貨幣をめぐる法的擬制――騙取金銭の返還請求、寄託消費契約、金銭消費契約

商品が盗まれる、といことと貨幣が盗まれるということは法的には異なった扱いをうける。商品と貨幣との違いについては、様々な議論があるが、盗み、という視点から考えてみることで貨幣の本質について、ある重要な示唆をえることができる。

実物資産と金融資産


R.レイは『現代貨幣論入門』の第1章で以下のように書いている。「金融資産financial assetは、必ず他の誰かの金融負債financial liabilityの裏返しoffsetである。全体としては、純金融資産は必ずゼロになる。これに対し、実物資産real assetとは、他の誰かの負債によって相殺offsetされない資産のことである。」(邦訳p.53)
たとえば、ローンで自動車を買えば、自動車そのものは実物資産である。これに対し、ローンは金融負債だが、それは自動車ローン会社の金融資産であり、金融負債と金融資産は相殺ぜされ、純資産としては自動車のみが存在する。
【以下、「通貨」の語を使うべき文脈であっても、一般的用法に準じて「貨幣」の語を用いる。】
このことは一見自明であるように見えるが、貨幣についてみるならば、それほど単純ではない。一般に人々が貨幣という言葉でイメージするのは現金ではないか。人々の貨幣観は、ながらく貴金属貨幣の表象によって支配されてきた。現代では金貨などは流通していないが、現金がその代替物として受け取られており、その意味でも現金こそが典型的な貨幣であると認識されるのではないか。金貨そのものをみるならば、それは実物資産としての性質をもつ。もしかりに実物資産だとしたら、それは他の誰かの負債ではない、ということになるのだろうか。実物資産がモノであるのに対し、他の誰かの負債である金融資産はモノではなく社会的関係である。私は貨幣の典型は現金ではなく、預金通貨であると考える。現金は、あえて言うならば、特殊な貨幣である。以下、法律における貨幣の取扱を参照しつつ、貨幣がモノとして扱われる経緯を考える。私は貨幣はモノではなく社会関係であると考えるのだが、一般にはあたかもモノであるかの如く扱われている。
経済学の対象である貨幣について、ここで法律での取扱を主題とするのは以下の理由による。経験科学としての経済学が対象とするのは、客観的事実である。ただし、自然科学のそれよりも広く、デュルケームが社会的事実と呼んだような事柄が対象となる。制度と言い換えてもよいが、法制度などがその典型である。それは個人に対し、外在的でかつ拘束力をもつという意味で、たとえば物質の間ではたらく引力のような自然法則と同じような存在性格をもつ。
社会的事実としての法は、たしかにある面では自然法則と同様の外在性、拘束性をもつのではあるが、他面であくまでも人為であるがゆえに、可変的でもある。
とはいえ、我々は法的な取り決めにすぎないものを「事実」であり、「現実」として受けとめており、そのことが我々の経済学的思考を制約していることもたしかである。法律において貨幣がどのように位置づけられているかを分析することが必要であると考える所以である。
ここでは2つの論点を取りあげる。ひとつは騙し獲られたお金の返還をめぐる法的問題。もうひとつは銀行預金と銀行貸付をめぐる法的取扱である。

現実の経済を動かす制度的枠組みの基盤は法的な規範であり、その規範のもとで貨幣は機能している。 貨幣をめぐる法的規範は、我々がそれに準拠して行動すべき枠組みなのだから、頻繁に変えるわけにはいかない。それに対し、現実の経済はといえば、たとえば経済のグローバル化や情報技術の発展にともない貨幣による決済システムは常に発展し変化し続けている。その結果、しばしば現行法との間に齟齬が生じる場合がある。法規範は現実の変化に追随して改変を迫られる。
本稿の基本的な立場は、貨幣は単なるモノではなく、債務の決済手段として、人と人との社会的関係をその本質としているということである。その意味で、慣習を含む広義の法規範・法制度の存在が貨幣を貨幣たらしめている。したがって、経済システムにおける貨幣の本質を見定めようとしたら、法的な存在としての貨幣という側面をみずに議論することはできない。


一般に法律上は、所有権は所有者の合意によって他者に譲渡される。Aがその所有物をBに売却、ないしは贈与したような場合である。これを承継取得とよぶ。その場合、Bが所有権をもつが、その根拠は譲渡したAが所有権をもっていたことにある。その場合、無限後退をさけるためには、どこかで譲渡によらない取得を想定する必要があるが、それを原始取得とよぶ。
以下、貨幣を媒介とする取引の問題を扱うので、そこで問題になるのは原始取得ではなく承継取得である。

即時取得(善意取得)

動産については所有権と占有権とはことなり、単に占有しているだけでは、そのものに所有権があるとはみなされない。一般に動産の場合、所有権と占有権は一致しないのである。私が図書館から本を借りて手元に置き、読んでいる場合、私はその本を占有しているが、所有していないことは明白である。私が本を占有しているとはいえ、本の所有権は図書館に属しているので、返還を請求されれば、応じなければならない。私がある本を友人に貸した場合、友人が本を占有してはいるが、所有権はあくまでも私にある。しかし、取引行為がここに介在すると事情が少し異なってくる。

私(A)が金銭を必要とした際に、持っている本(岩波の『六法全書』とする)の所有権をBに売り渡し、Bから金銭を得たのちも、その本をBから借りて使い続けたとする。第三者からは、その本は継続的にAの本であるようにみえる。Cはそのように見做して、Aからその本を買ったとする。この場合、Cはその本に対する所有権をもつのか否か。

この本の所有者はB、C?

形式上は、この本の所有権はBにあることは明らかだ。Aは単なる占有者にすぎない。したがって、これをCに譲渡したとしても、そもそもAに所有権がなければ、Cの所有権も成り立たないようにみえる。承継取得の根拠は売り手の所有権だからだ。

しかし、上記のようにAがCに売るという取引が成立したのちに、購入者であるCの所有権を否定することになると円滑な商品流通を阻害することになる。CはそれをさらにDに転売していたとしたら、Dの所有権も認められないことになるからだ。かといって、売買のたびに売り手が法的に正当な所有者であることを確認することを要求するとしたら、取引に関わるコストが増大し、売買取引そのものを抑制してしまうことになる。
そこで、法律上、上記の例のような場合に買い手であるCの権利を保護するのが即時取得の制度である。Aは法的には所有者ではなく占有者に過ぎなかったのだが、Cがそれを誤認し、所有者であるとみなして取引をおこなった場合、Cに所有権を認めるのである。この場合、占有者を所有者とみなしてよいことになる。上記の例では、AはBから借りたうえで、合法的に占有していたのだが、そうではなく、AがBの本を盗んで占有しており、その本をCが購入した場合も即時取得の原則が適用される。
(一定の時間が経過した後に占有者に所有権がみとられる場合は時効取得である。即時取得であれ、時効取得であれ、経済的な取引行為によって成立した取得ではないので、承継取得ではなく原始取得とみなされる。)
以上は、一般的な動産についての即時取得の例である。不動産の場合は即時取得はできない。所有権の移転には登記の手続きが必要であり、上記のようなことはそもそも問題にならない。
では貨幣の場合はどうであろうか。貨幣の場合、事情はすこし異なる。上記の場合、本は書名などによって物理的に同一の本であることが特定できるということが議論の前提になっている。BがCに売った本が、Aの所有である岩波の六法全書ではなく、有斐閣の六法全書であった場合は、当然のことながら、そもそも最初から上記のような議論をする必要はない。有斐閣の六法全書はAの所有物ではないからである。
貨幣の場合、物理的に特定することは意味をなさない。そのため、動産とはすこしばかり異なった法理が適用されるのである。
動産としてのあるモノを所有権の対象とする際には、そのモノが特定されなければならない。上記の例でいえば、BがCに売った岩波の六法全書は私が所有していたそのモノである、ということが特定されなければならない。たとえば、Bさんが所有していたゴッホのヒマワリの絵をAさんが盗んだとする。BさんはAさんが自分のヒマワリとよく似たヒマワリの絵をもっておりBさんはそれが盗まれた自分の絵だとしてその所有権を主張し、その所有権に基づいてそのヒマワリの絵を返せと要求したとする。それに対し、Aさんは、その盗んだヒマワリの絵はすでに売却しており、今手元にあるヒマワリは別のヒマワリだ、と主張した場合、Aさんの手元に今あるヒマワリの返還を要求しうるだろうか。


盗んだ絵はすでに売却した、これは別の絵


物的な所有権に基づく返還請求は不可能だろう。絵が盗すまれたことに対し、なんらかの補償を要求しうるとしても、所有権を根拠にして別種同等の絵画を要求することは不可能だろう。
金銭についても同様の問題が生じる。ヒマワリの絵とにたような状況を考えよう。AさんがBさんから1万円を盗んだ。Aさんは、CさんがAさんから受け取った1万円を持っていることを知り、その1万円の返還を
Cさんに請求した。

Cさんからお金を返してもらえるか

この例でいえば、AさんがCさんに支払った金銭が、Bさんから盗んだ金銭である、ということは特定できない。Cさんに支払ったのはAさんが働いて得た所得であり、Bさんから盗んだ金銭ではない、と抗弁できるからだ。AさんはCさん以外にも、Dさん、Eさんにも支払いをしているかもしれない。Bさんから盗んだ金銭が誰に支払われたのかを特定することは原理的に不可能なのだ。
(以下、ここで扱う貨幣は、経済的な取引の場面で決済手段としても用いられる貨幣を想定する。記念硬貨などのように、決済手段としてもちいられることがない場合は問題が異なる。)

騙取金銭の返還請求


貨幣はモノなのか関係なのか(それほど単純ではないが)を巡る法学の議論を経済学のそれと対比してみることは興味深い。ここでは次に、法律学で騙取金銭の返還請求をめぐる問題として議論されてきた事柄を取りあげる。法学の場合、そもそも貨幣とは何か、という本質論が問題なのではなく、現実に起きているトラブルをどのように法的に処理すればよいか、というすぐれて実務的・実践的な問題感心に基づいている。つまり、金銭を騙取されたひとの権利をどのように保護するのか、しないのか、ということであって、経済システムにおける貨幣の本質をめぐる問題とはアプローチが大いに異なる。


経済学では、金融資産である貨幣は物的資産とは区別される。これに対し、法律では貨幣を特殊な動産として扱い、動産と同様の所有権を認める。しかし、動産の場合は、上述したように所有権と占有権は一致しないのに対し、貨幣については、占有者をその貨幣の所有者と認めるのである。なぜか。

たとえば金銭(貨幣)を盗まれた場合を考えてみる。(法学では金銭という言葉が使われるので、ここでは金銭とよぶ。)金銭を盗まれた人は、盗んだ人に金銭所有権に基づく返還請求(物権的返還請求)を求めることができるか、という問題である。
我々の日常的な法感覚からすれば、当然、法的には、盗まれた人の所有権が保護されると考える。上述したように動産であれば、即時取得がみとめられるのは取引による善意取得の場合のみである。
では金銭の場合はどうか。金銭は上述した本のように物理的にモノとして特定できない。モノとして特定することは意味をもたない。したがって即時取得は問題とならないのだが、取引によらずに占有した場合でも、占有者を所有者とみなしてよいとされる。
上述した六法全書と同様、他人から預かって占有しているに過ぎない金銭をもちいて物品を購入した場合、どうであろうか。たとえば、友人Bの部屋を借りているAが、そこに置かれた友人の貯金箱にある金銭をCに支払って物品を購入したような場合である。その場合は、金銭を盗んだことになるだろう。しかし、金銭を盗まれたBは盗まれた時点で、所有権を喪失しているとみなされるため、部屋の所有者である友人Bは金銭所有権に基づく返還請求をCにすることはできない。

金銭を動産とみなせば、

金銭の所有権と占有権

ではなぜ、法律は金銭については動産であるとしながらも他の動産とは区別し、所有と占有とが一致するとしているのか。その理由は、そのように取り決めておかないと金銭が支払手段として機能しづらくなるからだ。たとえば、BさんからAさんが金銭を盗み、その金銭でAさんが書店のCさんから本を買ったとする。CさんはAさんのその金銭が盗んだものとは知らずにその金銭を受け取って書籍を販売した。通常は、取引のたびに相手の金銭の出所を調べることは困難なので書店のCさんはAさんがその金銭の正当な所有者であることを確認することなく販売する。そのとき、金銭を盗まれたBさんがその金銭の所有権を主張してCさん、さらにはCさんから受け取ったDさんに返還請求ができるとしたらどうなるか。Cさんは、金銭を受け取るさいに、その都度、買い手のその貨幣に対する所有権を確認しなければ販売できない、ということになり、金銭の支払手段としての機能が阻害されることになる。貨幣を支払手段として機能させるためには、法的には取引時点での占有者を所有者とみなす必要がある。(正確に言えば、本の売り手の側にも同様の論理が当てはめられる。Cさんが売った本は、本当にCさんの所有なのか。この問題については、即時取得という考え方が適用され、法的にはCさんの所有とみなしてよい、とされることは上述した。)


しかし、それでは盗みを法律が抑止できず、盗まれた人の権利を守ることもできなくなってしまう。そこで、法律では不当利得返還請求という考え方を用いる。

不当利得返還請求

民法の条文では以下のように書かれている。

第703条
法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者(以下この章において「受益者」という。)は、その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E7%AC%AC703%E6%9D%A1

第704条
悪意の受益者は、その受けた利益に利息を付して返還しなければならない。この場合において、なお損害があるときは、その賠償の責任を負う。

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E7%AC%AC704%E6%9D%A1

「被騙取者から第三者に対する返還請求の関係は、今日の判例通説の下では不当利得返還請求と構成されるが、実体は、いわば物としての騙取された金銭の返還を求める関係として現れる。」
(伊藤高義「物としての金銭」)

https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2327&file_id=22&file_no=1


ここで言う、実体は、というのは実務上は、という程度の意味だろう。1万円をだまし取られた被害者には、1万円札を返せばよい。しかし1万円紙幣というモノを返すのではない。そのような外見をまとって現象する、ということであって、実際に返されるのは、物としての紙幣ではなく、購買力(債務弁済能力)である。 紙幣はその購買力が誰に帰属するかを法的に、従って社会的に証する証券にすぎない。

貨幣の取扱いについては、経済学だけではなく法学上も未決問題があるようだ。https://nanzan-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2327&file_id=22&file_no=1


https://t.co/xJjrMw63puhttps://t.co/xJjrMw63pu

具体的には、「騙取金銭による弁済に対する返還請求を、債権関係としての不当利得の返還請求権と構成するか、物の返還を求める物的返還請求権と構成するか」。 すこし横道にそれるが、どこかの市役所の振込ミスが思い浮かぶ。 銀行振込された預金についても物の返還という議論が成り立つのか。

誤振込については以下のように述べる。


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市役所が相手に渡したのが、特定のモノ(ゴッホのひまわりとか)であったとしたら、あのひまわりの絵は市役所のもので、まちがって渡してしまったので返せ、という請求が容易に認められるが、振り込まれた預金の場合、どれなのか「特定性に欠ける」ので、モノとしての返還請求はできないというわけである。

消費寄託としての銀行預金・消費貸借としての銀行貸付


貨幣はモノなのか、という問題についての法的な取扱については、論点をもひとつみておく。銀行預金の法的性格を巡る問題である。(なお、2020年4日から民法が改正・施行されているが、以下の記述は改正後の民法の考え方に基づいている。)銀行の機能の機能については、多くの教科書では銀行法の記述に基づいて説明されているように見受けられる。銀行法第10条では、(1)預金、(2)貸付、(3)為替の3つを銀行の業務としているが、経済学の教科書などでは、預金と貸付を合わせて金融仲介(資金仲介)とし、為替を決済としたうえで、その2つを銀行の機能とまとめる記述が多い。(教科書によっては、それに信用創造を加える場合もある。)
その場合の金融仲介機能であるが、銀行は預金として預かった貨幣を、その貨幣を必要とする別の経済主体に貸し付ける機能を果たしていると見做している。預金が先行し、預金として集めた貨幣を貸し出すという因果関係である。私は、銀行が預金を集めることと、貸出を行うこととは別の業務であり、預金として集めた資金を貸し出すという説明は誤りであると考えるのだが、預金を貸し出すという説明が行われる背景には、銀行預金をあたかも貸金庫行、倉庫営業と同等と法律上は見做されているという現実が強く働いていると考えている。

銀行預金:消費寄託

銀行預金は法的には消費寄託として扱われる。寄託とは物品などを他人に預け、その処置や保管を頼むことである。寄託とは一般には倉庫営業に使われる概念であるが、それを準用し、預金者は寄託者であり、銀行は被寄託(受寄・受託)者とされる。
法的には、銀行預金は倉庫営業の一形態である貸金庫などと類似の業務とみなされる。銀行の起源のひとつが金匠のもつ金庫に金貨を預けたことによる、という説があることを考えるならば、現代の銀行も貨幣というモノをあずかる貸金庫のようなものである、とみなすことは一理あるようにみえる。
銀行預金は消費寄託とされるのだが、一般的に寄託の場合は、寄託が終了したときには寄託物を返還しなければならないのに対し、消費寄託は被寄託者が預かったものを消費して、これと同種・同等・同量の物を返還すればよいとされる。
したがって、銀行は預金者から預かった金銭を消費・運用し、預金者から請求があった場合は、それと同等の金銭を返還すればよいことになる。
預金と同じく消費寄託の法理が適用される事例として、純金積立の場合の金の保管がある。購入して積み立てた金は一定量になれば、インゴットとして引き出すことになるが、それまでは運営会社に預け入れていくことになる。預ける方法としては「消費寄託」と「混合寄託」の2種類がある。消費寄託は預けた金の所有権が運営会社に帰属するので、運営会社はそれを運用することができる。したがって、保管料は無料の場合が多いが、運用会社が倒産した場合は、金が戻らないリスクもある。
他方で混合寄託の場合は、金の所有権は契約者(寄託者)に帰属する。消費寄託の場合の逆であり、保管料を支払うが、運営会社が倒産しても金が戻らないというリスクは回避できる。混合寄託とは、本来は石油や酒類などの寄託についての概念であり、同一の種類・品質のものを混合させて保管することでコストを削減する保管を意味する。

銀行貸付:消費貸借

他方で、銀行による貸付は消費貸借とみなされる。消費貸借は今日では、事実上金銭消費貸借の場合が殆どであるかと思われるが、かつては米、麦、酒などという物財も消費貸借された。
銀行預金としての消費寄託契約と銀行貸付としての消費貸借契約は、いずれも金銭についての契約であり、交付した金銭そのものではなく、それと同種同等のモノを返還する義務が生じるという点で同一であるとみなされている。消費貸借契約が金銭を交付された側(銀行から借りた側)の利益を重視するのに対し、消費寄託契約は金銭を交付した側(銀行に預金した側)の利益を重視する違いがあると考えられている。返還の時期の定めが無い場合に消費寄託と消費貸借とで、相違が生じるとされ法解釈が分かれるようであるが、実際には預金契約などは、普通預金や定期預金などの銀行の取引約款で詳細が定められている。
いずれにせよ銀行の貸付も法的には使用貸借や賃貸借などと同様のモノの貸借の一形態とみなされている。しかし、貨幣の貸借を、上述したような米や麦、酒などと同様のモノの貸借の法理を準用して適用しているのであるが、法律学の場合、実務上、そのような扱いで法的な不整合が生じていない限りにおいて、それは正しい判断と見做されるのであろう。

何が騙取され、何が貸借されるのか

以上、みてきたように法的には貨幣(通貨)はモノとして扱われている。しかし、貨幣は金融資産であり、物的資産とは異なる。したがって、これをモノとして扱うことには無理がある。
では上述した例での騙取の場合、モノが騙取されたのではないとしたら、何がだまし取られたのか。その問題に答えるまえに、そもそも貨幣とは何か、について簡単に述べておく。(詳細については別項に譲なければならない。)貨幣とは自らの債務を決済することことが社会的に認められた特定の主体に帰属する社会的権利能力である。

Aさん現金がBさんに盗まれたのだとしたら、本来はAさんに帰属したはずの購買力が

(この稿、未定)



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