「ウム、これはなかなか難しいな」
たき「そのぐらいのことはいえるだろう、行っておいで、何でもてめえの所の餓鬼は大きくなったら、火つけでもしやがるだろうといっておやりよ」
「ウムよしじゃァ行って来る……」
「また来やがった、どうした」
「ウム何だ」
「何が何だ」
「てめえのところの小供……じゃねえ、アノ餓鬼よ」
「何を」
「餓鬼が何だろう、八百屋……じゃァねえお七というんだろう」
「お七がどうした」
「昔ソノ本郷に火事がある」
「本郷はどこだ」
「昔だ」
「昔のことはどうでもいい」
「丸山がドンドン燃えて、何とかいう寺だ、その八百屋に娘があって、お七というんだ」
「どうした」
「駒込、駒込、駒込だ」
「何が駒込だ」
「その寺にいい男があって、八百屋に胡椒を売ってる」
「何をいってるんだ、デどうした」
「それがくっついて、家が出来上がって、それから火つけして……」
「エエ馬鹿ッ、人の所へケチを付けに来やがったんだろう、てめえのいうことはていげえ解ってらァ、昔本郷二丁目に八百屋の久四郎てえのがあった、一人娘のお七というのが、本妙寺の大火で家がまる焼けになって、普請中吉祥寺へ立ち退いてる間に、吉三という小姓とくっついた、そのうちに八百屋の普請が出来上がったので、吉祥寺を引き払ったが、それッきり吉三に逢うことができない、娘心の一筋に、家が焼けたらまた吉祥寺へ立ち退けるだろうと、浅い考えから自分の家へ火をつけたのを、釜屋の武兵衛という者に訴えられて、町奉行の手で召し捕られて、江戸引き廻しの上鈴ヶ森で火あぶりになった、てめえの家の餓鬼もお七だから、大きくなったら火つけをするというんだろう」
「それだから火の用心を気を付けねえ」

(終)

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